一 仮病の妃
後宮の東、青梅宮の奥では、今日もまた李黎利が寝台の中で仮病を使っていた。
「頭が痛い。今日はどうしても起きられぬ」
薄絹の帳の向こうから漏れる声は、昨日と寸分違わぬ抑揚で紡がれる。侍女頭の桂嬢は、もう何度目かも数えていない溜息を飲み込んで、ただ一言「畏まりました」とだけ答えた。逆らったところで無駄なことは、この宮に仕える者なら誰でも知っている。李黎利という妃は、家格ゆえに後宮へ上がっただけの女で、寵愛にも権勢にも欠片ほどの興味を持たない。彼女が本気で欲しがるものといえば、誰にも邪魔されぬ午睡の時間くらいのものだった。
だから、黎利の「仕事」――妃としての公務、儀礼、他の宮への挨拶回り、時に煩わしい茶会――は、すべて小蘭の役目になる。
小蘭は、黎利とまったく同じ顔、同じ声、同じ背格好を持って生まれた。厳密に言えば「生まれた」のではないのかもしれない。小蘭自身、自分がどこから来たのかを正確には知らない。物心ついたときにはもう、黎利の影として、黎利のために働くのだと教え込まれていた。鏡を見れば、そこに映るのは自分ではなく黎利の顔だ。その事実に、幼い頃はひどく怯えたものだが、今ではもう慣れてしまった。
「今日は西の茶会でございますね」
小蘭は、黎利が脱ぎ捨てた寝間着の上に、正装の襦裙を静かに広げながら言った。黎利は寝台の上で寝返りを打ち、片目だけを開けて小蘭を見る。
「頼んだよ、小蘭。あんたがいてくれて、あたしはほんとうに助かってる」
「ええ、存じております」
小蘭の返す声は素っ気ない。だが、そこに悪意はない。むしろこの気安さこそが、二人の間だけに許された、唯一の砕けた時間だった。表向き、小蘭は黎利の「侍女の一人」として振る舞う。しかし人目のない寝所でだけ、二人は主従の型を脱ぎ捨て、まるで姉妹のように軽口を叩き合う。黎利は怠け者だが、小蘭を道具として扱うことだけはしない。それだけが、小蘭にとって数少ない救いだった。
着替えを終え、髪を結い上げ、鏡の前に立つ。そこに映るのは、間違いなく「李黎利」の顔だ。小蘭は毎朝、この瞬間に小さく息を止める。自分の顔がどこにもない、という事実に。
だが今日は少しだけ、いつもと違うことを考えていた。西の茶会の後、こっそり抜け出せる時間があるだろうか、と。
会いたい人がいる。
この後宮の中で、ただ一人、小蘭を「李黎利」としてではなく「小蘭」として見てくれる男に。
二 禁じられた逢瀬
その男の名は、志揚という。
彼もまた、小蘭と同じ境遇を持つ者だった。宦官・張志明の影として、志明の身代わりを務める――否、「務める」という生易しい言葉では足りない。志揚が引き受けるのは、志明が表立って手を下せない、宮廷の暗部の始末そのものだった。
志明という男を、小蘭は茶会の席で二度ほど見かけたことがある。若くして皇帝の信を得た、宮廷随一の切れ者と評判の宦官だ。物腰は柔らかく、言葉は常に慇懃で、誰に対しても隙を見せない。だが、その笑みの奥に何を隠しているのか、小蘭には見当もつかなかった。
志揚とは、半年ほど前、ある夜の回廊で偶然すれ違ったのが始まりだった。互いに人目を忍んで歩いていた者同士、目が合った瞬間、なぜか分かった。ああ、この人も自分と同じだ、と。
「お前、誰かの代わりに歩いてるだろう」
志揚は開口一番、そう言った。小蘭が答えるより先に、彼は自嘲するように笑って続けた。
「俺もだよ。張志明様の、代わりにな」
それからだった。二人が言葉を交わすようになったのは。表向きは何の接点もない妃の影と宦官の影。しかし、月に数度、互いの「本体」の目を盗んでは、後宮の外れにある廃れた楼閣で落ち合うようになった。
「今日は西の茶会だったんだって? 噂じゃ、桃花宮の妃と激しくやり合ったらしいな」
志揚は楼閣の欄干に腰を下ろし、足をぶらぶらと揺らしながら言う。宮中で見せる志明の抜け目のない物腰とは似ても似つかない、投げやりで気安い口調だった。小蘭は思わず笑ってしまう。
「やり合ったわけじゃないわ。ただ、桃花宮の妃様が回りくどい嫌味を言うから、こっちも遠回しに切り返しただけ」
