転・二
# 泡になっても、恋をする 転・二
夜明けの白霧観は、夜よりもなお静かだった。
霧は薄れることなく、堂宇の屋根も、庭木も、すべてを乳色に沈めている。小蘭は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。隣で眠る志揚の輪郭を、何度も確かめては、そのたびに安堵し、そしてまた不安になる。その繰り返しだった。
志揚が目を覚ましたのは、清嵐が戸を叩いてからだった。
「師がお待ちです」
少年の声は、昨夜よりも硬かった。何かを知っていて、それを言えずにいる者の声だと、小蘭は思った。
昨日と同じ堂に通されると、玄真はすでに卓の前に座っていた。老道士の前には、昨日の巻物のほかに、小さな水盥が置かれている。澄んだ水が、縁まで満たされていた。
「座りなさい」
二人が腰を下ろすと、玄真は前置きもなく、志揚に向かって言った。
「お前は、これまで何度、消えた」
志揚は、少し考えてから答えた。
「……七度、だと思います。もしかしたら、八度かもしれない。最初の頃のことは、はっきりしない」
「はっきりしないのは、当然だ」
玄真は、水盥を、二人の方へ押しやった。
「これを見なさい」
老道士は、懐から小さな針を取り出し、自分の指先を刺した。血の珠が膨らみ、水面に落ちる。血は、水の中で糸のように広がり、ゆっくりと薄れて、やがて水全体を、ごく淡い紅に染めた。
「影身が消えるとき、その身体は、水に戻る。泡となり、霧となり、跡形もなくなる。だが、影身は、それで終わりではない。本体との間に結ばれた縁が、影身を、もう一度この世に引き戻す」
玄真は、淡く染まった水を指さした。
「縁とは、この血のようなものだ。本体から影身へ、目に見えぬ糸として繋がっている。影身が消え、蘇るたびに、その糸を手繰って、影身は自分の姿を、心を、記憶を、組み直す。縁が太ければ、組み直しは完全に近い。だが――」
老道士は、水盥をもう一度、指先で軽く叩いた。水面が揺れ、淡い紅が、さらに薄れて見えた。
「縁が痩せていれば、組み直しは粗くなる。糸が足りず、拾い上げられなかったものは、水の底に沈んだまま、二度と戻らない。それが、お前の言う『欠けていく』ということだ」
志揚は、水盥の中を見つめたまま、動かなかった。
「……縁が痩せる、というのは」
小蘭が、代わりに尋ねた。玄真は、小蘭の方を向いた。
「縁は、本体が影身をどう扱うかで、太くも痩せもする。影身の法の掟が、影を粗末に扱うなと定めたのは、そのためだ。本体が影を己の縁者として遇すれば、縁は太る。本体が影を道具として使い、消えても構わぬと思えば、縁は痩せる。使い潰すたびに、痩せていく」
堂の中が、しんとした。
小蘭は、志揚の横顔を見た。志揚は、まだ水盥を見つめている。その顔から、表情が消えていた。怒りでも、悲しみでもない。ただ、何かが静かに崩れていくような、そういう顔だった。
「つまり」
志揚が、ようやく口を開いた。その声は、驚くほど平らだった。
「俺が欠けていくのは、志明様が、俺を道具としか思ってなかったからだ、と」
「そうだ」
玄真は、はっきりと言った。
「お前の本体が、お前を身代わりとして死なせるたび、消えても構わぬと思うたび、お前とその者を繋ぐ縁は痩せていった。七度、八度と繰り返せば、こうなる。むしろ、ここまで保ったことの方が、わしには不思議だ」
志揚は、しばらく黙っていた。それから、小さく、乾いた声で笑った。
「……そりゃそうだ。あの人が、俺のことを縁者だなんて思うわけがない。俺は、あの人が手を汚さずに済むための、道具だったんだから」
「志揚」
「いいんだ、小蘭。分かってたことだ」
志揚は、そう言って、小蘭の方を向いた。その顔は、笑っていた。だが、その笑みは、小蘭が知っている志揚のどの笑みよりも、脆く見えた。
「ただ……知ってたことと、はっきり言葉にされることは、違うな。それだけだ」
小蘭は、何も言えなかった。ただ、志揚の手を、卓の下で強く握った。
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しばらくして、小蘭は、玄真に向き直った。
「治す方法は、ないのですか。痩せた縁を、もう一度太くする方法は」
