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北へ向かう旅

翌朝。


まだ空が白み始めたばかりの時間に、私は目を覚ました。


窓の外には、昨日の夜から降り始めた雪が薄く積もっている。


季節外れの雪。


それだけで、昨日見た光景を思い出してしまう。


雪原。


母の姿。


そして、私を追っていた黒い糸。


「……夢じゃなかった」


胸元に手を当てる。


服の下には、母が残した青いペンダントがある。


昨日の夜からずっと、微かな温かさを感じていた。


まるで、私に何かを伝えようとしているようだった。


身支度を整えて屋敷を出ると、門の前にはすでに三頭の馬が用意されていた。


その隣には、ルシアンとカイルがいる。


「おはよう、エレナ」


ルシアンが振り返った。


「おはよう」


「よく眠れた?」


「……少しだけ」


正直に答えると、ルシアンは苦笑した。


「僕も同じだよ」


「殿下は昨夜、ほとんど眠っていません」


カイルが淡々と言った。


「カイル」


「事実です」


「……」


ルシアンが困ったように黙り込む。


思わず笑ってしまった。


「ふふっ」


「エレナ?」


「ごめんなさい。二人がいつもと同じで、少し安心したの」


昨日までなら、こんな状況で笑う余裕なんてなかった。


けれど今は違う。


怖い。


母の行方も、敵の正体も分からない。


それでも、隣にルシアンがいる。


それだけで、不思議と前を向けた。


そこへ、屋敷からミレイユが駆けてきた。


「エレナ!」


「ミレイユ?」


彼女は息を切らしながら私の前で止まった。


「本当に行くの?」


「うん」


「北へ?」


「うん」


「危険なんでしょう?」


私は答えられなかった。


ミレイユはそんな私の顔を見て、ため息をついた。


「やっぱり」


「……ごめん」


「謝らないでよ」


ミレイユは私の手を握った。


「あなたが決めたことなら、私は止めない」


その言葉に胸が熱くなる。


「ありがとう」


「でも、一つだけ約束して」


「何?」


「必ず帰ってきて」


私は一瞬だけ言葉を失った。


そして、しっかりと頷いた。


「うん。約束する」


ミレイユは笑った。


けれど、その目には涙が浮かんでいた。


「……じゃあ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


馬に乗る。


ルシアンが私の隣に並び、カイルが少し後ろについた。


王都を出る門が開かれる。


その瞬間。


胸元のペンダントが、強く輝いた。


「……!」


思わず手で押さえる。


青い糸が見えた。


昨日よりも鮮明だ。


王都から北へ。


街道を抜け。


森を越え。


さらにその先にある山々へ。


青い糸はまっすぐ伸びていた。


「見えているの?」


ルシアンが尋ねる。


「うん」


「どんなふうに?」


「昨日よりはっきりしてる。北へ向かってる」


「なら、迷うことはなさそうだね」


そう言ってルシアンは笑った。


けれど、私はその先に別の糸があることに気づいた。


黒い糸。


青い糸のすぐ近くに、細い黒い糸が伸びている。


私は眉をひそめた。


「……ルシアン」


「どうした?」


「黒い糸もある」


彼の表情が変わった。


「僕たちを追っている?」


「分からない。でも……」


私は目を凝らした。


黒い糸は私たちの後ろから伸びている。


そして、途中で青い糸に絡みついている。


「北へ向かっている」


カイルが周囲を警戒する。


「追跡者の可能性があります」


「まだ距離は?」


「分かりません」


私は目を閉じた。


糸を意識する。


すると、一瞬だけ遠くの景色が頭の中に浮かんだ。


木々。


雪。


その間を進む何人もの人影。


「……三人」


「何?」


「私たちの後ろに三人いる」


カイルがすぐに振り返った。


「距離は?」


「まだ遠い。でも、こっちに向かってる」


カイルは剣に手を添えた。


「予定を変更します」


「どうするの?」


「街道を外れます」


ルシアンが頷いた。


「分かった」


私たちは街道を離れ、森の中へ入った。


