王子様が帰ってきた日
翌朝。
王都は、いつもとは少し違っていた。
通りを歩く人々の会話が、どこか落ち着かない。
「本当なのか?」
「ああ。昨日、王宮の門で見たっていう人がいる」
「十年前に亡くなったはずのルシアン殿下を?」
「そうらしい」
噂は、すでに王都全体へ広がっていた。
そして昼前。
王宮から正式な発表が行われることになった。
大広間には、多くの貴族や王宮関係者が集められている。
エレナも母とともに、その場にいた。
少し離れた場所にはミレイユ、カイル、そしてセレスティアたちの姿もある。
以前なら、ここに立つだけでも無数の糸が見えていた。
誰と誰が繋がっているのか。
どの可能性が危険なのか。
どの未来へ進むべきなのか。
けれど今は――何も見えない。
それでも、エレナは不思議と落ち着いていた。
やがて大広間の扉が開く。
国王が姿を現した。
その隣には――。
ルシアンがいる。
ざわめきが広がった。
「……本当に?」
「ルシアン殿下……?」
「生きていたのか……」
様々な声が飛び交う。
ルシアンはそれらを静かに受け止めていた。
国王が玉座の前に立つ。
「今日、この場で皆に伝えたいことがある」
大広間が静まり返る。
「十年前、私たちは第一王子ルシアン・アストレアが死亡したと発表した」
多くの者が息を呑む。
「しかし、その発表は事実ではなかった」
ざわめきが起こる。
「ルシアンは生きている」
そして国王は、隣に立つ息子を見る。
「ここにいる彼こそが、十年前に失われたと思われていた私の息子だ」
ルシアンが一歩前へ出る。
「長い間、皆さんを欺くことになってしまったことを謝罪します」
静かな声だった。
「僕自身も、長い間、自分がこの国に戻れるとは思っていませんでした」
彼は大広間を見渡す。
「けれど、多くの人に支えられ、こうして戻ることができました」
エレナは彼の姿を見つめる。
「これから、僕は十年間の空白を取り戻せるとは思っていません」
ルシアンは続ける。
「ですが――」
その瞳に強い意志が宿る。
「これから先の時間を、自分自身の意思で生きていきたいと思っています」
大広間が静かになる。
「王子としてではなく、一人の人間として、この国の未来を見ていきたい」
その言葉に、エレナの胸が温かくなった。
運命ではない。
誰かに決められた未来でもない。
彼自身が選んだ言葉だった。
発表が終わる。
大広間を出た瞬間、ルシアンは小さく息を吐いた。
「……緊張した」
「お疲れさまでした」
エレナが微笑む。
「ありがとう」
「とても立派でした」
「そう言われると、余計に恥ずかしいな」
そこへミレイユがやって来る。
「殿下、素晴らしかったですよ!」
「ありがとう」
「でも、一つだけ気になったことがあります」
「何だ?」
「『一人の人間として』って言っていましたけど」
ミレイユがエレナを見る。
「エレナの前では、最初から一人の男の人だったんじゃないですか?」
「……」
ルシアンが固まる。
エレナも顔を赤くした。
「ミレイユ……」
「何ですか?」
「そういうことを急に言わないでください」
「でも本当のことですよね?」
「……」
エレナは答えられない。
ルシアンが咳払いをした。
「ミレイユ」
「はい」
「今日はもう十分だと思う」
「何がですか?」
「僕の精神が」
カイルが後ろで小さく笑った。
「殿下、頑張ってください」
「カイルまで……」
久しぶりに、穏やかな笑い声が広がった。
その日の午後。
エレナは約束通り、ミレイユと街へ出ていた。
「今日は絶対に楽しみましょう!」
「はい」
二人は王都の大通りを歩く。
店を眺めたり、菓子を買ったり、布地を見たり。
事件が起きていた頃には考えられなかったほど、平和な時間だった。
「エレナ」
「はい?」
「最近、笑うことが増えましたね」
ミレイユが突然言った。
「そうですか?」
「はい」
エレナは少し考える。
「……そうかもしれません」
「前は、いつも何かを考えている顔をしていました」
「糸のことを考えていたからでしょうね」
「今は?」
エレナは周囲を見渡した。
人々の笑顔。
店先に並ぶ商品。
青い空。
そして――。
少し離れた場所に立っているルシアン。
「今は……」
エレナは微笑む。
「目の前にあるものを見ています」
ミレイユも笑った。
「それならよかったです」
「ミレイユ?」
「エレナが幸せそうなら、それでいいんです」
エレナは少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「親友ですから」
二人は並んで歩く。
しばらくして、ミレイユが突然立ち止まった。
「そうだ!」
「どうしました?」
「これ、買いましょう!」
ミレイユが指差したのは、二つの小さな髪飾りだった。
「お揃いです」
「可愛いですね」
「でしょう?」
エレナが髪飾りを手に取る。
そのとき、店主が笑いながら言った。
「仲のいい姉妹だね」
「姉妹じゃありません!」
二人が同時に否定した。
顔を見合わせる。
そして、笑い出した。
その日の夕方。
エレナが王宮へ戻ると、庭にルシアンがいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「楽しかった?」
「はい」
エレナは髪につけた新しい髪飾りを見せる。
「ミレイユとお揃いです」
「そうか」
ルシアンは微笑む。
「似合っている」
「ありがとうございます」
「……」
ルシアンが少し黙る。
「どうしました?」
「いや」
彼は小さく笑った。
「君が楽しそうだから、僕も嬉しいと思っただけだ」
エレナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ルシアン」
「何だ?」
「今日、発表をしているとき……」
「ああ」
「とても、ルシアンらしいと思いました」
「僕らしい?」
「はい」
エレナは彼を見る。
「自分で選んで、自分の言葉で未来を話していたから」
ルシアンは少しだけ目を細める。
「……君にそう言ってもらえるなら、やってよかった」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
以前なら、そこに金色の糸があった。
今はない。
でも、エレナにはもう、それを寂しいとは思わなかった。
「ねえ、エレナ」
「はい?」
「明日、時間はあるか?」
「ありますけど……」
「少し付き合ってほしい場所がある」
「どこですか?」
「まだ秘密だ」
「秘密?」
「ああ」
ルシアンは悪戯っぽく笑った。
「明日になれば分かる」
エレナは首を傾げる。
「分かりました」
その夜。
エレナは眠る前に、窓の外を眺めた。
明日、何が待っているのかは分からない。
以前なら、知りたかった。
糸を辿れば、きっと未来を見ることができた。
でも――。
今は知らないことが楽しみだった。
「明日は、何があるんでしょう」
小さく呟いて、エレナは笑う。
未来は見えない。
だからこそ、自分で迎えに行ける。
そして明日もまた。
エレナは、自分自身の意思で一歩を踏み出すのだった。




