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最後の記憶に残された約束

雨が降っていた。


静かな雨だった。


道路を濡らし、街灯の光をぼんやりと滲ませている。


私はその光景を見つめながら、息を呑んだ。


「……ここが」


前の世界。


私がこの世界へ生まれ変わる前に暮らしていた場所。


高い建物。


行き交う車。


雨の中を歩く人々。


どれも懐かしい。


でも、完全には思い出せない。


まるで、遠い夢を見ているようだった。


「エレナ」


ルシアンの声が聞こえる。


私は振り返った。


彼も私の記憶の中へ入っている。


母やカイルも、その場にいる。


けれど、この世界の人々には私たちの姿は見えていないようだった。


「これは記憶だから、干渉できないのかもしれない」


母が周囲を見渡す。


「ええ」


私は頷く。


「でも、私は見ることができる」


私たちは、雨の中に立つ一人の少女を見つけた。


銀色の髪ではない。


紫色の瞳でもない。


普通の服を着た、どこにでもいる少女。


それが――。


前の世界の私だった。


「……私」


私は思わず呟いた。


記憶の中の私は、傘を持っていなかった。


雨に濡れながら、誰かを待っている。


「誰を待っているの?」


私は記憶の自分に尋ねる。


当然、返事はない。


すると、遠くから一人の女性が歩いてきた。


長い銀色の髪。


紫色の瞳。


あの女性だった。


運命の源で私たちに語りかけた人物。


「また……」


母が驚いたように呟く。


「この人は一体……」


女性は記憶の私の前で立ち止まった。


『あなた、本当に行くの?』


記憶の私は頷く。


『うん』


『向こうの世界へ?』


『うん』


私は目を見開いた。


「私が……自分から?」


女性が尋ねる。


『怖くないの?』


記憶の私は少しだけ笑った。


『怖いよ』


『じゃあ、どうして?』


少女は雨の向こうを見る。


『もう一度、会いたい人がいるから』


胸が強く締めつけられた。


「……誰?」


私は記憶の自分を見る。


少女は答える。


『まだ名前も知らない』


「え?」


ルシアンも驚いている。


『でも、夢の中で何度も会うの』


『雪の中で』


『赤い薔薇の庭で』


『古い礼拝堂で』


私の頭の中に、今まで見てきた記憶が蘇った。


雪。


薔薇。


礼拝堂。


ルシアン。


何度も繰り返された人生。


女性は静かに尋ねる。


『その人に会えなくても?』


記憶の私は少し考えた。


そして答えた。


『それでもいい』


『え?』


『私は、その人に会うためだけに行くんじゃない』


少女は胸元へ手を当てる。


『向こうの世界で、自分がどんな人生を生きるのか知りたい』


女性が微笑む。


『そう』


『だから行く』


その言葉を聞いた瞬間。


私は理解した。


「私……」


ルシアンが私を見る。


「エレナ?」


「私はルシアンに会うためだけに、この世界へ来たんじゃない」


「うん」


「この世界で生きることそのものを、自分で選んだんだ」


母が微笑む。


「そうよ」


記憶の女性が、少女へ手を差し出す。


『なら、約束しましょう』


『約束?』


『あなたが向こうの世界で、自分の人生を選ぶこと』


少女はその手を取る。


『そして、いつかこの世界へ戻ることになったとしても――』


女性は続けた。


『誰かに決められたから戻るのではなく、自分で戻ること』


『……分かった』


『そのとき、あなたはきっと思い出す』


『何を?』


女性は微笑んだ。


『あなたが本当に選びたかったものを』


記憶が一瞬、白く輝いた。


そして――。


場面が変わる。


私は雨の中を歩いていた。


どうしてここにいるのか分からない。


道路の向こうから車のライトが近づいてくる。


「……!」


私は息を呑んだ。


これが――。


私の最後の瞬間。


けれど、記憶の私は何かに気づいていた。


道の向こう。


雨の中に立っている女性。


さっきの女性ではない。


別の誰か。


顔は見えない。


ただ、その人がこちらへ手を伸ばしている。


『こちらへ』


あの声。


私が死ぬ直前に聞いた声。


「この人……」


私は女性を見る。


「誰なの?」


母も首を横に振る。


「分からない」


ルシアンも記憶を見つめている。


車のライトが迫る。


そして――。


白い光。


すべてが消える。


