十年前に死んだ魔術師
玉座の間に、重い沈黙が落ちていた。
私たちの目の前に立っている男。
白髪。
黒いローブ。
右手には黒い指輪。
そして、首元には青いペンダント。
母は、その男を見つめたまま動かなかった。
「……アベル」
男は微笑んだ。
「ええ」
「あなたは……死んだはずよ」
「そうですね」
アベルは淡々と答える。
「十年前、私は死んだことになりました」
ルシアンが剣を構える。
「なぜ?」
「陛下の命令です」
「父上が?」
「正確には、陛下とあなたのお母上――そして、グレアム殿とセレスティア殿の計画です」
グレアムが驚く。
「私も……?」
「もちろん」
アベルは笑った。
「あなたは覚えていないでしょうが」
グレアムの表情が曇る。
「……何?」
「あなた自身が、私を逃がしたのです」
「そんな……」
母が一歩前へ出た。
「違う」
「何が違うのです?」
「あなたを逃がしたのは私よ」
アベルが母を見る。
「そうでしたね」
「でも、あなたは私たちを裏切った」
「……」
アベルの笑顔が消えた。
「そう思っていますか?」
「黒い糸を使ったでしょう」
「使いました」
「人々を操った」
「それも事実です」
「なら――」
「ですが」
アベルが言葉を遮った。
「私が始めたわけではありません」
黒い糸が、彼の背後で揺れる。
「この糸を最初に使ったのは、私ではない」
私は目を凝らした。
黒い糸のさらに奥。
別の糸がある。
それは――白い。
「……白い糸?」
アベルが私を見る。
「やはり見えますか」
「あなたにも見えるの?」
「私は見ることができません」
彼は首を横に振る。
「ただ、知っているだけです」
「何を?」
「黒い糸は、白い糸から生まれた」
その言葉に、母が息を呑んだ。
「そんな……」
「可能性が多すぎるからです」
アベルは続ける。
「未来を見ようとする者が、すべての可能性を固定しようとした」
「その結果、生まれたのが黒い糸」
私は首を横に振る。
「違う」
「何が?」
「黒い糸は、白い糸から生まれたんじゃない」
私は糸を見つめる。
「白い糸の可能性を、誰かが無理やり一つに固定したから黒くなった」
アベルが目を細めた。
「……その通りです」
ルシアンが尋ねる。
「なら、あなたは何をしている?」
「黒い糸を利用しているだけです」
「誰のために?」
アベルは答えなかった。
代わりに母を見た。
「十年前の約束を覚えていますか?」
母が眉を寄せる。
「約束?」
「あなたは私に言いました」
アベルの声が少しだけ柔らかくなる。
「『もし私が記憶を失っても、エレナが自分で選べるようにして』と」
母の顔が強張った。
「……覚えていない」
「ええ」
アベルは頷く。
「だからこそ、私は十年間待った」
「何を?」
「あなたが記憶を取り戻す日を」
私は一歩前へ出る。
「じゃあ、なぜ敵の側にいたの?」
アベルは私を見る。
「敵の側?」
「あなたは黒い糸を使っていた」
「ええ」
「私たちを何度も襲った」
「ええ」
「だったら――」
「それは、あなたをここへ導くためです」
「……!」
私は言葉を失った。
「何?」
ルシアンも驚く。
「どういう意味だ」
アベルは黒い指輪を外した。
その瞬間――。
黒い糸が一斉に彼の身体から離れた。
「私は黒い糸を使っていました」
「ですが、操られていたわけではありません」
「自分の意思で使っていた」
「では、なぜ?」
アベルは指輪を見つめる。
「敵の内部へ入るためです」
母が呟く。
「セレスティアと同じ……」
「そうです」
アベルが頷く。
「ただし、私の場合は十年前から続けていました」
私は息を呑んだ。
「十年間……ずっと?」
「ええ」
「じゃあ、私たちを襲った人たちは?」