雪を踏む音だけが響く。


しばらく進むと、カイルが手を上げた。


「止まってください」


馬が止まる。


カイルは地面を見た。


「新しい足跡です」


「三人?」


「少なくとも三人」


私の背中に冷たいものが走った。


「……追いつかれた?」


「まだです」


カイルは周囲を見回した。


「ですが、近い」


ルシアンが私を見る。


「エレナ。ペンダントは?」


私は胸元を確認した。


青い石が淡く光っている。


「まだ北を指してる」


「なら、このまま進もう」


「でも、追手が……」


「だからこそ、急ぐ」


その声には迷いがなかった。


私たちは再び森を進んだ。


しばらくすると、木々の向こうに古い石造りの建物が見えた。


「何かある」


カイルが馬を止める。


建物は小さな礼拝堂だった。


屋根は半分崩れ、壁には蔦が絡んでいる。


入口には古い紋章が刻まれていた。


私はその紋章を見た瞬間、息を呑んだ。


「……この紋章」


「知っているの?」


ルシアンが尋ねる。


「分からない。でも……見たことがある」


胸の奥が痛む。


次の瞬間。


視界が白く染まった。


雪の中に、母が立っている。


その腕には幼い子供。


私はすぐに気づいた。


――幼いルシアン。


「ここなら……誰にも見つからない」


母の声。


「王子様。もう少しだけ我慢してください」


幼いルシアンは傷ついた腕を押さえている。


「あなたは……誰?」


「私はエレナの母です」


「エレナ?」


幼いルシアンがその名前を聞く。


母は微笑んだ。


「はい。私の娘です」


その瞬間、別の光景が重なる。


母が誰かに追われている。


腕の中には赤ん坊の私。


「この子だけは……」


母の声が震えている。


「この子だけは、絶対に見つけさせない」


視界が途切れた。


「エレナ!」


ルシアンの声で現実に戻る。


私は馬の上でぐったりしていた。


ルシアンが心配そうに私を見ている。


「大丈夫?」


「うん……」


私は礼拝堂を見つめた。


「ここ……」


「何か見えた?」


「お母さんが、ここにいた」


カイルが驚く。


「十年前に?」


「たぶん」


私はゆっくり馬から降りた。


礼拝堂の扉に近づく。


錆びた取っ手に触れた。


すると――。


青いペンダントが強く輝いた。


カチッ。


鍵が開く音がした。


誰も触れていないのに、扉がゆっくり開く。


中は暗かった。


けれど、奥から青い光が漏れている。


「これは……」


ルシアンが剣に手をかける。


カイルも警戒する。


私は一歩だけ中へ入った。


すると床に、古い魔法陣が浮かび上がった。


その中心には、文字が刻まれている。


私は読み上げた。


「『運命の糸を見る者よ』……」


ルシアンが息を呑む。


続きがある。


「『もし、ここへ辿り着いたのなら――』」


私はその先を読んだ。


「『あなたの母は、まだ答えを終えていない』」


心臓が大きく跳ねた。


「……まだ、答えを終えていない?」


つまり――。


母は生きているのか。


それとも、別の意味なのか。


そのとき。


礼拝堂の外から、枝を踏む音が聞こえた。


一つ。


二つ。


そして、三つ。


カイルが剣を抜く。


「来ました」


ルシアンも立ち上がる。


「エレナ、後ろへ」


けれど私は動かなかった。


床の魔法陣を見つめている。


そこから一本の青い糸が伸びている。


それは地下へ向かっていた。


そして、その隣には――。


黒い糸が絡みついている。


「ルシアン……」


「どうした?」


私は震える声で言った。


「この礼拝堂の下に、何かある」


外から足音が近づいてくる。


敵はもうすぐそこまで来ている。


けれど、母が残した答えもまた、この場所の下にある。


私は拳を握った。


「行こう」


ルシアンが私を見る。


「どこへ?」


「地下へ」


青い糸は、そこで途切れていなかった。


その先に、母の真実がある。


そして――。


私たちを待つ何者かの気配も、確かにそこにあった。

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