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転・三



 玄真が二人を連れて向かったのは、堂宇の最も奥、これまで一度も足を踏み入れたことのない、古い祠だった。


 祠の中には、三人の老道士がいた。玄真ほどではないが、いずれも齢七十を超えているだろう。彼らは、小蘭と志揚の姿を見るなり、明らかに表情を強張らせた。清嵐が言っていた、恐れるのではなく詫びるべき相手――その言葉を、この三人が、玄真と同じように受け止めているとは、とても思えなかった。


「玄澄。玄斉。玄琳」


 玄真は、三人の名を呼んだ。


「兵が来る。太后宮の兵だ。この二人を、引き渡せと言うだろう」


「では、引き渡せばよい」


 最初に口を開いたのは、玄澄と呼ばれた男だった。三人の中で最も背が高く、その目には、玄真の静けさとは違う、冷たい理屈の色があった。


「白霧観は、宮中との縁を断って百年になる。今さら、影身を匿って、その縁を蒸し返す理由がどこにある。この二人は、御影司が作った影だ。御影司の不始末は、御影司に返せばよい」


「玄澄」


「観主。あなたは情に流されておられる。この観には、影身の法の原本がある。宮中がそれを求めて兵を送ってきたなら、二人を渡して、原本を守るのが、観主の務めではないのか」


 玄真は、玄澄をじっと見つめた。それから、静かに言った。


「原本は、百年前に、わしが焼いた」


 祠の中が、しんとなった。玄澄も、玄斉も、玄琳も、玄真の顔を凝視している。玄真は、誰の顔も見ずに続けた。


「兄弟子が術を持ち出したあの日、わしは、残った原本をすべて火にくべた。壁の画が焼けておるのは、そのときの火だ。お前たちには、原本は封じてあると言ってきた。守るものがあると思わせておく方が、この観を保てると思ったからだ。だが、もう、守るものはない。あるのは、この二人だけだ」


 玄澄の顔から、血の気が引いた。


「……観主。あなたは、我らを、百年、欺いておられたのか」


「そうだ。詫びはせん。だが、今、お前たちに問う。守るものがないと分かった今、この二人を、兵に渡すか、渡さぬか」


 三人の老道士は、顔を見合わせた。玄斉と玄琳は、目を伏せた。玄澄だけが、玄真から目を離さなかった。


「……渡します」


 玄澄は、言った。


「守るものがないのなら、なおのこと、この観に兵を入れる理由がない。二人を渡せば、兵は去る。それで、終わりです」


「そうか」


 玄真は、頷いた。そして、志揚と小蘭の方を向いた。


「聞いた通りだ。この観は、割れた。わしと清嵐は、お前たちを匿う。玄澄は、お前たちを渡す。玄斉と玄琳は、どちらにも与せぬだろう。つまり、時間はない」


「……どうすれば」


「影池の底に、道がある」


 玄真は、祠の奥の、古びた戸を指した。


「百年前、兄弟子が術を持ち出したとき、わしが追った道だ。影池の下を潜り、山の裏側の滝壺に出る。霧が深く、兵は知らぬ。だが、道は狭く、水に濡れる。志揚――お前の身体は、水に戻る身体だ。この道を潜って、無事でいられるかどうか、わしには分からん」


 志揚は、少しも迷わなかった。


「行きます」


「志揚、待って。水に浸かって、あんたの身体が――」


「小蘭。玄真様は、分からんと言った。無理だとは言ってない」


 志揚は、小蘭の方を向いた。その顔には、宮廷で暗殺者として動いていた頃の、張り詰めた気配が、久しぶりに戻っていた。


「それに、兵に捕まれば、俺は太后の前で、妖術の証として晒される。何度でも殺されて、何度でも蘇らされる。そのたびに、欠けていく。そうなるくらいなら、水の中で消える方が、まだましだ」