「黒い糸で操られていた者もいます」
「でも、中には――」
「私の協力者もいました」
「……」
アベルは続ける。
「彼らは敵の計画に潜り込み、情報を集めていました」
「だから、あの襲撃の中にも……」
「敵ではない者がいた可能性があります」
グレアムが口を開く。
「では、あなたはずっと敵を探していたのか?」
「違います」
アベルは首を横に振る。
「敵を探していたのではありません」
「なら何を?」
「敵が恐れているものを探していた」
私は眉を寄せる。
「それは何?」
アベルが私を見る。
「あなたです」
「私?」
「正確には――」
アベルは金色の糸を見る。
「あなたとルシアンの金色の糸」
ルシアンが剣を握る。
「それが何だ?」
「運命の源を変えられる唯一の糸です」
私は息を呑む。
「唯一?」
「七本の大いなる糸は世界を支えています」
「ですが、それらを自由に動かすことはできない」
「ただ一つ」
アベルが金色の糸を指す。
「選択によって生まれた金色の糸だけが、他の糸を変えることができる」
私は思い出す。
透明だった糸。
そして、それが金色へ変わった瞬間。
「だから敵は……」
「あなたを利用しようとした」
アベルが答える。
「はい」
「私を?」
「あなたにルシアンを選ばせる」
「そして金色の糸を完全に覚醒させる」
「その力を奪う」
母が青ざめる。
「だから、十年前……」
「そうです」
アベルが頷く。
「敵は幼いルシアンの金色の糸を利用しようとした」
「だから王は、彼を死んだことにした」
「そして、お母上は自分の糸を隠した」
「セレスティアは敵の内部へ潜った」
「グレアムは記録を守った」
「私は敵の組織へ入った」
それぞれの行動が、一つの目的へ繋がっていた。
「……じゃあ」
私は尋ねる。
「本当の敵は誰?」
アベルは沈黙した。
「それは――」
その瞬間。
彼の黒い指輪が砕けた。
「……っ!」
大量の黒い糸が噴き出す。
「アベル!」
母が叫ぶ。
アベルの身体が揺れる。
「まずい……」
「何が?」
「見つかった」
黒い糸が玉座の間全体へ広がる。
「誰に?」
アベルは苦しそうに顔を上げた。
「私たちが、敵の計画を利用していたことが」
黒い糸の奥から、声が響く。
『裏切り者め』
空気が凍りつく。
『十年間も、よく耐えたものだ』
アベルの顔から血の気が引く。
「……この声」
母も震える。
「知っているの?」
「ええ」
アベルが答える。
「十年前にも聞いた」
『運命は一つでいい』
声が響く。
『人間に選択など必要ない』
私は拳を握った。
「あなた……」
声の主は答えない。
代わりに、王宮全体の黒い糸が一斉に動き始めた。
カイルが剣を抜く。
「来ます!」
ミレイユが身構える。
「また黒い糸……!」
私は周囲を見渡す。
そして気づいた。
黒い糸の中に――。
一本だけ、金色の糸が混ざっている。
「……違う」
ルシアンが私を見る。
「何が?」
「この黒い糸の中に、金色の糸がある」
アベルが驚く。
「そんな……」
私はその糸を辿る。
王宮の地下。
王のいる場所。
そして――。
さらにその先。
運命の源。
「これ……」
私は息を呑んだ。
「敵は王宮から運命の源を操作してるんじゃない」
「逆だ」
私は顔を上げる。
「運命の源から、王宮を操作している」
母が青ざめる。
「では……」
「本当の敵は、まだここにいない」
その瞬間。
運命の源へ続く金色の糸が大きく揺れた。
そして、あの声が再び響く。
『ようやく気づいたか』
私はその声を聞き、確信した。
私たちが追っていた敵は――。
ずっと私たちの目の前にいたのではない。
もっと深い場所から。
運命そのものを通して、私たちを見ていた。




