白い糸の先にいる者
扉の向こうに広がっていたのは、果てのない空間だった。
床も壁も天井もない。
ただ、無数の糸だけが存在している。
金色。
青。
黒。
赤。
銀。
そして、見たことのない白。
それぞれの糸が複雑に絡み合いながら、遥か彼方へ伸びている。
その中心に、一人の人物が立っていた。
顔は影に隠れている。
けれど、その人物から伸びる白い糸だけは、はっきりと見えた。
その糸は――。
私の胸に繋がっている。
「……私に?」
思わず自分の胸元に手を当てる。
白い糸が、かすかに震えた。
「エレナ」
ルシアンが私の隣に立つ。
「どうした?」
「この人……私と繋がってる」
「白い糸?」
「うん」
母も驚いた表情で、その糸を見つめている。
「そんな……」
「お母さん?」
「その糸は、存在するはずがない」
母の声が震えていた。
「どうして?」
「白い糸は、運命の糸ではないから」
「じゃあ、何なの?」
母は答えられなかった。
そのとき、中心に立つ人物が一歩前へ進んだ。
「久しぶりだな」
声が響く。
「……私を知っているの?」
「知っている」
低く静かな声。
「正確には、お前の魂を知っている」
私は息を呑んだ。
「私の魂?」
「そう」
人物が顔を上げる。
その顔が、少しずつ光の中へ現れる。
私は目を見開いた。
「……嘘」
そこにいたのは――。
私と同じ銀色の髪。
そして、私と同じ紫色の瞳。
けれど、年齢は私より少し上に見える。
「あなた……誰?」
女性は微笑んだ。
「今の私は、ただの記憶よ」
「記憶?」
「運命の源に残された、あなた自身の記憶」
私は言葉を失った。
「私自身……?」
女性は頷く。
「あなたがこの世界へ来る前」
「そして、この世界で最初に生きた頃の記憶」
母が息を呑んだ。
「まさか……」
「知っているの?」
女性は母を見る。
「もちろん」
「あなたは……」
母の顔から血の気が引いた。
「最初のエレナ……」
私はその言葉を聞いた瞬間、頭の中に激しい痛みを感じた。
「……っ!」
視界が揺れる。
雪原。
古い城。
赤い薔薇。
そして――。
今、目の前にいる女性。
私は彼女と一緒にいた。
笑っている。
泣いている。
誰かを待っている。
そして、その隣には――。
「ルシアン……」
幼い彼ではない。
今より少し若い彼。
女性と手を繋いでいる。
「これ……私たち?」
ルシアンも言葉を失っていた。
「僕にも見える」
女性が静かに語る。
「あなたたちは、何度も出会った」
「でも、どうして?」
「最初の出会いには、理由があった」
女性が手を伸ばす。
一本の白い糸が浮かび上がる。
「この糸は、あなたが異世界へ生まれ変わるよりも前から存在していた」
「……」
「あなたの魂が持つ、世界と世界を繋ぐ糸」
私は白い糸を見つめる。
「じゃあ、私は最初からこの世界に来ることが決まっていたの?」
「違う」
女性は首を横に振った。
「あなたは選んだ」
「また……」
母が小さく呟く。
「あなたは何度も選んできた」
女性は続けた。
「誰かを愛することも」
「別れることも」
「別の世界で生きることも」
「そして、この世界へ戻ってくることも」
私は胸が苦しくなる。
「私が……戻ってきた?」
「そう」
「どうして?」
女性は私を見つめる。
「ルシアンのためではない」
私は驚いた。
「え?」
「あなたが戻ってきた理由は、彼ではない」
ルシアンが黙る。
「では、何のために?」
女性は私を指差した。
「あなた自身のため」
「……私?」
「あなたは前の世界で、自分の人生に一つだけ心残りを残した」
「心残り……?」
私は必死に記憶を探す。
雨。
道路。
街。
鏡。
けれど、そこから先は思い出せない。
「何だったの?」
女性は答えない。
「それを思い出すのは、あなた自身でなければならない」
「どうして教えてくれないの?」
「誰かに答えを与えられれば、それはあなたの選択ではなくなるから」
その言葉を聞いて、母が微笑んだ。
「あなたらしいわね」
「私らしい?」
「ええ」
母は目を細める。
「昔から、あなたは自分で答えを見つけようとしていた」
私は過去の自分を見る。
そこには、今の私と同じように、何かを探している少女がいた。
「でも……」
私は女性を見る。
「どうしてルシアンは、私を何度も探したの?」
女性はルシアンを見る。
「彼が自分で選んだから」
「……」
「最初の人生で、あなたと出会ったとき」
「彼はあなたに約束した」
「次の人生でも、必ず見つけると」
ルシアンが目を伏せる。
「僕は……」
「そして、約束を守り続けた」
女性の声が静かに響く。
