結・一
「……誰だ」
その二文字が、滝の轟音よりも大きく、小蘭の耳に落ちた。
小蘭は、志揚の顔を挟んだ両手を、離さなかった。離せば、この温かさまで、泡になって消えてしまうような気がした。志揚の目は、小蘭を見ている。だが、その目の奥に、小蘭を映すものが、何もなかった。知らない女を見る目だった。
「……あたしは」
声は、出なかった。七日間、呼び続けた喉は、もう、音を作れなかった。小蘭は、口だけを動かした。
小蘭。
志揚は、その口の動きを、じっと見ていた。それから、身体を起こそうとして、顔をしかめた。
「……ここは、どこだ。俺は、何を――」
志揚は、自分の両手を見た。掌を、裏を、指の一本一本を。まるで、初めて見る手のように。それから、自分にかけられた衣を見た。濡れて、冷たい衣を。
「これは、俺のか」
小蘭は、頷いた。
「……そうか」
志揚は、衣を、両手で握った。何かを、確かめるように。だが、その顔に、何も浮かばなかった。
崖の上から、灯りが下りてきた。清嵐だった。少年は、岸まで駆け下りてきて、横たわる志揚と、その傍らの小蘭を見た。そして、小蘭の顔を見て、すべてを察した。
「……戻られたのですね」
小蘭は、頷いた。清嵐は、志揚の方を向いた。
「志揚さん。お身体は」
志揚は、清嵐を見た。その目は、小蘭を見たときと同じだった。知らない者を見る目。
「……志揚、というのは、俺のことか」
清嵐の顔が、強張った。少年は、小蘭を見た。小蘭は、目を伏せた。
「玄真様は」
小蘭は、掠れた音で、辛うじて、それだけ言った。
「崖の上に。お呼びします」
清嵐は、走っていった。滝壺の岸には、また、小蘭と志揚だけが、残された。志揚は、衣を握ったまま、水面を見ていた。
「俺は、この水から、出てきたのか」
「……そう」
「泡だった。それは、覚えてる。泡で、ばらばらで、それが、集まって――」
志揚は、言葉を切った。
「――誰かが、呼んでた」
小蘭は、息を止めた。
「誰かが、俺の名前を、呼んでた。ずっと。声が枯れても、呼んでた」
志揚は、小蘭を見た。
「あれは、お前か」
小蘭は、頷いた。涙が、ようやく、出た。七日間、出なかった涙が、今、出た。止まらなかった。志揚の顔を挟んだ手を離して、自分の顔を覆おうとしたが、手が、動かなかった。七日間、衣を抱き続けた腕は、もう、自分の意志では動かなかった。志揚は、その涙を見て、少し、困ったような顔をした。
「……悪い。泣かせる気は、なかった」
その言い方が、あまりにも、志揚だったので、小蘭は、泣きながら、笑った。
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玄真は、志揚の身体を、一刻近くかけて、調べた。
白霧観の堂に戻り、灯明の下で、老道士は、志揚の手を取り、脈を診、目を覗き込み、水盥に志揚の血を一滴落として、その広がり方を、長いあいだ、見ていた。志揚は、されるがままだった。何が起きているのか、分かっていないようだった。
「……身体は、完全だ」
玄真は、言った。
「揺らぎがない。以前よりも、むしろ、定まっておる。血の広がりも、太い。縁が、太くなっておる」
「太く……?」
小蘭は、聞き返した。七日前、志揚の縁は、痩せ切っていたはずだった。それが、なぜ。
「本体に、何かがあったのだろう。都で。あの者の本体が、この者を、縁者として遇するようになった――そうとしか、思えぬ」
志明。小蘭は、その名を、胸の中で呟いた。あの冷たい宦官が。志揚を道具として使い潰した男が。何が、あったのか。
「だが」
玄真は、志揚の顔を見た。
「記憶は、沈んだままだ。身体は戻った。心も、戻った。だが、その心が抱えていたものが、拾い上げられておらぬ。名も、来し方も、お前のことも」
「戻るのですか」
「分からぬ」
