十年前、すべてが始まった日
最後の扉の前に立つ。
扉には、七本の糸が刻まれていた。
白。
青。
赤。
銀。
黒。
そして――。
中央に、金色の糸。
私はそっと手を伸ばした。
「……開く」
金色の糸に触れた瞬間、扉全体が淡い光に包まれる。
ゴゴゴゴゴ……。
重い音を立てながら、扉がゆっくりと開いていく。
その向こうにあったのは、部屋ではなかった。
一つの記憶。
十年前の王宮。
今よりもずっと明るく、穏やかな王宮の姿だった。
「ここは……」
ルシアンが周囲を見渡す。
「十年前の王宮だ」
私たちはその記憶の中へ足を踏み入れた。
そこには、まだ幼いルシアンがいた。
八歳。
今のルシアンとは違う、小さな身体。
けれど、その青い瞳だけは同じだった。
「僕……」
ルシアンが自分自身を見つめる。
「こんなに小さかったんだな」
「ふふ」
「笑わないでくれ」
「だって……」
私は少しだけ笑った。
「可愛い」
「……」
ルシアンが黙り込む。
「何?」
「いや」
彼は咳払いをした。
「今の僕のほうがいいだろう?」
「何を張り合ってるの?」
母が後ろから笑う。
「二人とも、静かに」
私たちは再び記憶へ視線を戻した。
幼いルシアンは、一人の人物と話していた。
国王だった。
『父上、本当に僕は王宮から離れるの?』
『ああ』
『どうして?』
国王はしばらく答えなかった。
そして、幼いルシアンの肩へ手を置く。
『お前を守るためだ』
『僕は王子なのに?』
『王子だからこそだ』
幼いルシアンは不満そうに唇を尖らせる。
『僕は逃げたくない』
『逃げるのではない』
国王は静かに言った。
『生きるために場所を変えるだけだ』
その言葉に、ルシアンの表情が変わった。
『……いつ戻れる?』
『お前自身が戻りたいと思ったときだ』
『父上は待ってくれる?』
国王は笑った。
『もちろんだ』
だが――。
その背後から母が現れた。
『陛下』
国王が振り返る。
『来たか』
母の手には、青いペンダントがあった。
『準備ができました』
『そうか』
母は幼いルシアンの前にしゃがみ込む。
『ルシアン王子』
『はい』
『これから少しだけ、あなたに大切な話をします』
『大切な話?』
『ええ』
母は青いペンダントを握る。
『あなたには、いつか出会う人がいます』
幼いルシアンが首を傾げる。
『誰?』
母は微笑んだ。
『まだ生まれていない女の子です』
『……女の子?』
「……」
現在のルシアンが顔を赤くする。
私は彼を見る。
「どうしたの?」
「いや……」
「続きを見よう」
「うん」
映像の中の母は続ける。
『その子は、あなたと同じように運命の糸に関わる力を持つでしょう』
『僕と同じ?』
『少し違います』
母は首を横に振る。
『あなたは過去を記憶する』
『彼女は未来の可能性を見る』
幼いルシアンは少し考える。
『じゃあ、その子が僕の未来を決めるの?』
母は微笑んだ。
『いいえ』
『その子自身も、自分の未来を決められません』
『二人とも、自分で選ばなければならないのです』
幼いルシアンは黙っていた。
そして、しばらくして尋ねた。
『その子に会ったら、どうすればいい?』
母は答えた。
『あなたが、その子を大切にしたいと思ったのなら――』
『その気持ちを、自分で選びなさい』
幼いルシアンが頷く。
『分かった』
そして彼は言った。
『僕、その子に会いたい』
私は思わず笑ってしまった。
「……昔から変わらないね」
「何が?」
「私に会いたいって言ってる」
「……」
現在のルシアンが困ったように目を逸らす。
「僕は昔から正直だったんだ」
「そういうことにしておく」
そのとき。
記憶の中に、もう一人の人物が現れた。
銀髪の女性。
あの女性だ。
彼女は国王と母、そしてセレスティア、グレアムと共に立っていた。
『始めましょう』
彼女が言う。
『運命の源を封じるために』
グレアムが魔法陣を展開する。
『七本の糸をそれぞれの位置へ固定します』
セレスティアが続ける。
『ですが、一つ問題があります』
国王が尋ねる。
『何だ?』
『金色の糸です』
全員が幼いルシアンを見る。
『この子と、まだ生まれていない少女を繋ぐ糸』
母が口を開く。
『あの糸は、固定できません』
『なぜ?』
『二人自身が選ぶものだからです』
銀髪の女性が頷く。
『その通り』
『だから、私たちは彼らの未来を決めてはいけない』
国王が静かに頷いた。
『ならば、金色の糸だけは自由にしておこう』
しかし、その瞬間。
部屋の奥に黒い霧が現れた。
