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言葉を綴る場所

 花祭りから戻って数日。


 王都には、穏やかな時間が流れていた。


 エレナは朝食を終えると、庭へ向かった。


 手には一冊の本。


 以前、旅先の小さな店で買った旅行記だった。


 ページを開く。


 そこには、見たことのない街。


 遠くの山。


 広い海。


 異国の市場。


 そして、誰も知らないような小さな村。


「……世界って、本当に広いんですね」


 エレナは一人で呟いた。


 そのとき。


「何を読んでいるんだ?」


 声に振り向く。


 ルシアンが庭へ入ってきた。


「以前買った旅行記です」


「まだ読んでいたのか」


「はい。知らない場所がたくさん載っていて、面白いんです」


「どこか行きたい場所は見つかった?」


 エレナは本を閉じて考える。


「……あります」


「どこだ?」


「ここです」


 開いたページには、大きな海の絵が描かれていた。


「海?」


「はい」


 エレナは頷く。


「私は海を見たことがありません」


「そうなのか?」


「前の世界でも……海を見る機会はありませんでした」


 ルシアンは少し驚いた。


「それなら、行ってみよう」


「え?」


「海へ」


 あまりにも自然に言われて、エレナは目を瞬かせる。


「本当に?」


「ああ」


「でも王子としての仕事が……」


「それなら、父上に相談する」


「許してくれるでしょうか?」


「たぶん」


「たぶん……?」


「最近の父上は、僕よりも君のことを信頼しているからな」


「どうして私なんですか?」


「僕が無茶をしそうになったら止めてくれるから」


「……」


 エレナは少し考える。


「否定できません」


「だろう?」


 二人は笑った。


 その日の午後。


 ルシアンは国王に海へ行きたいと伝えた。


「海へ?」


「はい」


 国王は少し考えた。


「何日ほどだ?」


「一週間ほどを予定しています」


「エレナ嬢も一緒か?」


「はい」


 国王は息子を見る。


「……そうか」


「父上?」


「好きにしなさい」


「本当ですか?」


「十年間も閉じ込められていたのだからな」


 国王は笑う。


「これからは、見たいものを見ればいい」


「ありがとうございます」


 その言葉を聞いて、ルシアンは嬉しそうに笑った。


 出発の日。


 エレナは母に旅のことを伝えた。


「海へ行くの?」


「はい」


「いいですね」


 母は微笑んだ。


「私も昔、一度だけ行ったことがあります」


「お母様も?」


「ええ」


 母は少し遠くを見る。


「海には、糸がとてもたくさん見えました」


「……」


「船で旅をする人。故郷へ戻る人。新しい土地へ向かう人」


 母は笑う。


「でも、今なら思います」


「何をですか?」


「糸がなくても、海はきっと綺麗ですよ」


 エレナは頷いた。


「はい。自分の目で見てきます」


「楽しんできなさい」


「はい」


 こうして、エレナとルシアンは王都を出発した。


 今回の旅にはミレイユとカイルも同行する。


「海!」


 馬車に乗った瞬間、ミレイユが叫んだ。


「楽しみです!」


「ミレイユは海を見たことがないのか?」


 ルシアンが尋ねる。


「ありません!」


「そうか」


「殿下は?」


「僕もない」


「え?」


 ミレイユが驚く。


「王子様なのに?」


「王子だからこそ、自由に旅をする機会がなかったんだ」


「なるほど……」


 ミレイユは少し考える。


「では、全員初めてですね!」


「そうですね」


 エレナが笑う。


 馬車は街道を進んでいく。


 途中の街で宿泊し、さらに東へ。


 何日か経つと、空気が少しずつ変わってきた。


「……なんだか、匂いが違います」


 エレナが窓を開ける。


「潮の匂いだ」


 カイルが答える。


「もう近いんですか?」


「ああ」


 ルシアンも窓の外を見る。


 エレナの胸が高鳴った。


 海。


 今まで一度も見たことのない景色。


 以前なら、どんな糸が待っているのかを考えていたかもしれない。


 けれど今は――。


 ただ、見てみたい。


 それだけだった。


 そして。


 馬車が丘を越えた。


「……」


 エレナは言葉を失った。


 目の前に、広大な青が広がっている。


 どこまでも続く水平線。


 太陽の光を受けて輝く水面。


 波が砂浜へ打ち寄せている。


「……これが」


 エレナは窓から身を乗り出す。


「海……」


 ルシアンも黙って見ていた。


 ミレイユはさらに大きな声を上げる。


「海だーー!」


「ミレイユ、声が大きい」


 カイルが注意する。


「だって海ですよ!?」


「気持ちは分かりますが」


 エレナは笑った。


 馬車が海辺の街へ到着する。


 四人は砂浜へ向かった。


 エレナはゆっくりと海へ近づく。


 波が足元まで来る。


「……冷たい」


 思わず笑ってしまう。


 また波が来る。


「ふふっ」


 エレナは嬉しそうに笑う。


 その姿を見て、ルシアンも笑っていた。


「気に入った?」


「はい!」


 エレナは振り返る。


「すごく好きです!」


「それなら、来てよかった」


「ルシアン」


「何だ?」


「連れてきてくれて、ありがとうございます」


「僕も見たかったんだ」


「海を?」


「君が海を見たときの顔を」


「……」


 エレナの頬が赤くなる。


「もう……」


「何だ?」


「そういうところです」


「?」


 ルシアンは本気で分かっていない。


 ミレイユが遠くから叫んだ。


「また始まった!」


「ミレイユ!」


 四人の笑い声が海辺に響く。


 夕方。


 四人は砂浜に座って海を眺めていた。


 夕日が水平線へ沈んでいく。


「綺麗ですね」


 エレナが呟く。


「ああ」


 ルシアンが頷く。


 海には糸がない。


 水平線の向こうに何があるのかも分からない。


 けれど、それが不安には感じられなかった。


 むしろ――。


 まだ知らない場所があることが嬉しい。


「ルシアン」


「ん?」


「この先にも、きっとたくさん知らない場所がありますね」


「ああ」


「全部見てみたいです」


「一緒に見よう」


「はい」


 二人は海を見つめる。


 運命の糸がなくなったことで、未来は以前よりもずっと広くなった。


 見えないからこそ。


 知らないからこそ。


 自分たちで探すことができる。


 海の向こうには、まだ見たことのない世界が広がっている。


 エレナは思った。


 ――これから、どんな未来を選ぼう。


 その答えは、まだ分からない。


 でも、それでいい。


 答えは未来になってから、自分で決めればいいのだから。


 夕日が海へ沈んでいく。


 エレナは隣に座るルシアンを見る。


「これからも、一緒に探してくれますか?」


 ルシアンは迷うことなく答えた。


「ああ」


 そして、二人は再び海へ視線を戻した。


 見えない未来へ。


 二人自身の足で歩いていくために。

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