承・三
白霧山を目指す道のりは、これまでの旅とは比べものにならないほど険しかった。
渡青を出てから半月、二人は川を遡り、やがて舟を捨てて、山がちの土地を歩き始めた。道はどんどん細くなり、村は疎らになり、人の気配そのものが薄れていく。それは同時に、追っ手から身を隠しやすくなるということでもあったが、食料の調達も、雨露をしのぐ場所を見つけることも、日を追うごとに難しくなっていった。
「思ったより、遠いな」
志揚が、汗を拭いながら苦笑した。老人の言った「西の白霧山」は、地図らしい地図もない旅程の中で、ただ人づてに聞いた方角と山の名だけを頼りに進むしかない、あまりに心許ない目印だった。
「あの爺さんの話、本当だと思う?」
「分からない。でも、他に頼れるものもないもの」
小蘭は、懐に大事にしまってある竹の管に触れた。老人から譲り受けたそれは、まだ一度も使っていない。志揚の「揺らぎ」は、渡青を出てからも度々起きていたが、幸い、周囲に人がいない時ばかりだったので、事なきを得ていた。それでも、いつまでもこの幸運が続くとは限らない。
山道を登るにつれ、気温は日ごとに下がっていった。夜、焚き火を囲んで身を寄せ合う時間が、二人にとって一日の中で最も安らげる瞬間だった。
「なあ、小蘭」
ある夜、志揚が焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと言った。
「もし、白霧山で何も分からなかったら――俺がこのまま、少しずつ欠けていくだけなんだとしたら、どうする」
「志揚」
「いや、責めてるわけじゃない。ただ、聞いておきたいんだ」
志揚は、小蘭の方を向いた。焚き火に照らされたその顔は、いつもの飄々とした笑みではなく、真剣な、けれどどこか怯えたような色を宿していた。
「もし、俺がいつか、お前のことも忘れちまったら――お前は、それでも一緒にいてくれるのか」
小蘭は、しばらく黙っていた。この問いに、軽々しく答えることはできない。だが、迷う時間は、それほど長くはなかった。
「忘れられても、あたしは覚えてる」
小蘭は、はっきりと言った。
「あんたが誰を忘れても、あたしがあんたを何者か教えてあげる。あんたが志揚だってこと、あたしが最初に見つけた志揚だってこと――何度でも」
志揚は、しばらく小蘭の顔を見つめていた。それから、静かに、けれど深く息を吐き、小蘭の肩に頭をもたせかけた。
「……お前がいてくれて、良かった」
その呟きに、小蘭は何も答えず、ただ志揚の手を握り返した。
異変が起きたのは、それから三日後、山道が一段と険しくなった、切り立った崖沿いの道でのことだった。
背後から、複数の足音と、馬の嘶きが聞こえてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。二人は反射的に、道を逸れて茂みの中に身を隠す。
「――このあたりだ。逃げた影武者と、消えた妃の侍女の足取りが、この道に続いているはずだ」
聞こえてきた声に、小蘭は息を呑んだ。声の主に見覚えはない。だが、その物々しい装束――太后宮の紋章を纏った兵たちだと、一目で分かった。龍玄配下の密偵。噂は、本当だったのだ。
茂みの隙間から覗くと、五、六人ほどの兵が、山道を慎重に登ってくるのが見えた。先頭に立つ男は、腰に見覚えのある形の剣を差している。龍玄本人ではない――だが、その配下の中でも、上位の者であることは、装いから察せられた。
志揚の身体が、小蘭の隣で微かに緊張するのが分かった。彼の輪郭が、緊張のせいか、それとも別の理由か、ごく僅かに揺らぎ始めている。小蘭は、とっさに懐から竹の管を取り出し、志揚の手に押し付けた。
「今、飲んで」
志揚は無言で頷き、竹の管の中身を口に含んだ。しばらくして、揺らぎは治まっていく。だが、その間も、兵たちの足音は着実に近づいてきていた。
茂みの中で、二人は息を殺した。心臓の音さえも聞こえてしまうのではないかと思うほどの静けさの中、兵たちの列が、二人の隠れる茂みのすぐ脇を通り過ぎていく。
一人の兵が、ふと足を止めた。
小蘭は、全身が凍りつくのを感じた。兵は、茂みの方をじっと見つめている。まさか、気づかれたのか――。
「どうした」
「いや……何か、獣の気配がしたような気がしてな」
「気のせいだろう。先を急ぐぞ」
その兵は、しばらく茂みを見つめていたが、やがて仲間に促され、再び歩き出した。足音が遠ざかっていくのを、二人はただじっと待ち続けた。
完全に気配が消えるまで、二人はどれほどの時間、息を潜めていたか分からない。ようやく茂みから這い出したとき、小蘭の手は、まだ小刻みに震えていた。
「……危なかったな」
志揚が、掠れた声で言った。小蘭は頷くことしかできなかった。
この山中にまで、追っ手はすでに迫っている。もう、悠長に旅を続けている余裕はない。白霧山に――道観にたどり着くまで、あとどれほどの距離が残されているのか、それすら定かではないというのに。
その頃、都の宮廷では――。
張志明は、自室の文机に向かい、届いたばかりの報告書に目を通していた。太后宮配下の密偵が、逃亡した影武者と侍女の足取りを、西の山中で掴んだという報せだった。
志明は、しばらくの間、その紙面をただ見つめていた。表情は、いつもと変わらず静かなままだ。だが、その内心で何が動いているのかは、彼自身にも、はっきりとは言葉にできないものだった。
――切り捨てたはずだった。道具が壊れかけたなら、次の道具を用意すればいい。そう、自分に言い聞かせてきたはずだった。
だが、この報告書を握る指先には、微かな力がこもっている。それが苛立ちなのか、それとも他の何かなのか、志明は自問することを、あえて避けた。
「……このまま、太后宮の好きにさせるか」
誰へともなく呟いた声は、部屋の静けさに溶けて消えていった。志明は報告書を文机の抽斗にしまい込むと、それ以上、何をするでもなく、ただ窓の外に広がる、西の方角の空を、長い間見つめていた。
その空の下、遥か遠くの山道を、二人の影が、まだ歩き続けている。
行く先に何が待っているのか――道観にたどり着いた先で、二人が何を知ることになるのか、それはまだ、誰にも分からなかった。




