運命ではなく、あなたと歩く未来
王都を出発する朝。
馬車の前には、エレナたちが集まっていた。
「本当に行くんですね」
ミレイユが少し寂しそうに言った。
「はい。まずは近くの街をいくつか回る予定です」
「いいなぁ……私も行きたい」
「ミレイユも来ればいいだろう」
ルシアンが何気なく言う。
「本当ですか!?」
「ルシアン様」
エレナが呆れたように彼を見る。
「そんな簡単に誘って大丈夫なんですか?」
「問題ないと思うが」
「私は大歓迎です!」
ミレイユは即答した。
その隣で、騎士のカイルがため息をつく。
「殿下。旅の目的を忘れないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「……たぶん」
「殿下」
カイルの声が低くなる。
エレナは思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「エレナまで……」
「すみません」
笑いながら、エレナは馬車へ向かった。
今回の旅は、ただの観光ではない。
王宮の事件が終わった今、ルシアンは十年間見ることのできなかった国の姿を、自分自身の目で確かめようとしている。
そしてエレナも、その隣にいることを選んだ。
馬車が王都の門を抜ける。
しばらくすると、王都の城壁が遠ざかっていった。
「……久しぶりだ」
ルシアンが窓の外を見ながら呟いた。
「この景色が?」
「ああ」
彼の瞳に、懐かしさが浮かぶ。
「十年前、王都を離れたときは、もう二度とここへ戻れないと思っていた」
エレナは黙って彼の話を聞いていた。
「けれど、戻ってこられた」
「はい」
「父上にも会えた」
「はい」
「母君にも、君にも会えた」
ルシアンは少しだけ笑う。
「だから、これからは失った十年を嘆くより、これからの時間を大切にしたい」
エレナは頷いた。
「私も、そのほうがいいと思います」
窓の外に広がる草原。
以前なら、そこにも無数の糸が見えていたはずだ。
けれど今は何も見えない。
それでも――。
エレナは不思議と安心していた。
未来が見えない。
だからこそ、自分で歩ける。
「エレナ」
「はい?」
「今、何を考えている?」
「未来のことです」
「未来?」
「はい」
エレナは窓の外を見る。
「以前は、未来が糸として見えていました」
「ああ」
「だから、何かを選ぶときも……どの糸を選べばいいのか考えていました」
ルシアンは静かに聞いている。
「でも、今は見えません」
「……怖くはないか?」
エレナは少し考えてから答えた。
「怖いです」
「そうか」
「でも、それ以上に楽しみです」
ルシアンが微笑む。
「僕もだ」
そのとき。
「……あの」
向かいの席から声がした。
ミレイユだった。
「お二人とも、朝から良い雰囲気なのは分かりました」
「ミレイユ?」
「でも、私たちもいることを忘れないでください」
エレナが顔を赤くする。
「べ、別にそんなつもりでは……」
「そうですか?」
ミレイユがニヤニヤする。
「では、私が寝ている間に手を繋いでいても問題ありませんね」
「なぜそうなるんですか!?」
「それは――」
ミレイユはルシアンを見る。
「殿下に聞けば分かると思います」
「僕は構わないが」
「ルシアン!」
エレナの声が馬車内に響いた。
カイルが窓の外を見ながら小さく呟く。
「……平和になりましたね」
「そうですね」
ミレイユが笑う。
「本当に」
誰もが笑っていた。
その笑い声を聞きながら、エレナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
運命の源が変わった。
世界を縛っていた黒い糸は消えた。
けれど、世界そのものが突然完璧になったわけではない。
争いもある。
悲しみもある。
間違いだって、きっとこれから何度も起こる。
それでも――。
自分で選べる。
間違えたら、もう一度選び直せる。
それだけで十分だった。
