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転・一

 白霧山という名は、伊達ではなかった。


 山の中腹から上は、朝も昼も、乳色の霧に包まれている。一歩先の道さえ見えず、足元の岩に頼りながら、二人は手探りで登り続けた。崖道で龍玄配下の兵をやり過ごしてから、すでに五日。食料はとうに尽き、沢の水と、道端に生える苦い草の根だけで、どうにか命を繋いでいた。


 霧は、ただ視界を奪うだけではなかった。衣の隙間から染み込み、肌を濡らし、体温を静かに奪っていく。小蘭の指先は、もう朝からずっと、感覚がなかった。それでも歩みを止めなかったのは、止まれば二度と立ち上がれないような気がしたからだ。


「本当に、この上に道観なんてあるのか」


 志揚が、霧の向こうを睨むようにして言った。その声には、疲労とともに、隠しきれない苛立ちが混じっている。小蘭は、それを責める気にはなれなかった。彼女自身、もう何度、引き返した方がいいのではないかと思ったか分からない。


「あの爺さんが、嘘をついていたとは思えない」


「嘘じゃなくても、勘違いってこともある」


「それでも、ここまで来たのよ」


 小蘭は、志揚の手を取った。その手は冷え切っていたが、確かにそこにあった。揺らいではいない。竹の管の中身はもう残り僅かで、次に志揚の輪郭が揺らいだとき、それを鎮める手立てはない。だからこそ、引き返すという選択肢は、最初からなかった。


 足元の岩が、不意に崩れた。


 小蘭の身体が、霧の中へ傾いだ。悲鳴を上げる間もなく、腕が強く引かれる。気がつくと、小蘭は志揚の胸の中にいた。志揚は岩に足を踏ん張り、小蘭の腕を掴んだまま、荒い息を吐いていた。


「……ぼんやりするな」


「ごめん」


「謝るくらいなら、もっとしっかり掴まってろ」


 志揚はそう言って、小蘭の手を、今度は自分から強く握り直した。その掌は、先ほどまでと同じく冷えていたが、握る力だけは、驚くほど強かった。小蘭は、この手が揺らがずにここにあることを、心の中で、何度も確かめた。


 霧がふと薄れたのは、日が傾き始めた頃だった。


 風が一陣、山肌を撫でるように吹き抜け、乳色の帳が一瞬だけ左右に割れた。その向こうに、朽ちかけた石段と、その上に建つ、古びた門が見えた。門の扁額には、風雨に削られてほとんど読めなくなった三文字が、辛うじて残っている。


 白霧観。


「……あった」


 志揚が、掠れた声で呟いた。小蘭は、答える代わりに、志揚の手を強く握った。


 門は開いていた。というより、閉める者がいないのだろう、片側の扉は蝶番が外れ、石畳の上に斜めに倒れている。二人は石段を登り、門をくぐった。


 中は、思いのほか広かった。古い堂宇がいくつも並び、その間を石畳の小道が縫っている。だが、人の気配はほとんどない。手入れの行き届いた庭木と、掃き清められた石畳だけが、ここに誰かが住んでいることを告げていた。


 小蘭は、その静けさに、宮廷の回廊を思い出した。人がいないのではなく、人がいることを気取らせない静けさ。後宮の奥でも、こういう静けさは、決まって何かを隠している場所にあった。


「誰か、いませんか」


 小蘭が声をかけると、しばらくして、奥の堂から一人の若い道士が現れた。まだ少年と言っていい年頃で、二人の姿を見ると、驚いたように目を見開いた。


「旅の方、ですか。このような山奥まで、どうして――」


「渡青で、一人の老道士に言われて来ました。白霧山の道観を訪ねろ、と」


 志揚がそう言うと、若い道士の表情が、微かに変わった。驚きから、警戒へ。そして、その警戒の奥に、何か別のものが混じる。憐れみのような、あるいは、畏れのような。


「……少々、お待ちください。師に伺って参ります」


 若い道士は、そう言い残して奥へ消えた。二人は、石畳の上に立ったまま、しばらく待たされた。霧が再び濃くなり、堂宇の輪郭を曖昧にしていく。小蘭は、ふと、自分たちの姿もまた、この霧の中で曖昧になっているのではないかという、根拠のない不安を覚えた。


