運命のない世界で見つけたもの
王都へ戻ってから、一週間。
エレナは以前よりも穏やかな日々を過ごしていた。
朝は母と食事をし、昼にはミレイユと街へ出かける。
そして時々、ルシアンと庭を歩く。
大きな事件が起こることもない。
黒い糸が現れることもない。
未来を脅かす敵が現れることもない。
以前のエレナなら、そんな平穏な日々を退屈だと思ったかもしれない。
けれど今は違う。
何も起こらない一日が、こんなにも幸せなのだと知った。
「エレナ」
午後。
庭のベンチで本を読んでいると、母が声をかけてきた。
「はい?」
「少し、話をしませんか?」
「もちろんです」
母はエレナの隣に座った。
しばらく庭を眺めていたが、やがて静かに口を開く。
「最近、楽しそうですね」
「……分かりますか?」
「母親ですから」
母は微笑む。
「ルシアン王子と出かけることも増えましたね」
「はい」
エレナは少し恥ずかしそうに頷いた。
「いろんな場所へ連れて行ってもらっています」
「そうですか」
「私も、今度は私がルシアンの知らない場所を見つけたいと思っています」
母は嬉しそうに笑った。
「それは素敵ですね」
「以前の私は、未来ばかりを見ていました」
「ええ」
「どの糸が正しいのか、どの道を選べばいいのか……」
エレナは自分の手を見る。
「でも今は、未来が見えなくてもいいと思っています」
母は何も言わず、娘の言葉を聞いている。
「自分で選んで、もし間違えたら、また選び直せばいい」
「……その通りです」
母は優しく微笑んだ。
「それが、あなたが最後に選んだ未来ですもの」
「はい」
エレナも笑う。
そのとき。
「エレナ!」
遠くからミレイユの声が聞こえた。
エレナが振り返る。
ミレイユが何かを持って走ってくる。
「どうしたんですか?」
「大変です!」
「何がですか?」
「これを見てください!」
ミレイユが差し出したのは、一枚の紙だった。
「これは?」
「王都の掲示板に貼ってあったんです」
エレナが読む。
そこには――。
『王都記念祭、開催のお知らせ』
と書かれていた。
「記念祭?」
「はい!」
ミレイユの目が輝く。
「三日後に王都で大きなお祭りがあるんです!」
「そういえば、そんな時期でしたね」
母が思い出したように言う。
「十年ぶりに王宮が一般公開される区域もあるそうです」
「十年ぶり……」
エレナはその言葉に少しだけ驚いた。
十年前。
ルシアンが死んだとされた年。
王都の祭りも、その後しばらく規模が縮小されていたらしい。
「今年は、王子殿下の帰還を祝う意味もあるそうですよ」
ミレイユが嬉しそうに言う。
「そうなんですか?」
「はい!」
エレナは少し考える。
「ルシアンは知っているんでしょうか?」
「たぶん、まだ知らないと思います」
「では――」
ミレイユがニヤリと笑った。
「一緒に行きましょう」
「え?」
「エレナと殿下と私たちで!」
「いいですね」
母も頷く。
「久しぶりのお祭りですもの」
エレナは笑った。
「では、行ってみましょう」
そして三日後。
王都は朝から大勢の人で賑わっていた。
通りには色とりどりの飾りが並び、店先には祭り限定の商品が並んでいる。
音楽が聞こえ、子供たちが走り回っている。
「すごい……」
エレナは思わず声を漏らした。
「人が多いな」
隣のルシアンも驚いている。
「ルシアンも知らなかったんですか?」
「ああ。父上から何も聞いていない」
「王子なのに?」
「最近の僕は、王子としての仕事より、十年間の空白を埋めることで精一杯だからな」
「それは大変ですね」
「だから、今日は楽しむ」
ルシアンが笑う。
「はい」
エレナも笑った。
少し先ではミレイユとカイルが屋台を見ている。
「カイルさん、あれ食べましょう!」
「さっき食べたばかりでは?」
「お祭りですから」
「祭りなら何でも許されると思っていませんか?」
「思っています!」
カイルが呆れた顔をする。
「……仕方ありませんね」
「やった!」
エレナとルシアンも笑う。
祭りの中を歩いていると、ルシアンが一つの屋台の前で立ち止まった。
「これは?」
「王都名物の菓子ですよ」
店主が答える。
「十年前から変わらない味です」
その言葉に、ルシアンが少し黙った。
「……十年前から?」
「ええ。昔の王子殿下も、この菓子がお好きだったと聞いています」
店主は何も知らずに笑っている。
「そうなんですね」
ルシアンが一つ買った。
そしてエレナに渡す。
「食べてみる?」
「いいんですか?」
「ああ」
エレナが一口食べる。
「……美味しいです」
「そうか」
「ルシアンもどうぞ」
「じゃあ」
二人で一つの菓子を分ける。
ミレイユがそれを見つけた。
「あっ」
「……」
「……」
エレナとルシアンが同時に振り返る。
「仲良しですね」
「ミレイユ……」
「私は何も言ってませんよ?」
笑いながら去っていくミレイユ。
エレナは顔を赤くした。
「……あの人は本当に」
ルシアンが笑う。
「でも、楽しいな」
「はい」
二人は再び歩き出した。
祭りの中央には、大きな時計塔がある。
その下には、人々が集まっていた。
やがて鐘が鳴る。
カーン。
カーン。
王都中に音が響く。
その瞬間。
エレナはふと、昔の自分を思い出した。
糸が見えることに怯えていた頃。
未来を知ることが怖かった頃。
ルシアンの金色の糸を見つけたとき。
そして、その糸を辿って彼に出会った。
あのときは、これが自分の運命なのだと思った。
でも今は違う。
エレナは隣にいるルシアンを見る。
彼もエレナを見ていた。
「どうした?」
「……何でもありません」
エレナは笑う。
「ただ、最初に会ったときのことを思い出していました」
「僕も覚えている」
「最初は、運命の糸を追ってあなたに会いました」
「ああ」
「でも、今は違います」
エレナは彼の手を取る。
「今は、私があなたの隣にいたいと思っているから、ここにいます」
ルシアンは少し驚いた顔をした。
そして、ゆっくりと笑う。
「僕も同じだ」
二人の間に、金色の糸はない。
それでも。
繋いだ手の温かさだけは、確かに分かる。
祭りの音楽が始まる。
人々の笑い声が響く。
空には色とりどりの紙風船が放たれた。
エレナはそれを見上げる。
「綺麗……」
「ああ」
紙風船は風に乗り、空へと上がっていく。
どこへ行くのかは誰にも分からない。
決められた道もない。
それでも、人々はそれを見上げている。
エレナは思った。
未来も、きっと同じなのだ。
どこへ行くのか分からない。
何が待っているのかも分からない。
それでも、自分で歩いていくことができる。
「ルシアン」
「何だ?」
「これからも、こういう時間を大切にしたいです」
「僕も」
「普通の日も」
「ああ」
「特別な日も」
「ああ」
「全部、自分で選びたいです」
ルシアンはエレナの手を優しく握った。
「なら、一緒に選ぼう」
「はい」
祭りの鐘が、もう一度鳴った。
かつて運命の糸に導かれて出会った二人。
今はもう、その糸はない。
それでも二人は手を繋いでいる。
運命に選ばれたからではない。
未来を決められたからでもない。
ただ、自分たちがそうしたいと思ったから。
それだけで十分だった。