昼過ぎ。
一行は小さな街へ到着した。
王都から離れているため、街の人々はルシアンの顔を知らない者も多い。
そのため、ルシアンは身分を隠して街を歩くことになった。
「こうして普通に歩くのも久しぶりだな」
「殿下は普段、どうしているんですか?」
ミレイユが尋ねる。
「城の中にいるか、護衛に囲まれているかだな」
「なるほど」
ミレイユは突然、ルシアンの前に回り込む。
「では今日は普通の青年ということで」
「普通の青年?」
「はい」
「……難しいな」
「どうしてですか?」
「君たちが僕を王子として扱うからだ」
「では、これからは普通に――」
ミレイユは少し考え。
「ルシアンさん」
「……」
「どうですか?」
「違和感がある」
「私もです」
エレナまで頷く。
「じゃあ殿下でいいですね」
「それが一番楽だ」
そんなやり取りをしていると。
「殿下?」
街の商店から出てきた一人の老人が、ルシアンを見て立ち止まった。
ルシアンの表情が変わる。
「……どうしました?」
老人は目を細める。
「いや……昔の王子様に、よく似ていると思ってな」
その言葉に、エレナたちは息を止めた。
だが老人はすぐに笑った。
「まあ、そんなわけはないか」
「……そうですね」
ルシアンも微笑む。
老人はそのまま去っていった。
しばらくして、ルシアンが小さく息を吐く。
「……不思議な気分だ」
「はい」
「十年前、僕は死んだことになった」
彼は自分の手を見る。
「なのに、こうして僕を覚えている人がいる」
エレナは彼の隣に立った。
「忘れられていなかったんですね」
「……ああ」
ルシアンは嬉しそうに笑った。
その日の夕方。
一行は街の宿に泊まることになった。
食事を終え、エレナが部屋へ戻ろうとしたとき。
「エレナ」
ルシアンに呼び止められた。
「はい?」
「少しだけ、外を歩かないか?」
二人で宿を出る。
街の外れには、小さな丘があった。
そこからは街の明かりが見える。
「綺麗ですね」
「ああ」
二人は並んで座った。
しばらく、何も話さなかった。
やがてルシアンが口を開く。
「エレナ」
「はい」
「僕はこれから、君に過去の記憶を話すことがあると思う」
「前の人生のことですか?」
「ああ」
「聞いてもいいんですか?」
「もちろん」
ルシアンは少しだけ迷うように続ける。
「でも、僕はもう過去の僕たちに君を縛らせたくない」
エレナは彼を見る。
「だから、もし君が嫌なら聞かなくていい」
「……分かりました」
「そして」
ルシアンが彼女を見る。
「もし僕が過去の記憶に囚われそうになったら、そのときは君が教えてほしい」
「私が?」
「ああ」
エレナは少し驚いたあと、笑った。
「分かりました」
「約束してくれるか?」
「はい」
エレナは手を差し出した。
「約束です」
ルシアンも、その手を握る。
金色の糸は見えない。
それでも。
二人を繋ぐものは、確かにそこにあった。
「……エレナ」
「はい?」
「今度は、過去ではなく未来の話をしよう」
「未来?」
「僕たちが、これから何をしたいか」
エレナは空を見上げる。
星がいくつも輝いていた。
「そうですね……」
少し考えて。
「まずは、いろんな場所へ行ってみたいです」
「僕も」
「知らない街を見て、美味しいものを食べて」
「うん」
「それから……」
エレナは少し恥ずかしそうに笑った。
「いつか、二人で暮らす家も見てみたいです」
ルシアンが固まった。
「……ルシアン?」
「いや……」
彼は顔を逸らした。
「それは、少し先の未来まで考えていなかった」
「えっ」
「でも」
ルシアンはエレナの手を握り直す。
「悪くない未来だと思う」
エレナの頬が赤くなる。
「……私もです」
二人は笑った。
見えない未来。
決められていない未来。
だからこそ――。
これから二人で、一つずつ選んでいけばいい。
星空の下。
エレナは初めて、糸のない未来を心から楽しみに思った。