「でも、それは運命に命じられたからではない」
「彼自身が選んだから」
私はルシアンを見る。
彼は私を見つめていた。
「だから、私も……」
「そう」
女性が微笑む。
「あなたも今、自分の意思で彼を選んだ」
金色の糸が輝く。
その瞬間。
白い糸と金色の糸が重なった。
私は息を呑む。
「……これは?」
「白い糸は、可能性」
女性が答える。
「金色の糸は、あなた自身が選んだ現在」
「青い糸は?」
母が尋ねる。
「記憶と継承」
女性は母を見る。
「そして黒い糸は、他者によって決められた運命」
私は理解し始めた。
黒い糸は、敵が人々を操っていた糸。
白い糸は、まだ選ばれていない可能性。
金色は、私自身が選んだ今。
青は、母から受け継いだもの。
「じゃあ、この場所は……」
「すべての可能性が集まる場所」
女性は答えた。
「ここでは、過去も未来も一つに繋がっている」
「なら、敵はここを使って未来を決めようとしているの?」
「そう」
「誰が?」
その瞬間。
空間の奥から、低い笑い声が響いた。
「私だ」
全員が振り返る。
無数の黒い糸の向こう。
そこに、一人の男が立っていた。
仮面の男とは違う。
黒い外套。
銀色の髪。
冷たい青い瞳。
そして、その胸から伸びる黒い糸が、運命の源そのものへ繋がっている。
「……あなたが」
私は男を見る。
「すべての黒い糸を操っている人?」
「そうだ」
男は微笑んだ。
「そして、君たちをここへ導いた者でもある」
「……!」
ルシアンが剣を構える。
「僕たちを?」
「そう」
男は笑う。
「君たちがここへ来なければ、運命の源は完全には目覚めなかった」
私は怒りを感じた。
「私たちを利用したのね」
「利用した?」
男は首を傾げる。
「違う」
黒い糸が一斉に揺れる。
「私はただ、君たちに選ばせたのだ」
「何を?」
男は私とルシアンを見る。
「この世界を、自由にするか」
「それとも――」
彼の手の中に、黒い石が現れる。
「すべての人間の運命を、一つにするか」
母が険しい表情になる。
「あなたはまだ、それを諦めていなかったのね」
「当然だ」
男は母を見る。
「十年前、君が邪魔をしなければ、すべて終わっていた」
「だから私を狙ったの?」
「そうだ」
私は男を睨む。
「あなたの目的は何?」
男は私を見る。
「誰も悲しまない世界を作ることだ」
「……」
「誰も愛する人を失わない」
「誰も選択を間違えない」
「誰も後悔しない」
その言葉だけを聞けば、優しい理想のように聞こえる。
けれど――。
私は首を横に振った。
「それは、幸せじゃない」
男の表情が変わる。
「なぜだ?」
「自分で選べないなら、それは自分の人生じゃない」
私は金色の糸を見る。
「たとえ間違えても」
青い糸を見る。
「後悔しても」
そして、ルシアンを見る。
「それでも、自分で選んだ人生を生きたい」
ルシアンが私の隣に立つ。
「僕も同じだ」
男は静かに二人を見る。
「……やはり」
彼は微笑んだ。
「君たちはそう答えるか」
その瞬間。
白い糸が一斉に輝いた。
無数の可能性が、私たちの周囲に浮かび上がる。
その中には、幸せな未来もあった。
私とルシアンが王都で暮らす未来。
母と一緒に暮らす未来。
ミレイユと笑っている未来。
そして――。
誰も失わない未来。
私は思わず手を伸ばした。
けれど、その未来へ進もうとした瞬間。
白い糸が消えた。
「……え?」
女性が静かに言った。
「可能性は、選ばなければ存在し続けることはできない」
「じゃあ……」
「今のあなたが選べるのは、一つだけ」
私は息を呑む。
無数の未来。
その中から、一つを選ぶ。
けれど――。
私はルシアンの手を握った。
「なら、選ぶ」
男が笑う。
「何を?」
私は前を向いた。
「まだ決めない」
「……何?」
「未来を今ここで決める必要なんてない」
白い糸が、再び輝く。
「私はこれから先も、自分で選び続ける」
男の笑顔が消えた。
「そんなことは――」
「できる」
私は答えた。
「未来は一度選んだら終わりじゃないから」
金色の糸が強く輝く。
白い糸がその光に重なる。
そして――。
運命の源そのものが、大きく震え始めた。
女性が叫ぶ。
「エレナ!」
「何?」
「あなたの選択が、運命の源を変え始めている!」
私は目を見開く。
けれど、その瞬間。
男が手を伸ばした。
黒い糸が私たちへ向かって一斉に飛んでくる。
「ならば――」
男の声が響く。
「君たちの選択そのものを、奪ってやろう」
無数の黒い糸が迫る。
ルシアンが私の前に立つ。
母が杖を構える。
そして私は――。
自分の中にある、青い力を感じていた。




