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北へ続く青い糸

父の書斎を出た私は、もう一度だけ手の中にある青いペンダントを見つめた。


小さな青い石。


母が残した箱の中に入っていた、たった一つの手掛かり。


けれど、私にはただのペンダントには見えなかった。


淡い光を放つ石から伸びている青い糸は、まっすぐ北へ向かっている。


その先に、母が残した答えがある。


そう思うと、胸の奥が不思議なほど騒がしくなった。


「エレナ」


名前を呼ばれて顔を上げる。


そこにはルシアンが立っていた。


いつもの落ち着いた表情。


けれど、その深い青の瞳には、私と同じような緊張が浮かんでいた。


「行こう」


短い言葉だった。


「北へ」


私は小さくうなずいた。


「うん」


その瞬間だった。


手の中のペンダントが、わずかに強く輝いた。


青い糸が空中へ伸び、窓の外へと向かっていく。


まるで、私たちを急かしているようだった。


「……母は、どうしてこんなものを残したのかな」


私が呟くと、ルシアンはしばらく黙っていた。


「君のお母さんは、十年前に僕を助けた」


「うん」


「そして、その後に姿を消した」


その言葉を聞くたび、胸が痛くなる。


母がどこへ行ったのか。


なぜ私を残したのか。


そして、なぜルシアンを助けたあとに消えなければならなかったのか。


まだ何一つ分かっていない。


「もしかしたら……母は、最初からこうなることを知っていたのかもしれない」


「どういう意味?」


「私がいつか運命の糸を見ることも。ルシアンに会うことも。そして、このペンダントを持って北へ行くことも」


自分で口にしておきながら、私は少し怖くなった。


もし本当にそうなら。


母はどこまで未来を見ていたのだろう。


そして、何を恐れていたのだろう。


ルシアンは私の手元にあるペンダントを見つめた。


「君のお母さんが未来を見ていたとしても、それだけで今の僕たちの行動が決まるわけじゃない」


「……え?」


「運命の糸が道を示しても、その道を歩くかどうかを決めるのは僕たちだ」


その言葉に、私は思わず彼の顔を見た。


以前にも、同じようなことを言われた気がする。


運命だから好きになるのではない。


運命だから一緒にいるのでもない。


自分自身の意思で選ぶ。


それが、ルシアンの考えだった。


「だから、エレナ」


彼は静かに続けた。


「北へ行くのも、君自身が決めてほしい」


私は少しだけ考えた。


母のこと。


十年前の事件。


黒い糸。


そして、私とルシアンを繋ぐ金色の糸。


全部を知るためには、北へ行くしかない。


けれど、それだけではなかった。


私は母に会いたかった。


もし生きているのなら、この手で確かめたい。


もしもう会えないのなら、せめて母が残した想いだけでも知りたい。


そして何より――。


私はルシアンと一緒に、この謎の先へ進みたかった。


「行く」


私ははっきりと言った。


「私が行きたい」


ルシアンの目が少しだけ細くなる。


そして、優しく微笑んだ。


「分かった」


その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。


けれど、その直後。


「ただし、問題がある」


背後から低い声がした。


振り返る。


そこにはカイルが立っていた。


腕を組み、真剣な表情で私たちを見ている。


「北へ向かうなら、王都を出る必要があります」


「そうね」


「そして、今の状況では普通の旅人として移動するのは危険です」


カイルは机の上に一枚の地図を広げた。


「十年前の事件のあと、北部には王家が管理していない古い街道がいくつもあります」


彼が指を置いたのは、王都から北へ伸びる山道だった。


「この先に、古い城塞都市があります」


「城塞都市……?」


「ヴァルグレン」


その名前を聞いた瞬間だった。


私の視界が突然揺れた。


「……っ」


頭の奥に、知らない光景が流れ込んでくる。


雪。


真っ白な雪原。


崩れかけた石造りの城壁。


そして――。


「エレナ!」


誰かが私の名前を呼んでいる。


ルシアンの声だった。


けれど、私は答えられなかった。


目の前に、一人の女性が立っている。


長い髪。


見覚えのある瞳。


胸が締めつけられる。


「……お母さん?」


女性はこちらを振り返った。


その顔は、私が幼い頃に覚えていた母の顔と同じだった。


けれど、彼女は泣いていた。


「来てはいけない……」


唇が動く。


「エレナ、北へ来てはいけない」


「待って!」


手を伸ばす。


けれど、その姿は雪の中へ消えていく。


その瞬間。


黒い糸が現れた。


何本も。


まるで巨大な蜘蛛の巣のように、白い雪景色を覆っていく。


そして、その中央に立っていたのは――。


見知らぬ人物だった。


顔は見えない。


けれど、その人物がこちらへ手を伸ばす。


「やっと……見つけた」


そこで視界が途切れた。


「エレナ!」


私は大きく息を吸った。


目の前には、心配そうなルシアンがいた。


「大丈夫?」


「……うん」


額に手を当てる。


まだ頭が重い。


「何が見えた?」


私は震える声で答えた。


「お母さん……」


ルシアンの表情が変わる。


「君のお母さんが?」


「北にいた」


私はペンダントを握りしめた。


「でも……私に、来てはいけないって言った」


カイルが険しい顔になる。


「それは予知ですか?」


「分からない……」


私は首を振った。


「ただの記憶なのかもしれない。未来なのかもしれない。でも……」


私は窓の外を見る。


青い糸は、まだ北へ伸びていた。


そして、もう一つ。


私とルシアンを繋ぐ金色の糸の隣に、黒い糸が絡みついている。


以前よりもはっきりと。


以前よりも近く。


「私たちが北へ行くことを、誰かが待っている」


ルシアンは黙って黒い糸を見つめた。


「……僕もそう思う」


「怖くないの?」


思わず尋ねる。


ルシアンは少しだけ考えてから答えた。


「怖いよ」


意外な答えだった。


「僕だって、君を危険な目に遭わせたくない」


「だったら……」


「それでも行く」


彼は私の目をまっすぐ見た。


「君のお母さんが何を残したのか知りたい。それに、十年前に僕を襲った者たちが何を企んでいるのかも知る必要がある」


そして、少しだけ声を落とした。


「何より、もう逃げ続けるのは終わりにしたい」


その言葉には、十年間の苦しみが込められているように聞こえた。


私はそっと彼の手に触れた。


ルシアンが驚いたように目を見開く。


「一人で逃げなくていいよ」


私は言った。


「今度は、私も一緒に行く」


しばらくの沈黙。


やがて、ルシアンは私の手を優しく握り返した。


「……ありがとう」


その声は、とても小さかった。


けれど、確かに聞こえた。


その瞬間。


金色の糸が強く輝いた。


そして、その光の中に一瞬だけ青い糸が重なる。


二つの糸は北へ向かって伸びていく。


まるで、私たちを導くように。


「出発は明朝にしましょう」


カイルが言った。


「王都から北へ向かうなら、最低でも数日はかかります。準備も必要です」


「分かった」


私は頷いた。


けれど、その夜。


眠る前に、もう一度だけ母のペンダントを見た。


青い石は静かに輝いている。


その光を見つめながら、私は思った。


お母さん。


あなたは今、どこにいるの?


どうして私を残したの?


そして――。


どうしてルシアンを助けたの?


答えを知るために、私は北へ向かう。


たとえ、そこに何が待っていたとしても。


運命に従うためではない。


私自身の意思で。


その夜、窓の外では雪が降り始めていた。


まだ季節には早いはずの、冷たい雪だった。

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