玄真は、正直に言った。
「縁が太れば、沈んだものは、浮かぶかもしれぬ。だが、浮かぶかどうかは、この者が、自分で決めることだ。わしにも、お前にも、引き上げることはできぬ」
志揚は、その言葉を、黙って聞いていた。それから、口を開いた。
「爺さん。一つ、聞いていいか」
「何だ」
「俺は、何なんだ。影身、というのは、聞いた。誰かの影だ、というのも。だが、誰の影だ。俺の本体ってのは、誰なんだ」
玄真は、小蘭を見た。小蘭は、頷いた。
「張志明。都の宦官だ」
「宦官」
志揚は、その言葉を、繰り返した。
「……それで、俺は、その宦官の影で。その宦官のために、何をやってた」
「それは――」
小蘭は、言葉に詰まった。暗殺。処分。志明の手を汚さぬための、宮廷の暗部の始末。それを、この、何も知らない顔の志揚に、言うのか。
「あとで、話す。全部。約束したから」
「約束」
「そう。あんたが、忘れても、あたしが全部覚えてて、教えるって。あんたが、あたしに、頼んだの」
志揚は、小蘭の顔を、しばらく見ていた。それから、頷いた。
「……そうか。俺が、頼んだのか」
その声は、どこか、他人事のようだった。
堂を出ると、三人の老道士が、廊に立っていた。玄斉、玄琳、そして玄澄。志揚は、三人を見た。三人は、志揚を見た。誰も、何も言わなかった。やがて、玄澄が、一歩、前に出た。背の高い老道士は、志揚の前で、深く、頭を下げた。
志揚は、戸惑った顔で、小蘭を見た。
「……この爺さんは、誰だ。なんで、俺に頭を下げてる」
小蘭は、少し考えてから、答えた。
「あんたを、兵に渡そうとした人。そのあと、七日、あんたのために、祈ってた人」
志揚は、玄澄を見た。頭を下げたままの、老いた道士を。
「……渡そうとして、祈ったのか。忙しい爺さんだな」
玄澄の肩が、微かに、震えた。泣いているのだと、小蘭は分かった。志揚は、それには気づかず、玄澄の肩を、軽く叩いた。
「顔を上げろよ。俺は、あんたを知らない。だから、恨みようがない」
その言葉は、志揚が知らずに言った、最も残酷で、最も優しい言葉だった。玄澄は、顔を上げた。そして、それ以来、志揚の食事は、玄澄が運んでくるようになった。老道士は、一言も口をきかなかった。ただ、椀を置き、頭を下げ、去っていく。志揚は、それを、不思議そうに見ていた。
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それから、小蘭は、教え始めた。
白霧観の、二人に与えられた小さな部屋で。あるいは、影池のほとりで。あるいは、堂の裏の、霧の中で。小蘭は、志揚に、志揚のことを、話した。
都の後宮。張志明という宦官。その影として作られたこと。志明の代わりに、宮廷の暗部を始末していたこと。何度も身代わりに死んで、そのたびに泡になって、蘇ってきたこと。そして、ある夜、回廊で、小蘭と会ったこと。
「あんたが、先に言ったの。『お前、誰かの代わりに歩いてるだろう』って」
「……俺が」
「そう。それで、あたしたち、月に何度か、廃れた楼閣で会うようになった。あんたは、欄干に座って、足をぶらぶらさせてた。いつも」
志揚は、話を聞きながら、時折、自分の足を見た。まるで、その足が、勝手に欄干に座ったことがあるのかどうかを、確かめるように。
志明のために何をしていたか、についても、小蘭は、隠さずに話した。約束だったから。
「暗殺、と、処分。志明様が、表立って手を下せない相手を、あんたが、始末してた」
志揚は、しばらく、黙っていた。それから、言った。
「……俺は、人を殺してたのか」
「殺さずに済む相手は、殺さなかった、って、あんたは言ってた。志明様には、言わなかったけど、あたしには、言った」
「その男の話だろ」
志揚は、自分の手を見た。粥の椀を受け止めた手を。