 やがて、若い道士が戻ってきた。その後ろに、一人の老道士が続いていた。


 渡青の老人よりも、さらに年老いていた。背は曲がり、髭は雪のように白く、けれどその目だけは、霧の向こうまで見通すような鋭さを湛えていた。老道士は、二人の前で足を止め、しばらくの間、何も言わずに二人を見つめた。


 そして、静かに言った。


「影身が二つ、揃って来るとはな。長く生きたが、初めて見る」


 その言葉に、小蘭と志揚は、同時に息を呑んだ。


「……影身」


「お前たちのことだ。他に、呼び名を知らんか」


「ドッペルゲンガー、と」


「西の言葉か。まあ、何と呼ぼうと同じことよ。わしは玄真。この白霧観の主だ。こやつは清嵐、わしの弟子だ」


 玄真と名乗った老道士は、踵を返して、奥の堂へと歩き出した。


「ついて来なさい。話は、長くなる」


 通された堂の中は、薄暗く、古い書物の匂いがした。壁一面に据えられた棚には、巻物や綴じ本が、隙間なく詰め込まれている。奥の壁には、幾人もの道士の姿を描いた古い画が掛けられていた。歴代の観主だろう。その画の中の一枚――他のものより明らかに新しく、けれど不自然に半分が焼け焦げているものが、小蘭の目を引いた。


 玄真は、その一角に置かれた粗末な卓の前に腰を下ろし、二人にも座るよう促した。


 清嵐が、湯気の立つ茶と、粗末ながら温かい粥を運んできた。小蘭も志揚も、礼を言う余裕もなく、それを貪るように口にした。玄真は、二人が食べ終わるまで、何も言わずに待っていた。


「さて」


 二人の椀が空になったのを見て、玄真は口を開いた。


「まず、お前たちが何を知りたいのか、聞いておこう」


「自分たちが、何者なのか」


 志揚が、間を置かずに答えた。


「なぜ、泡になって消えるのか。なぜ、また蘇るのか。そして――」


 志揚は、一度言葉を切った。


「蘇るたびに、俺の中の何かが、欠けていく。それが、何なのか」


 玄真は、志揚の顔をじっと見つめた。その視線は、志揚の肌の奥、骨の奥、さらにその向こうにある何かを、探るようだった。


「欠けていく、か」


 老道士は、深く息を吐いた。


「そこまで進んでおるのなら、隠しても仕方あるまい。順を追って話そう。まずは、お前たちの起こりからだ」


 玄真は、卓の上に置かれた古い巻物を、ゆっくりと広げた。黄ばんだ紙面には、細かい文字と、人の形をした図が、幾つも描き込まれている。


「影身の法、という」


 老道士は、その図の一つを指し示した。人が水面に映る己の姿と向かい合っている絵だった。


「今から百年余り前――先々代の帝の御代に、この白霧観の道士たちが編み出した術だ。当時、宮中では暗殺が横行しておった。帝の御身を守るため、帝と同じ姿を持つ影を作り、身代わりとして侍らせる。それが、この法の始まりよ」


「どうやって……影を、作るのですか」


 小蘭が、恐る恐る尋ねた。玄真は、水面の図を指でなぞった。


「月のない夜、澄んだ水を張った盥に、本体の血を一滴落とす。水面に映った己の姿に向かって、道士が経を唱える。すると、水面の影が、水から立ち上がってくる。それが、影身だ。生まれたときから、本体と同じ姿、同じ声、同じ心を持っておる。ただ一つ、持たぬものがある」


「持たぬもの……」


「幼い日の記憶だ。影は、水から立ち上がったその瞬間から始まる。それより前は、何もない」


 小蘭は、息が止まりそうになった。自分が、物心ついたときにはもう黎利の影だったこと。それより前を、どれほど思い出そうとしても、何一つ浮かんでこなかったこと。あれは、忘れていたのではなかった。最初から、なかったのだ。


「皇族を、守るために……」


 小蘭が呟くと、玄真は頷いた。


「そうだ。本来は、皇族一人につき、影は一体のみ。そして、影は道具ではなく、本体と縁を結んだ者として、共に生きるものと定められていた。影身の法には、厳格な掟があった。影を粗末に扱えば、術は乱れ、本体にも災いが及ぶ――そう、教えられていたのだ」


