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転・四



 最初に動いたのは、志揚だった。


 賀琮が剣を構えた、その一瞬の間に、志揚は、足元の滝壺の水を蹴り上げていた。飛沫が、霧に混じって、賀琮の視界を塞ぐ。志揚は、その隙に、小蘭の手を引いて、右の霧の中へ、走った。


 三歩。志揚の言った通りだった。三歩で、背後の人影は、霧に呑まれて見えなくなった。だが、それは、こちらの姿も、向こうから見えなくなったというだけのことで、足音までは、消せない。


「追え! 滝壺の右だ!」


 賀琮の声が、霧を裂いた。


 二人は、走った。霧の中、足元も見えぬ岩場を、手を繋いだまま、走った。何度も転びかけ、そのたびに、互いの手が、互いを引き上げた。志揚の手は、揺らいでいた。走るたびに、その揺らぎは、ひどくなっていく。小蘭は、それを、見ないようにした。見れば、足が止まると、分かっていたからだ。


 背後の足音が、一つ、近づいてきた。霧の中でも、獲物を追える者の足音だった。小蘭が振り向くより早く、志揚が、小蘭の手を離した。


「先に行け」


「志揚――」


「三歩だ。三歩、先に」


 小蘭は、走った。三歩。振り返った。霧の中で、人影が二つ、重なって、離れた。一つが、岩の上に崩れ落ちた。もう一つが、小蘭の方へ、走ってきた。志揚だった。その手には、兵から奪った短剣が握られていた。


「……殺したの」


「殺してない。眠らせただけだ」


 志揚は、短剣を、川へ投げ捨てた。


「宮廷でも、殺さずに済む相手は、殺さなかった。志明様には、言わなかったけどな」


 その言葉に、小蘭は、走りながら、少しだけ、笑った。笑えたことに、自分で驚いた。志揚も、笑っていた。揺らぐ顔で、それでも、笑っていた。


 やがて、霧が、僅かに薄れた。


 岩場が、途切れている。目の前に、谷が開けていた。切り立った崖の下を、川が流れている。滝壺から流れ出した水が、谷を削って、下流へと向かっているのだった。崖には、細い道が、蛇のように、下へと続いていた。


「下りるぞ」


「待って、志揚、あんたの身体――」


「大丈夫だ」


 志揚は、そう言って、崖の道へ、足を踏み出した。小蘭は、続いた。


 だが、崖の道を半分も下りぬうちに、頭上から、声が降ってきた。


「――そこだ!」


 見上げると、崖の上に、兵の姿があった。二人。三人。賀琮ではない。だが、その手には、弓が握られていた。


 矢が、風を切った。


 一本目は、小蘭の足元の岩に当たって、砕けた。二本目は、志揚の肩をかすめて、谷へ落ちた。志揚は、小蘭を、崖の側に押し付けた。


「動くな。岩に張り付いてろ」


「志揚――」


「三本目が来る前に、下りる。俺の後についてこい」


 志揚は、崖の道を、駆け下りた。小蘭は、必死で、その背中を追った。矢が、次々と、頭上から降ってくる。だが、霧のせいか、あるいは志揚の走り方のせいか、矢は、二人を捉えられなかった。


 道の途中で、小蘭の足が、滑った。身体が、谷の方へ、傾いだ。志揚の手が、その腕を、掴んだ。掴んだ、はずだった。だが、その手は、小蘭の腕を、すり抜けた。水のように。小蘭は、岩の縁に、辛うじて、しがみついた。志揚が、もう一度、手を伸ばした。今度は、掴めた。志揚は、歯を食いしばって、小蘭を、道の上に引き上げた。


「……今の」


「言うな。行け」


 志揚の顔は、蒼白だった。自分の手が、小蘭をすり抜けたことを、志揚自身が、一番、分かっていた。


 崖の道が、川岸に達したとき、二人は、ようやく、崖の陰に入った。頭上の兵からは、見えない。小蘭は、岩に手をついて、荒い息を吐いた。


「……志揚。志揚、あんた」


 志揚は、答えなかった。


 小蘭は、顔を上げた。


 志揚は、立っていた。だが、その身体は、もう、身体と呼べるものではなくなりかけていた。肩から下が、川の水面のように、揺らいでいる。腕は、あるのか、ないのか、分からない。顔だけが、辛うじて、志揚の顔をしていた。


