泡になっても、恋をする 承・一
城壁を離れて三日が経つ頃には、小蘭はもう、後宮の甍がどちらの方角にあったのかさえ、はっきりとは思い出せなくなっていた。
それが寂しいのか、清々しいのか、自分でもよく分からない。ただ、朝目覚めるたびに、鏡がないことに気づいて――そして、鏡がないということは、そこに李黎利の顔を探さなくていいということだと思い直して、小さく息を吐く。その繰り返しだけが、今の小蘭にとって、確かな「日常」の手触りだった。
二人が選んだ道は、南だった。理由らしい理由はない。強いて言うなら、志揚が「南の方が、冬が優しいらしい」と、根拠の怪しい話をしたからだ。
「らしい、って何よ。行ったことあるの」
「ねぇよ。噂で聞いただけだ」
志揚はそう言って、悪びれもせず笑った。宮廷にいた頃の、刃のように張り詰めた気配はもう薄れ、代わりに、どこか気の抜けた飄々とした調子が戻ってきている。小蘭はそれを見るたび、ほっとするような、それでいてどこか落ち着かないような、複雑な気持ちになった。
旅は、当然ながら平坦ではなかった。金はほとんど持ち出せなかったし、通行手形もない。二人は街道を避け、山裾の細い道や、荷を運ぶ農夫たちの後をついて歩くようにして、少しずつ南を目指した。夜は廃屋や祠の軒先を借り、時には野宿もした。
それでも、小蘭にとってその日々は、これまでの人生で最も「自分自身」でいられる時間だった。
誰かの代わりに歩く必要がない。誰かの言葉を、誰かの声で語る必要がない。朝、目を覚まして、腹が減ったと思えば、それを素直に口にすればいい。ただそれだけのことが、こんなにも眩しいものだったのかと、小蘭は歩きながら何度も思い知らされた。
「腹減った」
「あたしもよ」
二人で顔を見合わせて笑う。それだけのやり取りが、後宮での何十日分の会話よりも、ずっと豊かに感じられた。
最初の異変に気づいたのは、旅立ってから十日目の夜のことだった。
その日、二人は小さな谷あいの村外れで、朽ちかけた水車小屋に潜り込んで夜を明かすことにしていた。焚くほどの薪もなく、二人は身を寄せ合って、互いの体温だけを頼りに寒さをしのいでいた。
「なあ、小蘭」
志揚が、闇の中でぽつりと言った。
「俺たちが初めて会った夜のこと、覚えてるか」
「もちろん」
小蘭は少し笑った。忘れるはずがない。回廊ですれ違い、目が合った瞬間、互いに同じ境遇だと悟った、あの夜のことだ。
「あんたが先に言ったのよ。『お前、誰かの代わりに歩いてるだろう』って」
「……そうだったか」
志揚の声に、微かな、けれど確かな戸惑いが滲んでいた。小蘭は、闇の中で彼の顔を覗き込む。
「覚えてないの?」
「いや……覚えてる。覚えてるはずなんだが」
志揚は自分の額に手を当て、何かを手繰り寄せようとするように、しばらく黙り込んだ。
「なんか、こう……あの夜の月の形とか、お前が着てた着物の色とか、そういう細かいところが……妙に、ぼやけてるんだ」
「そんなの、忘れちゃうこともあるでしょ。半年以上も前のことだもの」
小蘭は努めて軽い調子で言った。だが、心の奥で、小さな棘のようなものが疼くのを感じないわけにはいかなかった。志揚は「忘れた」のではない。志揚自身の言い方を借りるなら、「ぼやけている」――まるで、そこにあったはずのものが、輪郭だけを残して薄れていくような、そんな感覚だ。
小蘭の脳裏に、あの古井戸小屋での夜がよぎる。志揚の身体の輪郭が、月光の下で揺らめいていた、あの光景。あれは肉体の話だったはずだ。だが今、志揚の中で揺らいでいるのは、記憶の方だった。
――蘇るたびに、何かが少しずつ、欠けていくのだとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、小蘭は思わず志揚の手を強く握った。志揚は驚いたように小蘭を見る。