 玄真の声が、僅かに低くなった。


「だが、術は、人の手を離れて広まった」


 老道士は、巻物の別の箇所を指した。そこには、先ほどよりも粗雑な筆致で、幾つもの人の形が描かれている。


「帝の御身を守るための術は、やがて、権勢を持つ者たちの欲を刺激した。自分にも影が欲しい。面倒な務めを押し付けられる、都合のよい身代わりが欲しい――と。白霧観の道士の中には、その欲に応じ、金と引き換えに術を漏らした者もいた」


 玄真の視線が、一瞬、壁の焼け焦げた画に向けられた。


「わしの兄弟子だった男だ。術を都に持ち帰り、宮中に御影司という役所を設けた。以来、御影司は、高官や妃の家のために、影を作り続けておる。白霧観は、その恥を負って、宮中との縁を断ち、この山に籠もった」


 小蘭は、自分の膝の上で、手が冷たくなっていくのを感じた。


 御影司。聞いたことのない名だった。だが、その役所が、自分を――黎利の影として、自分を作ったのだとしたら。


「では、あたしたちは……」


「お前たちは、その御影司が作った影だろう。皇族のためではなく、一人の妃と、一人の宦官のために」


 玄真は、はっきりと言った。


「守るためではなく、使うために作られた影だ」


 堂の中が、しんと静まり返った。


 その静寂を破ったのは、清嵐の、小さな悲鳴だった。


「し、師よ――」


 少年が指さす先で、志揚の身体の輪郭が、揺らいでいた。


 灯明の光の中、志揚の肩から腕にかけて、輪郭が水面のように波打っている。その向こうに、堂の壁が透けて見えた。志揚自身は、歯を食いしばって、それを押さえ込もうとしている。小蘭は、とっさに懐の竹の管に手を伸ばしたが、玄真が、それを手で制した。


「慌てるな。清嵐、お前もだ」


 老道士は、揺らぐ志揚の腕に、自らの掌を静かに重ねた。低く、短い経が、玄真の口から零れる。それは、渡青の老人がくれた薬とは違う――水が凪ぐように、志揚の輪郭が、ゆっくりと定まっていった。


 志揚は、大きく息を吐いた。額には、冷や汗が滲んでいる。


「……すみません」


「謝ることはない。むしろ、よく分かった」


 玄真は、掌を離しながら、志揚の顔を見た。


「お前の縁は、相当に痩せておる。ここまでよく保ったものだ」


「縁……?」


「それは、明日話そう。今日は、起こりの話までだ」


 小蘭は、まだ志揚の腕から目を離せなかった。今は、揺らいでいない。だが、あの一瞬、壁が透けて見えたことを、忘れることはできなかった。


 隣で、志揚が小さく笑った。乾いた、自嘲の笑いだった。


「なるほどな。だから志明様は、俺を道具としか思ってなかったわけだ。最初から、道具として作られたんだから」


「志揚」


「いいんだよ、小蘭。腹は立ってない。むしろ、すっきりした」


 志揚はそう言ったが、その声は、微かに震えていた。小蘭は、彼の手に、そっと自分の手を重ねた。


 玄真は、二人のやり取りを、静かに見つめていた。やがて、老道士は口を開いた。


「一つだけ、言っておく」


「……何を」


「使うために作られたからといって、お前たちが道具だということにはならん。影身の法は、影に、本体と同じ心を与える。同じ心を持つ者が、道具であるはずがない」


 玄真の目が、まっすぐに小蘭を見た。


「お前たちが何者かは、作られた理由ではなく、お前たち自身がこれから選ぶことで決まる。それだけは、忘れるな」


 小蘭は、その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。だが、なぜか、その言葉だけは、胸の奥に深く沈んでいった。


 部屋へ案内してくれたのは、清嵐だった。


 堂を出ると、霧は夜の闇と溶け合い、灯りを持つ清嵐の背中だけが、ぼんやりと浮かんでいた。少年は、堂宇の間を抜ける途中で、ふと足を止め、石畳の脇に広がる暗がりを指さした。


「あれが、影池です」


 目を凝らすと、そこには小さな池があった。霧に覆われた水面は、灯りを映しもせず、ただ黒々と静まり返っている。


「百年前、初めて影身が生まれた池だと、師から聞いています。今は、誰も使いません」


 小蘭は、その黒い水面を見つめた。自分もまた、こういう水の中から立ち上がったのだろうか。どこかの盥の、澄んだ水の中から。それを見ていた道士は、どんな顔をしていたのだろう。そして、血を一滴落とした黎利は――。


