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海の向こうにある、まだ知らない未来

 海辺の街で迎える二日目の朝。


 エレナは、波の音で目を覚ました。


 窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋へ入ってくる。


「……海の音」


 王都では聞いたことのない音だった。


 一定のようでいて、同じではない。


 波が寄せては返し、また新しい波がやってくる。


 エレナはしばらく窓辺に立っていた。


 以前なら、この音にも意味を探していたかもしれない。


 未来へ続く何か。


 見えない糸の先にあるもの。


 けれど今は、ただ聞いている。


 それだけで心が落ち着いた。


「エレナ、起きているか?」


 扉の向こうからルシアンの声がする。


「はい」


「朝食の準備ができている」


「今行きます」


 身支度を整えて部屋を出る。


 食堂へ向かうと、すでにミレイユとカイルが座っていた。


「おはようございます、エレナ!」


「おはようございます」


「今日、何をします?」


 ミレイユが目を輝かせている。


「海へ行くんじゃないんですか?」


「昨日、ずっと海を見ていたでしょう?」


「海は何度見てもいいんです!」


 カイルがため息をつく。


「ミレイユは昨日も同じことを言っていました」


「だって、海ですよ?」


「それは分かっています」


 ルシアンが笑う。


「今日は港へ行ってみないか?」


「港?」


 エレナが反応する。


「ああ。この街は大きな港がある」


「行ってみたいです」


 朝食を終えると、一行は港へ向かった。


 街の中心から少し歩くと、潮の香りがさらに強くなる。


 やがて視界が開けた。


「……すごい」


 港には大きな船が何隻も停泊していた。


 商人たちが荷物を運び、船員たちが忙しそうに動いている。


 遠くでは帆を張った船が、ゆっくりと沖へ進んでいた。


「こんなに大きな船が……」


 エレナは目を輝かせる。


「この船は外国から来たものもある」


 ルシアンが説明する。


「外国?」


「海の向こうには、別の国がある」


「……」


 エレナは水平線を見る。


 その先に、自分がまだ知らない国がある。


 以前なら、そんな場所へ行ける可能性を糸から探しただろう。


 今は――。


「いつか、行ってみたいです」


 自然に言葉が出た。


「外国へ?」


「はい」


 ルシアンは笑った。


「僕も行ってみたい」


「では、一緒に行きましょう」


「ああ」


「……」


 ミレイユが二人を見ている。


「何ですか?」


「いえ」


 ミレイユはにっこり笑った。


「また新しい旅行の約束ができたなと思って」


「……そうですね」


 エレナは少し恥ずかしそうに笑った。


 港を歩いていると、一人の少年がこちらへ走ってきた。


「お姉ちゃん!」


「私ですか?」


「うん!」


 少年はエレナの前で立ち止まる。


「これ、落としたよ」


 差し出されたのは、小さな白い花だった。


「え?」


 エレナが受け取る。


「さっき海の近くに落ちてた」


「ありがとうございます」


 少年は笑った。


「じゃあね!」


 走り去っていく。


 エレナは手の中の花を見る。


「……どうしてこんなところに花が?」


「風で飛んできたのかもしれませんね」


 カイルが答える。


 ミレイユが笑う。


「偶然って面白いですね」


「偶然……」


 エレナはその言葉を繰り返した。


 以前なら、偶然というものにも意味を探していた。


 けれど今は。


 ただの偶然でもいいと思える。


 知らない少年と出会った。


 花を拾った。


 それだけ。


 それでも、今日という日に残る小さな思い出になった。


「エレナ」


 ルシアンが呼ぶ。


「はい?」


「少し、船を見に行かないか?」


「船に乗れるんですか?」


「小さな遊覧船なら乗れるそうだ」


「乗りたいです!」


 ミレイユがすぐに反応する。


「では決まりだな」


 四人は小さな船に乗り込んだ。


 船が港を離れていく。


 岸が少しずつ遠ざかる。


 エレナは船の縁から海を眺めていた。


「広い……」


 どこまでも続いている。


 空と海の境界線さえ、遠くなると分からなくなる。


「エレナ」


「はい?」


「怖くないか?」


「少しだけ」


「戻るか?」


「いいえ」


 エレナは首を横に振った。


「もっと見たいです」


 ルシアンは微笑んだ。


「そう言うと思った」


 船は沖へ進む。


 風が髪を揺らす。


 エレナは目を閉じた。


 運命の糸は見えない。


 未来も分からない。


 それでも――。


 今、自分がここにいることだけは分かる。


 そして、この瞬間を選んだのも自分だった。


「ルシアン」


「ん?」


「私、昔は未来を知りたいと思っていました」


「ああ」


「何が起こるのか分かれば、失敗しなくて済むと思っていたんです」


 ルシアンは黙って聞いている。


「でも、今は……」


 エレナは海を見る。


「失敗してもいいと思えます」


「……」


「間違えたら、やり直せばいい」


 ルシアンが微笑む。


「その通りだ」


「だから、知らない場所へ行くのが楽しいんです」


「僕もだ」


 ルシアンは海の向こうを見る。


「君となら、知らない未来でも楽しめる気がする」


 エレナは少しだけ頬を赤くした。


「……私もです」


 船が大きく揺れた。


「わっ!」


 エレナの身体が傾く。


 ルシアンが咄嗟に腕を伸ばした。


「大丈夫か?」


「はい……」


 けれど。


 エレナはそのままルシアンの腕を掴んでいた。


「……」


「……」


 二人の目が合う。


 ミレイユが少し離れた場所からこちらを見る。


 そして口元を押さえた。


「……」


 カイルが小声で言う。


「何か言いたそうですね」


「言いません」


「そうですか」


「今日は我慢します」


 カイルは少し安心したようだった。


 やがて船は港へ戻った。


 夕方。


 エレナは宿の近くの砂浜を一人で歩いていた。


 昼間にもらった白い花を手にしている。


 波が足元へ寄せてくる。


 エレナは花を海へ流すことはせず、そっと本に挟んだ。


「思い出にしておこう」


 そこへルシアンがやってくる。


「何をしている?」


「今日もらった花を、本に挟んでいます」


「大切にするんだな」


「はい」


 エレナは微笑む。


「こういう小さな出来事も、残しておきたいんです」


「それはいい考えだ」


「ルシアンは?」


「僕?」


「何か残したい思い出はありますか?」


 ルシアンは少し考えた。


「……今日の海かな」


「海?」


「ああ」


 ルシアンはエレナを見る。


「君が初めて海を見た日のことを、覚えていたい」


 エレナの胸が温かくなる。


「私も覚えています」


「なら、十分だな」


 二人は並んで海を見る。


 水平線の向こうには、まだ知らない国がある。


 さらにその先には、また別の場所がある。


 世界は広い。


 そして未来も、きっと同じだ。


 どこまで続いているのか分からない。


 何が待っているのかも分からない。


 でも――。


「ルシアン」


「何だ?」


「いつか、本当に海の向こうへ行きましょう」


「ああ」


「二人で」


「もちろん」


 エレナは笑った。


 見えない未来だからこそ、約束できる。


 決められていないからこそ、自分たちで選べる。


 海の向こうに何が待っているのか。


 それはまだ誰にも分からない。


 だからこそ――。


 二人は、その未来を楽しみにすることができた。

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