「……走りすぎたな」


 志揚は、笑った。その声も、水の中から聞こえるように、くぐもっていた。


「小蘭。ここから、下流へ行け。川沿いに、歩けば、いつか人里に出る」


「嫌よ」


「俺は、もう、そう保たない。次に消えたら――」


「言わないで!」


 小蘭は、志揚の胸に、しがみついた。揺らぐ身体は、しがみつく手を、まるで水のように、すり抜けそうになる。それでも、小蘭は、離さなかった。


「消えても、戻ってくるでしょ。玄真様が言ってた。縁が、あんたを引き戻す。あたしが、あんたを呼び続ける。だから――」


「小蘭」


 志揚の手が、小蘭の頬に触れた。触れた、と思った。だが、その感触は、もう、ほとんどなかった。霧に触れているのと、変わらなかった。


「俺は、お前を、覚えてる。今は、まだ、覚えてる。それだけは、言っておく」


 そのとき、崖の道の上から、足音が聞こえた。一つ。速い。迷いのない足音だった。


 賀琮が、崖の道を、下りてきていた。


---


 賀琮は、川岸に立つ二人を見て、足を止めた。


 志揚の身体を見た。もう、身体とは言えぬものになりかけている、その姿を。賀琮の顔に、初めて、焦りに似たものが浮かんだ。


「……消えかけているのか」


 賀琮は、剣を下ろした。


「まずい。生きたまま、連れ帰らねば、証にならぬ。おい、影身。動くな。動けば、消えるぞ」


「知ってる」


 志揚は、笑った。そして、小蘭を、自分の背後に押しやった。


「だから、動く」


 志揚は、賀琮に向かって、走った。


 揺らぐ身体で、それでも、暗殺者として鍛えられた足で、まっすぐに、賀琮へ。賀琮は、反射的に、剣を構えた。それは、志揚を斬るための構えではなかった。捕らえるための構えだった。だが、志揚は、その剣の切っ先に、自分から、身体を投げ出した。


 剣が、志揚の胸を貫いた。


 いや――貫いた、というのは、正しくない。剣は、志揚の胸を、水を切るように、通り抜けたのだった。手応えは、なかった。賀琮は、自分の剣の先を見た。そこに、血は、ついていなかった。


 志揚の身体が、泡になった。


 胸から。腕から。足から。志揚の輪郭が、細かい泡に変わり、ほどけ、霧の中に、溶けていく。それは、小蘭が、これまで見たどの揺らぎとも、違っていた。揺らぎではない。消えていくのだった。本当に。目の前で。


「志揚――!」


 小蘭は、駆け寄った。泡になっていく志揚の身体に、手を伸ばした。その手は、泡を掴んだ。泡は、手の中で、弾けた。冷たかった。ただ、冷たかった。


 志揚の顔が、最後に残った。


 その顔は、小蘭を見ていた。笑っていた。口が、動いた。声は、もう、出なかった。だが、小蘭には、分かった。


 ――覚えてる。


 それから、志揚の顔も、泡になった。


 小蘭の腕の中に、志揚の着ていた衣だけが、濡れて、落ちた。


 霧の中に、志揚だった泡が、一つ、また一つと、弾けて、消えていった。


 賀琮は、剣を手にしたまま、立ち尽くしていた。その顔には、もう、焦りも、高揚もなかった。ただ、自分の目で見たものを、信じきれずにいる者の顔があった。


「……消えた」


 賀琮は、呟いた。


「証が、消えた」


 小蘭は、志揚の衣を、抱き締めた。声は、出なかった。涙も、出なかった。ただ、腕の中の衣が、冷たく、濡れていることだけを、感じていた。


 衣の懐から、何かが、こぼれ落ちた。小蘭は、それを拾った。空の、竹の管だった。渡青の渡し場で、老道士がくれたもの。志揚は、空になっても、それを、捨てずに持っていた。


