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あなたと見たい、これからの景色

 翌朝。


 エレナは、昨日ルシアンに言われた言葉を思い出していた。


 ――明日、時間はあるか?


 ――少し付き合ってほしい場所がある。


 朝食を終えると、エレナは王宮の庭へ向かった。


 そこには、すでにルシアンが待っていた。


「おはよう、エレナ」


「おはようございます、ルシアン」


「準備はできたか?」


「はい。でも……」


 エレナは首を傾げる。


「どこへ行くんですか?」


「まだ秘密だ」


「またですか?」


「昨日も言っただろう?」


 ルシアンが笑う。


「今日になれば分かる」


 その隣には、カイルの姿もあった。


「カイルも一緒なんですか?」


「護衛だからな」


 カイルが答える。


「ただし、目的地までは僕とエレナだけで行く」


「承知しています」


 ルシアンとエレナは馬車に乗り込んだ。


 王都を出て、しばらく進む。


 昨日まで歩いた街道とは違う方向だった。


「本当にどこへ行くんですか?」


「もう少しだ」


 エレナは窓の外を眺める。


 王都の街並みが遠ざかっていく。


 以前の自分なら、ここで糸を探していただろう。


 どこへ向かうのか。


 何が待っているのか。


 危険はないのか。


 けれど今は、ただルシアンを信じて座っていた。


 やがて馬車が止まる。


「着いた」


 ルシアンが先に降りる。


 エレナも続いて降りた。


「ここは……?」


 目の前に広がっていたのは、静かな丘だった。


 その先には青い湖。


 そして遠くには王都の城壁が見える。


「……」


 エレナは言葉を失った。


「覚えているか?」


「はい」


 以前、旅の途中で偶然見つけた湖と似ている。


 けれど、こちらはもっと広く、湖の向こうに王都が見える。


「ここは、僕が子供の頃に来た場所だ」


「子供の頃?」


「ああ」


 ルシアンは湖を眺める。


「十年前より前、まだ僕が王宮で普通に暮らしていた頃に、母上に連れてきてもらった」


 エレナは静かに聞いていた。


「ここから王都を見るのが好きだった」


「どうしてですか?」


「城の中から見る王都と、ここから見る王都は違って見えるから」


 ルシアンは少し笑った。


「城の中にいると、王子として見なければならないものが多かった」


「……」


「でもここでは、ただ街を眺めることができた」


 エレナは湖の向こうを見る。


 遠くに王都が見える。


 大きな城壁。


 その内側に広がる街。


 人々の暮らし。


「だから、ここへ連れてきたんですね」


「ああ」


 ルシアンがエレナを見る。


「君にも見てほしかった」


「私に?」


「僕が昔見ていた景色を」


 エレナの胸が温かくなる。


「ありがとうございます」


「それだけじゃない」


 ルシアンが続ける。


「昨日、君は言っただろう」


「何をですか?」


「もっといろんな場所を見てみたい、と」


「あ……」


「だから考えた」


 ルシアンは少し照れたように笑う。


「僕が知っている場所を、君にも見てもらいたいと思った」


 エレナはしばらく彼を見つめる。


「……嬉しいです」


「そうか」


「はい」


 エレナは湖へ視線を戻す。


 水面が風で静かに揺れている。


「以前なら、ここにも何かの糸があったんでしょうね」


「きっとな」


「でも今はありません」


「ああ」


「だから、この場所に来たことも、ルシアンが私を連れてきてくれたことも……」


 エレナは微笑んだ。


「全部、私たちが選んだことなんですね」


「そうだな」


 二人は並んで湖を眺める。


 しばらくして、ルシアンが口を開いた。


「エレナ」


「はい?」


「君に聞きたいことがある」


「何でしょう?」


「これから、どんな人生を送りたい?」


 エレナは少し驚いた。


「人生……ですか?」


「ああ」


「急に難しい質問ですね」


「そうかもしれない」


 ルシアンは苦笑する。


「でも、今なら聞いてもいい気がした」


 エレナは考える。


 以前なら、未来の可能性がいくつも見えていた。


 誰かと結ばれる未来。


 別の道へ進む未来。


 危険を避ける未来。


 誰かを救う未来。


 けれど今は、何も見えない。


 だからこそ、考える。


「……私は」