「そんな言い方――」


「言い方が悪いのは、分かってる。でも、本当のことだ」


 志揚は、小蘭の手を取った。


「だから、一緒に来い。俺が水の中で消えないように、お前が、見ててくれ」


 小蘭は、志揚の手を握り返した。その手は、まだ揺らいでいない。


 そのとき、祠の外から、清嵐の声が聞こえた。


「師よ! 門に、兵が――」


---


 白霧観の門の前に立った賀琮は、倒れた扉を一瞥して、鼻を鳴らした。


「これが、術の起こりの地か。ずいぶんと、うらぶれたものだ」


 配下の兵たちは、十二人。いずれも太后宮の密偵として鍛えられた者ばかりで、霧の中でも足音を立てずに動くことができる。賀琮は、彼らを門の左右に散らし、自分は、門の正面に立った。


 やがて、霧の向こうから、一人の老道士が、ゆっくりと歩いてきた。


「白霧観の主、玄真と申す。この山に、兵が上がってくるのは、百年ぶりのことだ。何用か」


「太后宮の命により、逃亡した影身二体を、捕縛する」


 賀琮は、前置きもなく言った。


「この観に、匿われていることは、分かっている。渡していただこう」


「影身、とな」


 玄真は、首を傾げた。


「この観に、そのようなものはおらぬ。旅の者が二人、昨日、霧に迷って辿り着いたが、今朝、山を下りていった」


「嘘を申すな」


 賀琮は、腰の剣に手をかけた。


「山を下りた者の跡は、一つもない。この観に入った跡は、二つある。老いた道士よ、太后宮の密偵を、あまり甘く見るな」


 玄真は、賀琮の顔を、じっと見つめた。その視線に、賀琮は、僅かに苛立った。この老人は、恐れていない。兵の数を見ても、剣を見ても、何一つ、恐れていない。


「……では、探すがよい」


 玄真は、言った。


「観の中は、広い。霧も深い。存分に探すがよい」


「そうさせてもらう」


 賀琮は、配下に合図した。兵たちが、門をくぐり、霧の中に散っていく。賀琮自身は、玄真の前から、動かなかった。


「老いた道士よ。一つ、聞いておく」


「何か」


「影身の法の原本は、この観にあるのか」


 玄真は、少しだけ、笑った。


「百年前に、燃えた」


 賀琮は、その言葉を、しばらく吟味した。それから、頷いた。


「そうか。ならば、影身を持ち帰るしかないな」


 そのとき、霧の向こうから、一人の道士が、駆けてきた。玄澄だった。


「太后宮の方! 二人は、影池の裏の祠におります。影池の底に、抜け道が――」


 玄真は、玄澄を見なかった。ただ、静かに、目を閉じた。


 賀琮は、剣を抜いた。


「案内しろ」


 玄澄は、賀琮の剣を見て、初めて、自分が何を呼び込んだのかを、悟ったようだった。その顔が、強張る。だが、もう、遅かった。賀琮は、玄澄の肩を掴み、霧の中へ、押し出した。


 玄真は、目を開けた。そして、誰に言うでもなく、呟いた。


「百年、この山で、何を守っていたのだろうな」


 霧の中を、兵たちの足音が、堂宇から堂宇へと、駆け抜けていく。戸を蹴破る音。棚が倒れる音。玄斉と玄琳は、祠の前に立ち尽くしたまま、動かなかった。渡すとも、匿うとも、言わなかった二人は、ただ、自分たちの観が、踏み荒らされていく音を、聞いていた。


 やがて、玄琳が、口を開いた。


「……観主。私は、影身を、術の犠牲だとは、思っておりませんでした」


「知っておる」


「今も、そうは思えません。ですが――」


 玄琳は、兵の走り去った方を見た。


「兵に踏み込まれる観を見て、分かりました。この観が百年守ってきたのは、術ではなく、術を漏らした恥そのものだったのだと。恥を守るために、二人の子を、渡すのですか」


 玄真は、玄琳を見た。老道士の目に、僅かに、何かが動いた。


「……遅い。だが、遅くとも、言葉にしたことは、覚えておこう」


 玄斉が、何も言わずに、祠の奥へ向かった。戸の内側に、清嵐が、まだ立っているはずだった。玄斉は、その戸に、外から、閂をかけた。中の清嵐に、聞こえるように、一言だけ言った。