 小蘭は、竹の管を、握り締めた。それから、志揚の衣に、顔を埋めた。志揚の匂いが、まだ、そこにあった。泡になっても、匂いだけは、消えなかった。


 その沈黙を破ったのは、崖の上からの、新たな足音だった。


 兵ではなかった。一人の男が、崖の道を、転がるように駆け下りてくる。旅装の、汗にまみれた男だった。男は、賀琮の前で膝をつき、懐から、一通の文を取り出した。


「賀琮殿。都の、張志明様より、火急の――」


 賀琮は、文を受け取った。封を切り、目を通す。その顔が、読み進めるうちに、変わっていった。驚きから、苦渋へ。苦渋から、諦めへ。


 文は、短かった。


 ――御影司の記録は、すでに帝の御前にある。太后宮に連なる方々の名も、そこに並んでいる。貴殿の主の名も。影身を証として持ち帰っても、それは、貴殿の主自身を断罪する証となるだけだ。賢明な選択を。


 賀琮は、文を、ゆっくりと畳んだ。


 それから、川岸で衣を抱き締める小蘭を見た。李黎利と同じ顔。妃の影。太后は、それも連れて来いと言った。だが――。


 賀琮は、自分の主の顔を思い浮かべた。太后宮の高官。その男もまた、影を持っていた。賀琮は、それを知っていた。知っていて、見ぬふりをしてきた。主が影に押し付けた務めの、いくつかは、賀琮自身が、影に命じて、やらせたものだった。


 御影司の記録が、帝の御前にある。ならば、影身を持ち帰れば、それは、主を断罪する証になる。主が断罪されれば、賀琮も、無事では済まない。


 賀琮は、もう一度、小蘭を見た。妃の影。消えた影の衣を抱いて、動かない娘。この娘を連れ帰って、何になる。証は、もう、泡になった。


 この娘を連れ帰れば、太后は、妃を断罪するだろう。だが、妃が断罪されれば、妃は、記録を盾に、太后宮の高官たちを、道連れにするだろう。志明の文は、そう告げていた。賢明な選択を。宦官の言葉は、いつも、こうだ。剣を抜かずに、人を動かす。


 賀琮は、剣を、鞘に納めた。


「……妖術の証は、消えた。妃の影は、見つからなかった」


 賀琮は、誰に言うでもなく、そう言った。使いの男が、怪訝そうに顔を上げる。賀琮は、その男に、文を返した。


「志明様に、伝えろ。賀琮は、証を持ち帰れなかった、と。それだけだ」


 賀琮は、踵を返した。崖の道を、登っていく。その背中は、来たときよりも、いくらか、小さく見えた。


 使いの男は、しばらく、小蘭を見ていた。何か言おうとして、言えず、結局、何も言わずに、賀琮の後を追った。


 川岸には、小蘭だけが、残された。


---


 小蘭が、どれほどの間、そこに座っていたのか、自分でも分からなかった。


 霧が、晴れた。日が、傾いた。谷に、夕暮れが降りた。小蘭は、志揚の衣を抱いたまま、動かなかった。


 やがて、崖の道を、また、誰かが下りてきた。小蘭は、顔を上げなかった。誰であっても、もう、どうでもよかった。


「小蘭さん」


 清嵐の声だった。


 少年は、頭に布を巻いていた。賀琮に殴られた傷だろう。その手には、小さな包みと、水筒が握られていた。清嵐は、小蘭の前に膝をつき、しばらく、何も言わなかった。志揚の衣を見て、すべてを、察したようだった。


「……師から、言伝があります」


 清嵐は、静かに言った。


「志揚さんは、消えても、戻る。戻るために、縁が要る。本体との縁は、もう、痩せている。だから、今、志揚さんを引き戻せる縁があるとすれば、それは――小蘭さんとの縁だけだ、と」