「俺は、この手で、誰かを殺した覚えはない。覚えがないのに、殺してたと言われても、何を思えばいいのか、分からない」
小蘭は、答えられなかった。志揚は、それ以上、その話を聞きたがらなかった。
ある日、清嵐が、志揚に尋ねられた。
「あいつは、本当に、七日、呼び続けたのか」
「はい」
「声が、枯れるまで」
「はい。七日目には、もう、声が出ていませんでした。それでも、口を、動かしていました」
志揚は、しばらく、何も言わなかった。それから、小さく、言った。
「……そうか」
清嵐は、あとで、そのことを小蘭に話した。小蘭は、何も言わなかった。志揚が、それを聞いてどう思ったのか、尋ねる気にはなれなかった。尋ねれば、志揚は、また、その男の話だろ、と言うような気がした。
小蘭は、話し続けた。志揚が龍玄に見つかったこと。志明に切り捨てられたこと。古井戸小屋。城門。志明との対峙。そして、逃避行。
志揚は、黙って聞いていた。相槌を打つこともあった。頷くこともあった。だが、その顔に、何かが浮かぶことは、なかった。話を聞いている顔だった。自分の話ではなく、誰かの話を聞いている顔だった。
それでも、小蘭は、話し続けた。約束だったから。
身体は、確かに、志揚だった。
ある朝、清嵐が運んできた粥の椀が、卓の縁から落ちた。誰も気づかぬうちに、志揚の手が、それを受け止めていた。床に落ちる前に。粥を、一滴もこぼさずに。志揚は、自分の手の中の椀を見て、少し、驚いた顔をした。
「……今の、俺か」
「そう。あんたは、いつも、そうだった」
あるいは、霧の中を歩いているとき。志揚の足は、迷わなかった。小蘭が、霧に方角を失って立ち止まっても、志揚は、道観への道を、正確に戻ることができた。
「なんで、分かるんだ」
「分からない。でも、あんたは、昔から、そうだった」
あるいは、夜。小蘭が、何かの拍子に笑ったとき。志揚は、一瞬、息を止めた。そして、自分が息を止めたことに、戸惑った顔をした。
「……なんだ、今の」
「なにが」
「お前が笑うと、なんか、変だ。息が、止まる」
小蘭は、その言葉に、何も答えられなかった。答えれば、泣いてしまいそうだった。
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異変は、十日ほど経った頃から、始まった。
志揚が、小蘭の話を、聞かなくなったのだ。
小蘭は、気づいていた。気づいていて、話し続けた。約束だったから。志揚が頼んだことだったから。忘れたら、全部教えてくれ、と。焚き火の前で。影池のほとりで。水路の闇の中で。何度も、頼まれた。それを、果たさなければならなかった。
だが、頼んだのは、前の志揚だった。今の志揚は、頼んでいなかった。そのことに、小蘭は、気づかないふりをしていた。気づけば、約束が、崩れてしまうような気がしたからだ。
最初は、些細なことだった。小蘭が渡青の話をしているとき、志揚が、ふと、窓の外を見ていた。次は、焚き火の夜の話をしているとき、志揚が、途中で「もういい」と言った。そして、ある夜。
「なあ」
志揚は、寝台の縁に座ったまま、小蘭を見ずに言った。
「その志揚ってのは、俺なのか」
「……あんたよ」
「違う」
志揚は、はっきりと言った。
「お前が話してる志揚は、お前を好きで、お前のために走って、お前のために消えた男だ。俺は、その男を知らない。俺は、そいつじゃない」
「志揚――」
「俺は、この身体に入ってから、まだ、ふた月も経ってない。お前が話す男は、俺の前に、この身体にいた男だ。俺は、その男の代わりを、やらされてる」
小蘭は、息を呑んだ。
「お前は、俺を見てない。俺の前にいた男を見てる。俺が椀を受け止めると、あいつもそうだった、と言う。俺が道を覚えていると、あいつもそうだった、と言う。俺が――お前が笑って、息が止まると、お前は泣きそうな顔をする。あいつのことを、思い出してるからだ」
