海辺の町で見つけた、小さな約束
海辺の町で過ごす二日目の朝。
「……海って、朝も綺麗なんですね」
宿の窓から差し込む光を浴びながら、エレナは静かに呟いた。
昨日は夕暮れの海を見た。
水平線の向こうへ沈んでいく太陽も、港を行き交う船も、どれも初めて見るものばかりだった。
そして何より――運命の糸が見えなくなってから、自分がこんなにも「知らない景色」を楽しめることが嬉しかった。
「昨日とは、少し違って見える?」
隣に立っていたルシアンが尋ねる。
「はい。昨日は夕日が綺麗でしたけど、今は……これから一日が始まる感じがします」
「そうだね」
ルシアンは微笑んだ。
「じゃあ、今日は何を見に行こうか」
「うーん……」
エレナは少し考えた。
以前なら、糸を見ていた。
どの道に何が起こるのか。
どこへ行けば安全なのか。
誰と出会う可能性があるのか。
そんな未来を、無意識に探していた。
けれど今は違う。
「……決めなくてもいいんじゃないでしょうか」
「決めなくても?」
「はい。歩いてみて、面白そうな場所があったら行ってみるんです」
ルシアンは一瞬驚いたように目を見開き、それから楽しそうに笑った。
「それはいいね」
「でしょう?」
「うん。じゃあ今日は、エレナに任せようかな」
「えっ」
「昨日は僕が案内したから」
「……なるほど」
エレナは少しだけ胸を張った。
「では、今日は私が案内します」
「楽しみにしているよ」
「ふふっ」
部屋の外から、そんな二人の会話を聞いていたミレイユが顔を出した。
「朝から何を楽しそうにしてるの?」
「今日は私がルシアンを案内するんです」
「へえ……」
ミレイユは意味ありげに二人を見た。
「デート?」
「ち、違います!」
「まだ何も言ってないけど?」
「……!」
エレナの顔が赤くなる。
ルシアンは笑いを堪えながら視線を逸らした。
「ミレイユ、朝からエレナをからかわないでくれ」
「だって面白いんだもの」
「面白くありません!」
「はいはい」
ミレイユは楽しそうに笑った。
その後ろから、眠そうな顔のカイルが現れる。
「朝から騒がしいな……」
「カイル、今日は私たちだけで――」
「却下です」
「まだ何も言っていないぞ」
「殿下が絡む話で、エレナ嬢が何かしようとしている時点で嫌な予感しかしません」
「失礼ですね!」
「俺は護衛として正常な判断をしているだけです」
そんなやり取りをしながら、一行は宿を出た。
海辺の通りには、朝から多くの人が行き交っていた。
魚を売る店。
焼きたてのパンを並べる店。
海で拾った貝殻を使った装飾品を売る店。
昨日とは違う表情を見せる町を、エレナは楽しそうに眺めていた。
「見てください、ルシアン」
「うん?」
「あのお店、昨日は開いていませんでした」
小さな木造の店。
店先には色とりどりのガラス細工が並んでいる。
太陽の光を受けて、青や緑、白のガラスがきらきらと輝いていた。
「入ってみようか」
「はい!」
店の中には、海を思わせるアクセサリーがたくさん並んでいた。
青い石のペンダント。
貝殻を使った髪飾り。
小さな船の形をした置物。
その中で、エレナが足を止めたのは――小さなガラス瓶だった。
「これ……」
瓶の中には、白い砂と小さな貝殻が入っている。
「綺麗ですね」
「気に入った?」
「はい」
エレナは瓶を手に取った。
すると店主の女性が微笑む。
「それは、この町の海岸の砂を使っているんですよ」
「この海の砂……」
「ええ。旅の記念に買っていく人が多いんです」
エレナは瓶を見つめた。
昨日、少年からもらった白い花。
そして今、目の前にある海の砂。
どちらも小さなものだ。
けれど――今日という日を思い出すには、それだけで十分なのかもしれない。
「ルシアン」
「うん?」
「これ、買ってもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