 小蘭は、ようやく、顔を上げた。


「あたしとの、縁」


「はい。本体ではない者との縁で、影身が戻るのを、師は見たことがないと言っていました。でも、他に、道はない、と。だから――」


 清嵐は、小蘭の手に、水筒を握らせた。


「呼び続けてください。志揚さんの名を。志揚さんが選んだことを。志揚さんが、忘れないでいてほしいと言ったことを。全部。何日でも。師は、それしか、言えないと」


 小蘭は、清嵐の顔を見た。それから、腕の中の衣を見た。


「……道観は、どうなったの」


「兵は、去りました。観主は、無事です。玄斉様と玄琳様も。玄澄様は――」


 清嵐は、言葉を選ぶように、少し、間を置いた。


「祠の前に、座り込んだままです。師が、二人が生きて山を下りるまで祈れ、と仰ったので、その通りに、祈っておられます。もう、一日以上、動いていません」


 小蘭は、その男の顔を、思い出そうとした。冷たい理屈の目をした、背の高い老道士。自分たちを渡すと言った男。その男が、今、自分たちのために、祈っている。


「……祈らせておいて」


 小蘭は、言った。


「あたしも、祈るから」


「……分かった」


 小蘭は、言った。


「呼び続ける」


 清嵐は、包みを小蘭の隣に置くと、立ち上がった。


「滝壺の岸に、小さな岩屋があります。雨は、しのげます。私は、明日、また来ます」


 少年は、崖の道を、登っていった。小蘭は、その背中を見送ってから、志揚の衣を抱いて、立ち上がった。滝壺へ。志揚が、最後に、自分の意志で、走った場所へ。


---


 都では、李黎利が、太后宮の前に、立っていた。


 約束の刻限だった。黎利は、一人ではなかった。その隣に、張志明が、立っていた。宦官は、いつもと変わらぬ慇懃な物腰で、けれど、その手には、一巻の綴じ本を、抱えていた。


 夜明け前、志明は、青梅宮を訪ねていた。宦官が、妃の宮を、夜明け前に訪ねる。それ自体が、宮中の作法では、あり得ぬことだった。だが、志明は、来た。そして、黎利の前に、御影司の記録を、置いた。


「帝は、昨夜、これをご覧になりました」


「何と、仰せに」


「何も」


 志明は、言った。


「ただ、長く、ご覧になっておられました。それから、太后宮には、私と妃殿下で参れ、と」


「……それは、どういう」


「帝ご自身が、太后宮を裁くことは、なさらぬ、ということでございましょう。母君のことは、母君の前で、決着せよと」


 黎利は、記録を見た。それから、志明を見た。


「志明様。あなたは、この記録を、私に託したとき、こうなることを、見越しておられたのですか」


「いいえ」


 志明は、静かに言った。


「私は、ただ、私の手元に置いておけば、私が、燃やしてしまうと思っただけでございます。燃やしてはならぬと、誰かに、止めてほしかったのかもしれません」


 太后宮の門が、開いた。


 美玲は、昨日と同じ席に座っていた。その背後に、龍玄が立っていた。美玲は、黎利の隣の志明を見て、微笑んだ。その微笑みは、昨日よりも、僅かに、硬かった。


「妃殿下。証言のご用意は」


「太后様」


 黎利は、言った。その声は、震えていなかった。


「私は、張志明様が妖術を用いたと、証言することはできません」


「そう」


 美玲の目が、細くなった。


「では、あなたの宮のことを、皇帝陛下に、お話しするしかないわね」


「その必要は、ございません」


 志明が、口を開いた。


「私が、すでに、お話し申し上げました。御影司の記録とともに。妃殿下の影のことも、私の影のことも、そして――」


 志明は、綴じ本を、卓の上に置いた。


「太后宮に連なる方々の影のことも、すべて」


 美玲の顔から、微笑みが、消えた。


 龍玄が、一歩、前に出た。その手が、腰の剣にかかる。だが、志明は、その動きを、見もしなかった。


「龍玄様。剣を抜かれるのは、ご自由です。ですが、帝は、すでに、この記録をご覧になっています。私の首を落としても、記録は消えません。太后宮の方々の名も、消えません」


 龍玄の手が、止まった。


 美玲は、長いあいだ、志明を見つめていた。それから、黎利を見た。怠け者の妃。仮病を使い、影に公務を押し付けていた、取るに足らぬ女。その女が、今、太后の前に、まっすぐに立っていた。


