初めて歩く、海の向こうの街
海の向こう側。
エレナは、港から続く石畳の道をゆっくり歩いていた。
何もかもが新鮮だった。
建物の形。
店の看板。
道を行き交う人々の服装。
聞こえてくる言葉。
王都とは似ているところもある。
けれど、細かなところが少しずつ違っていた。
「……本当に外国なんですね」
エレナは周囲を見ながら呟いた。
「うん」
隣を歩くルシアンも、興味深そうに街を見ている。
「僕も初めて見るものばかりだ」
「ルシアンも知らないんですね」
「そうだね」
「なんだか安心しました」
「どうして?」
「私だけが知らないわけじゃないからです」
エレナが笑う。
「二人とも知らないなら、一緒に見つけられます」
「確かに」
ルシアンも笑った。
少し進むと、広場が見えてきた。
そこにはたくさんの露店が並んでいる。
果物。
焼き菓子。
香辛料。
色鮮やかな布。
見たことのない小物。
「市場です!」
エレナの目が輝いた。
「本に書いてあった場所ですね!」
「そうみたいだね」
「行きましょう!」
「うん」
エレナは嬉しそうに市場へ向かった。
「エレナ、待って!」
ミレイユが慌てて追いかける。
「迷子にならないでよ!」
「大丈夫です!」
カイルがその後ろを歩きながらため息をついた。
「その言葉を言う人ほど、迷子になるんですが……」
「聞こえていますよ、カイル」
「それなら少し安心です」
「もう!」
市場はとても賑やかだった。
店員たちが声を上げ、客たちが商品を選んでいる。
エレナは一軒の店の前で足を止めた。
「これは何でしょう?」
木の皿に、小さな丸い焼き菓子が並んでいる。
店員が外国語で説明した。
エレナは困った顔をする。
「……分かりません」
ルシアンも首を傾げる。
「僕も分からない」
ミレイユが笑った。
「せっかくだから買ってみましょうよ」
「でも、何か分からないですよ?」
「食べれば分かるわ」
「確かに……」
エレナは一つ購入した。
小さな焼き菓子を手に取る。
「いただきます」
一口。
「……!」
エレナの目が大きく開く。
「甘いです!」
「何味?」
「分かりません!」
「分からないの?」
「でも、美味しいです!」
ルシアンが笑う。
「じゃあ成功だね」
「はい!」
ミレイユも食べてみる。
「本当だ。美味しい」
カイルも一つ食べる。
「……これは蜂蜜ですね」
「分かったんですか?」
「香りで」
「さすがカイル」
エレナは感心した。
「では、次は私も分かるようになりたいです」
「無理に分からなくてもいいんじゃない?」
ルシアンが言う。
「知らないまま楽しむのも旅だから」
「……」
エレナは少し考えた。
「そうですね」
そしてもう一口食べる。
「では、これは『知らないけど美味しいお菓子』にします」
「名前が長いね」
「私が勝手につけました」
二人で笑った。
市場を歩いていると、エレナは小さな花屋を見つけた。
店先には、白い花が並んでいる。
「……」
エレナの足が止まる。
海辺の町で少年からもらった白い花を思い出した。
けれど、ここに並んでいる花は少し違う。
花びらが細く、淡い青色の模様が入っている。
「綺麗ですね」
「気に入った?」
「はい」
ルシアンは花を見る。
「買おうか?」
「……でも」
エレナは首を横に振る。
「今日は見るだけにします」
「どうして?」
「この花は、今日ここで初めて見つけたものだから」
「?」
「だから、見るだけでも覚えていられる気がします」
ルシアンは少し驚いたように彼女を見る。
そして微笑んだ。
「そういう考え方もいいね」
「はい」
エレナは花に別れを告げるように、もう一度だけ眺めた。
市場を出ると、四人は大きな噴水のある広場へ出た。
「少し休みましょう」
ミレイユが言う。
ベンチに座る。
エレナは買った焼き菓子を見ながら、今日見たものを思い返していた。
知らない料理。
知らない花。
知らない言葉。
知らない人々。
その一つ一つが新鮮だった。
「エレナ」
ルシアンが声をかける。
「はい?」
「楽しそうだね」
「分かりますか?」
「うん」
「……嬉しいんです」
エレナは噴水を見る。
「今まで、未来を知ることが大切だと思っていました」
「……」
「でも、知らないものを見つけることも、こんなに楽しいんですね」
「そうだね」
「それに……」
エレナは少しだけ笑う。
「何かを見つけるたびに、ルシアンに話したくなるんです」
「僕もだよ」
「……本当ですか?」
「うん」
ルシアンは穏やかに答える。
「エレナが何かを見つけた時の顔を見るのが好きだから」
「……」
エレナの頬が赤くなる。
「それは……ずるいです」
「また?」
「はい」
ルシアンが笑う。
「ごめん」
「……許します」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時、広場の向こうから音楽が聞こえてきた。
小さな楽器を演奏しながら、何人かの人々が歩いてくる。
「何でしょう?」
エレナが立ち上がる。
「行ってみよう」
四人は音楽の方へ向かった。
そこでは、旅人たちを歓迎する小さな演奏会が開かれていた。
知らない旋律。
知らない楽器。
けれど、とても穏やかで明るい音だった。
エレナはしばらく黙って聞いていた。
「……素敵」
「気に入った?」
「はい」
演奏が終わる。
人々が拍手をする。
エレナも拍手をした。
すると、演奏していた女性がエレナに気づき、笑顔で小さく手を振った。
エレナも手を振り返す。
言葉は通じなくても、それだけで少し嬉しかった。
「今の人、何て言ったんでしょう」
「分からないね」
「いつか外国語も覚えたいです」
「僕も勉強しようかな」
「一緒に?」
「うん」
「それなら頑張れそうです」
エレナは笑った。
夕方。
一行は宿へ向かった。
街の景色が夕日に染まっている。
エレナは何度も振り返った。
初めて歩いた街。
初めて食べたお菓子。
初めて聞いた音楽。
そして――
初めて見る人々の笑顔。
そのすべてが、今日という一日の思い出になった。
「ルシアン」
「うん?」
「今日だけで、こんなにたくさんの『初めて』がありました」
「そうだね」
「まだ一日目なのに」
「これからもっと増えるよ」
「……楽しみです」
エレナは前を向く。
運命の糸はない。
だから、この街で次に何を見つけるのかも分からない。
でも――
それを自分で選べる。
興味を持った店へ行く。
知らない料理を食べてみる。
気になった道を歩いてみる。
そして、隣にいる人とその発見を分かち合う。
「明日は、どこへ行きましょう?」
エレナが尋ねる。
「エレナが行きたいところへ行こう」
「では……」
彼女は少し考える。
「港を見たいです」
「港?」
「はい。今日着いた時は慌ただしかったので、ゆっくり見てみたいです」
「分かった」
ルシアンは笑った。
「明日は港へ行こう」
「はい」
エレナも笑う。
海の向こうの街で過ごす最初の一日は、こうして終わった。
まだ知らないことは、たくさんある。
それでいい。
知らないからこそ、明日も新しいものを見つけられる。
エレナは夕暮れの街を眺めながら、静かに思った。
運命が示す未来ではなく――
自分で見つける未来を。
これからも、一つずつ歩いていこう。
隣にいる大切な人と一緒に。