『自由……?』
全員が振り返る。
黒い霧の中から、声が響く。
『そんなものが、この世界に必要なのか?』
グレアムが杖を構える。
『来ると思っていました』
セレスティアが魔法を展開する。
『運命を固定しようとする者が』
黒い糸が一斉に伸びた。
国王が幼いルシアンを抱き寄せる。
『ルシアンを!』
母が叫ぶ。
『分かっています!』
セレスティアが黒い糸を防ぐ。
グレアムが魔法陣を維持する。
その混乱の中――。
銀髪の女性が、私の母へ近づいた。
『今からあなたの記憶を封じる』
『分かっています』
『十年間、あなたはこの日のことを忘れる』
『そして十年後――』
『エレナがここへ辿り着いたとき、記憶は戻る』
母は頷いた。
『それでいい』
銀髪の女性は母へ手を伸ばす。
しかし――。
母が彼女の手を掴んだ。
『一つだけ約束してください』
『何?』
『もし私がすべてを忘れても――』
母は真剣な目で彼女を見る。
『エレナだけは、あなたが守って』
銀髪の女性は黙った。
『私は、あなたを完全には信じていません』
母は続ける。
『でも、あなたが敵でもないことは分かっています』
『だから――』
『エレナが自分で選べるようにしてください』
銀髪の女性は、静かに頷いた。
『約束する』
その直後。
黒い糸が銀髪の女性へ襲いかかった。
彼女は身を翻す。
だが、一本の黒い糸が彼女の腕へ絡みついた。
『……っ』
セレスティアが叫ぶ。
『危ない!』
銀髪の女性は黒い糸を見つめる。
そして、微笑んだ。
『これでいい』
『何を――』
『彼らの敵が私を追う』
彼女は母を見る。
『あなたたちから敵の目を逸らせる』
母が首を振る。
『でも、それではあなたが――』
『大丈夫』
銀髪の女性は笑う。
『私は、まだ選べる』
そして、黒い糸を自分から受け入れた。
私は息を呑んだ。
「……自分から?」
母が呟く。
「そうだった……」
「お母さん?」
「セレスティアだけじゃなかった」
母は映像を見つめる。
「彼女もまた、敵の目を自分へ向けるために……」
その瞬間。
記憶の中で、国王が叫んだ。
『今だ!』
グレアムが魔法陣を起動する。
七本の糸が輝いた。
白。
青。
赤。
銀。
そして――。
金色。
幼いルシアンと、まだ生まれていない私を繋ぐ金色の糸。
それが強く輝いた。
黒い霧が吹き飛ぶ。
だが、その直後――。
王宮の外から巨大な爆発音が響いた。
国王が窓を見る。
『始まったか』
母が青ざめる。
『敵が王都へ侵入しました』
国王は幼いルシアンを見る。
そして――。
彼を抱きしめた。
『ルシアン』
『はい』
『今日から、お前は死んだ王子になる』
幼いルシアンの顔が強張る。
『……死ぬの?』
『違う』
国王は微笑んだ。
『生きるために、死んだことになる』
幼いルシアンはしばらく黙っていた。
そして、母を見る。
『エレナって子には……会える?』
母は涙を堪えながら微笑む。
『きっと』
『じゃあ、僕は待つ』
国王が目を閉じる。
『そうしてくれ』
映像がそこで止まった。
私はしばらく何も言えなかった。
十年前。
すべては、この日から始まった。
王が息子を守るために「死」を選んだ日。
母が記憶を封じた日。
セレスティアが敵の中へ入ることを選んだ日。
そして――。
まだ生まれていなかった私と、幼いルシアンの金色の糸が守られた日。
「……だからだったんだ」
ルシアンが呟く。
「僕が十年間、誰にも知られず生きていた理由も」
「うん」
私は頷いた。
「全部、誰かが選んだ結果だった」
そのとき。
止まっていた記憶の中で、最後の映像が動き始めた。
誰もいない王宮の廊下。
そこを歩く一人の男。
黒い指輪をしている。
グレアムが振り返った。
『……あなたが、ここに?』
男は答えない。
ただ、手に持っていた黒い糸を魔法陣へ繋いだ。
そして――。
その男が振り返った瞬間。
映像が消えた。
「……誰?」
ルシアンが呟く。
母も分からない。
グレアムも黙っている。
だが、私は見た。
男の胸元にあったものを。
黒い指輪。
そして、その隣に――。
青いペンダント。
「……まさか」
グレアムが顔を上げた。
「エレナ?」
私は扉の向こうを見つめる。
「十年前の計画は、あの日で終わってなかった」
「じゃあ……」
ルシアンが剣を握る。
「誰かが、その後も計画を続けていた」
私は頷いた。
「うん」
そして、運命の源の奥から――。
新たな黒い糸が一本、ゆっくりと伸びてきた。
その先は――。
現在の王宮へ繋がっていた。