志揚は、ようやく、小蘭の方を向いた。その目には、怒りではなく、疲れがあった。
「俺は、お前が失くした男の、代わりじゃない」
小蘭は、何も言えなかった。
代わり。
その言葉が、胸の奥で、鳴った。誰かの代わり。誰かの代わりに歩き、誰かの代わりに笑い、誰かの代わりに生きること。それが、どれほど、自分を失くすことか。小蘭は、それを、誰よりも知っていたはずだった。黎利の影として、十数年、鏡の中に自分の顔を探し続けた自分が。
そして今、自分は、志揚に、それをさせていた。
失くした志揚の代わりを。
小蘭は、立ち上がった。志揚が、何か言おうとした。だが、小蘭は、部屋を出た。霧の中を、影池まで、歩いた。黒い水面の前に、膝をついた。
水面に、自分の顔が映っていた。黎利の顔。自分の顔。もう、どちらでもよかった。
「……あたしは」
声が、出た。枯れた声だったが、出た。
「あたしは、黎利様と、同じことをしてた」
背後に、足音がした。振り向くと、玄真が、杖をついて、立っていた。
「……聞いておられましたか」
「聞いておらぬ。だが、お前の顔を見れば、分かる」
老道士は、小蘭の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
「あの者は、何と言った」
「自分は、あたしが失くした男の、代わりじゃない、と」
「そうか」
玄真は、水面を見た。
「正しいな」
小蘭は、玄真を見た。老道士は、水面から目を離さなかった。
「お前は、あの者に、沈んだものを教えようとした。約束だったから、教えた。だが、教えるということは、押し付けるということでもある。お前がどれほど大事に教えても、あの者にとっては、知らぬ男の来し方を、着せられるようなものだ」
「……では、どうすれば」
「教えるのを、やめてみよ」
玄真は、言った。
「あの者が、志揚であるかどうかは、お前が決めることではない。あの者が、決めることだ。沈んだものが浮かぶかどうかも、あの者が、決めることだ。お前にできるのは、あの者が、何を選ぶかを、見ていることだけだ」
「見ているだけ……」
「わしが、お前たちに言ったことを、覚えておるか。お前たちが何者かは、作られた理由ではなく、これから選ぶことで決まる、と。あの者は今、何も知らぬまま、選ぶ場所に立っておる。何を選ぶか、わしにも分からぬ。お前を選ばぬかもしれぬ。だが――」
玄真は、ようやく、小蘭を見た。
「お前が、志揚の代わりを、あの者に求め続ける限り、あの者は、何も選べぬ。代わりを演じるだけになる。お前が、一番よく知っておることだろう」
小蘭は、水面に映る自分の顔を、見た。
黎利の顔。仮病を使い、面倒を押し付け、けれど道具だとは思わなかった、と桂嬢なら言うだろう、あの妃の顔。黎利は、小蘭を、小蘭として見ていたのだろうか。それとも、自分の代わりとして見ていたのだろうか。小蘭は、それを、確かめたことがなかった。確かめるのが、怖かったからだ。
そして今、自分は、志揚に、同じことをしていた。志揚を、志揚として見ていたのか。それとも、失くした志揚の代わりとして見ていたのか。志揚は、はっきりと、後者だと言った。
水面の顔は、何も答えなかった。
長いあいだ、見ていた。
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その夜、小蘭は、影池のほとりで、夜を明かした。
霧が、水面を這っていた。小蘭は、志揚の衣を――七日間、抱き続けたあの衣を――膝の上に置いて、考えていた。志揚が、この衣を、自分の衣だと分かっていなかったこと。空の竹の管を、志揚が、もう、何のものか知らないこと。それらは、全部、前の志揚のものだった。今の志揚には、何の意味もない。