「……あなたは、いつから、そんな顔をするようになったのかしら」


 美玲は、呟くように言った。黎利は、答えなかった。答える必要は、なかった。


 太后宮からの帰り道、黎利は、志明に尋ねた。


「賀琮への文には、何を書かれたのですか」


「記録が、帝の御前にあることを」


「それだけですか」


 志明は、しばらく、黙っていた。それから、言った。


「それだけで、十分だと、判断いたしました」


 黎利は、志明の横顔を見た。宮廷随一の切れ者と呼ばれる男の顔は、相変わらず、何も語らなかった。だが、その足が、西へ向かう街道を、一瞬、見たのを、黎利は、見逃さなかった。


「……志揚は、無事でしょうか」


「分かりません」


 志明は、言った。


「私には、もう、分かりません。あの者との縁は、私が、痩せさせてしまいましたから」


 それは、黎利が初めて聞いた、志明の、悔いの言葉だった。


 青梅宮に戻ると、桂嬢が、待っていた。侍女頭は、黎利の顔を見て、何も尋ねず、ただ、茶を淹れた。黎利は、それを飲みながら、窓の外の、西の空を見た。


「桂嬢」


「はい」


「私は、小蘭に、何をしてあげられたのかしら」


 桂嬢は、少し、考えてから、答えた。


「妃殿下は、小蘭を、道具とは、思っておられませんでした。それだけは、この桂嬢が、見ておりました」


「……それだけで、十分だったのかしら」


「十分だったかどうかは、小蘭が、決めることでございましょう」


 黎利は、茶碗を置いた。それから、立ち上がった。


「桂嬢。旅の支度を。西へ行きます」


 侍女頭は、目を見開いた。だが、すぐに、頭を下げた。


「畏まりました」


 仮病の妃は、もう、どこにもいなかった。


---


 滝壺の岸の岩屋で、小蘭は、七日を過ごした。


 毎朝、清嵐が、食べ物を運んできた。小蘭は、それを口にし、それから、滝壺の岸に座って、志揚の衣を抱き、話し続けた。


 最初の日は、何を話せばいいのか、分からなかった。名前を呼ぶだけで、声が詰まった。二日目に、ようやく、話し始めた。


 城を出た夜のこと。志揚が、独りじゃなく、と言ったこと。渡青の食堂で、荷運びをしていたこと。周老板の顔。焚き火の前で、忘れられても覚えてる、と約束したこと。影池のほとりで、何を忘れても隣にいることだけは選び続ける、と言ったこと。水路の闇の中で、足首を、離さなかったこと。


 小蘭は、それを、何度も、繰り返した。声が枯れても、続けた。滝の轟音に、掻き消されても、続けた。誰も聞いていなくても、続けた。


 志揚が、聞いているかもしれないから。


 三日目の夜、雨が降った。岩屋の中で、小蘭は、志揚の衣を抱いて、眠れずに座っていた。雨音が、滝の音と混じって、何も聞こえなくなる。小蘭は、それでも、話した。志揚。あんたは、宮廷で、殺さずに済む相手は、殺さなかった。志明様には、言わなかった。あたしには、言った。あたしにだけ、言った。


 四日目の朝、清嵐ではなく、玄真が、崖の道を、下りてきた。


 老道士は、清嵐に支えられ、一歩ごとに息を切らしながら、それでも、滝壺の岸まで、辿り着いた。小蘭は、立ち上がって、玄真を迎えた。玄真は、小蘭の顔を見て、それから、水面を見た。


「……まだ、戻らぬか」


「はい」


「そうか」


 玄真は、岸の岩に、腰を下ろした。長い息を吐いてから、小蘭を見た。


「娘。一つ、言っておかねばならぬことがある。清嵐には、言わせなかった。わしの口から、言うべきことだからだ」


「……何ですか」


「志揚が、戻ったとして。その志揚が、お前を覚えているとは、限らぬ」


 小蘭は、息を止めた。玄真は、目を逸らさなかった。


「縁が痩せた影身が戻るとき、拾い上げられなかったものは、水の底に沈む。これまでは、渡青の主の名だった。旅の途中の、細かなことだった。だが、今度は、あの者は、胸を貫かれて消えた。これまでで、最も深く消えた。戻るとき、何が沈んだままになるか、わしにも分からぬ。お前のことが、沈んでおるかもしれぬ」