「それを『やり合った』って言うんだよ」
「あんたこそ、今日はどこの誰を始末してきたのよ」
軽い口調で尋ねながらも、小蘭の胸の奥には、いつも小さな棘が刺さる。志揚が本当は何をしているのか、詳しくは聞かされていない。ただ、志揚が時折、数日姿を見せなくなること。戻ってきたときに、隠しきれない疲労と、時には説明のつかない傷を負っていること。それだけは、嫌でも知ってしまっていた。
「今日はいい。休みだ」
志揚はそう言って、話を逸らすように空を見上げる。夕暮れの光が、彼の横顔を橙色に染めていた。整った顔立ちは、宦官である志明とはまるで違う――志揚の身体には、志明が生まれつき持ち得なかったものが、確かに備わっている。それが何を意味するのか、小蘭はまだ深く考えたことはなかった。
「あんたさ」
志揚が唐突に口を開く。
「もし、俺たちが本物の人間だったら、どうしてたと思う?」
「本物の人間?」
「レプリカじゃなく、誰かの代わりでもなく、ただの……小蘭として、志揚として生きてたら」
小蘭は、その問いにすぐには答えられなかった。考えたことがなかったわけではない。むしろ、考えないようにしてきた問いだった。自分に許された人生などない――そう思い込むことで、日々をやり過ごしてきたのだから。
「分からない」
正直にそう答えると、志揚は苦笑した。
「俺も分からない。だから、考えるのはよそう」
そう言いながらも、彼の手が小蘭の手にそっと重なる。その温もりだけが、小蘭にとって唯一「自分は確かにここにいる」と感じられる証だった。誰かの代わりとしてではなく、小蘭として触れてもらえる、唯一の時間。
二人はまだ知らなかった。この静かな逢瀬が、もうそう長くは続かないということを。
三 泡沫の使者
異変が起きたのは、それから半月ほど経ったある夜のことだった。
小蘭がいつものように楼閣で志揚を待っていると、彼はいつもよりずっと遅れてやって来た。着物のあちこちが乱れ、右腕からは血が滲んでいる。何より、小蘭を最も戦慄させたのは、志揚の輪郭が――月明かりの下で、微かに、揺らいで見えたことだった。
「志揚……!」
駆け寄る小蘭を、志揚は片手で制した。
「大丈夫だ。少し、しくじっただけだ」
「しくじった、って……その腕――」
「大したことじゃない」
志揚は歯を食いしばるように笑ってみせたが、小蘭の目はごまかせなかった。彼の身体の輪郭が、まるで水面に映る月のように、ゆらり、ゆらりと揺れている。まるで今にも、その姿ごと消えてしまいそうに。
「あんた……前にも、こんなことがあったの?」
志揚は答えなかった。その沈黙こそが、答えだった。
小蘭はようやく理解した。志揚が数日姿を消しては戻ってくる、その正体を。彼は「死んで」いるのだ。志明の身代わりとして、暗殺者に討たれ、あるいは政敵に討たれ――そのたびに、志揚という存在そのものが、泡となって消えていく。そして、また新たに、志揚として蘇る。
宮廷の噂では、張志明は何度暗殺されても死なない、妖術使いだと囁かれている。誰も彼の死体を見た者がいないからだ。誰も知らない。志明が死なないのではなく、志明の代わりに、志揚が死に、そして泡となって消え、痕跡すら残さずいなくなっているだけだということを。
「志揚……あんたは、いつか本当に、消えてしまうの?」
その問いに、志揚は初めて、いつもの飄々とした笑みを崩した。
「……分からない。何回目まで戻ってこられるのか、俺自身にも分からないんだ」
沈黙が楼閣を包む。夜風が二人の間を通り抜けていった。
「志明様は、俺が消えても、また新しい俺が生まれてくると思ってる。道具が壊れたら、次の道具を用意すればいい――そんな風にな」
「そんな……」
「怒ってねぇよ、別に」
志揚は自嘲気味に言った。
「俺は最初から、そういうもんだって分かってた。宦官の影なんて、誰も本気で人間だと思っちゃいない。志明様だって、多分な」
その言葉の乾き方に、小蘭は胸が締め付けられる思いがした。志揚は自分の命の軽さを、まるで当然のことのように語る。だが、小蘭にとってはもう、当然のことではなくなっていた。