小蘭は、竹の管を、手に取った。渡青の渡し場で、老道士がくれたもの。志揚が、空になっても、捨てなかったもの。
これを、志揚に返すべきか。小蘭は、考えた。返せば、また、前の志揚の話になる。返さなければ、これは、小蘭のものになる。前の志揚が残した、唯一のもの。
小蘭は、竹の管を、懐にしまった。
これは、自分が持っていよう。志揚が、いつか、自分から尋ねる日まで。尋ねない日が来ても、それは、それでいい。
夜が、明けた。
翌朝、小蘭は、志揚の部屋の戸を叩いた。
志揚は、寝台の縁に座っていた。昨夜と、同じ姿勢で。眠っていないのだと、小蘭は分かった。志揚は、小蘭を見て、何か言おうとした。詫びの言葉だったかもしれない。だが、小蘭は、先に口を開いた。
「もう、教えない」
志揚は、目を見開いた。
「昨日まで話したこと、全部、忘れていい。あんたの前に、この身体にいた男のことも、その男があたしに何をしたかも、全部。思い出さなくていい」
「……お前」
「あたしは、あんたを、その男の代わりにしてた。それが、どれだけ嫌なことか、あたしは知ってた。知ってて、やってた。ごめん」
小蘭は、部屋の中に入った。志揚の前に、立った。
「だから、最初からにする。あたしは、小蘭。あんたは」
志揚は、しばらく、小蘭を見ていた。それから、少しだけ、口の端を上げた。
「……志揚、らしい。爺さんも、お前も、そう呼ぶから」
「じゃあ、志揚」
小蘭は、手を差し出した。
「よろしく」
志揚は、その手を見た。それから、自分の手を見た。粥の椀を受け止めた手。霧の中で道を覚えていた手。そして、その手を、小蘭の手に、重ねた。
「……よろしく」
その手は、温かかった。揺らいでいなかった。確かに、そこにあった。
それだけで、十分だった。
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それからの日々は、小蘭にとって、奇妙なものだった。
志揚は、志揚だった。飄々として、投げやりで、気安い。椀を受け止め、霧の中で道を覚え、小蘭が笑うと、息を止めた。だが、志揚は、小蘭を知らなかった。小蘭も、志揚を、知らないふりをした。ふりではなく、本当に、知らない男として、見ようとした。
それは、恋の、やり直しだった。
あるいは、恋の、最初からだった。
小蘭は、自分に、一つの決まりを課した。志揚が何かをしたとき、「前もそうだった」と、言わないこと。志揚が何かを尋ねたとき、前の志揚なら知っていたことでも、今の志揚が知らないなら、知らないままにしておくこと。前の志揚の話は、志揚が自分から尋ねたときだけ、答えること。
それは、思ったより、難しかった。
志揚が、霧の中で、迷わずに道を戻ったとき。小蘭は、喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。志揚が、清嵐の淹れた茶を一口飲んで「渋い」と顔をしかめたとき。小蘭は、渡青の食堂で同じ顔をしていたことを、言わなかった。志揚が、夜、寝返りを打って、小蘭の方に手を伸ばし、その手が小蘭の手に触れて、志揚自身が驚いて手を引っ込めたとき。小蘭は、何も言わなかった。ただ、志揚が引っ込めた手を、そのままにしておいた。
志揚は、少しずつ、変わっていった。いや、変わったのではない。志揚は、志揚になっていった。前の志揚の代わりではなく、今の志揚に。飄々とした口調は、同じだった。だが、その口調で言うことは、志揚が、自分で選んだことだった。
玄真は、それを、遠くから見ていた。何も言わなかった。ただ、一度だけ、小蘭とすれ違ったときに、呟いた。
「縁が、太っておる。都の縁だけではない」
「なあ」
ある日、影池のほとりで、志揚が言った。
「お前も、影身なんだって」
「そう」
「誰の」
「都の、妃の。李黎利という人」