「……それでも」


 小蘭は、言った。声は、震えていた。だが、言葉は、揺らがなかった。


「それでも、戻ってきてほしい。あたしを忘れていても。あたしが、また、最初から教えます。あんたは志揚だって。あんたが、何を選んだかを。焚き火の前で、そう約束しました」


 玄真は、しばらく、小蘭を見ていた。それから、深く、頷いた。


「……そうか。ならば、呼び続けよ。わしも、経を上げる。それが、どれほどの役に立つかは、分からんがな」


 老道士は、岸に座ったまま、低く、経を唱え始めた。小蘭は、その隣で、志揚の名を、呼び続けた。清嵐は、二人の後ろに立ち、黙って、水面を見ていた。


 五日目の夜、滝壺の水面に、泡が、浮いた。


 小蘭は、息を呑んで、水面を見た。泡は、一つ、二つと、浮かんでは、弾けた。それだけだった。何も、起きなかった。小蘭は、それでも、話し続けた。


 その日、清嵐は、岩屋の前で、小蘭に、一つの話をした。


「師は、昔、一人の影身を、見送ったことがあると言っていました。渡青の老道士――師の弟弟子が、山を下りて、影身たちを探し歩くようになったのも、そのときからだと。師は、その影身を、引き戻せなかった。本体が、もう、死んでいたから」


「……本体が死んだら、影身は」


「縁が、切れます。二度と、戻りません。志揚さんの本体は、生きています。都で。だから、縁は、痩せていても、切れてはいない。師は、そこに、望みをかけています。そして、もう一つの縁に」


 清嵐は、小蘭を見た。


「小蘭さんとの、縁に」


 小蘭は、頷いた。それ以上、何も言わなかった。言葉は、志揚のために、取っておきたかった。


 六日目の夜、泡は、水面に、集まり始めた。


 弾けずに、寄り集まって、白い塊になっていく。小蘭は、岸に膝をつき、その塊に向かって、志揚の名を、呼び続けた。塊は、ゆっくりと、形を成していった。人の形に。だが、夜が明けると、それは、また、ほどけて、水面に散った。


 七日目の朝、清嵐は、来なかった。代わりに、崖の上から、老道士たちの経が、聞こえてきた。玄真の声。玄斉の声。玄琳の声。そして、もう一つ。玄澄の声だった。四人の老道士が、白霧観の崖の上で、経を上げていた。滝壺の岸まで、その声は、届いていた。


 七日目の夜、小蘭は、もう、声が出なかった。


 それでも、口を動かした。志揚。志揚。あんたが選んだこと、あたしが、全部、覚えてる。あんたは、城を出ることを選んだ。あたしと一緒に行くことを選んだ。何を忘れても、隣にいることを、選び続けると言った。だから――。


 水面が、盛り上がった。


 白い泡が、岸へ向かって、寄せてきた。泡は、岸の上で、人の形を成し、そして、形を成したまま、ほどけなかった。泡が、肌になった。泡が、髪になった。泡が、指になった。


 志揚が、そこに、横たわっていた。


 小蘭は、その身体に、志揚の衣をかけた。震える手で。それから、志揚の顔を、両手で挟んだ。温かかった。揺らいでいなかった。確かに、そこにあった。


 崖の上の経が、止んだ。老道士たちも、水面に起きたことを、見たのだろう。滝の轟音だけが、夜に残った。


 志揚の胸が、上下していた。息をしている。小蘭は、その胸に、耳を当てた。鼓動が、聞こえた。宮廷で、渡青で、旅の夜々で、何度も聞いた鼓動だった。同じ鼓動だった。同じ、はずだった。


「志揚」


 声にならない声で、小蘭は、呼んだ。


 志揚の目が、開いた。


 その目は、しばらく、夜空を見ていた。それから、ゆっくりと、小蘭の方へ、向けられた。


 小蘭は、待った。あの飄々とした笑みを。あの、投げやりで、気安い声を。覚えてる、という言葉を。


 志揚は、小蘭の顔を、じっと見た。


 そして、言った。


「……誰だ」

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