運命が生まれる前の世界
扉の向こうへ、一歩踏み込んだ。
その瞬間――。
音が消えた。
光も。
風も。
時間さえも。
そこには何もなかった。
空も、大地も、海もない。
ただ、真っ白な空間が広がっている。
「……ここは?」
私は周囲を見渡した。
ルシアンが隣にいる。
母もいる。
セレスティアも、アベルも、グレアムもいる。
けれど、誰も答えられない。
「まだ、世界が生まれる前」
銀髪の女性が呟いた。
「ここが……始まり」
彼女はゆっくりと前へ歩く。
すると、何もなかった空間に小さな光が生まれた。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、無数の光が広がっていく。
「これが……」
私は息を呑んだ。
「世界の始まり?」
「いいえ」
銀髪の女性は首を横に振る。
「まだ世界ではないわ」
光の一つが大きくなる。
そこから、小さな糸が生まれた。
白い糸。
その糸が伸びる。
そして、別の光へ繋がる。
「可能性……」
私は呟いた。
「そう」
女性が頷く。
「最初に存在したのは、未来ではない」
「可能性だった」
一本の白い糸が、さらに分かれていく。
一つの道。
二つの道。
十。
百。
無数の可能性。
「すべての世界は、最初は選択されていなかった」
「ただ、可能性として存在していた」
母が静かに尋ねる。
「では、どうして運命が生まれたの?」
女性は答えなかった。
代わりに、一つの光を指した。
その中に、二人の人間が現れる。
まだ名前すらない男女。
二人は初めて出会った。
そして――。
互いに手を伸ばした。
「最初の選択」
私は呟く。
女性が頷いた。
「そう」
「この世界で初めて、人間が自分の意思で未来を選んだ瞬間」
二人が手を繋ぐ。
その瞬間。
白い糸が金色へ変わった。
「……金色の糸」
ルシアンが呟く。
「あなたたちの糸と同じ」
私は自分とルシアンの糸を見る。
確かに同じ色だった。
「つまり……」
「金色の糸は、運命そのものではない」
女性が言う。
「自分で選んだ結果が、未来に残した証」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、最初から運命なんて存在しなかった?」
「そう」
「人間が選択した結果として、運命という概念が生まれた」
その言葉を聞いた瞬間。
黒い声が響いた。
『ならば、最初の選択を消せばいい』
空間が震える。
「……!」
黒い亀裂が入った。
『最初の人間が選ばなければ、運命は存在しなかった』
『苦しみも』
『別れも』
『後悔も』
『すべて生まれなかった』
私はその声を聞きながら、白い糸を見る。
「でも」
私は答えた。
「その人が選んだから、今の私たちがいる」
『だから何だ?』
「選んだこと自体が間違いだったとは思わない」
『人間は何度も間違える』
「うん」
私は頷いた。
「それでも、選びたい」
ルシアンが隣に立つ。
「僕も」
母が続く。
「私も」
セレスティアが笑う。
「私もよ」
アベルも頷いた。
「私も、自分の選択を受け入れます」
グレアムも静かに言う。
「私もです」
その瞬間。
最初の金色の糸が強く輝いた。
「……」
黒い亀裂が止まる。
銀髪の女性が静かに目を閉じた。
「これが答え」
「何の?」
「運命が存在する理由」
彼女は目を開く。
「誰かが未来を決めるためではない」
「人が自分で選んだことを、未来へ繋ぐため」
私はその言葉を聞いて、ずっと追い続けてきたものがようやく一つに繋がった気がした。
母が運命の糸を見る力を持っていた理由。
私が異世界からこの世界へ来た理由。
ルシアンが過去の人生を覚えていた理由。
何度生まれ変わっても、私たちが出会った理由。
すべては――。
「選ぶためだったんだ」
私は呟いた。
銀髪の女性が頷く。
「ええ」
「あなたの魂がこの世界へ来たのも」
「ルシアンと出会ったのも」
「あなた自身が、自分の人生を選ぶため」
私はルシアンを見る。
彼は微笑んでいた。
「だから、これからも選べる」
「うん」
その瞬間。
黒い亀裂が再び広がった。
『ならば――』
声が響く。