「……そいつのために、何をやってた」
「仮病の代わり。公務も、茶会も、全部。黎利様は、怠け者だったから」
志揚は、少し、笑った。
「暗殺者の影と、仮病の影か。ずいぶん、格が違うな」
「格なんて、ないわよ」
「あるだろ。俺の方が、大変だ」
「あんたの本体の方が、ひどいだけよ」
志揚は、笑った。声を出して。小蘭は、その笑い声を、初めて聞くような気持ちで、聞いた。初めてではなかった。だが、初めてだった。
「……なんか、分かる気がする」
志揚は、水面を見ながら言った。
「お前が、影身だってこと。言われる前から、なんとなく、分かってた気がする。同じ匂いがする、っていうか」
小蘭は、息を止めた。回廊の夜。目が合った瞬間、互いに同じ境遇だと悟った、あの夜。志揚は、それを、覚えていない。だが、同じことを、言っている。
「……そうね」
小蘭は、それだけ言った。教えなかった。あんたは前にも、同じことを言った、とは。
教えないと、決めたから。
麓の村へ、食料を分けてもらいに下りた日のことだった。村の女が、二人を見て、夫婦かと尋ねた。小蘭は、答えに詰まった。志揚は、少し考えてから、「まだ、分からない」と答えた。女は笑ったが、小蘭は、笑えなかった。まだ分からない。それは、正直な答えだった。そして、正直な答えを、志揚が、自分で選んで口にしたことが、小蘭には、何よりも、嬉しかった。
帰り道、志揚が、山道を登りながら言った。
「なあ。俺たち、どこかに、戻る場所はあるのか」
「戻る場所」
「ここは、爺さんたちの観だ。ずっとは、いられない。都には、戻れない。だったら、どこへ行く」
小蘭は、少し、考えた。渡青。周老板の食堂。店の裏の、小さな部屋。だが、それを言えば、また、前の志揚の話になる。
「……分からない。でも、探せばいい。二人で」
「二人で、か」
志揚は、その言葉を、口の中で転がすように、繰り返した。
「悪くないな」
夜。二人は、部屋で、並んで座っていた。灯明の火が、揺れていた。志揚は、ふと、口を開いた。
「俺は、お前を知らない」
「知ってる」
「でも、お前が笑うと、息が止まる。なんでか、分からない」
志揚は、小蘭の方を向いた。
「分からないまま、お前の隣にいるのは、駄目か」
小蘭は、志揚の顔を見た。知らない男の顔。志揚の顔。どちらでも、よかった。
「駄目じゃない」
小蘭は、言った。
「分からなくていい。分からないまま、いてくれれば、いい」
志揚は、頷いた。それから、小蘭の肩に、頭をもたせかけた。前と、同じように。だが、志揚は、前を知らない。ただ、今、そうしたいと思ったから、そうした。
それだけで、十分だった。
その静けさを破ったのは、戸を叩く音だった。
「小蘭さん! 志揚さん!」
清嵐の声だった。少年は、戸を開けるなり、息を切らして言った。
「都から、人が来ます。護衛を連れた、女の人が。玄真様が、お二人に、来るように、と」
「女の人……?」
「はい。それが――」
清嵐は、小蘭の顔を見て、言葉に詰まった。それから、ようやく、言った。
「――小蘭さんと、同じ顔を、しています」
小蘭は、立ち上がった。志揚が、その顔を見た。小蘭の顔から、血の気が引いていた。
「……誰だ」
志揚が、尋ねた。小蘭は、しばらく、答えられなかった。それから、言った。
「あたしの、本体」
志揚は、その言葉の意味を、理解するのに、少し時間がかかった。それから、立ち上がった。
「行こう」
「あんたは、来なくていい。あたしの話だから」
「お前の話は、俺の話だろ」
志揚は、当たり前のように言った。
「二人で探す、って言ったのは、お前だ」
小蘭は、志揚を見た。知らない男の顔。志揚の顔。その顔が、今、はっきりと、小蘭を見ていた。前の志揚ではなく、今の志揚として。
「……そうね」
二人は、霧の中へ、出た。