 エレナはゆっくり口を開く。


「普通の生活をしてみたいです」


「普通の生活?」


「はい」


 エレナは笑う。


「朝起きて、誰かと朝ご飯を食べて」


「うん」


「街へ買い物に行って」


「ああ」


「たまに旅行をして」


「うん」


「嫌なことがあったら、ちゃんと悩んで」


「……」


「嬉しいことがあったら、一緒に喜んで」


 エレナはルシアンを見る。


「そんな毎日がいいです」


 ルシアンは優しく笑った。


「僕も、それがいい」


「本当ですか?」


「ああ」


 そして、少しだけ間を置いて。


「できれば、その毎日を君と過ごしたい」


 エレナの顔が赤くなる。


「……それは」


「嫌か?」


「嫌ではありません」


「なら、よかった」


 ルシアンが笑う。


 その笑顔を見ていると、エレナも自然に笑ってしまう。


「でも、ルシアン」


「何だ?」


「王子様の普通の生活って、難しそうですね」


「……確かに」


「朝から護衛がついてきそうです」


「それは否定できない」


「買い物をしても、店員さんが緊張しそうです」


「……それもそうだな」


「じゃあ、普通の生活は難しいかもしれません」


「エレナ」


「はい?」


「君が隣にいてくれるなら、多少普通じゃなくてもいい」


 エレナは一瞬黙る。


 そして――。


「……ずるいです」


「何が?」


「そういうことを、平然と言うところです」


「平然とはしていない」


 ルシアンが顔を逸らす。


「僕もかなり緊張している」


「そうなんですか?」


「ああ」


「全然見えませんでした」


「……努力しているからな」


 二人で笑う。


 そのとき。


 少し離れた場所から声が聞こえた。


「殿下ー!」


 エレナとルシアンが振り返る。


 カイルがこちらへ歩いてくる。


「昼食の時間です」


「もうそんな時間か」


「はい」


 カイルは二人を見る。


 そして、何かを察したように少しだけ笑った。


「邪魔でしたか?」


「いえ!」


 エレナが慌てて答える。


「そうですか」


 カイルは何も言わず、少し離れた場所に座った。


 ルシアンが苦笑する。


「気を遣っているな」


「たぶん……」


 エレナも笑う。


 用意されていた昼食を三人で食べる。


 簡素な食事だった。


 けれど、エレナには不思議と特別なものに感じられた。


 昔なら、こんな時間さえ運命の糸の意味を探していた。


 今は違う。


 ただ一緒に食事をしている。


 それだけで幸せだった。


 昼食を終えたあと。


 エレナはもう一度湖を見る。


「ここへ連れてきてくれて、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「どうしてルシアンがお礼を言うんですか?」


「君が喜んでくれたから」


 ルシアンは立ち上がる。


「また来よう」


「はい」


「次は、僕が知らない場所へ行こう」


「私も知らない場所がいいです」


「では、一緒に探そう」


 エレナは頷いた。


 帰りの馬車に乗る前。


 エレナは湖を振り返った。


 ここには、もう未来を示す糸はない。


 それでも、この場所で交わした言葉は消えない。


 自分で選んだ記憶として、心に残っていく。


 馬車が動き始める。


 ルシアンが隣に座る。


 エレナは窓の外を眺めながら思った。


 未来は見えない。


 だからこそ――。


 これから出会う景色を、一つずつ自分の目で見ていきたい。


 嬉しいことも。


 悲しいことも。


 迷うことも。


 そして、誰かを愛することも。


 全部、自分で選びながら。


「ルシアン」


「ん?」


「これからも、いろんな場所へ連れて行ってください」


「もちろん」


「でも、私もルシアンを連れて行きたいです」


 ルシアンが驚いたように目を見開く。


「僕を?」


「はい」


 エレナは微笑む。


「ルシアンが知らない場所を、私が見つけたいです」


「……それは楽しみだな」


 二人は笑い合う。


 運命の糸は、もう二人を導かない。


 けれど、それでいい。


 これからは、どちらか一人が相手を導くのではなく――。


 二人で同じ景色を見つけていけばいい。


 それが、二人が選んだ未来だった。

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