「どうした」
「なんでもない」
小蘭は首を振った。今はまだ、志揚に不安を悟らせたくなかった。ただの旅の疲れかもしれない。眠れない夜が続けば、誰だって記憶は曖昧になるものだ――そう自分に言い聞かせながら、小蘭は志揚の肩に頭を預けた。
だが、その夜、小蘭はなかなか寝付けなかった。
翌朝、二人は近くの村へ、食料を分けてもらえないか頼みに行くことにした。旅の途中、身なりの怪しい二人連れを不審がられることも多かったが、幸いこの村では、老いた農婦が二人を憐れんで、粥と乾いた芋を分けてくれた。
「お前さんたち、どこから来なすった」
農婦の何気ない問いに、志揚は淀みなく答えた。
「北の方の、小さな町の生まれです。訳あって、二人で南へ」
その受け答えのなめらかさに、小蘭は内心で舌を巻いた。志揚は昔から、こういう咄嗟の受け答えが上手い。宮廷で暗殺者として動いていた頃に培われたものなのだろう、と小蘭は思っていた。
だが、村を出てしばらく歩いた頃、志揚がふと足を止めて言った。
「なあ……俺、さっき何て答えたっけ」
「北の町の生まれだって。訳あって南に来た、って」
「ああ、そうか」
志揚は頷いたが、その表情には、やはり微かな戸惑いが残っていた。まるで、自分の口から出た言葉を、他人事のように聞き返しているかのような。
「最近、ちょっと変だな、俺」
志揚は自嘲気味に笑ってみせたが、小蘭にはもう、それを笑い話として受け流すことができなかった。
「志揚」
小蘭は立ち止まり、正面から彼を見つめた。
「あんた、前にも言ってたわよね。『何回目まで戻ってこられるか、分からない』って」
「……ああ」
「もしかして、それって――消えるか消えないか、っていう話だけじゃないんじゃない? 蘇るたびに、何かが少しずつ、欠けていってるんじゃない?」
志揚は、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、道の先に広がる、うっすらと霞んだ山並みを見つめていた。
「……分からない」
やがて、彼はぽつりと言った。
「もし、そうだとしても――今のところ、お前のことを忘れたことは、一度もない。それだけは、確かだ」
その言葉に、小蘭は少しだけ救われた気持ちになった。だが同時に、心のどこかで冷たいものが疼く。もし、志揚の中の何かが少しずつ欠けていくのだとしたら――いつか、その「確かなこと」すらも、揺らいでしまう日が来るのではないか。
小蘭は、その不安を口にはしなかった。ただ、志揚の手をもう一度、強く握り返した。
「忘れたら、あたしが何度でも教えてあげる」
その言葉に、志揚は少し驚いたように目を見開き、それから、いつもの飄々とした調子で笑った。
「頼もしいな、うちの相棒は」
二人は、また歩き出した。行く先はまだ、遠い。
その頃、後宮では――。
李黎利は、寝台の上で、久方ぶりに自分の足で公務に出向く準備をしていた。
小蘭がいなくなってから、すでに半月が過ぎている。最初の数日は、桂嬢や周囲の者たちに、小蘭――否、「自分」の不調を仮病で誤魔化し続けていた。だが、いつまでも通用する誤魔化しではない。ある朝、黎利はついに観念して、鏡の前に立った。
そこに映るのは、間違いなく自分の顔だった。だが、その顔を「自分の顔」だとはっきり認識したのは、随分と久しぶりのことのように感じられた。
「あたしは、どこまで怠けてたんだろうね」
誰に問うでもなく、黎利は呟いた。答える声は、どこにもない。もう、小蘭はいないのだから。
その日、黎利は初めて、自分の足で朝議の場に立った。慣れない礼服の重みに、慣れない言葉遣いに、幾度も舌を噛みそうになりながら。
それでも、黎利は歩みを止めなかった。