「開けるな。何があっても、開けるな」


 それが、玄斉が、その日、口にした、唯一の言葉だった。


---


 影池の底の道は、玄真の言った通り、狭く、暗く、そして冷たかった。


 祠の奥の戸を開けると、石の階段が、影池の水面の下へと続いていた。水は、階段の途中まで来ている。二人は、清嵐の持つ灯りを頼りに、腰まで水に浸かりながら、階段を下りた。水の底には、人一人がやっと通れるほどの穴が、横に開いていた。


「この先は、私も行ったことがありません」


 清嵐が、灯りを差し出しながら言った。


「師は、まっすぐ進めば、滝壺に出ると。ただ、途中、水が天井まで来ている場所があるそうです。息を止めて、潜ってください」


「清嵐、あんたは」


「私は、ここに残ります。戸を閉めて、追っ手を、少しでも遅らせます」


 少年の声は、震えていた。だが、その目は、逸らされなかった。小蘭は、清嵐の手を、一度だけ握った。


「ありがとう」


「……お二人が、影身であることを、私は、詫びるべきだと思っています。師の言葉が、ようやく分かりました」


 清嵐は、そう言って、戸を閉めた。


 闇が、二人を包んだ。


 灯りは、清嵐が渡してくれた、小さな油皿だけだった。その光の中で、志揚の輪郭が、揺らぎ始めていた。水に、腰まで浸かっている。影身の身体は、水に戻る身体だ。玄真の言葉が、小蘭の頭の中で、繰り返される。


「志揚」


「……大丈夫だ。まだ、大丈夫だ」


 志揚は、歯を食いしばって、穴の中へ身体を押し込んだ。小蘭も、続いた。


 穴の中は、腹這いになってやっと進めるほどの狭さだった。水は、胸まで来ている。頭上の岩に、髪が擦れる。油皿の火は、志揚が片手で掲げているが、天井が低くなるたびに、消えそうに揺れた。


 どれほど進んだか、分からない。時折、天井から水滴が落ちて、油皿の火を脅かした。二人は、無言で進んだ。言葉を交わす余裕は、なかった。ただ、前を行く志揚の足が、時折、揺らいで、岩の輪郭と重なって見えることだけが、小蘭の目に焼きついた。


 不意に、火が消えた。


 天井から落ちた一滴が、油皿を直撃したのだった。闇が、完全なものになった。小蘭は、思わず、志揚の足を掴んだ。


「……いる」


 志揚の声が、闇の中から返ってきた。


「いるよ。掴んでろ」


「消えてない?」


「まだな」


 志揚は、闇の中で、小さく笑ったようだった。


「なあ、小蘭。暗いついでに、一つ聞いていいか」


「なに」


「渡青の食堂、あの主人、なんて名前だったっけ」


 小蘭は、一瞬、言葉に詰まった。そんなことを、今、聞くのか。だが、志揚の声は、冗談を言っている声ではなかった。


「……周さんよ。周老板」


「周、か。そうだった。……顔は、覚えてるんだ。太った、気のいい爺さんだった。でも、名前が、どうしても出てこなかった」


 小蘭は、闇の中で、志揚の足を、強く握った。


「あたしが、覚えてる。あんたが忘れた分は、全部、あたしが覚えてる」


「……頼む」


 志揚は、それだけ言って、また、闇の中を這い始めた。小蘭は、その足を掴んだまま、続いた。


 やがて、前を行く志揚が、止まった。


「……水が、天井まで来てる」


 志揚の声は、掠れていた。小蘭は、志揚の足に触れた。その足は、揺らいでいた。はっきりと。灯りの中で、志揚の輪郭が、水面のように波打っている。


「志揚。あんた、潜れるの」


「潜るしかない」


「あんたの身体は――」


「小蘭」


 志揚は、振り向いた。狭い穴の中で、それは、顔を半分だけ、小蘭の方に向けることしかできなかった。だが、その半分の顔は、笑っていた。


「俺が消えても、お前は進め。滝壺に出て、山を下りろ。それだけ、約束してくれ」


「嫌よ」


「小蘭」


「消えないで。潜るなら、あたしが先に行く。あんたは、あたしの足を掴んで、ついてきて。それなら、あんたの手が離れたら、あたしにも分かる」


 志揚は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。


「……分かった」


 狭い穴の中で、二人は、身体を入れ替えた。小蘭が前に、志揚が後ろに。志揚の手が、小蘭の足首を、強く掴んだ。


 小蘭は、大きく息を吸って、水の中に頭を沈めた。


---


 都の太后宮では、李黎利が、揚美玲と向かい合っていた。


 茶は、すでに冷めていた。美玲は、それに口をつけることもなく、ただ黎利の顔を、微笑みながら見つめている。先代の寵妃と謳われた女は、齢を重ねてなお、その美貌に翳りがなかった。だが、その微笑みの奥にあるものを、黎利は、見ようとして、見ることができなかった。