玄真は、首を横に振った。
「本体が、心を入れ替えて影身を縁者として遇すれば、縁は少しずつ太るだろう。だが、それには本体の心が要る。お前たちの本体は、都におる。そして、お前たちを縁者として遇する気があるようには、聞こえん」
「では、志揚は――」
「このままなら、いずれ、消えたきり戻らなくなる。あるいは、戻っても、何も残っておらぬ。どちらが先かは、分からん」
小蘭は、息が止まりそうになった。分かっていたことだった。だが、老道士の口から、はっきりと言葉にされると、それは、これまでの不安とは比べものにならない重さで、胸に落ちてきた。
「……何か、ないのですか。本体に頼らずに、済む方法は」
玄真は、長いあいだ、答えなかった。老道士の視線は、水盥の中の、淡い紅を見つめている。やがて、玄真は、ゆっくりと口を開いた。
「一つ、考えられることはある。だが、わしは、それが本当に起きるのを、見たことがない」
「それでも、聞かせてください」
「縁というのは、本来、本体と影身の間にしか結ばれぬものだ。影身は、本体の血から生まれるのだから。だが――」
玄真は、小蘭を見た。
「影身が、本体から離れて、己の意志で、己の生を選び続けたとき。本体との縁が切れるのではなく、影身自身が、新たな縁を紡ぐことがあるのではないか、と、わしは考えておる。誰かのために作られた影としてではなく、己として、誰かと結ぶ縁を」
「……誰かと」
「お前たちが城を出たのは、本体に命じられたからではあるまい。己で選んだのだろう。あれからのち、志揚の欠けは、速まったか、それとも緩んだか」
小蘭は、考えた。城を出てからの日々。揺らぎは、確かに増えた。だが、それは旅の疲れと、追っ手の恐怖の中でのことだった。そして、志揚は、一度も、小蘭のことを忘れなかった。焚き火の前で、はっきりとそう言った。
「……分かりません。でも、志揚は、あたしのことだけは、一度も忘れなかった」
「そうか」
玄真は、頷いた。
「ならば、それが、答えかもしれん。あるいは、ただの気休めかもしれん。わしには、確かめる術がない。ただ、一つだけ言える。本体が縁を太らせぬのなら、影身は、己で縁を紡ぐしかない。己の意志で、選び続けるしかない。それが術だとは、わしは言わぬ。だが、他に道はない」
志揚は、その言葉を、黙って聞いていた。それから、小さく息を吐いて、言った。
「……選び続ける、か。俺に、できるのかな」
「できるわよ」
小蘭は、間髪を入れずに答えた。
「城を出るとき、あんたは選んだ。渡青で、あたしと働くことも選んだ。ここに来ることも。あんたは、ずっと選んでる」
志揚は、小蘭の顔を、しばらく見つめていた。それから、ふっと、いつもの飄々とした笑みを、ほんの少しだけ取り戻した。
「……お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
玄真は、二人のやり取りを見守っていたが、ふと、小蘭の方に視線を移した。
「娘。お前は、これまで一度も消えたことがないな」
「……はい」
「ならば、お前の縁は、まだ痩せておらぬはずだ。お前の本体は、お前をどう扱っておった」
小蘭は、少し考えた。黎利。仮病を使い、面倒を押し付け、けれど寝所では姉妹のように軽口を叩き合った、あの怠け者の妃。
「面倒は、全部押し付けられました。でも……道具だと思われたことは、なかったと思います。少なくとも、あたしは、そう感じていました」
「そうか」
玄真は、頷いた。
「ならば、お前の縁は、まだ太い。お前が消えることがあっても、戻るときの欠けは、志揚ほどではあるまい。だが、それは、お前が本体と繋がっている限りの話だ。城を出た今、その縁がどうなっておるかは、わしにも分からん」
小蘭は、その言葉を、黙って受け止めた。黎利との縁。城を出るとき、自分は、それを切ったつもりだった。だが、玄真の言い方では、縁は、切ろうとして切れるものではないらしい。痩せるか、太るか。そのどちらかしかない。
堂を出たあと、二人は、しばらく言葉もなく、影池のほとりを歩いた。昼の霧は、夜よりも薄く、黒い水面に、二人の姿が、ぼんやりと映っている。
「なあ」
