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知らない言葉で交わした、小さな会話

 海の向こうの国に来て三日目。


 エレナは朝から、昨日訪れた港へ向かっていた。


 今日は特に決まった予定があるわけではない。


 ただ、昨日見つけた場所をもう一度歩いてみたかった。


「昨日と同じ道ですね」


 エレナが言う。


「そうだね」


 ルシアンが頷く。


「でも、昨日とは少し違って見えます」


「どうして?」


「昨日は初めて見るものばかりだったので、周りを見るだけで精一杯でした」


 エレナは笑った。


「今日は少し余裕があります」


「それなら、今日はもっと細かいところまで見られそうだね」


「はい」


 二人はゆっくりと港へ向かった。



 港に着くと、昨日と同じように多くの人々が働いていた。


 船から荷物を運ぶ人。


 魚を売る人。


 遠くから来た船を迎える人。


 その中に、昨日エレナたちが訪れた店の店主を見つけた。


「あ」


 エレナが足を止める。


「昨日の人です」


 店主もエレナに気づいたらしく、笑顔で手を振った。


「……!」


 エレナも慌てて手を振り返す。


「覚えていてくれたんですね」


「昨日、魚料理について教えてくれた人だね」


「はい」


 店主がこちらへ歩いてくる。


 何か話しかけている。


 けれど――


「……分かりません」


 エレナは困った顔をした。


 ルシアンも苦笑する。


「僕も」


 店主は少し考えた後、自分の店を指差した。


 そして、親指を立てる。


「……?」


 エレナは首を傾げた。


 すると店主は笑った。


 どうやら、昨日食べた料理について尋ねているらしい。


「あっ」


 エレナは気づいた。


 胸の前で両手を合わせ、笑顔を見せる。


「美味しかったです」


 言葉は通じない。


 それでも、店主には伝わったらしい。


 嬉しそうに笑い、何度も頷いた。


「……」


 エレナは胸が温かくなるのを感じた。


「言葉が分からなくても、伝わることってあるんですね」


「そうだね」


 ルシアンが微笑む。


「笑顔とか、表情とか、身振りとか」


「はい」


 エレナは店主にもう一度頭を下げた。


「ありがとうございました」


 今度は日本語でも、この世界の共通語でもない。


 ただ、気持ちを込めて。


 店主も笑顔で手を振った。



 少し歩いたところで、ミレイユとカイルが追いついてきた。


「何してたの?」


「昨日のお店の人と話していました」


「話せたの?」


「言葉は分かりませんでした」


「じゃあ、どうやって?」


 エレナは少し考える。


「……笑顔です」


「なるほど」


 ミレイユは笑った。


「それなら私も得意よ」


 そう言って、ミレイユは店主へ向かって大きく手を振った。


 店主も手を振り返す。


「ほら!」


「何を競っているんですか……」


 カイルが呆れる。


「旅って楽しいわね!」


「それは同意します」


 カイルも小さく笑った。



 港を歩いていると、エレナは一軒の小さな店を見つけた。


 看板には、外国語で何か書かれている。


 店先には色とりどりの紙が並んでいた。


「これは何でしょう?」


 店主に尋ねる。


 店主は一枚の紙を手に取り、文字を書く仕草をした。


「手紙?」


 ルシアンが推測する。


 店主が頷いた。


「外国へ手紙を送るための紙みたいです」


「……」


 エレナは一枚の紙を手に取った。


 白い紙に、青い模様が入っている。


「綺麗ですね」


「気に入った?」


「はい」


 ルシアンが店主に尋ねる。


 どうやら、この紙は旅先から手紙を書くために使われているらしい。


「買ってみましょうか」


「いいんですか?」


「もちろん」


 エレナは嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます」


 紙を大切にしまう。



 その日の昼。


 一行は港近くの小さな食堂へ入った。


 昨日とは違う料理を注文する。


 エレナは出てきた料理を見て、少しだけ不安そうな顔をした。


「……これは何でしょう?」


「僕にも分からない」


 ルシアンが答える。


「では――」


 エレナは箸を持った。


「食べてみます」


 一口。


「……!」


「どう?」


「辛いです!」


 エレナの目が大きくなる。


