この国で最後に見つけた場所
海の向こうの国に来て六日目。
エレナは朝食を終えると、窓の外を眺めていた。
今日で、この国で過ごす最後の日になる。
「……もう帰るんですね」
少しだけ寂しそうに呟く。
「そうだね」
隣にいたルシアンが頷いた。
「明日の朝には船に乗る予定だ」
「六日って、長いようで短いですね」
「楽しかったから、余計に早く感じるんじゃないかな」
「……そうかもしれません」
エレナは机の上を見る。
そこには、この旅で集めた小さな思い出が並んでいた。
海辺の町で買ったガラス瓶。
港で買った木製の船。
昨日もらった貝殻。
そして、旅の日記。
一つ一つを見るたびに、この国で過ごした日々を思い出せる。
「最後の日ですし……」
エレナは立ち上がった。
「もう一度だけ、行きたい場所があります」
「どこ?」
「港です」
「やっぱり港?」
「はい」
エレナは笑った。
「この国へ来た場所ですから」
「分かった」
ルシアンも立ち上がる。
「最後に、見に行こう」
港へ向かう道は、もうすっかり見慣れていた。
初日に歩いた市場。
昨日訪れた丘へ続く道。
何度も通った石畳。
最初は何も知らなかった街なのに、今では少しだけ懐かしく感じる。
「不思議ですね」
エレナが言った。
「どうしたの?」
「初めて来た時は、知らない街だったのに……」
周囲を見渡す。
「今は、少しだけ『知っている街』になっています」
「たった六日で?」
「はい」
エレナは笑った。
「だから旅って面白いんだと思います」
「そうだね」
二人はゆっくり歩いた。
港へ着くと、初日に見た景色が広がっていた。
船。
市場。
働く人々。
海鳥の声。
潮の香り。
「……やっぱり、ここが好きです」
エレナは海を眺める。
「私たちが初めてこの国に降りた場所だから」
「うん」
ルシアンも海を見る。
「ここから始まったんだよね」
「はい」
その時――
「あ!」
エレナが声を上げた。
少し離れたところに、初日に会った店主がいた。
「あの人です!」
二人で近づく。
店主もエレナたちに気づいた。
笑顔で手を振ってくれる。
エレナも大きく手を振った。
そして――
胸の前で両手を合わせ、頭を下げる。
「ありがとうございました」
言葉は通じない。
それでも、店主はエレナの気持ちを理解したように笑ってくれた。
店主は店の奥から、小さな包みを持ってくる。
「これは……?」
包みを開く。
中には、小さな青い貝殻が入っていた。
「……」
エレナは驚いた。
店主はそれをエレナの手に乗せ、海を指差す。
そして、胸の前で手を合わせる。
どうやら、旅の記念として渡してくれたらしい。
「ありがとうございます」
エレナは貝殻を大切に握る。
「大切にします」
店主は笑顔で頷いた。
エレナも笑う。
言葉は最後まで分からなかった。
それでも――
気持ちは、ちゃんと伝わった。
「……嬉しいです」
エレナが小さく呟く。
「うん」
ルシアンが微笑む。
「素敵な思い出になったね」
その後、四人は港の近くの小さな広場へ向かった。
ミレイユがベンチに座りながら言う。
「本当に明日帰るのね」
「はい」
エレナは頷いた。
「少し寂しいです」
「私も」
ミレイユが海を見る。
「でも、また来ればいいじゃない」
「そうですね」
「次はもっと長く滞在しましょう」
「賛成です」
ルシアンも笑った。
「その時は、この国の別の街にも行ってみたいね」
「はい!」
エレナの目が輝く。
「それから――」
「まだ増えるの?」
カイルが苦笑する。
「次は隣の国にも行ってみたいです」
「エレナ嬢」
「はい?」
「帰国する前から次の旅の計画を始めるのは早すぎませんか?」
「でも……」
エレナは海の向こうを見る。
「まだ知らない場所が、たくさんありますから」
カイルは少し黙った。
「……確かに」
「でしょう?」
「ですが、まずは無事に帰りましょう」
「はい」
全員が笑った。
午後。
一行は最後に、街の小さな展望台へ向かった。
そこからは港と海が一望できる。
遠くには、昨日見た灯台も見えた。
エレナは手すりに手を置いた。
「……この景色も、今日で最後ですね」
「また見られるよ」
ルシアンが言う。
「はい」
エレナは頷いた。
「でも、今のこの景色は、今日しか見られません」
「……」
「明日になれば、また違う景色になると思います」
ルシアンは微笑む。
「そうだね」
「だから、覚えておきたいです」
エレナはゆっくりと周囲を見渡す。
港。
街。
灯台。
海。
青い空。
そして、隣にいるルシアン。
「……全部」
エレナは小さく笑った。
「ルシアン」
「うん?」
「旅って、帰る時に分かるものなんですね」
「何が?」
「その場所が、自分にとってどれくらい大切だったのか」
ルシアンは静かに聞いている。
「最初は、知らない国でした」
「うん」
「でも今は、また来たいと思っています」
「僕もだよ」
「それなら……」
エレナは笑った。
「この旅は成功ですね」
「そうだね」
二人は海を見つめた。
夕方。
宿へ戻る前に、エレナは最後に海辺へ立ち寄った。
波が静かに砂浜を濡らしている。
エレナは靴を脱ぎ、少しだけ海へ近づいた。
「冷たい……」
「風邪を引かないようにね」
「大丈夫です」
ルシアンも隣に立つ。
しばらく二人で海を眺める。
運命の糸は見えない。
未来も分からない。
それでも――
この瞬間が大切だということだけは分かる。
「また来ましょう」
エレナが言った。
「うん」
「次は、もっと長く」
「約束する」
「そして、その次は……」
「別の国へ?」
「はい」
ルシアンが笑う。
「行きたい場所が増えていくね」
「たくさんあります」
「それなら、時間をかけて行こう」
「はい」
エレナは頷いた。
夜。
宿の部屋で、エレナは旅の日記を開いた。
最後のページに今日の出来事を書く。
『この国で過ごす最後の日。』
少し考える。
そして、続けた。
『最初は何も知らなかった場所が、帰りたくないと思える場所になった。』
さらに書く。
『きっと、これが旅なんだと思う。』
最後に――
『また、いつか来たい。』
ペンを置いた。
その横に、今日もらった青い貝殻を置く。
海辺の町のガラス瓶。
木製の船。
白い花。
小さな貝殻。
思い出が、また一つ増えた。
エレナはそれらを眺めながら微笑んだ。
「……来てよかった」
窓の外では、港の灯りが揺れている。
明日の朝には、また船に乗る。
けれど――
この国で見つけたものは、旅が終わっても消えない。
目にした景色。
出会った人。
交わした笑顔。
そして、自分自身が選んだ時間。
それらすべてが、これからのエレナの中に残っていく。
運命の糸は、もう必要ない。
自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の心で選んだ。
それだけで十分だった。
「おやすみなさい」
エレナは静かに目を閉じた。
明日は帰国の船に乗る。
そして――
帰った先には、また新しい日々が待っている。
次はどこへ行くのか。
何を見るのか。
それは、まだ決まっていない。
だからこそ――
エレナは、明日を楽しみにしながら眠りについた。