志揚が、水面を見つめたまま言った。
「俺が全部忘れちまう前に、一つ、頼んでいいか」
「なに」
「忘れる前に、俺が何を選んだのか、お前が覚えておいてくれ。城を出たこと。渡青のこと。ここに来たこと。俺が自分で選んだんだってこと。俺が忘れたら、お前が、それを俺に言ってくれ」
小蘭は、志揚の横顔を見た。志揚は、笑っていなかった。ただ、まっすぐに水面を見ていた。そこに映る自分の姿を、確かめるように。
「約束したでしょ。焚き火の前で」
「ああ。でも、もう一度、言っておきたかった」
志揚は、そう言って、ようやく小蘭の方を向いた。
「あの爺さんの言う通りなら、俺が選び続ける限り、欠けるのは緩む。だったら、俺は、選び続ける。何を忘れても、お前の隣にいることだけは、選び続ける」
小蘭は、何も言えなかった。ただ、志揚の手を取って、その甲に、自分の額を押し当てた。
水面に映る二つの影が、ひとつに重なって、揺れた。
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その頃、都の宮廷では――。
李黎利は、宮の奥の書庫で、埃を被った綴じ本の山と向き合っていた。
小蘭がいなくなってから、ふた月が経つ。黎利は、自分の足で公務に出るようになり、慣れない礼儀作法に何度も躓きながら、それでも少しずつ、妃としての日々を、自分の手で回すようになっていた。だが、そうして忙しく過ごしていても、ふとした瞬間に、小蘭の顔が浮かぶ。自分と同じ顔。自分の代わりに、あらゆる面倒を引き受けてきた顔。
あれは、いったい何だったのだろう。
黎利は、これまで、そのことを深く考えたことがなかった。小蘭は、物心ついたときから、そこにいた。父が、どこからか連れてきたのだと聞かされ、それ以上は尋ねなかった。尋ねる必要がないと、思っていた。
だが今、黎利は、尋ねずにはいられなかった。
書庫の奥、誰も開かなくなって久しい棚の中に、その綴じ本はあった。表紙には、御影司記録、とだけ記されている。黎利は、埃を払い、震える手で、それを開いた。
中には、名が並んでいた。妃の名、高官の名、そしてその隣に、もう一つの名。影の名。
李黎利、の文字を見つけたとき、黎利の指は、止まった。その隣には、小蘭、と記されていた。そして、その下に、小さな注記。
――水盥にて調製。本体血一滴。記憶なし。
黎利は、その一行を、何度も読み返した。意味は、分かった。分かってしまった。小蘭は、どこからか連れてこられたのではなかった。作られたのだ。自分の血から。自分のために。
張志明、の名も、そこにあった。隣には、志揚、と。
黎利は、綴じ本を閉じた。そして、それを胸に抱えたまま、書庫を出た。
向かう先は、志明の執務室だった。
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志明は、黎利が綴じ本を差し出しても、表情を変えなかった。
「これを、ご存じでしたか」
「存じております」
志明は、静かに答えた。その声は、いつもと同じく、慇懃で、隙がなかった。
「あなたは、知っていて、志揚を使っていたのですか。消えれば、また戻る。戻るたびに、何かが欠けていく。それを知っていて」
「妃殿下」
志明は、黎利の言葉を、静かに遮った。
「私は、影身の法の詳細を、すべて存じているわけではございません。御影司から、影は消えても戻ると、そう聞かされていただけで」
「では、欠けていくことは」
志明は、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。少なくとも、黎利には、そう聞こえた。
「……あなたは、志揚を、どう思っていたのですか」
黎利は、綴じ本を、卓の上に置いた。
「道具ですか。それとも、別の何かですか」
志明は、長いあいだ、黎利を見つめていた。宮廷随一の切れ者と呼ばれる男の顔から、黎利は、何一つ読み取ることができなかった。だが、その手が、卓の縁を、ごく僅かに、強く握っているのを、黎利は見た。
「妃殿下は、小蘭を、どう思っておられたのですか」
志明は、問いを、問いで返した。黎利は、言葉に詰まった。