「清嵐さんは、怖くないの」


 小蘭が尋ねると、少年は、少し考えてから答えた。


「初めてお二人を見たときは、少し。でも、師は昔から言っています。影身は、術の犠牲になった者たちだ、恐れるのではなく、詫びるべき相手だと」


 少年は、それだけ言って、また歩き出した。小蘭は、しばらく影池の前に立ち尽くしていたが、志揚に肩を叩かれて、我に返った。


「行こう。ここで考え込んでも、水は何も答えてくれない」


「……そうね」


 二人は、清嵐の灯りを追って、霧の中を歩いた。


 その夜、二人は道観の片隅の、小さな部屋を与えられた。


 志揚は、寝台に腰を下ろしたまま、自分の両手を、じっと見つめていた。灯明の淡い光が、その手の輪郭を、ぼんやりと照らしている。今は、揺らいでいない。だが、いつまた揺らぐか分からない手だった。


「志揚」


 小蘭が声をかけると、志揚は顔を上げた。


「あの爺さんの言ったこと、どう思う」


「……分からない」


 志揚は、正直に答えた。


「作られた理由じゃなくて、自分で選ぶことで決まる、って言われても……俺は、これまで、何かを自分で選んだことなんて、一度もなかった気がする」


「あるわよ」


 小蘭は、志揚の隣に腰を下ろした。


「城を出るとき、あんたは自分で選んだ。あたしと一緒に行くって」


 志揚は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いて、小蘭の肩に頭をもたせかけた。


「……そうだな。あれは、俺が選んだ」


「だったら、それでいいじゃない」


「ああ」


 志揚は、目を閉じた。その顔は、疲れ果てていたが、少しだけ、穏やかに見えた。


「なあ、小蘭」


「なに」


「幼い頃の記憶がないって話……お前も、そうか」


「……そう」


 小蘭は、灯明の火を見つめたまま答えた。


「ずっと、忘れてるだけだと思ってた。思い出せないだけで、どこかにあるんだって。でも、最初からなかったのね」


「俺もだ」


 志揚は、目を閉じたまま言った。


「でも、考えてみれば、そう悪くもない。始まりが水の中だってんなら、俺の記憶は、全部、俺が生まれてからのもんだ。誰かに押し付けられた過去なんて、一つもない」


 その言い方に、小蘭は少し笑った。志揚らしい、強がりだった。だが、その強がりが、今夜は、なぜか少しだけ本当のことのように聞こえた。


「そうね。あんたの記憶は、全部あんたのものよ」


 だからこそ――と、小蘭は心の中で続けた。だからこそ、それが欠けていくことが、こんなにも怖い。


 志揚の寝息が、やがて規則正しくなった。小蘭は、灯明の火を見つめながら、玄真の言葉を反芻していた。縁が痩せている、と老道士は言った。欠けていくものの正体を、老道士はまだ語っていない。明日、話すと言っていた。それを聞くのが、怖くもあり、けれど聞かずにはいられなかった。


 窓の外では、霧がなお深く、白霧観を包み込んでいた。


 その霧のさらに下、山道のどこかで、松明の火が、いくつも揺れていることを、まだ二人は知らなかった。


 白霧山の麓、霧の届かぬ谷あいで、賀琮は松明を掲げ、山肌を見上げていた。


 崖道で獣の気配を感じたと言った兵を、彼は笑い飛ばさなかった。あの夜、確かに何かがいた。太后宮の密偵として長く生きてきた勘が、そう告げていた。そして、山を登る者が残す痕跡――折れた枝、踏み跡、沢の岩に残った微かな血の跡は、その勘を裏付けていた。


「この上に、道観があるという話だ」


 賀琮は、配下の一人に言った。


「影身の術の起こりの地だという。妖術使いの手先が逃げ込むなら、これ以上の場所はあるまい」


「夜のうちに、登りますか」


「いや。霧の中で足を滑らせては、元も子もない。夜明けとともに動く」


 賀琮は、腰の剣に手を置いた。龍玄から預かった、その剣に。


「生死は問わぬ、との仰せだ。だが、できれば生きたまま連れ帰りたい。妖術の証は、死体では残らんからな」


 松明の火が、いくつも、谷の闇に揺れていた。

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