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旅立ちの朝に交わした約束

 外国への旅立ちまで、あと三日。


 エレナは朝早くから目を覚ましていた。


 窓の外は、まだ少し薄暗い。


 王都の街並みも静かで、鳥の鳴き声だけが聞こえている。


「……あと三日」


 ベッドから起き上がり、机の上を見る。


 そこには、旅に持っていく荷物がまとめられていた。


 衣服。


 旅行記。


 海辺の町で買った小さなガラス瓶。


 白い花を挟んだ本。


 そして――


 古い地図。


 エレナは地図を手に取った。


 海の向こうへ続く道。


 まだ見たことのない国。


 そこへ、自分の意思で行く。


「楽しみ……」


 自然と笑みがこぼれた。



 朝食の時間になると、ミレイユが勢いよく部屋へ入ってきた。


「エレナ! 準備できた?」


「はい。ほとんど終わっています」


「本当に?」


「はい」


「忘れ物は?」


「大丈夫です」


「本当に?」


「……たぶん」


「たぶん?」


 ミレイユが目を細める。


「エレナ、旅行で一番大事なのは『たぶん』じゃなくて『確認』よ」


「……はい」


 エレナは苦笑した。


「では、もう一度確認します」


「そうしましょう」


 二人で荷物を確認していく。


「服」


「あります」


「靴」


「あります」


「旅の本」


「あります」


「お菓子」


「……あります」


「必要?」


「必要です」


 ミレイユが即答する。


「旅ではお菓子が重要だから」


「そういうものなんですか?」


「そういうものよ」


 エレナは笑った。


「では、持っていきましょう」


 その時、扉がノックされた。


「入っていいかな?」


 ルシアンだった。


「どうぞ」


 扉が開く。


「準備は?」


「ほとんど終わりました」


「僕も終わったよ」


「殿下」


 ミレイユが振り返る。


「エレナの荷物、重くないですか?」


「それくらいなら僕が持つよ」


「駄目です」


「え?」


「自分の荷物は自分で持つべきです」


「……」


 ルシアンが困ったように笑う。


「ミレイユは厳しいね」


「旅は自立が大切なの」


「なるほど」


 エレナは笑いながら、自分の荷物を持ち上げた。


「これくらいなら大丈夫です」


「無理はしないでね」


「はい」



 昼過ぎ。


 エレナたちは王宮の庭に集まっていた。


 母もそこにいる。


「もうすぐ出発なのね」


「はい」


 エレナは頷いた。


「少し緊張します」


「それでいいのよ」


 母は優しく笑う。


「初めての場所へ行くのだから、緊張するのは当然でしょう」


「……お母様は、私が心配ではないんですか?」


「もちろん心配よ」


「ですよね」


「でも――」


 母はエレナの手を取る。


「あなたなら大丈夫だと思っているわ」


「……」


「以前のあなたは、未来を見ようとしていた」


「はい」


「今は、自分で未来へ歩いていこうとしている」


 母は微笑んだ。


「私は、それを嬉しく思うわ」


 エレナの目が少し潤む。


「ありがとうございます」


「楽しんできなさい」


「はい」


「たくさん迷って、たくさん笑ってきなさい」


「……はい」


 エレナは母を抱きしめた。


「帰ってきたら、旅の話をたくさんします」


「楽しみにしているわ」



 その後、エレナは王宮の中庭を歩いていた。


 隣にはルシアンがいる。


「お母上、喜んでいたね」


「はい」


「僕も安心した」


「ルシアン」


「うん?」


「一つだけ聞いてもいいですか?」


「もちろん」


「もし……旅先で何か予定と違うことが起きたら、どうしますか?」


 ルシアンは少し考えた。


「その時は、その時で考える」


「……それだけ?」


「うん」


「以前のルシアンなら、もっと慎重に考えそうです」


「そうかもしれない」


 ルシアンは笑った。


「でも、エレナと旅をするなら、予定通りにいかないことも楽しみたいんだ」


「……」


「道を間違えるかもしれない。


 予定していた船に乗れないかもしれない。


 知らない町で迷うかもしれない」


「それは少し困りますね」


「うん」


 二人は笑った。


「でも――」


 ルシアンはエレナを見る。


「そんな時も、一緒に考えればいい」


 エレナは静かに頷いた。


「はい」


「それが今回の旅の約束」


「約束?」


「何が起きても、二人で選ぶこと」


 エレナの胸に、温かいものが広がる。


「……はい」


 それは、昔の約束とは少し違う。


 運命に導かれることでもない。


 過去の記憶に縛られることでもない。


 ただ――


 今の自分たちが交わす約束。


「私も約束します」


「ありがとう」


 二人は並んで歩いた。



 夕方。


 旅立ちの前最後の準備を確認するため、港へ向かう馬車の時間が決まった。


 出発は三日後の朝。


 港から船に乗り、海を渡る。


 エレナは予定表を見つめる。


「……本当に、もうすぐですね」


「うん」


 ルシアンが頷く。


「三日後には海の向こうだ」


「楽しみです」


「僕も」


 すると――


「二人とも!」


 ミレイユが遠くから走ってきた。


「何ですか?」


「大変!」


「何が?」


「外国の市場について書かれた本を見つけたの!」


「……」


 エレナとルシアンは顔を見合わせた。


「それだけ?」


「それだけよ!」


「驚かせないでください」


「だって重要よ!」


 ミレイユは本を開く。


「この国では、朝に焼きたてのパンを売る市場があるんですって」


「……」


 エレナの目が輝いた。


「行きましょう」


「でしょう?」


 ルシアンが笑う。


「エレナは本当に食べ物に弱いね」


「違います」


「そう?」


「外国の文化を知りたいだけです」


「なるほど」


 ミレイユが頷く。


「文化を知るためにパンを食べるのね」


「……はい」


 三人で笑う。


 その少し後ろで、カイルが呆れた顔をしていた。


「旅立つ前から、予定が増えている……」


「いいじゃないですか」


 エレナが振り返る。


「予定が増えるのも旅の楽しみです」


「……そうですね」


 カイルは諦めたように笑った。


「ただし、安全第一です」


「はい」


 エレナは頷いた。



 夜。


 エレナは部屋の窓を開けた。


 夜風が入ってくる。


 空には星が輝いている。


 以前なら、この空を見上げながら未来を探しただろう。


 どこへ行けばいいのか。


 誰と出会うのか。


 何が起こるのか。


 けれど今は――


 ただ星を見ている。


 それだけで十分だった。


「……三日後」


 小さく呟く。


 海の向こうへ。


 まだ知らない国へ。


 そして、まだ知らない未来へ。


 エレナは机の上に置かれた白い花を見る。


 海辺の町で出会った少年からもらった、小さな花。


 あの日も未来は見えなかった。


 それでも、素敵な一日になった。


 なら――


 これからもきっと大丈夫。


 未来が見えなくても。


 予定通りに進まなくても。


 迷うことがあっても。


 その時に、自分で選べばいい。


 エレナは静かに笑った。


「楽しみですね」


 誰もいない部屋で呟く。


 けれどその言葉は、すぐそばにいる誰かへ向けたもののようだった。


 三日後。


 新しい旅が始まる。


 その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。


 だからこそ――


 エレナは眠りにつく前に、もう一度だけ思った。


 自分で選ぶ未来を、もっと見てみたい。


 そしてその隣には――


 ルシアンがいてほしい。


 それだけは、運命の糸がなくても変わらない。


 そう思いながら、エレナは静かに目を閉じた。

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