どう思っていたのか。面倒を押し付ける相手。仮病を使うたびに、代わりに立ってくれる相手。姉妹のように軽口を叩き合える相手。だが、その小蘭が、自分の血から作られ、記憶もなく、自分のために存在させられていたのだと知った今――自分は、小蘭を、何だと思っていたのだろう。
「……分かりません」
黎利は、正直に答えた。志明は、微かに、頷いたように見えた。
「私も、同じでございます」
それだけ言うと、志明は、綴じ本を、黎利の方へ、そっと押し返した。
「これは、妃殿下がお持ちください。御影司の記録は、宮中に、これ一冊しかございません」
「……なぜ、私に」
「私の手元にあれば、私が、都合のよいように処分してしまうかもしれません」
志明は、そう言って、黎利の目を見た。その目に、黎利は、初めて、何かを見たような気がした。だが、それが何なのかを確かめる前に、志明は、視線を逸らした。
「下がってよろしい、と申し上げる立場ではございませんが。妃殿下、どうか、お気をつけて」
黎利は、綴じ本を抱えて、執務室を出た。廊を歩きながら、彼女は、志明の最後の言葉を、何度も反芻していた。
お気をつけて。何に、気をつけろというのだろう。
答えは、その日の夕刻に、思いがけない形でやってきた。
青梅宮に戻った黎利を待っていたのは、太后宮からの使いだった。太后・美玲が、明日、茶に招きたいと言っている。それだけの伝言だった。だが、黎利は、桂嬢の顔色が変わるのを見た。太后が、寵愛も権勢も持たぬ一介の妃を、名指しで招く。それは、招きではなく、召喚だった。
黎利は、腕の中の綴じ本を、無意識に抱き締めた。
小蘭が逃げた妃。逃げた影武者と共に消えた侍女の、主。太后が、それを知らぬはずがない。そして、志明の影に妖術の証を求めている太后が、その影と共に逃げた小蘭の本体に、何を求めるか――。
「桂嬢」
「はい」
「この本を、誰にも見つからぬところに、しまっておいて。私が戻らなくても、志明様以外の誰にも渡さないで」
桂嬢は、何も尋ねずに、頷いた。黎利は、初めて、この侍女頭が、自分のために何かを引き受けてくれる人間だったのだと、気づいた。小蘭がいた頃には、一度も気づかなかったことだった。
窓の外で、都の空が、暮れていく。黎利は、その空の、西の果てを見た。小蘭が、今、どこにいるのか。生きているのか。それすら、分からなかった。
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白霧観に、清嵐が駆け込んできたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「師よ! 山道に、松明が――兵が、登ってきます!」
少年の声に、堂の中の空気が、一変した。玄真は、ゆっくりと立ち上がった。志揚は、すでに腰を浮かせている。小蘭は、懐の、ほとんど空になった竹の管を、思わず握りしめた。
「幾人だ」
「十を超えます。太后宮の紋を、掲げています」
玄真は、二人を見た。その目には、驚きはなかった。ただ、深い、諦めに似た静けさがあった。
「……来たか。御影司が術を漏らして以来、この山に、宮中の兵が来たことはない。お前たちのせいだと言うつもりはないが――」
「分かっています」
志揚が、言った。
「俺たちが、ここを出ます。道観に、迷惑はかけない」
「待て」
玄真は、志揚を制した。
「この霧の中、追われる身で山を下りて、どこへ行く。麓は、すでに固められておろう」
「では、どうすれば」
「……考える。時間は、まだ、少しはある」
老道士は、そう言って、堂の奥へ向かった。清嵐が、その後を追う。二人だけが残された堂の中で、志揚は、壁の焼け焦げた画を、しばらく見上げていた。
「……あの兄弟子ってやつが、術を漏らさなかったら、俺たちは生まれてもいなかったんだな」
「そうね」
「生まれなかった方が、よかったと思うか」
小蘭は、首を横に振った。
「あんたに会えなかったなら、生まれない方がよかったとは、思わない」
志揚は、少しだけ笑った。それから、画から目を離し、戸口の方を向いた。その背中を見ながら、小蘭は、志揚の手を握った。
志揚の手は、揺らいでいなかった。今は、まだ。
だが、霧の向こうから、いくつもの足音が、確かに、近づいてきていた。




