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前の世界で聞いた声

「ようやく、ここまで来たのですね」


その声を聞いた瞬間。


私は動けなくなった。


知っている。


この声を、私は知っている。


雨の音。


濡れた道路。


白い光。


そして、意識が消える直前に聞いた声。


『次は、自分の人生を選びなさい』


「……あなた……」


私の口から、震えた声が漏れる。


黒い糸の向こうに立つ人物は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


顔はまだ見えない。


けれど、手に持っている青いペンダントだけははっきりと見えた。


母のペンダントと同じ形。


「どうして……」


私は一歩下がる。


「どうして、前の世界の私を知っているの?」


人物は答えなかった。


代わりに、男の胸へ伸びていた黒い糸がさらに強くなる。


「ぐっ……!」


男が苦しそうに膝をつく。


「離れろ!」


カイルが剣を振る。


しかし、刃は黒い糸をすり抜けた。


「物理攻撃では無理です!」


母が杖を構える。


「この糸は運命の源そのものと繋がっている!」


「なら、私が――」


私は手を伸ばす。


青い光が指先に集まった。


けれど、その瞬間。


黒い糸の向こうから声が響いた。


『触れてはいけません』


「……!」


手が止まる。


『その糸を解けば、彼の記憶まで失われます』


「記憶……?」


男が苦しそうに顔を上げる。


「私の……記憶……?」


『彼は十年間、あなたたちを守るために記憶を隠していた』


母が驚く。


「まさか……」


『彼が覚えていることをすべて失えば、十年前の真実も消える』


私は手を下ろした。


「じゃあ、どうすればいいの?」


『選びなさい』


また、その言葉。


「……選ぶ?」


『彼を救うか』


『真実を知るか』


『どちらか一つだけ』


私は眉を寄せる。


「そんなの……」


ルシアンが私の隣に立つ。


「罠だ」


「え?」


「今までと同じだ」


彼は黒い糸の先にいる人物を睨む。


「二つしか選択肢がないように見せている」


私はルシアンを見る。


「……そうだね」


母も頷いた。


「運命を操る者は、いつもそうする」


「二つの道しかないと思わせる」


私はもう一度、男を見る。


彼は苦しんでいる。


「でも……」


私は手を伸ばす。


「私は三つ目を選ぶ」


黒い糸が揺れた。


「何をするつもりだ?」


ルシアンが尋ねる。


「この人の記憶も、真実も、どちらも失わせない」


私は男の胸に手をかざす。


「この糸を解く」


「危険よ!」


母が叫ぶ。


「でも、切らない」


青い光が広がる。


「繋ぎ直す」


私の力が黒い糸へ流れ込む。


黒い糸が震えた。


一本。


二本。


三本。


絡み合っていた糸が少しずつほどけていく。


「ぐあああっ!」


男が叫ぶ。


その瞬間。


私の頭の中に、別の記憶が流れ込んできた。


十年前。


王都。


燃える建物。


幼いルシアン。


母。


そして――。


今の私が見たことのない人物。


「……誰?」


記憶の中で、母がその人物に話しかけている。


『お願い』


『この子を北へ連れて行って』


『あの場所なら、黒い糸から隠せる』


人物は頷く。


『分かりました』


『それから――』


母は一瞬だけ迷った。


『いつか、私の娘がここへ来たら』


『このペンダントを渡してください』


人物が青いペンダントを受け取る。


『あなた自身から渡すのですか?』


『いいえ』


母は首を横に振った。


『私ではなく、未来の彼女が自分で見つけなければ意味がない』


私は息を呑む。


「……だから」


目の前の人物がペンダントを持っていた。


「私がここへ来るのを待っていた……?」


声が返ってくる。


『そうです』


黒い糸の向こうの人物が初めてこちらを見た。


フードの影から、瞳が見える。


紫色。


私と同じ色だった。


「……!」


私は驚いた。


母も息を呑む。


「その瞳……」


人物は静かにフードを外す。


長い銀色の髪。


紫色の瞳。


顔立ちは――。


私とよく似ていた。


けれど、私ではない。


「あなたは……誰?」


女性は答えた。


「あなたの前の人生を知る者」


「それだけ?」


「それだけではありません」


彼女は微笑む。