「あたしは……」
言葉が続かない。小蘭は志揚の傷ついた腕に、そっと自分の手を添えた。
「あたしは、あんたが消えるのは嫌」
自分でも驚くほど、率直な言葉が口をついて出た。志揚は一瞬、目を見開き、それから静かに笑った。今度は、いつもの投げやりな笑いではなく、どこか困ったような、それでいて確かに温かい笑みだった。
「……そう言ってくれるのは、お前だけだよ、小蘭」
その夜、二人は初めて、互いの本当の名を呼び合った。李黎利の影としてでも、張志明の影としてでもなく、ただの小蘭と、ただの志揚として。
だが、この密やかな幸福が長くは続かないことを、二人はまだ知らなかった。
四 牙をむく龍
揚龍玄という男の名を、後宮で知らぬ者はいない。
先代皇帝の寵妃であった揚美玲――今は太后として、なお隠然たる権勢を保つ女の一人息子。その武を恐れぬ者はなく、意に沿わぬ者の手足を、ためらいなく切り落とすという噂は、誇張ではなく事実だった。現皇帝の側近たちの間では、龍玄に目をつけられることは、死を宣告されるに等しいとまで言われている。
志明が、その龍玄の動きを探らせるために志揚を放ったのは、避けようのない政治の力学だった。太后派が現皇帝の勢力を切り崩そうと画策している――その証拠を掴むため、志揚は太后宮の周辺に潜り込み、龍玄配下の密談を探る任を負っていた。
そして、しくじった。
龍玄自身に、姿を見られてしまったのだ。
その夜、志揚は辛くも逃げおおせたものの、龍玄の剣に腕を斬られ、輪郭が揺らぐほどの深手を負った。だが、真に恐ろしいのはそこではない。龍玄は、逃げる志揚の姿が――一瞬、月光の下で泡のように揺らめくのを、確かにその目で見てしまっていた。
「妖術使いの噂は、本当だったか」
龍玄がそう呟いたという話は、翌日にはもう太后宮から漏れ伝わっていた。志明は、この報せを表情ひとつ変えずに聞いたという。だが、内心でどれほどの計算が渦巻いていたかは、誰にも分からない。
小蘭がその一部始終を知ったのは、偶然だった。
黎利の代わりに桂嬢へ届け物をした帰り道、廊の陰で、志明が己の側近と交わす声を耳にしてしまったのだ。
「志揚は、もう使えぬ。龍玄に姿を見られたとあっては、これ以上動かせば、私自身の首まで危うくなる」
「では、如何なさいますか」
「切り捨てる。都合よく、行方知れずにでもなってもらおう。妖術使いの正体などというものは、実体のないままの方が、かえって私の身を守る盾になる」
その言葉を聞いた瞬間、小蘭の頭からすっと血の気が引いた。切り捨てる――志明は、志揚を守るつもりなど、最初からなかった。道具が壊れかけたなら、次の道具を用意すればいい。志揚自身が語っていた、あの乾いた諦めの言葉が、そのまま現実になろうとしていた。
小蘭は踵を返し、震える足で走り出した。行き先は一つしかない。二人がいつも落ち合う、あの廃れた楼閣だ。
だが、そこに志揚の姿はなかった。
代わりに、楼閣の柱に一枚の短い書き付けが残されていた。志揚の手蹟だ。
『しばらく身を隠す。俺のことは探すな。見つかれば、お前まで巻き込む』
小蘭は、その紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。志揚は、自分が切り捨てられることを、すでに悟っていたのだ。それでもなお、最後に案じたのは自分自身ではなく、小蘭の身の安全だった。
冗談ではない、と小蘭は思った。
誰かに言われて動くことにも、誰かの代わりとして生きることにも、もう慣れきっていたはずだった。だが今、初めて、自分自身の意志で決めたいことがある。
志揚を探す。見つけ出す。そして――。
そこから先は、まだ言葉にできていなかった。だが、足はもう動き出していた。
五 選択
太后宮の裏手、龍玄配下の私兵が見張りを固める区画の外れに、使われなくなった古井戸小屋があることを、小蘭は志揚から一度だけ聞いたことがあった。「万一の時は、あそこに隠れる」――冗談交じりに語られたその言葉を、小蘭は頼りに夜の後宮を駆けた。
