王都へ帰る前に
湖を見つけた翌朝。
エレナたちは、再び街道へ戻るための準備をしていた。
「昨日の湖、本当に綺麗でしたね」
ミレイユが名残惜しそうに言う。
「もう一度見に行きたいくらいです」
「帰り道に時間があれば寄ってもいい」
ルシアンが答える。
「本当ですか?」
「ああ」
「では、絶対に寄りましょう!」
ミレイユは嬉しそうに頷いた。
その様子を見ていたエレナは、思わず笑う。
「ミレイユは本当に元気ですね」
「旅は楽しいですから」
「昨日、道に迷ったときも楽しそうだったな」
カイルが淡々と言う。
「迷ったんじゃありません。新しい道を発見したんです」
「同じことでは?」
「違います」
ミレイユが真剣な顔で言い切る。
カイルは少し考えてから、
「……そういうことにしておきましょう」
と答えた。
「カイルさんまで!」
馬車の周囲に笑い声が響く。
エレナはその光景を眺めながら、胸の中に温かなものを感じていた。
以前なら、こんな何気ない時間にも未来を探していた。
誰が誰と結ばれるのか。
どこへ行けば危険を避けられるのか。
何を選べば正しいのか。
けれど今は、そんなことを考えなくてもいい。
ただ、この時間を楽しめばいい。
「エレナ」
「はい?」
ルシアンが馬車へ乗るよう促す。
「そろそろ出発しよう」
「はい」
二人が並んで乗り込む。
馬車が動き始めた。
山道を抜け、しばらく進むと、昨日の崩落地点が見えてきた。
そこで一行は、思わぬものを目にした。
「……あれは?」
カイルが馬車を止める。
崩れた道の脇に、数人の村人が集まっていた。
彼らは木材や石を運んでいる。
「道を直しているんでしょうか?」
エレナが尋ねる。
「そのようです」
カイルが答える。
ルシアンは馬車から降りた。
「手伝おう」
「殿下!?」
カイルが驚く。
「こんなところで何をしている?」
村人の一人が尋ねた。
「旅の途中です。道が崩れているのを見ました」
ルシアンは身分を明かさずに答える。
「それなら助かる。人手が足りなくてな」
「分かりました」
ルシアンは袖をまくった。
「ちょっと、ルシアン」
エレナが慌てて呼び止める。
「大丈夫だ」
「でも……」
「昔から、こういうことは嫌いじゃない」
そう言って、ルシアンは村人たちと一緒に作業を始めた。
「殿下……」
カイルが頭を抱える。
「王子に道の修復をさせるわけには……」
「では、カイルさんも手伝いましょう」
ミレイユが笑う。
「なぜ私まで……」
「護衛なんですから、殿下の護衛をしながら手伝えばいいじゃないですか」
「それは護衛なのか?」
「細かいことは気にしないでください」
結局、カイルも作業に加わった。
エレナとミレイユも小さな石を運ぶ。
しばらくして。
「エレナ、無理をするな」
ルシアンが声をかける。
「これくらい大丈夫です」
「手を見せて」
「え?」
ルシアンがエレナの手を見る。
小さな擦り傷ができていた。
「これくらい……」
「だめだ」
ルシアンは懐から布を取り出し、エレナの手に巻いた。
「ありがとうございます」
「僕が心配するから、無理をしないでほしい」
エレナは少し恥ずかしそうに笑った。
「分かりました」
その様子を見ていたミレイユが、ぼそっと言う。
「……新婚夫婦みたい」
「ミレイユ」
「はい」
「聞こえている」
「わざとです」
エレナの顔が赤くなる。
村人たちはその様子を見て笑っていた。
作業が終わったのは昼過ぎだった。
「助かったよ」
村人の代表が頭を下げる。
「これで明日には馬車も通れるだろう」
「それならよかった」
ルシアンが笑う。
「あなたたちは、どこから来たんだ?」
「王都からです」
「王都か……」
村人は少し考える。
「そういえば、最近王都で妙な噂を聞いたな」
エレナたちの表情が少し変わる。
「どんな噂ですか?」
「死んだはずの王子様が生きているって話だ」
エレナはルシアンを見る。
ルシアンは苦笑した。
「もうここまで届いているんですね」
「本当なのかね?」
村人が尋ねる。
ルシアンは少しだけ黙った。
そして――。
「……どうでしょうね」
そう答えた。
村人は笑った。
「ははは。まあ、そんな簡単に分かる話じゃないか」
そのまま去っていく。
エレナはルシアンの隣に立った。
「言わなかったんですね」
「ああ」
「どうしてですか?」
「まだ、自分の口から伝える覚悟ができていないから」
ルシアンは遠くを見る。
「十年間、僕は『死んだ王子』だった」
「……」
「突然戻ってきて、僕は生きていますと言っても、誰もが簡単に受け入れられるわけではない」
「そうですね」
「だから、時間をかけたい」
エレナは頷いた。
「きっと、それでいいと思います」
「ありがとう」
ルシアンは微笑む。
その日の夕方。
一行は街へ到着した。
宿を決めたあと、エレナは一人で街を歩いていた。
小さな店が並ぶ通り。
子供たちが走っている。
店主が客と笑いながら話している。
平凡な光景だった。
でも――。
エレナにとっては、とても新鮮だった。
以前なら、街を歩けば必ず糸を見ていた。
この人とあの人を結ぶ糸。
あの道の先へ伸びる糸。
危険を示す糸。
未来を示す無数の可能性。
今は、それがない。
ただ、人々がいる。
それだけだ。
「……これが、普通なんですね」
「そうだな」
後ろから声がした。
振り返ると、ルシアンが立っている。
「ついてきていたんですか?」
「いや。偶然だ」
「本当ですか?」
「……半分くらいは」
エレナは笑った。
「半分?」
「君が一人で歩いているのを見つけたから、少し後ろを歩いていた」
「それは偶然ではないですよね?」
「……そうかもしれない」
二人で歩く。
しばらくすると、広場に小さな露店が見えてきた。
そこには様々な装飾品が並んでいた。
「また何か買うんですか?」
「いや」
ルシアンは笑う。
「昨日のペンダントで十分だ」
「そうですか」
エレナは胸元のペンダントに触れた。
「これ、大切にします」
「……うん」
ルシアンは少し嬉しそうに答えた。
そのとき、広場の時計塔から鐘が鳴った。
カーン。
カーン。
街中に音が響く。
エレナは空を見上げた。
夕焼けが広がっている。
「綺麗ですね」
「ああ」
「昔の私は、こんな景色も見逃していたんでしょうね」
「どういう意味だ?」
「糸を見ていたから」
ルシアンは静かに頷いた。
「でも、今は見ている」
「はい」
エレナは微笑んだ。
「ちゃんと、自分の目で」
ルシアンは彼女の言葉を聞いて、優しく笑った。
そして、手を差し出す。
「帰ろうか」
「はい」
エレナはその手を取った。
運命の糸は、もう二人を導いていない。
未来も教えてくれない。
それでも二人は歩ける。
迷ったら、立ち止まればいい。
間違えたら、選び直せばいい。
そして――。
隣にいてほしいと思った相手の手を、自分から取ればいい。
それが、エレナにとっての新しい「運命」だった。