「李黎利殿。あなたの侍女が一人、ふた月前に姿を消したそうね」


「……はい」


「張志明の影武者と、共に」


「そのように、聞いております」


 美玲は、茶碗を、指先で軽く回した。


「あなたは、その侍女が、何であったか、ご存じだったのかしら」


 黎利は、答えなかった。美玲は、それを、答えとして受け取ったようだった。


「ご存じだったのね。影身。妖術の産物。あなたは、それを、自分の宮に置いて、仮病を使うたびに、代わりに立たせていた。皇帝陛下の妃が、妖術の影を、公務に立たせていた――そう、私が申し上げたら、あなたは、どうなるかしら」


 黎利の背筋が、冷えた。


「太后様は、何を、お望みですか」


「望むことは、一つよ」


 美玲は、微笑んだまま言った。


「張志明を、失脚させたいの。あの宦官は、皇帝陛下の耳元で、私の息子の悪口を吹き込み続けている。あの男さえいなくなれば、宮中は、静かになる。あなたが、あの男が妖術を使っていたと、証言してくださればよいの。あなた自身が影身を使っていたことは、私が、見なかったことにしてあげる」


 黎利は、美玲の顔を見た。そして、その背後に、いつの間にか立っていた男を見た。


 揚龍玄。太后の一人息子。意に沿わぬ者の手足を落とすと言われる、その男が、腕を組んで、黎利を見下ろしていた。その目には、何の感情もなかった。ただ、獲物を値踏みする、獣の目だった。


「……お考えする時間を、いただけますか」


「もちろん」


 美玲は、頷いた。


「明日の、この時刻まで。それを過ぎれば、私は、あなたの宮のことを、皇帝陛下にお話しするわ」


 黎利は、立ち上がった。礼をし、踵を返そうとしたとき、龍玄が、初めて口を開いた。


「妃殿下」


 低い、感情のない声だった。


「あなたの影は、あなたと同じ顔をしているそうだな。捕らえたら、母上の前で、あなたと並べてみたい。どちらが本物か、俺には、分かるかどうか」


 黎利は、振り向かなかった。振り向けば、その目を見てしまうと、分かっていたからだ。


 黎利は、太后宮を辞した。廊を歩く足が、震えていた。だが、その震えの中で、黎利は、一つのことを、はっきりと考えていた。


 志明が、御影司の記録を、自分に託した理由。お気をつけて、という言葉の意味。あの男は、分かっていたのだ。太后が、自分に、何を求めてくるのかを。


 そして、その記録には、志明の名だけでなく、太后宮に連なる高官たちの名も、並んでいた。黎利は、書庫でそれを見たとき、まだその意味を、分かっていなかった。


 今は、分かる。


 黎利は、青梅宮に戻ると、桂嬢を呼んだ。


「あの本を、出して。それから、志明様に、使いを」


---


 志明が、黎利からの使いを受けたのは、その夜のことだった。


 文は、短かった。太后から明日までの猶予を与えられたこと。求められているのは、志明が妖術を用いていたという証言であること。そして、最後に、一行。


 ――御影司の記録には、太后宮に連なる方々の名も、並んでおります。


 志明は、その文を、灯明の火にかざして、しばらく見つめていた。それから、火にくべた。文は、音もなく燃えて、灰になった。


 黎利の言わんとすることは、明白だった。影身を使っていたのは、志明だけではない。太后宮の高官たちも、同じ術で影を作り、都合の悪い務めを押し付けていた。その記録が、黎利の手にある。太后が志明を妖術使いとして断罪するなら、黎利は、その記録を皇帝の前に出す。太后宮の半分が、同じ妖術使いになる。