私は思わず目を閉じた。


次に目を開けたとき。


そこには何もなかった。


ただ、白い空間。


私の魂だけが浮かんでいる。


そして、あの声が響く。


『ここから先は、あなたが選べます』


『このまま終わることも』


『もう一度、生きることも』


私は白い空間の中で立っていた。


「……私が?」


『ええ』


『あなたは、もう一度生きたい?』


その問いに。


記憶の私はすぐには答えなかった。


しばらく考えている。


そして――。


『生きたい』


『どうして?』


『まだ、やりたいことがあるから』


『何を?』


少女は微笑んだ。


『自分が誰を愛するのか、自分で決めたい』


私は息を呑んだ。


『誰かに決められた運命じゃなくて』


『自分で選んだ人生を生きたい』


その瞬間。


白い空間に一本の金色の糸が現れた。


「……金色の糸」


ルシアンが呟く。


金色の糸の先には――。


幼いルシアンがいた。


「僕……?」


『この人と出会う未来もあります』


声が響く。


『出会わない未来もあります』


金色の糸が二つに分かれる。


『幸せになる未来も』


別の糸が伸びる。


『別れる未来も』


さらに別の糸。


『共に生きる未来も』


そして。


『互いを知らずに終わる未来も』


私はそれらを見つめた。


どの未来も、決められていない。


私は自分で選べる。


記憶の私は、ゆっくりと金色の糸へ手を伸ばした。


けれど、その糸を掴まなかった。


「……え?」


私は驚いた。


記憶の私は、金色の糸の隣にある白い糸を選んだ。


『私は、この世界そのものを選ぶ』


『誰と出会うかは、そのあとでいい』


その言葉と同時に、白い糸が輝いた。


「……そういうことだったんだ」


私がこの世界へ来た理由。


ルシアンと出会うためではない。


運命を果たすためでもない。


私は――。


自分自身の人生を選ぶために来た。


その結果として、ルシアンと出会った。


そして今。


私はもう一度、彼を選ぼうとしている。


ルシアンが静かに私の手を握った。


「エレナ」


「うん」


「これで分かった」


「何が?」


「僕たちは、運命に出会わせてもらったんじゃない」


私は彼を見る。


「何度も、自分たちで選んだんだ」


金色の糸が輝く。


私は笑った。


「じゃあ、今度も選ぼう」


「うん」


「今の私として」


「僕も、今の僕として」


二人の手の間に金色の光が生まれた。


その瞬間。


記憶の世界が崩れ始める。


「え?」


母が叫ぶ。


「記憶が終わる!」


雨の街が白い光へ変わっていく。


最後に、あの女性の姿が見えた。


彼女は私を見て微笑んでいた。


『これで思い出したでしょう?』


私は頷く。


「うん」


『なら、もう一つだけ』


「何?」


女性は静かに言った。


『あなたが生まれ変わった本当の理由は、もう一つある』


「……え?」


『あなたの魂だけでは、この世界を変えられない』


『もう一つの魂が必要だった』


私はルシアンを見る。


女性の視線も彼へ向く。


『彼が、何度もあなたを探した理由』


『あなたが、この世界へ戻ることになった理由』


『そして、二人の金色の糸が七本の糸の中心にある理由』


空間が震える。


『それは――』


そこで、女性の声が途切れた。


「待って!」


私は手を伸ばす。


けれど、すべてが白い光に包まれた。


次に目を開けたとき。


私たちは運命の源の最深部へ戻っていた。


ルシアンもいる。


母も。


カイルも。


そして、十年前にルシアンを救った記録官も。


けれど――。


目の前に、巨大な金色の糸が一本伸びていた。


その糸は私とルシアンから始まり――。


運命の源のさらに奥へ続いている。


母が呟いた。


「……まだ先がある」


私は頷いた。


「うん」


そして、金色の糸を見つめる。


私たちが何度も出会ってきた理由。


七本の糸の中心にいる理由。


そして、あの女性が言いかけた最後の答え。


それは、まだ分からない。


けれど――。


もう怖くはなかった。


私は自分で選ぶ。


これから何が待っていても。


ルシアンが私の隣に立つ。


「行こう、エレナ」


「うん」


私たちは金色の糸の先へ向かって歩き始めた。


その先で待っているものが――。


私たちの運命そのものを変えるとも知らずに。

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