王都へ帰って、次の旅を決める
海辺の町を出発してから三日。
馬車は、見慣れた王都へ続く街道を走っていた。
窓の外には、少しずつ見慣れた景色が戻ってくる。
広い草原。
小さな村。
街道沿いの森。
そして遠くに見えてきた、王都を囲む城壁。
「……帰ってきましたね」
エレナは窓から外を眺めながら呟いた。
「そうだね」
向かいに座っていたルシアンも頷く。
海辺の町を離れてしまうと、少しだけ寂しい。
けれど、それ以上に胸の中には新しい楽しみがあった。
海の向こう。
まだ見たことのない国。
まだ知らない文化。
そして、これから二人で見つけていく未来。
「エレナ」
「はい?」
「帰ったら、父上に話してみよう」
「外国旅行のことですか?」
「うん」
「本当に許可してくれるでしょうか……」
エレナが少し不安そうに言う。
ルシアンは笑った。
「たぶん、驚くとは思う」
「やっぱり……」
「でも、反対はしないと思うよ」
「どうしてですか?」
「父上も昔、旅をするのが好きだったらしいから」
「そうなんですか?」
「僕も最近知った」
エレナは目を丸くした。
「国王陛下が?」
「王になる前の話だけどね」
「意外です」
「僕もそう思ったよ」
すると隣の席からミレイユが口を挟んだ。
「王様にも若い頃があったんだから、当然でしょ」
「そうなんですが……」
「エレナは国王陛下を『ずっと国王陛下だった人』みたいに考えてない?」
「……少しだけ」
ミレイユが笑った。
「ふふっ。帰ったら本人に聞いてみれば?」
「……そうします」
その時、御者席の方からカイルの声が聞こえた。
「王都が見えてきました」
エレナは再び窓の外を見る。
高い城壁。
その向こうに見える王宮。
旅に出る前と同じ景色のはずなのに――少し違って見えた。
以前の王都には、黒い糸が絡みついていた。
人々の意思を奪うように伸びていた、あの黒い糸。
今はもう存在しない。
誰かに決められた未来ではなく、それぞれが自分の道を選べる。
エレナは静かに微笑んだ。
「……本当に、変わったんですね」
「うん」
ルシアンも窓の外を見た。
「僕もそう思う」
馬車は王都へ入った。
王宮に到着すると、出迎えの者たちが集まっていた。
「お帰りなさいませ、殿下」
「ああ。ただいま」
以前なら、ルシアンは王子としての立場を強く意識していた。
けれど今は違う。
自分が王子だからここにいるのではない。
自分自身として、この場所に帰ってきた。
そんな感覚があった。
「エレナも、お帰りなさい」
声をかけられて振り返る。
そこには――ルシアンの父である国王が立っていた。
「陛下」
「旅はどうだった?」
「とても楽しかったです」
エレナが答える。
「海を見ました」
「そうか」
国王は嬉しそうに笑った。
「なら、行った甲斐があったな」
「はい」
「ルシアンは?」
「もちろん楽しかったですよ」
「そうか」
国王は息子を見る。
「それなら良かった」
ほんの短いやり取りだった。
けれどエレナには分かった。
以前の国王なら、王子として何をするべきかを尋ねていたかもしれない。
今は違う。
ルシアンが何をしたいのか。
それを見ようとしている。
「父上」
ルシアンが口を開く。
「少し相談があります」
「何だ?」
「外国へ行きたいと思っています」
一瞬、国王の表情が止まった。
「……外国?」
「はい」
「次の旅か?」
「そうです」
国王は息子を見つめる。
そして――
「どこの国へ?」
「まだ決めていません」
「……決めていないのか」
「これから調べるつもりです」
国王はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「そうか」
「父上?」
「昔の私も、そんな旅の始め方をした」
「え?」
エレナが驚く。
「本当なんですか?」
「ああ」
国王は懐かしそうに遠くを見る。
「若い頃は地図を片手に、知らない場所へ行ったものだ」
「……知りませんでした」
「誰にも話していなかったからな」
ルシアンが苦笑する。
「父上にもそんな時代があったんですね」
「私を何だと思っている?」
「ずっと王様だった人かと」
「……」
国王が黙る。
「ルシアン」
「はい」
「少し傷ついたぞ」
「すみません」
エレナとミレイユが思わず笑った。
カイルまで小さく口元を緩めている。
「まあいい」
国王は笑いながら続けた。
「行きたいのなら行けばいい」
「本当に?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
ルシアンが頭を下げる。
その横で、エレナも嬉しそうに微笑んだ。
「ただし」
国王が付け加える。
「行き先と日程、それから同行者については、きちんと計画を立てること」
「はい」
「それから――」
国王はエレナを見る。
「エレナ」
「はい?」
「ルシアンを頼む」
「……私がですか?」
「旅先では、あいつは意外と無茶をするからな」
「父上?」
「それから、カイルも頼む」
「なぜ俺まで……」
カイルが頭を抱える。
ミレイユは楽しそうに笑った。
「大丈夫よ、カイル」
「何がですか」
「私もいるから」
「……余計に不安なんですが」
「ひどい!」
王宮に、明るい笑い声が響いた。
その日の午後。
エレナたちは王宮の図書室に集まっていた。
大きな机の上には、世界地図が広げられている。
「では、外国旅行会議を始めます!」
ミレイユが宣言した。
「なぜミレイユが仕切っているんですか?」
「こういうのは楽しんだ者勝ちよ」
エレナは地図を覗き込む。
海の向こうには、いくつもの国が描かれていた。
「ここは?」
「港湾国家だね」
ルシアンが答える。
「海産物と交易が盛んな国らしい」
「こっちは?」
「山岳国家。鉱石が有名だそうだ」
「そして、ここ!」
ミレイユが指差した。
「この国には大きな花祭りがあるんだって!」
「花祭り……」
エレナの目が輝く。
「行ってみたいです」
「じゃあ候補に追加ね!」
ミレイユが紙に書き込む。
その様子を見て、ルシアンが笑った。
「まだ一つも決まっていないのに、候補だけ増えていくね」
「いいじゃないですか」
エレナも笑う。
「全部見に行けばいいんです」
「全部?」
「いつか、少しずつ」
ルシアンはその言葉を聞いて、嬉しそうに頷いた。
「そうだね」
地図の上には、まだたくさんの道がある。
どこへ行くかは決まっていない。
何を見るかも分からない。
けれど――
それでいい。
未来が分からないからこそ、一つずつ選んでいける。
「まずは、どこから行きましょうか?」
エレナが尋ねる。
ルシアンは地図を見てから、彼女を見る。
「エレナは?」
「……私ですか?」
「うん。次に見たい景色は?」
エレナはしばらく考えた。
そして、海の向こうを指差す。
「ここです」
「港湾国家?」
「はい」
エレナは微笑んだ。
「海の向こうへ行くって、約束しましたから」
ルシアンも笑う。
「じゃあ、最初の目的地は決まりだね」
その瞬間――
机の上に広げられた地図が、少しだけ風で揺れた。
未来を示す糸は、どこにも現れない。
けれどエレナには、それで十分だった。
自分で選んだ場所。
自分で決めた旅。
そして――
隣にいる人と一緒に見る、まだ知らない景色。
「楽しみですね」
「ああ」
二人は顔を見合わせて笑った。
次の旅は、まだ始まっていない。
けれど――
最初の一歩は、もう始まっていた。