『最後の問いだ』
空間の中央に、一つの光が現れる。
その光の中に――。
私の前の世界が映った。
雨。
道路。
白い光。
そして、死ぬ直前の私。
『お前は、一度この世界を選んだ』
『ならば――』
映像が変わる。
今度は現在の私。
ルシアン。
母。
ミレイユ。
カイル。
セレスティア。
アベル。
グレアム。
そして、王宮。
『この世界を守るか?』
私は黙った。
『世界を守れば、運命の源は残る』
『だが、運命の源が残れば、再び誰かが支配しようとする』
『運命の源を壊せば――』
無数の糸が消えていく映像が浮かぶ。
『誰も未来の可能性を見ることができなくなる』
母が息を呑んだ。
「……それは」
「私たちの力も……」
女性が頷く。
「すべて失われる」
私は手を見る。
この力がなくなる。
未来の糸を見ることも。
母の記憶を見ることも。
ルシアンの過去を見ることも。
運命の源そのものが消えれば――。
すべてが普通の人間になる。
『選べ』
黒い声が響く。
『運命を残すか』
『運命を壊すか』
私は黙っていた。
どちらも正しい。
どちらも間違っている。
どちらを選んでも、何かを失う。
ルシアンが私を見る。
「エレナ」
「……うん」
「これは、僕が決めることじゃない」
「……」
「君自身が決めていい」
私は彼を見る。
その言葉に胸が熱くなった。
以前なら、私はルシアンに答えを求めていたかもしれない。
母に。
セレスティアに。
過去の自分に。
でも――。
今は違う。
私は自分で決める。
「運命の源を壊さない」
全員が私を見る。
「エレナ……?」
私は続けた。
「でも、今までの形のまま残すこともしない」
銀髪の女性が微笑んだ。
「そう言うと思った」
「運命の源は、未来を決める場所じゃない」
私は七本の糸を見る。
「可能性を生む場所にする」
「誰かが他人の未来を固定できないようにする」
「誰かが、運命の源そのものを支配できないようにする」
母が理解する。
「運命の源を――」
「みんなのものにする」
ルシアンが笑った。
「エレナらしい」
私は彼を見る。
「何それ?」
「一番難しい道を選んだ」
「……」
「でも、僕は好きだよ」
私は少しだけ頬を赤くした。
「もう……」
ミレイユの声が聞こえた気がした。
『また二人でそういうこと言ってる!』
「……なんだか、今ミレイユの声が聞こえた」
ルシアンが笑う。
「僕も」
緊張が少しだけ解けた。
その瞬間。
七本の糸が一斉に輝いた。
白。
青。
赤。
銀。
金。
そして――。
新しく生まれた透明な糸。
それらが運命の源の中心で一つになる。
黒い糸は消えなかった。
しかし、白い光に包まれていく。
『……なぜ』
黒い声が響く。
『なぜ、私を消さない』
私は答えた。
「あなたも、この世界の一部だから」
『……』
「あなたが生まれた理由も、きっと誰かが選んだ結果」
「だから、消すんじゃなくて――」
私は手を伸ばす。
「変える」
金色の糸が黒い根へ触れた。
黒い糸が、少しずつ色を変えていく。
完全な黒ではなく。
白でもない。
その間にある、淡い灰色へ。
「……」
黒い声が初めて沈黙した。
そして、運命の源全体が光に包まれた。
その光の中で、銀髪の女性が私を見る。
「これで終わり」
「……本当に?」
「ええ」
彼女は微笑む。
「運命を決める者は、もういない」
「これからは――」
彼女の身体が光へ変わっていく。
「あなたたちが、自分で選ぶ世界」
私は彼女へ手を伸ばした。
「待って」
「大丈夫」
「あなたは?」
彼女は少し考えてから答えた。
「私は……」
初めて、迷った。
そして――。
「私も、自分の人生を探してみる」
その言葉を最後に、彼女は光の中へ消えていった。
静寂。
そして――。
運命の源に残ったのは、無数の自由な糸だけだった。
私はルシアンの手を握る。
「終わった……?」
彼は周囲を見る。
「たぶん」
「たぶん?」
「僕たちの人生だから」
彼は笑った。
「何が起こるかは、これから自分たちで決めるんだろう?」
私は笑った。
「そうだね」
七本の糸が静かに輝く。
そして、運命の源から――。
新しい朝の光が差し込んだ。




