十年前、王子を救ったもう一人の人物
運命の源の最深部へ続く道を、私たちは進んでいた。
ここまで来ると、周囲の糸はほとんど動かなかった。
まるで、この場所だけ時間から切り離されているようだった。
母が先頭を歩き、その後ろをカイル、私、ルシアン、そして黒い糸から解放された男が続いている。
しばらく誰も話さなかった。
けれど、私はずっと気になっていた。
十年前。
幼いルシアンを救った人物。
母が銀色の鍵を渡していた人物。
そして――。
『この子は、必ず彼女のところへ戻します』
あの声。
どこかで聞いたことがある。
「お母さん」
私は母に声をかけた。
「さっき見えた人のこと……知ってるんだよね?」
母の足が止まった。
「……ええ」
「誰なの?」
母はすぐには答えなかった。
「十年前、私がルシアンを見つけたときには、もう一人いたの」
「王族?」
カイルが尋ねる。
母は首を横に振った。
「違うわ」
「騎士?」
「それも違う」
「じゃあ……魔法使い?」
「それも違う」
母は少しだけ苦笑した。
「あなたたちが知っているどの組織にも属していなかった」
私は眉を寄せる。
「じゃあ、どうしてルシアンを助けたの?」
「その人は、ずっと前からルシアンを知っていたから」
ルシアンが驚く。
「僕を?」
「ええ」
「どうして?」
「それは……」
母が振り返る。
「本人から聞いたほうがいいでしょうね」
「本人?」
その瞬間。
前方から足音が聞こえた。
カツ。
カツ。
静かな足音。
私たちは一斉に立ち止まった。
「誰だ!」
カイルが剣を抜く。
暗闇の向こうから、一人の人影が現れた。
長い外套。
顔はフードで隠されている。
けれど、その手には――。
銀色の鍵。
私は息を呑んだ。
「……その鍵」
母が前へ出る。
「やはり、あなたでしたか」
人物はフードを外した。
現れたのは、灰色の髪をした中年の男性だった。
瞳は穏やかな青色。
そして、その首元には古い王家の紋章が刻まれている。
ルシアンが目を見開いた。
「……その紋章」
男は静かに頭を下げた。
「お久しぶりです、殿下」
「あなたは……」
ルシアンの表情が変わる。
「まさか……」
「覚えていらっしゃらないのも無理はありません」
男は微笑んだ。
「あなたが八歳だった頃、私は一度だけお会いしています」
母が口を開く。
「この人は、王宮の記録官だった人よ」
「記録官……?」
カイルが驚く。
「十年前の事件の記録にも名前があるはずです」
「ですが、記録では……」
カイルが言葉を止める。
男が答えた。
「私は事件の直後、王宮を追われました」
「なぜ?」
「王子が死んだという記録に、私は署名しなかったからです」
ルシアンが男を見る。
「僕が死んでいないと?」
「はい」
男は頷いた。
「遺体が存在しない以上、王子殿下の死亡を確定することはできない」
「それなのに、王宮は死亡扱いにした」
「そうです」
母が静かに続ける。
「そして、その記録を残したことで、彼も狙われた」
男は苦笑した。
「その後、私は地下へ逃げました」
「そして、お母さんと出会った」
「はい」
男は母を見る。
「あなたが殿下を救っているところを見つけました」
ルシアンが拳を握る。
「では、あなたが僕を逃がしたのか?」
「正確には――」
男は首を横に振った。
「逃がしたのは、あなたのお母様です」
「……母上?」
ルシアンが呟く。
「私は逃げ道を用意しただけです」
母が静かに頷く。
「彼は私に地下通路を教えてくれた」
「そして、私は殿下をその通路へ案内しました」
私は尋ねた。
「でも、どうしてそこまでしてくれたの?」
男は私を見る。
「あなたのお母様に頼まれたからです」
「お母さんが?」
「はい」
男は十年前の記憶を語り始めた。
「あなたのお母様は、私にこう言いました」
『この子を生かしてください』
『この子には、まだ会わなければならない人がいる』