エレナが財布を取り出そうとすると、ルシアンが先に店主へ代金を渡した。
「あっ」
「旅の記念だからね」
「でも……」
「昨日、僕がペンダントをもらったから」
「それは関係ないですよ」
「じゃあ、お互い様ということで」
ルシアンは穏やかに笑った。
エレナも小さく笑う。
「……では、大切にします」
「ああ」
店を出ると、港の方から鐘の音が聞こえてきた。
エレナは振り返る。
大きな船が一隻、港を出ようとしていた。
帆が風を受け、ゆっくりと海へ進んでいく。
「……あの船、どこへ行くんでしょう」
「遠くの国へ向かう船かもしれないね」
「外国……」
その言葉を聞いた瞬間、エレナの目が輝いた。
「行ってみたいです」
「外国へ?」
「はい」
エレナは水平線を見る。
海の向こうには、自分の知らない場所がある。
知らない町。
知らない人。
知らない文化。
そして――まだ見たことのない景色。
「昔の私なら、未来を見ようとしていたと思います」
「……うん」
「でも今は、未来を見るより……自分で行ってみたいです」
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「じゃあ、いつか行こう」
「本当に?」
「もちろん」
「外国ですよ?」
「知ってるよ」
「王子様が簡単に外国へ行っていいんですか?」
「……それは父上と相談しないといけないかな」
「ふふっ」
エレナが笑う。
「では、まず国王陛下にお願いしないといけませんね」
「そうだね」
「きっと驚きますよ」
「たぶん」
二人で笑っていると――
「殿下」
後ろからカイルの声がした。
「何?」
「俺も同行することになりますか?」
「当然だろう?」
「……やっぱり」
カイルは深いため息をついた。
「海に来たと思ったら、今度は外国ですか」
「嫌なの?」
ミレイユが横から聞く。
「嫌ではない。ただ……」
カイルは二人を見た。
「この二人が一緒だと、旅先で何か起こる気しかしない」
「それは偏見です!」
エレナが抗議する。
「そうかな?」
ルシアンが首を傾げる。
「殿下まで!」
ミレイユが笑い出す。
「ふふっ。決まりね。次は外国旅行!」
「まだ決まっていませんよ!」
エレナは慌てて訂正した。
けれど――
胸の中では、もう一つの小さな未来が生まれていた。
その日の午後。
エレナたちは再び海へ出た。
小さな船に乗り、港から少し離れた場所まで進む。
波に揺られながら、エレナは昨日とは違う海を眺めていた。
糸はない。
どこへ行けば何が起こるのかも分からない。
それでも、不安ではなかった。
「ルシアン」
「どうしたの?」
「私、今まで未来を知らないことが怖かったんです」
「……うん」
「でも、今は少しだけ楽しみです」
「どうして?」
エレナは水平線の先を見る。
「知らないからこそ、自分で見つけられるからです」
ルシアンは微笑んだ。
「それなら、これからは知らない場所をたくさん探そう」
「はい」
「海の向こうも」
「はい」
「まだ見たことのない町も」
「はい」
「それから――」
ルシアンはエレナを見る。
「僕が知らない場所も、エレナに教えてほしい」
「……分かりました」
エレナは嬉しそうに笑った。
「私も、ルシアンが知らないものをたくさん見つけたいです」
船はゆっくりと進んでいく。
未来を示す糸は、もうどこにも見えない。
だからこそ――
二人の前には、無数の可能性が広がっている。
どこへ行くのか。
何を見るのか。
誰と出会うのか。
それを決めるのは、運命ではない。
今日の自分。
明日の自分。
そして、その先で何度も選び続ける自分自身だ。
「……ルシアン」
「うん?」
「次は、海の向こうへ行きましょう」
「約束するよ」
エレナは小さく頷いた。
その約束を繋ぐ糸は、どこにも見えない。
けれど――確かに、二人の心の中には残っていた。




