海の向こうへ続く、小さな一歩
海辺の町を離れる朝。
エレナは宿の窓から、もう一度だけ海を眺めていた。
朝日に照らされた水面が、きらきらと輝いている。
昨日までは、この景色の中に運命の糸が見えていた。
けれど今は――何も見えない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
「……綺麗」
エレナが呟く。
「気に入った?」
背後からルシアンの声がした。
「はい」
エレナは振り返る。
「この町に来て、本当によかったです」
「僕もそう思うよ」
ルシアンは窓の外へ視線を向けた。
「昨日まで知らなかった景色を、こうして一緒に見ることができたからね」
「……一緒に」
その言葉を聞いて、エレナは小さく笑った。
旅に出る前なら、こんな未来を想像しただろうか。
王子と一緒に海辺の町を歩く。
港を見て、船に乗って、知らない景色に驚く。
そんな普通の日々が、自分に訪れるなんて。
以前の自分は、未来を知ろうとしていた。
けれど今は――未来を知らないことが嬉しい。
「ルシアン」
「うん?」
「次の旅では、どこへ行きましょう?」
「もう次の旅の話?」
「はい」
エレナは嬉しそうに笑った。
「海の向こうへ行く約束をしましたから」
「そうだったね」
「それなら、次は外国です」
「分かった」
「本当にいいんですか?」
「エレナが行きたいなら」
「……私が行きたいから?」
「そう」
ルシアンは優しく微笑んだ。
「それが一番大切だから」
エレナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前、母から何度も言われた言葉がある。
誰を愛するのか。
誰と生きるのか。
自分自身で決めること。
今なら、その意味がよく分かる。
未来が決まっていなくてもいい。
誰かに導かれなくてもいい。
自分が行きたいと思った場所へ、自分の足で進めばいい。
「では……」
エレナは少しだけ考えた。
「次の目的地を決めるために、帰ったら地図を買いましょう」
「いいね」
「それから外国について調べます」
「うん」
「どんな国があるのか、どんな料理があるのか、どんな街があるのか――」
「かなり楽しみにしているね」
「もちろんです」
エレナは胸の前で手を握った。
「まだ知らないものが、たくさんあるんですから」
「それなら、僕も一緒に調べよう」
「はい」
そこへ――
「二人とも、朝から何の相談をしてるの?」
ミレイユが部屋へ入ってきた。
「次の旅行です」
エレナが答える。
「……帰る前から?」
「はい」
「ふふっ」
ミレイユは楽しそうに笑った。
「エレナ、本当に変わったわね」
「そうですか?」
「うん。前はもっと慎重だったもの」
エレナは少し考える。
「……たぶん、未来を知らないことに慣れてきたんだと思います」
「未来を?」
「はい」
エレナは窓の外を見る。
「見えなくなったからこそ、今まで気づかなかったものが見えるようになりました」
ミレイユは少しだけ驚いた顔をした。
そして、柔らかく笑う。
「それなら、よかった」
「ありがとうございます」
「でも、外国へ行くなら私も行くからね」
「え?」
「当然でしょ?」
ミレイユは腰に手を当てた。
「二人だけで外国なんて、絶対に許さないわ」
「……ミレイユ」
ルシアンが苦笑する。
「僕たちはまだ行くと決めただけで――」
「カイルも連れていくから大丈夫よ」
「なぜ俺まで決定事項になっているんですか」
廊下からカイルの声がした。
「聞こえていたんですか?」
「聞こえますよ。朝から外国旅行の話をしていれば」
「じゃあ決まりね」
「何がですか」
カイルは深いため息をついた。
「俺は護衛なので、殿下が行くなら同行します」
「ありがとう、カイル」
「……ですが」
「ですが?」
「できれば、旅先で運命とか古代遺跡とか、世界の命運とかに巻き込まれるのはやめてください」
「……」
エレナとルシアンは顔を見合わせた。
「善処します」
ルシアンが答えた。
「その返事は信用できません」
ミレイユが吹き出す。
「ふふっ!」
エレナも笑った。
こんな朝が、ずっと続けばいい。
そんなことを思った。
宿を出た一行は、港へ向かった。
帰りの馬車が待っている。
荷物を積み込む前に、エレナは海を振り返った。
昨日、少年からもらった白い花は、本の間に大切に挟んである。
そして昨日買った小さなガラス瓶には、この町の砂が入っている。
どちらも小さな思い出だ。
けれど、それで十分だった。
「また来ましょう」
エレナが言う。
「うん」
ルシアンも海を見る。
「次は、もっと遠くまで行こう」
「はい」
その時、港から汽笛が響いた。
大きな船がゆっくりと沖へ進んでいく。
その先には、水平線。
その向こうには、まだ知らない国がある。
エレナはその景色を眺めながら思った。
以前なら、あの先に何があるのか知りたかった。
今は違う。
知らないからこそ――自分で確かめに行きたい。
「行きましょう」
エレナが言った。
「どこへ?」
「海の向こうへ」
ルシアンが笑った。
「約束だからね」
「はい」
二人は馬車へ乗り込んだ。
ミレイユとカイルも続く。
馬車がゆっくりと港を離れていく。
海が少しずつ遠ざかる。
けれど、エレナは何度も振り返った。
見えなくなった運命の糸。
それでも、心の中には確かなものがある。
自分が選んだ今日。
自分が選ぶ明日。
そして――
ルシアンと一緒に見つけていく、まだ知らない未来。
「ルシアン」
「うん?」
「次に海を見る時は、向こう側から見てみたいです」
「じゃあ、必ず行こう」
「はい」
エレナは笑った。
その約束を結ぶ糸は、もう見えない。
けれど、それでいい。
見えないからこそ、自分たちは何度でも選べる。
馬車は王都へ向かって走り続ける。
その先に何が待っているのか――
二人はまだ知らない。
だからこそ、その未来を楽しみにしていた。




