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旅立ちの日、海の向こうへ

 旅立ちの日。


 まだ太陽が昇りきる前から、王都の港は静かな活気に包まれていた。


 船員たちが荷物を運び、港の店には朝食を買い求める人々が並んでいる。


 エレナは馬車から降りると、目の前に広がる海を見つめた。


「……来ましたね」


 今日は、海の向こうへ行く日。


 以前訪れた海辺の町とは違う。


 今回は、本当にこの海を渡る。


「少し緊張してる?」


 隣に立ったルシアンが尋ねる。


「少しだけ」


「僕もだよ」


「ルシアンも?」


「もちろん」


 その答えを聞いて、エレナは少し安心した。


「なら、よかったです」


「どうして?」


「私だけ緊張しているのかと思っていました」


「僕だって、初めて行く国だからね」


「……そうですよね」


 エレナは海を見る。


 水平線の向こう。


 そこには、まだ見たことのない国がある。


 以前なら、その先に何が待っているのか知りたかった。


 けれど今は――


 知らないことが楽しみだった。



「おーい!」


 後ろからミレイユの声が聞こえる。


「二人とも、先に行かないで!」


 大きな荷物を抱えたミレイユが走ってくる。


 その後ろにはカイルがいる。


「ミレイユ」


 カイルが呆れた顔をする。


「荷物を一人で持つ必要はないと言ったでしょう」


「だって自分で持てるもの」


「それなら俺が持ちます」


「じゃあお願い」


「……」


 カイルは一瞬黙った。


「最初からそうしてください」


 ミレイユは楽しそうに笑う。


「ありがとう、カイル」


「どういたしまして」


 エレナは二人を見ながら笑った。


「二人とも、いつも仲がいいですね」


「え?」


「そう?」


 ミレイユとカイルが同時に答える。


 そして互いを見る。


「……」


「……」


「別に、普通よ」


 ミレイユが言う。


「そうですね」


 カイルも頷く。


 エレナは少し首を傾げた。


「そうですか?」


「そうなの!」


 ミレイユが慌てて答えた。


 ルシアンが小さく笑う。


「エレナ、今はそっとしておこう」


「……はい」


 四人は船へ向かった。



 乗船の手続きを終えると、エレナは船の甲板へ出た。


 風が強い。


 銀色の髪が大きく揺れる。


「わあ……」


 海が近い。


 岸から見るよりも、ずっと広く感じる。


 どこまでも続く青い水面。


 空と海の境界が分からなくなるほどだった。


「綺麗ですね」


 エレナが呟く。


「うん」


 ルシアンが隣に立つ。


「これから、この海を渡るんだね」


「はい」


 船がゆっくりと動き始めた。


 港が少しずつ遠ざかっていく。


 王都へ続く道。


 見慣れた建物。


 そして――


 自分が生まれ育った場所。


 エレナはしばらく黙って見つめていた。


「寂しい?」


 ルシアンが聞く。


「少しだけ」


「僕も」


「でも……」


 エレナは海の先を見る。


「楽しみの方が大きいです」


「僕もそうだよ」


 船は進み続ける。


 やがて、王都の姿が小さくなった。



 昼頃。


 船内の食堂には、旅人たちが集まっていた。


「外国へ行く船に乗るのは初めてです」


 エレナが周囲を見ながら言う。


「僕も」


 ルシアンが答える。


「殿下でも初めてなんですね」


 ミレイユが驚く。


「王子だからって、外国へ何度も行くわけじゃないよ」


「そうなんですね」


「父上が若い頃は旅をしていたらしいけどね」


「じゃあ、殿下もこれからたくさん旅をすればいいじゃないですか」


「そうだね」


 ルシアンはエレナを見る。


「一緒にね」


「……はい」


 エレナは嬉しそうに頷いた。


 その時、料理が運ばれてきた。


「わあ……」


 エレナが目を輝かせる。


「これは何ですか?」


「船員特製の魚料理だそうです」


 カイルが説明する。


「いただきます」


 エレナが一口食べる。


「……美味しいです!」


「本当?」


 ミレイユも食べる。


「うん、美味しい!」


 ルシアンも一口食べる。


「確かに美味しいね」


「旅っていいですね」


 エレナが笑う。


「まだ出発したばかりなのに?」


「だって、もう知らない料理を食べられました」


「なるほど」


 ルシアンは笑った。


「じゃあ、これからもっと楽しめそうだね」


「はい!」



 午後。


 船は順調に進んでいた。


 エレナは甲板に戻り、海を眺めていた。


 風に乗って、遠くから海鳥の声が聞こえる。


 白い鳥が船の近くを飛んでいる。


「……」


 エレナは空を見上げた。


 そこには、何の糸もない。


 金色も。


 白も。


 青も。


 黒も。


 もう何も見えない。


 以前なら、それを不安に感じていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 見えなくても――


 自分はここにいる。


 自分でこの船に乗った。


 自分でこの旅を選んだ。


 それだけで十分だった。


「何を考えているの?」


 ルシアンが来た。


「未来のことです」


「未来?」


「はい」


 エレナは海を見る。


「前は、未来が見えないことが怖かったんです」


「……うん」


「でも今は、未来が見えないことが楽しみです」


「どうして?」


「だって――」


 エレナは笑う。


「この先で何を見るのか、まだ私自身も知らないから」


 ルシアンはしばらく彼女を見つめた。


 そして穏やかに笑った。


「それなら、一緒に見つけよう」


「はい」


「嬉しいことも」


「はい」


「困ったことも」


「はい」


「迷った時も」


「……はい」


 エレナは頷いた。


「一緒に選びましょう」


「うん」


 二人は海を眺めた。


 船は、まだ見えない国へ向かって進んでいる。


 どこに何があるのか。


 どんな人と出会うのか。


 どんな出来事が待っているのか。


 誰にも分からない。


 でも――


 それでいい。


 未来は、まだ決まっていない。


 だからこそ、自分たちで選べる。


「ルシアン」


「うん?」


「海の向こうで、最初に何を見つけるでしょうね」


「何だろうね」


「楽しみです」


「僕も」


 夕方。


 太陽が水平線へ近づいていく。


 空が少しずつ赤く染まる。


 エレナはその景色を見ながら思った。


 これは、運命に導かれた旅ではない。


 自分で選んだ旅。


 そして――


 隣にいる人と一緒に選んだ未来。


 船は夕日に照らされながら、海の向こうへ進んでいく。


 その先には、まだ知らない世界が待っている。


 エレナは小さく笑った。


「行きましょう」


「うん」


 二人の旅は、今――


 本当の意味で始まった。

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