 ミレイユが笑った。


「昨日より辛そう!」


 カイルが水を差し出す。


「どうぞ」


「ありがとうございます……」


 エレナは水を飲む。


「でも……」


「でも?」


「美味しいです」


 エレナは笑った。


「辛いですけど、美味しい」


 ルシアンも食べてみる。


「確かに」


「でしょう?」


「でも、僕には少し辛いかな」


「ルシアンもですか?」


「うん」


 エレナは少し嬉しそうに笑った。


「なら、一緒ですね」


「そうだね」


 ミレイユが二人を見る。


「何だか、二人とも嬉しそうね」


「同じ料理を食べているだけですよ」


「はいはい」


 ミレイユは笑った。



 食事の後、一行は港の近くにある小さな公園へ向かった。


 そこには子供たちが遊んでいた。


 その中の一人が、エレナの持っている紙に気づいた。


 少年が近づいてくる。


 何かを尋ねているようだ。


「……?」


 エレナは首を傾げる。


 少年は紙を指差した。


 そして自分の胸元を指差す。


「手紙……?」


 エレナが尋ねる。


 少年は頷いた。


 どうやら、この国では旅人が家族や友人へ手紙を書く習慣があるらしい。


 少年は自分の父親が遠い港へ行っていることを身振りで説明した。


「……」


 エレナは静かに聞いていた。


 言葉の意味を全部理解できなくても、少年が父親を待っていることだけは分かった。


「早く帰ってくるといいですね」


 エレナは優しく笑った。


 少年も笑う。


 そして――


 エレナの手のひらに、小さな貝殻を一つ置いた。


「え?」


 少年は笑いながら走っていった。


 エレナは貝殻を見つめる。


「……もらっちゃいました」


「旅の記念だね」


 ルシアンが言う。


「はい」


 エレナは大切に握りしめた。



 夕方。


 宿へ戻る道で、エレナは貝殻を見つめていた。


「今日も、知らないものをたくさん見つけました」


「うん」


「知らない言葉もたくさんありました」


「そうだね」


「でも……」


 エレナは微笑む。


「少しずつ、分かることも増えてきました」


「言葉?」


「それだけじゃありません」


 昨日まで知らなかった街。


 昨日まで知らなかった人。


 今日初めて交わした会話。


 今日初めてもらった貝殻。


 どれも小さな出来事だ。


 でも――


 その一つ一つが、エレナの世界を少しずつ広げていた。


「昔は、未来を知ることが世界を広げることだと思っていました」


 エレナが言う。


「でも違いました」


「……」


「知らない場所へ行って、自分で見つけること。


 知らない人と話して、少しずつ理解すること。


 そうやって、自分の世界を広げていくんですね」


 ルシアンは静かに頷いた。


「僕もそう思う」


「だから、もっと旅をしたいです」


「うん」


「もっと知らない場所へ行きたい」


「一緒に行こう」


「はい」


 エレナは笑った。



 夜。


 宿の部屋に戻ると、エレナは今日買った青い模様の紙を机に置いた。


 その横には、小さな貝殻。


 海辺の町で買ったガラス瓶。


 外国で買った木製の船。


 白い花を挟んだ本。


 少しずつ、旅の思い出が増えている。


 エレナは紙を一枚取り出し、最初の一行を書いた。


『今日、初めて外国の人と話しました。』


 そこで手を止める。


 そして、その下に続けた。


『言葉は全部分からなかったけれど、笑顔は伝わりました。』


 エレナは微笑んだ。


 未来の誰かに読ませるためではない。


 ただ――


 今日の自分が感じたことを残したかった。


 運命の糸は、もうない。


 未来を記録する力もない。


 だからこそ、自分の言葉で残す。


 今日という一日を。


 今日、自分が選んだことを。


 そして、今日出会った人々のことを。


 エレナは最後に一行を書いた。


『明日は、また何かを見つけたい。』


 ペンを置く。


「……明日は何を見つけましょう」


 窓の外を見る。


 夜の港には、いくつもの灯りが浮かんでいた。


 その向こうには、暗い海。


 さらにその先には、まだ知らない場所がある。


 エレナは静かに笑った。


 未来は見えない。


 でも――


 明日を楽しみにすることはできる。


 それだけで、今は十分だった。

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