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承・二

 旅立ちから一月が過ぎる頃には、二人は南の大きな川筋に沿った町、渡青にたどり着いていた。


 後宮のあった都からは、もうずいぶんと離れている。渡青は舟運で栄えた町で、行き交う人々の身なりも訛りも様々だった。北から来た二人連れが多少目立ったところで、誰も気に留めるほどの余裕はない。小蘭にとっては、初めて「人混みに紛れられる」という安堵を覚えた場所だった。


 路銀はとうに底をついていたので、二人は町外れの食堂で下働きの口を得た。小蘭は厨房で野菜を刻み、志揚は荷運びと、店先の客あしらいを引き受けた。慣れない力仕事に志揚が音を上げるかと思いきや、案外そつなくこなしているのを見て、小蘭は密かに感心した。


「あんた、意外と手先が器用なのね」


「暗殺者だったんだぜ。刃物の扱いくらい、荷運びの縄結びよりよっぽど得意だ」


 志揚は事もなげにそう言って、笑ってみせた。冗談めかした口調だったが、小蘭にはその笑みの奥に、宮廷で背負っていたものの重さが、まだ完全には消えていないことが分かった。


 それでも、渡青での日々は、二人にとって束の間の安らぎだった。夜、店の裏の小さな部屋で、二人並んで眠りにつく。誰かに命じられるでもなく、誰かの代わりでもなく、ただ「明日も一緒にいる」というだけの約束を、二人は日々積み重ねていった。


 だが、その安らぎに影が差したのは、渡青に着いてからひと月半ほど経った、ある夕方のことだった。


「北の都から、お触れが回ってきたらしいぞ」


 食堂の常連客が、酒を片手にそんな噂話をしているのを、小蘭は皿を運びながら耳にした。


「なんでも、宮中の宦官のところから、影武者が逃げ出したとかで。妖術使いの手先だとか、化け物だとか、物騒な話でな」


「化け物、ねぇ」


「見つけ次第、生死を問わず捕らえよ、とお達しが出てるらしい。太后様のご子息が、直々に手勢を差し向けたとかいう話だぞ」


 小蘭は、危うく皿を取り落としそうになった。動揺を悟られぬよう、そのまま厨房へと足早に戻る。


 龍玄。あの太后の子が、直々に――。


 志明が「見逃した」のか「無関心だった」のか、あの城門での対峙以来、ずっと曖昧なままだった答えの一端が、これで少し見えた気がした。太后・美玲の側は、志揚を「妖術使いの正体」として、明確に政治利用しようとしている。志明の思惑がどうであれ、太后派はこの一件を放っておくつもりはないということだ。


 その夜、小蘭は志揚にその話をした。志揚は黙って聞いていたが、やがて静かに言った。


「渡青にも、もう長くはいられないかもな」


「……そうね」


「悪かったな。せっかく、少しは落ち着けたのに」


「あんたが謝ることじゃない」


 小蘭は志揚の手を握った。


「あたしたちが選んだ道でしょう。今更、後悔なんてしない」


 志揚は少し驚いたように小蘭を見て、それから、ふっと表情を緩めた。


「……そうだな」


 だが、その夜遅く、小蘭はふと目を覚まし、隣で眠っているはずの志揚の様子がおかしいことに気づいた。


 志揚の身体の輪郭が、闇の中で、ごく微かに――蝋燭の炎が風に揺れるように、揺らめいていた。


「志揚……!」


 小声で呼びかけると、志揚は苦しげに目を開けた。


「……ああ、悪い。夢見が、悪かったみたいだ」


「大丈夫なの」


「大丈夫だ。ただ……」


 志揚は自分の手のひらを、しばらくじっと見つめていた。


「今の夢、変な夢だった。誰かの顔が出てきたんだが……起きたら、もう思い出せない。誰の顔だったのかも、何を言われたのかも」


 小蘭の胸に、冷たいものが広がった。渡青に来てからというもの、志揚のこうした「揺らぎ」は、明らかに頻度を増していた。旅の疲れのせいだと、二人でそう言い聞かせてきたが、もうそれだけでは片付けられないところまで来ているのかもしれない。


「志揚。もし、あんたの中の何かが、本当に少しずつ欠けていってるんだとしたら――」


「止められないなら、意味のない話だろ」


 志揚は、努めて軽い調子でそう言ったが、その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。


「今は、追っ手のことだけ考えよう。あんたのことだって、俺が守る」


 その言葉に、小蘭は何も言い返せなかった。ただ、志揚の手を、闇の中でもう一度、強く握りしめた。


 翌日、二人は食堂の主人に暇を告げ、渡青を発つ支度を始めた。行く先は決めていない。ただ、追っ手の噂が及ばぬ、もっと南か、あるいは西の、人里離れた土地を目指すしかない。


 町を出る朝、渡し場で舟を待っていたとき、二人は一人の老人に声をかけられた。


「お前さんたち、遠くへ行くのかね」


 継ぎの当たった道士服を纏った、白髪の老人だった。腰には古びた木剣を差し、その目は、まるで二人の姿の奥にある何かを見透かすように、じっと二人を見つめていた。


「……ええ、少し」


 志揚が警戒しながら答えると、老人は静かに笑った。


「そう構えなさんな。わしは、ただの流れ道士よ。だが――」


 老人は、志揚の顔を、それから小蘭の顔を、順に見つめた。


「お前さんたちの気配、少々珍しいものでな。長く生きておると、時折こういう気配に出くわすことがある」


 小蘭と志揚は、思わず顔を見合わせた。老人は、それ以上深くは踏み込まず、ただ懐から小さな竹の管を取り出し、志揚に差し出した。


「もし、身体の輪郭が揺らいで難儀することがあれば、これを飲むといい。根本の治療にはならんが、しばしの間、揺らぎを鎮める効き目がある」


「……なぜ、そんなものを」


 志揚が問うと、老人は、どこか遠くを見るような目をして言った。


「わしも昔、似たような気配を持つ者を、何人か見送ったことがあってな。もし、その者たちの起こりを知りたくなったら――西の、白霧山にある道観を訪ねてみるがいい。答えがあるかどうかは、知らんがね」


 それだけ言うと、老人は舟に乗り込み、川の向こうへと去っていった。


 小蘭と志揚は、しばらくの間、老人が消えた川面を見つめたまま立ち尽くしていた。


「……白霧山、か」


 志揚が呟いた。


「行ってみるか」


 小蘭は、志揚の手にある竹の管を見つめ、それから彼の顔を見上げた。


「行きましょう。あんたの中で何が起きてるのか、あたしも知りたい」


 二人は、次の舟に乗り込んだ。行く先は、西――白霧山。


 追っ手の影は、まだ二人の背後に迫ってはいなかった。だが、その静けさが、いつまで続くのかは、誰にも分からなかった。

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