「私は、あなたが最初にこの世界へ来たときから、あなたを見ていました」


「最初……?」


「あなたがまだ、自分が誰なのかも知らなかった頃から」


私は混乱する。


「じゃあ、あなたは何者なの?」


女性は少しだけ目を伏せた。


「私は――」


その瞬間。


運命の源全体が激しく揺れた。


「きゃっ!」


ルシアンが私の身体を支える。


「エレナ!」


巨大な音が響く。


白い糸に無数の亀裂が走った。


「まずい!」


母が叫ぶ。


「運命の源が崩れ始めている!」


女性が振り返る。


「もう時間がありません」


「待って!」


私は叫ぶ。


「あなたは誰なの!」


女性は一瞬だけ私を見る。


そして、悲しそうに微笑んだ。


「あなたが前の世界で死んだとき――」


私は息を止める。


「私は、あなたをこの世界へ送りました」


「……!」


「だから、あのとき聞いた声は私のものです」


頭の中が真っ白になる。


「じゃあ……」


雨の記憶。


白い光。


最後に聞いた声。


すべてが繋がった。


「私を、この世界へ送ったのは……あなた?」


「ええ」


女性は頷いた。


「でも、私はあなたに転生を強制したわけではありません」


「……」


「あなた自身が選んだのです」


私は胸を押さえる。


「私が……?」


「あなたは前の世界で、最後に一つの願いを選びました」


「何を……?」


女性が手を伸ばす。


その指先から白い糸が伸びる。


「もう一度、大切な人たちに会いたい」


私の目から涙が落ちた。


「……大切な人?」


「ええ」


「それが、ルシアン?」


女性は答えない。


代わりに、私の後ろを見る。


ルシアンが立っている。


その顔には驚きが浮かんでいた。


「僕も……その願いに関係しているのか?」


「あなた自身が確かめなさい」


女性は微笑む。


「私は、答えを与えるためにここにいるのではありません」


「あなたたちが、自分で選ぶためにここにいるのです」


その言葉と同時に、女性の姿が薄くなり始める。


「待って!」


私は手を伸ばす。


「まだ聞きたいことがある!」


「大丈夫」


「何が?」


「あなたなら、きっと辿り着ける」


女性は微笑む。


「あなたの最後の記憶へ」


白い光が彼女を包む。


「そして――」


声だけが残る。


『その記憶の中に、あなたがこの世界を選んだ本当の理由があります』


光が消えた。


「……消えた」


私は呆然と立ち尽くす。


けれど、手の中に何かが残っていた。


青いペンダント。


母が持っていたものと同じ。


「これは……」


母が近づく。


「私が十年前に渡したものよ」


「じゃあ、どうして今ここに?」


母は首を横に振る。


「分からない」


そのとき。


ペンダントが突然光った。


青い光が一本の糸になり、運命の源の奥へ伸びていく。


「道を示してる……」


カイルが呟く。


「どこへ?」


私は糸の先を見る。


そこに、一つの扉が浮かび上がった。


扉には文字が刻まれている。


『最初の人生の記憶』


私は息を呑んだ。


「……私の、最初の人生」


ルシアンが隣に立つ。


「行こう」


「うん」


けれど、母が私の肩に手を置いた。


「エレナ」


「何?」


「その扉の向こうにあるのは、あなたがまだ知らない過去よ」


「分かってる」


「もしかすると、今まで信じていたことが変わるかもしれない」


私は母を見る。


そして、静かに笑った。


「それでも知りたい」


母も笑う。


「そうね」


私たちは扉へ向かって歩き出した。


その後ろで、黒い糸から解放された男が静かに立ち上がる。


「待ってください」


私は振り返る。


男は私を見る。


「私も行きます」


「どうして?」


「十年前から探していた答えがあります」


男は銀色の鍵を握った。


「その扉を開けるために、私はずっとこの鍵を持っていました」


私は鍵を見る。


ペンダントと同じ青い光が宿っている。


「だったら――」


私は扉の前に立つ。


「一緒に行きましょう」


鍵が扉に触れる。


カチリ。


静かな音が響いた。


そして、扉が開く。


その向こうに広がっていたのは――。


雨。


白い光。


見覚えのある街。


そして。


まだこの世界へ来る前の私が立っていた。


私は息を呑んだ。


「……これが」


私の前世の最後の記憶。


その始まりだった。

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