 あの怠け者の妃が、ここまで考えるようになったのか。


 志明は、灰を見つめたまま、微かに、口の端を上げた。それが笑みであったかどうかは、灯明の火にも、分からなかった。


 それから、志明は、筆を取った。


 一通目は、皇帝への上奏だった。御影司の存在と、その記録が、宮中の高官たちの間で、どのように用いられてきたか。志明自身の名も、そこに記した。隠しては、意味がない。


 二通目は、宛名を書かなかった。志明は、それを、小さく折り畳み、傍らに控えていた側近に渡した。


「これを、西へ。白霧山へ向かう街道を、夜を徹して走らせろ。太后宮の密偵、賀琮という男に、渡せ」


「……賀琮に、でございますか」


「そうだ」


 側近は、それ以上、尋ねなかった。文を懐に納め、部屋を出ていく。志明は、その足音が消えるまで、窓の外の、西の空を見ていた。


 二通目に、何を書いたのか。それを知る者は、志明のほかに、いなかった。


---


 白霧観では、賀琮が、影池の裏の祠の戸を、蹴り破っていた。


 戸の内側には、一人の少年道士が、両手を広げて立っていた。震えている。だが、退かない。賀琮は、その少年を、一瞥もせずに、剣の柄で殴り倒した。少年は、石の床に倒れ、動かなくなった。


「抜け道は、この下か」


 賀琮は、水に沈む階段を見下ろした。配下の一人が、灯りを掲げて、階段を下りていく。やがて、その声が、水面の下から響いた。


「穴があります。人が、通った跡が」


「追え。二人だ。三人、続け」


 賀琮は、残りの配下を、門の方へ向けた。


「山の裏の滝壺だ。霧の中を、回り込め。穴の出口で、待ち伏せろ」


 兵たちが、霧の中へ散っていく。賀琮は、それを見送ってから、ゆっくりと、祠の外へ出た。


 そこに、玄真が立っていた。老道士は、倒れた清嵐を、遠くから、見ていた。


「老いた道士よ。抜け道を教えたのは、お前の弟弟子だ。恨むなら、そちらを恨め」


「恨まぬ」


 玄真は、言った。


「玄澄は、この観を守ろうとした。それは、わしが百年、そう思わせてきたからだ。恨むべきは、わし自身だ」


 賀琮は、その言葉に、興味を示さなかった。ただ、剣を鞘に納め、霧の中へ歩き出した。


 その背中に、玄澄が、追いすがった。


「待て。少年は、何もしておらぬ。殴る必要が、どこに――」


「退け」


 賀琮は、振り向きもしなかった。玄澄は、その場に、崩れるように膝をついた。倒れた清嵐と、それを見つめる玄真と、閂のかかった戸を破られた祠と。自分が守ろうとしたものが、何一つ、守られていないことを、玄澄は、ようやく、見た。


「……観主。私は――」


「今は、言うな」


 玄真は、玄澄を見なかった。ただ、清嵐の方へ、歩き出した。


「言うなら、あの二人が、生きて山を下りてからだ。それまでは、祈れ。お前が渡そうとした二人のために、祈れ」


 玄真は、清嵐の傍らに膝をついた。少年は、まだ息をしていた。老道士は、その額に手を置き、低く、経を唱えた。


 霧が、濃くなった。


 白霧観を包む霧が、これまでのどの朝よりも、どの夜よりも、濃く、白く、山の裏側へと、流れ落ちていった。


---


 小蘭が、水面に顔を出したとき、そこは、滝の裏側だった。


 轟音が、耳を打った。目の前を、白い水の壁が落ちている。その向こうに、微かに、光が見えた。小蘭は、岩に手をかけ、身体を引き上げた。そして、振り返った。


 足首に、志揚の手が、まだあった。


「志揚――!」


 小蘭は、その手を引いた。水の中から、志揚の身体が、浮かび上がってくる。志揚は、咳き込みながら、岩の上に這い上がった。その身体は、油皿の火がなくとも、分かるほどに、揺らいでいた。肩が、腕が、膝が。まるで、水面に映った姿そのもののように。


