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運命の糸が消えた王都で

 翌朝。


 王都には、久しぶりに穏やかな朝が訪れていた。


 窓から差し込む光を見つめながら、エレナは静かに目を覚ました。


 いつものように、目を開ければ見えると思っていた。


 人々の周囲を漂う無数の糸。


 可能性を示す白い糸。

 記憶を繋ぐ青い糸。

 選ばれた想いを示す金色の糸。


 けれど――。


「……やっぱり、見えない」


 何もなかった。


 それは、ほんの少しだけ寂しい。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


 エレナは胸元に手を当てる。


 そこには、何も見えない。


 それでも、自分の中には確かなものがあった。


「私は……私の未来を選べる」


 そう呟いたとき。


 コンコン。


「エレナ、起きているか?」


 扉の向こうから、ルシアンの声が聞こえた。


「はい。今、開けます」


 扉を開けると、そこにはいつもの穏やかな表情を浮かべたルシアンが立っていた。


「おはよう、エレナ」


「おはようございます、ルシアン様」


「……その呼び方、まだ続けるのか?」


「え?」


 ルシアンが少しだけ困ったように笑う。


「昨日、父上から言われただろう。もう少し気楽にしていい、と」


「それは……そうですが」


「なら、せめて二人きりのときくらいは」


 ルシアンは一瞬言葉を止める。


「……ルシアン、と呼んでほしい」


 エレナの頬がわずかに赤くなる。


「……ルシアン」


「うん」


 それだけなのに、ルシアンは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、エレナも自然に笑う。


 以前なら、二人の間には金色の糸があった。


 それが二人を結んでいることを、エレナは目で確認することができた。


 今は何も見えない。


 けれど――。


 目の前にいる彼が、自分の大切な人であることは変わらなかった。


「エレナ」


「はい?」


「これから先も、君に何度でも尋ねるつもりだ」


「何をですか?」


「僕と一緒にいたいか、と」


 エレナは目を瞬かせる。


「何度も?」


「何度でも」


「……少し、しつこいかもしれませんね」


「そうかもしれない」


 ルシアンは苦笑する。


「でも、もう運命の糸に頼るつもりはないから」


 その言葉に、エレナは微笑んだ。


「では、私も毎回答えます」


「答えは?」


「……今は、秘密です」


「エレナ」


「ふふっ」


 そんな二人の会話を――。


「朝から何をしてるんですか?」


 廊下の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。


 ミレイユだった。


「……ミレイユ」


「おはようございます、エレナ。殿下も」


 ミレイユは二人を交互に見て、それからニヤリと笑う。


「もしかして、朝から二人きりで愛の確認ですか?」


「違います」


 エレナが即答する。


「即答ですね」


「違う」


 ルシアンまで否定する。


「お二人とも、息ぴったりですね」


「……」


「……」


 二人が同時に黙る。


 ミレイユは楽しそうに笑った。


「やっぱり仲良しじゃないですか」


「ミレイユ」


「はい?」


「朝食に行こう」


「逃げましたね?」


「行こう、エレナ」


「はい」


 エレナがルシアンの隣に並ぶ。


 その光景を見ながら、ミレイユは小さく笑った。


 以前とは何かが違う。


 けれど、それは悪い変化ではない。


 むしろ――。


 誰にも決められていないからこそ、これからが楽しみなのだ。


 王宮では、その後も多くの変化が起きていた。


 十年間、死んだと思われていたルシアン王子の生存。


 そして、王もまた生きていたこと。


 王宮を蝕んでいた黒い糸が消えたこと。


 当然、それらを一度に公表することはできなかった。


 だが、王は自ら国民の前に姿を現すことを決めた。


「十年間、私は皆に真実を伝えることができなかった」


 謁見の間。


 王は静かに語った。


「多くの者を欺いたことも事実だ。それによって傷ついた者もいるだろう」


 その隣にはルシアンが立っている。


 エレナも少し離れた場所から、その姿を見守っていた。


「だが、今日からは違う」


 王はルシアンを見る。


「この国の未来を決めるのは、私でも運命でもない」


 そして、息子へ向かって言った。


「お前自身だ」


 ルシアンは静かに頷いた。


「はい、父上」


 その声には、もう迷いがなかった。


 謁見が終わったあと。


 エレナは王宮の庭へ出ていた。


 以前なら、この庭にも無数の糸が見えていた。


 今は、青空と花しか見えない。


「静かですね」


 隣に立った母が言う。


「はい」


「寂しいですか?」


 エレナは少し考えた。


「……少しだけ」


 母は優しく微笑んだ。


「そうですか」


「でも、大丈夫です」


「なぜ?」


「見えなくなったからこそ、ちゃんと見たいものが見える気がするんです」


 母は何も言わず、エレナの頭をそっと撫でた。


「あなたは、本当に強くなりましたね」


「お母様のおかげです」


「いいえ」


 母は首を横に振る。


「最後に選んだのは、あなた自身です」


 その言葉に、エレナは微笑んだ。


 そのとき。


「エレナ」


 後ろから声がする。


 振り返る。


 ルシアンが歩いてくる。


「少し話がある」


「はい?」


「二人で話したい」


 母は二人を見ると、すぐに察したようだった。


「私は先に戻っていますね」


「お母様?」


「ゆっくり話してきなさい」


 母が去っていく。


 エレナはルシアンを見る。


「話とは?」


「王都の外へ行こうと思っている」


「外へ?」


「十年間、僕はずっと王宮から離れていた」


 ルシアンは空を見上げる。


「これからは、自分の目でこの国を見てみたい」


「……素敵ですね」


「それで」


 ルシアンがエレナを見る。


「君にも一緒に来てほしい」


 エレナの胸が高鳴った。


 以前なら、ここで金色の糸を探していたかもしれない。


 それが未来を示してくれると思って。


 けれど今は違う。


 エレナは自分自身に問いかける。


 ――私は、どうしたい?


 答えはすぐに出た。


「はい」


「……本当に?」


「はい」


 エレナは笑う。


「私も、一緒に行きたいです」


 ルシアンも笑った。


「ありがとう」


「ただし」


「?」


「私が行きたいと思ったからです」


 エレナは彼をまっすぐ見つめる。


「運命の糸があるからではありません」


「……分かっている」


「ルシアンが、私の運命の人だからでもありません」


 少しだけ間を置いて。


「私が、ルシアンと一緒にいたいからです」


 ルシアンは目を伏せた。


 そして、静かに笑う。


「それなら……僕も同じだ」


 二人の間には、もう金色の糸は見えない。


 それでも二人は、自然に手を繋いだ。


 誰かに導かれたわけではない。


 未来を決められたわけでもない。


 ただ、自分たちの意思で。


 その一歩を選んだ。


 運命の糸が消えた世界で。


 二人は初めて、本当の意味で自由になった。


 そして――。


 ここから始まる未来は、誰にも決めることができない。


 どんな出会いが待っているのか。


 どんな困難が訪れるのか。


 どんな幸せを選ぶのか。


 それを決めるのは、運命ではない。


 自分自身なのだから。

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