私は胸がざわついた。
「会わなければならない人……」
男が私を見る。
「あなたです」
「……私?」
「当時、あなたはまだ生まれていませんでした」
私は驚いた。
「じゃあ、どうして……」
母が答えた。
「糸が見えたからよ」
「私とルシアンの?」
「ええ」
母は目を伏せる。
「あなたがまだ生まれる前から、あなたとルシアンを繋ぐ金色の糸が見えていた」
ルシアンも驚いている。
「僕とエレナの糸が……十年前から?」
「もっと前から」
母の言葉に、私は息を呑んだ。
「あなたが生まれる前から存在していた」
「じゃあ、私は……」
「あなたが生まれたから糸が生まれたのではない」
母は優しく言った。
「糸が存在していたから、あなたが生まれたわけでもない」
「……」
「ただ、二つの魂が何度も選び続けた結果、その糸が残っていたの」
私は金色の糸を見る。
何度も。
何度も。
私たちは出会ってきた。
でも、それは誰かに決められていたからではない。
自分たちが選んだから。
男が静かに続けた。
「そのとき、あなたのお母様は私にもう一つ頼みました」
「何を?」
「もし殿下が生き残ったら――」
男はルシアンを見る。
「いつか、エレナ様に会わせてほしいと」
ルシアンの目が大きくなる。
「でも、私はまだ生まれていなかった」
「はい」
「どうして母は、そこまで確信できた?」
母は少しだけ悲しそうに笑った。
「確信していたわけではないわ」
「え?」
「あなたが生まれる未来も見えていた」
「でも、それは可能性の一つだった」
私は息を呑んだ。
「つまり……」
「あなたが生まれない未来も、あった」
母の言葉が胸に響く。
「それでも私は、あなたが生まれる未来を信じた」
「そして、ルシアンが生きる未来も」
母はルシアンを見る。
「二人がいつか自分たちの意思で出会う未来を」
ルシアンは黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「……母君らしい」
私は微笑む。
そのとき。
男の表情が突然険しくなった。
「しかし、まだ問題があります」
「何?」
「十年前、王宮の記録を改ざんした人物です」
母の表情が変わる。
「まさか……」
「私はずっと調べていました」
男は銀色の鍵を握る。
「死亡記録を書き換えたのは、一人ではありません」
カイルが尋ねる。
「複数の人間が?」
「はい」
「誰に命令された?」
男は首を横に振った。
「そこまでは分かりませんでした」
「では、何が分かった?」
男は答える前に、運命の源の奥を見る。
「命令を出した者は、王宮の人間ではありません」
空気が張り詰めた。
「では誰なの?」
私が尋ねる。
男は小さく息を吐く。
「十年前の事件を調べている途中、私は一つの記録を見つけました」
「どんな記録?」
「王子殿下の死亡より、さらに十年前に書かれた記録です」
「さらに十年前……?」
「そこには、こう書かれていました」
男は目を閉じる。
「『二つの魂が再び出会うとき、運命の源が目覚める』」
私は息を呑む。
「それって……」
「あなたと殿下のことです」
その瞬間。
運命の源全体が震えた。
白い糸の奥から、黒い糸が一本伸びてくる。
そして――。
男の胸へ繋がった。
「なっ……!」
男が膝をつく。
「これは……!」
黒い糸が男の身体へ入り込む。
母が叫ぶ。
「離れて!」
私は咄嗟に手を伸ばした。
「待って!」
黒い糸の先が見える。
そこには――。
一人の人物の姿が浮かんでいた。
黒い衣。
長い髪。
顔は見えない。
けれど、その手には――。
私の母と同じ、青いペンダントがあった。
「……あのペンダント」
母が呟く。
人物がこちらを向く。
そして、静かな声で言った。
『ようやく、ここまで来たのですね』
私は凍りついた。
その声は――。
私が前の世界で死ぬ直前に聞いた声と同じだった。