「……生きてる」


 志揚は、掠れた声で言った。それから、笑った。


「お前の足首、握り潰しそうだった」


「握り潰されても、離さなかったでしょ」


「ああ。離さなかった」


 二人は、滝の裏の岩棚で、しばらく、息を整えた。志揚の揺らぎは、水から出ても、治まらなかった。竹の管は、もう、空だった。


 小蘭は、志揚の隣に座り、その揺らぐ肩に、自分の肩を寄せた。触れている、という感触は、確かにあった。だが、その感触は、いつもよりも薄く、まるで、霧に触れているようだった。


「志揚。玄真様の言ってたこと、覚えてる? 自分で選び続ける限り、欠けるのは緩む、って」


「……覚えてる」


「今、あんたは、何を選ぶ」


 志揚は、滝の水の壁を見つめた。轟音の向こうに、微かな光がある。その光の中に、何が待っているのか、二人とも、分かっていた。


「……お前と、下りる。それを、選ぶ」


「それで、いいのよ」


 小蘭は、志揚の手を取った。揺らぐ手を。それでも、確かにそこにある手を。


「何があっても、それだけ、選び続けて」


「小蘭。俺は、もう、そう長くは保たない」


「言わないで」


「言っておく。滝壺を出たら、山を下りろ。俺は――」


「一緒に下りるのよ」


 小蘭は、志揚の手を、さらに強く握った。


「一緒に、下りる。それしか、あたしは聞かない」


 志揚は、小蘭の顔を、しばらく見ていた。それから、頷いた。


「……分かった。一緒に、下りる」


 二人は、滝の裏から、水の壁を横に抜けて、滝壺の岸に出た。


 霧が、深かった。白霧観の上から流れ落ちてくるかのように、滝壺の周りは、乳色の霧に沈んでいた。一歩先も、見えない。


 その霧の中に、人の気配があった。


 一つではない。三つ、四つ。滝壺を囲むように。


 小蘭は、志揚の手を、強く握った。志揚の手が、握り返した。揺らぎながら、それでも、確かに。


「――そこか」


 霧の向こうから、声がした。


 賀琮の声だった。


 霧が、僅かに動いた。滝壺の岸を囲むように、人影が、四つ、五つ、浮かび上がる。いずれも、剣を抜いていた。そして、正面の霧の中から、一人の男が、ゆっくりと、歩み出てきた。


「思ったより、早かったな。穴を潜ってきたのか。ずいぶんと、濡れている」


 賀琮は、二人の前で足を止めた。その目が、志揚の身体を、上から下まで、なぞった。揺らぐ肩を。揺らぐ腕を。霧よりもなお曖昧な、その輪郭を。


「……なるほど。これが、妖術の証か」


 賀琮の声に、初めて、感情らしきものが混じった。驚嘆でも、恐怖でもない。獲物を、ようやく目にした者の、静かな高揚だった。


「龍玄様の仰った通りだ。殺しても死なぬ宦官の影は、こうして、水のように揺らいでいる。生きたまま、都へ連れ帰る。太后様の前で、その姿を、見せてもらおう」


 志揚が、一歩、前に出た。小蘭の前に。揺らぐ身体で、それでも、まっすぐに立って。


「……俺だけを、連れて行け」


「志揚!」


「小蘭は、影身じゃない。ただの侍女だ。妖術の証にはならない。俺一人で、十分だろう」


 賀琮は、志揚の顔を見た。それから、その背後の小蘭を見た。同じ顔。李黎利という妃と、寸分違わぬ顔。


「侍女、か」


 賀琮は、薄く笑った。


「太后様は、妃の影も、一緒に連れて来いと仰せだ。妃殿下が、影を公務に立たせていたという証も、要るのでな。悪いが、二人とも、来てもらう」


 志揚の手が、背中に回った。小蘭は、その手が、自分の手を探しているのだと分かった。握った。揺らぐ手を。それでも、離さないと決めた手を。


「小蘭」


 志揚の声は、小さかった。賀琮には、聞こえなかっただろう。


「俺が動いたら、滝壺の右に走れ。霧が濃い。三歩走れば、見えなくなる」


「嫌」


「頼む」


「一緒に走る」


 志揚は、一瞬、黙った。それから、握った手に、力を込めた。


「……分かった。一緒だ」


 賀琮が、剣を構えた。


 霧が、二人を、包み込んだ。

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