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帰りの船で見つけた、新しい約束

 翌朝。


 港には、朝の冷たい風が吹いていた。


 エレナは船へ向かう前に、一度だけ振り返った。


 六日間を過ごした街。


 市場も、灯台も、港も。


 遠くに見える建物の一つ一つが、今では少しだけ懐かしい。


「……また来たいですね」


 エレナが呟く。


「うん。また来よう」


 隣に立つルシアンが答えた。


「今度は、もっと時間を取って」


「はい」


 エレナは笑った。


 ミレイユが荷物を抱えながら駆け寄ってくる。


「二人とも、いつまで港を眺めてるの?」


「もう船に乗ります」


「そうよ。帰りの船に遅れたら、せっかくの旅が最後に大変な思い出になるんだから」


 その後ろからカイルも歩いてくる。


「ミレイユ嬢、それは誰に言っているんですか?」


「もちろんエレナたちよ」


「……昨日まで一番寄り道していたのは、あなたでは?」


「それは旅の醍醐味でしょ?」


「便利な言葉ですね」


 カイルの呆れた声に、エレナは思わず笑った。



 四人は船に乗り込んだ。


 甲板へ出ると、港が少しずつ遠ざかっていく。


 エレナは手すりに両手を置き、街を見つめた。


「……行ってきます」


 誰に言うでもなく、そう呟く。


 すると、港に残っていた店主がこちらへ手を振っているのが見えた。


 エレナも大きく手を振り返した。


 言葉は届かない。


 けれど、笑顔は届いた。


 船が港を離れる。


 街が少しずつ小さくなっていく。


 やがて、灯台も遠くなった。


「さようなら」


 エレナは小さく呟いた。



「寂しい?」


 ルシアンが尋ねる。


「少しだけ」


「僕も」


「でも、不思議と悲しくはありません」


「どうして?」


 エレナは海を見ながら答えた。


「また来られると思っているからです」


「……そうだね」


 ルシアンも海を見る。


「旅は終わるけど、思い出まで終わるわけじゃない」


「はい」


 二人はしばらく並んでいた。



 昼頃。


 船内の食堂では、四人が昼食を取っていた。


「エレナ、これ食べてみて」


 ミレイユが皿を差し出す。


「これは?」


「船員さんに聞いたの。帰りの船でしか食べられない料理なんだって」


 エレナは一口食べる。


「……美味しいです」


「でしょう?」


「でも、少し辛いですね」


「そう?」


 ミレイユが食べる。


「……あ、本当だ」


「今気づいたんですか?」


 カイルが呆れる。


「だって美味しかったから!」


「理由になっていません」


「カイルも食べてみなさいよ」


「私は結構です」


「じゃあ、ルシアン」


「僕も遠慮して――」


「どうぞ」


 エレナが笑顔で差し出した。


「……」


 ルシアンは少し困った顔をした。


「エレナがそう言うなら」


 一口食べる。


「……辛いね」


「でしょう?」


「でも美味しい」


「ですよね」


 二人が笑う。


 ミレイユはそんな二人をじっと見つめた。


「……」


「ミレイユ?」


「いえ」


 ミレイユは小さく笑う。


「なんだか、すっかり夫婦みたいだなって」


「えっ!?」


 エレナの顔が一気に赤くなる。


「な、何を言っているんですか!」


「だって自然すぎるんだもの」


「そういうことを言わないでください!」


 ルシアンも少しだけ頬を赤くする。


「ミレイユ、からかうのはそのくらいにしておいた方が……」


「ルシアンも否定しないんだ」


「……」


「ほら!」


「ミレイユ!」


 エレナの声が食堂に響いた。


 カイルだけが静かに食事を続けていた。



 午後。


 エレナは甲板に戻り、日記を開いた。


 海の上では、陸地がほとんど見えない。


 ただ青い海と空が広がっている。


 エレナは昨日の日記を読み返した。


『また、いつか来たい。』


 その一文を見つめる。


「……次は、いつになるんでしょう」


「分からないね」


 ルシアンが隣に来た。


「でも、分からないままでいいと思う」


「そうですね」


 エレナはペンを持つ。


「次のページには、何を書きましょうか」


「今決めなくてもいいんじゃない?」


「え?」


「帰ってから決めてもいいし、途中で決めてもいい」


 ルシアンは海の向こうを見た。


「旅の予定を全部決めてしまったら、偶然見つけるものが減ってしまうから」


「……確かに」


 エレナは頷いた。


 そして日記に一行を書き加えた。


『次の行き先は、まだ決めない。』


 その下に、少し考えてから続ける。


『見つけた場所を見てから決める。』


「これでいいです」


「うん」


 ルシアンが微笑む。



 夕方。


 海が夕日に染まり始めた。


 エレナは甲板からその景色を眺めていた。


「綺麗……」


 海面が金色に輝いている。


 その光景を見ながら、エレナはふと思った。


 以前なら、こういう景色を見るたびに、どんな未来が待っているのかを考えていた。


 どこへ続く糸なのか。


 誰と出会うのか。


 何が起こるのか。


 けれど今は違う。


 ただ――


 綺麗だと思う。


 それだけでよかった。


「エレナ」


「はい?」


「これから、どうしたい?」


 ルシアンが尋ねた。


「これから……?」


「この旅が終わった後」


 エレナは少し考える。


「まずは、家に帰りたいです」


「うん」


「母に旅の話をたくさんしたいです」


「うん」


「ミレイユとも、また街を歩きたいです」


「うん」


「それから……」


 エレナは海を見る。


「次の旅を考えたいです」


 ルシアンが笑った。


「やっぱり旅なんだね」


「はい」


 エレナも笑う。


「だって、まだ行ったことのない場所がたくさんありますから」


「それなら、僕も一緒に行くよ」


「……本当に?」


「もちろん」


「では、次は私が行きたい場所を決めてもいいですか?」


「もちろん」


「約束ですよ」


「約束する」


 二人は小指を絡めた。


 小さな約束。


 けれど、それで十分だった。



 夜。


 船が静かに海を進んでいく。


 エレナは部屋へ戻る前に、もう一度だけ甲板から空を見上げた。


 星が見える。


 知らない国で見た星。


 帰りの海で見る星。


 同じ空でも、少し違って見える。


 エレナは胸元の小さな銀色のペンダントに触れた。


 そして、新しくもらった青い貝殻を思い出す。


 旅で出会ったもの。


 自分で選んだもの。


 誰かから受け取ったもの。


 その全部が、今の自分を作っている。


「……次は、どこへ行こうかな」


 小さく呟く。


 答えはまだない。


 だからこそ、楽しみだった。


 運命が教えてくれる未来ではなく――


 自分たちで探しに行く未来。


 船は夜の海を進んでいく。


 その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。


 けれどエレナは、不安にはならなかった。


 隣には、ルシアンがいる。


 そして、一緒に旅をしてくれる仲間たちもいる。


 ならば――


 次の一歩も、自分たちで選べばいい。


 エレナは静かに笑った。


「おやすみなさい」


 海の向こうへ向けて、そう呟く。


 そして翌朝には――


 懐かしい故郷の港が、少しずつ見えてくるはずだった。

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