人目を避けながら進む道のりは、これまでの人生で最も長く感じられた。妃・李黎利としての顔を使うことも、今夜だけはできない。誰何されれば、それこそ命取りになる。小蘭は下働きの女中の格好に着替え、影から影へと身を潜めながら進んだ。
古井戸小屋にたどり着いたとき、中には血の匂いが微かに漂っていた。
「志揚……!」
小声で呼びかけると、暗闇の奥から、掠れた声が返ってきた。
「……なんで、来た」
小蘭が明かりを灯すと、志揚は壁に背をもたせかけ、荒い息をついていた。腕の傷はまだ塞がっておらず、身体の輪郭は、時折思い出したように揺らめいている。それはまるで、蝋燭の火が消える寸前に見せる、最後の瞬きのようだった。
「探すなって、言っただろ」
「聞くわけないでしょう、そんなの」
小蘭は志揚の傍に膝をつき、震える手で彼の傷口に布を当てた。志揚は苦笑して、その手を止めさせようとした。
「意味ないよ。俺はもう、志明様に切り捨てられた。龍玄に姿を見られちまった以上、生かしておく方が危険なんだ。あの人にとっちゃ、俺は最初から――」
「あんたが自分をどう思ってようと、関係ない」
小蘭は、いつになく強い口調で遮った。
「あたしにとっては、あんたは道具なんかじゃない」
志揚は言葉を失った。小蘭は続けた。
「あたしだって、ずっと誰かの代わりだった。鏡を見るたび、そこに自分の顔がないことに、慣れたふりをしてきた。でも――あんたと会ってから、初めて分かったの。誰かの代わりとしてじゃなく、小蘭として見てもらえるのが、こんなに――」
声が震え、続きが出てこなくなる。志揚は、そんな小蘭の頬に、そっと手を伸ばした。
「……分かった」
彼は静かに言った。
「もう、逃げも隠れもしない。逃げるにしても、独りじゃなく――」
「あたしも連れて行って」
小蘭は、志揚の言葉を待たずに口にした。
「城の外へ。あたしたちが、あたしたちのままでいられる場所へ」
志揚は一瞬、驚いたように目を見張り、それから深く息を吐いた。
「城の外に出たら、俺たちがどうなるかも分からない。本体から離れて、消えずにいられるのかどうかも……誰も試したことがない」
「それでもいい」
小蘭の声に迷いはなかった。
「このまま城の中で、あんたが切り捨てられるのを、黙って見ているくらいなら――消えるとしても、あんたと一緒がいい」
志揚は長い沈黙の後、ようやく頷いた。
「……分かった。行こう」
二人は、夜明け前の闇に紛れ、城門を目指して動き出した。もう、後戻りはできない。
六 城門の彼方
城門までの道は、当然ながら平坦ではなかった。太后宮の私兵は、志揚の行方をすでに追い始めていたし、黎利の宮からは、小蘭の不在に気づいた桂嬢が声をひそめて騒ぎ始めていた頃合いだった。
東の門は、明け方の交代の隙が最も狙い目だと、志揚は知っていた。だが、その門へ向かう途中、路地の角で、二人は一人の男と鉢合わせしてしまう。
張志明だった。
小蘭は息を呑んだ。志揚も、傷ついた足を庇いながら、身構える。
志明はしばらくの間、無言で二人を見つめていた。その表情からは、何を考えているのか一切読み取れない。宮廷随一の切れ者と呼ばれる男の、底知れぬ静けさ。
「……志明様」
志揚が、ようやく絞り出すように名を呼ぶ。志明はゆっくりと口を開いた。
「探す気などなかった。お前がどこに消えようと、私には関わりのないことだ」
その言葉が、本心なのか、それとも見逃すための建前なのか、小蘭には判じようがなかった。ただ、志明の視線が一瞬、小蘭の方へ向けられたとき、そこに何か――憐れみとも、諦めとも、あるいは羨望とも取れる色が過ぎったような気がした。
「行け」
志明は短くそれだけ言うと、踵を返し、来た道を戻っていった。振り返ることは、一度もなかった。
二人は、その後ろ姿がすっかり見えなくなるまで、動けなかった。
やがて志揚が、小さく息を吐いた。
「……見逃してくれたのか、それとも本当にどうでもよかったのか。分からねぇな、あの人は」
「どっちでもいい」
小蘭はそう言って、志揚の手を強く握った。
「今は、行くしかない」
東の門にたどり着いたのは、空が白み始めた頃だった。門番の交代の隙をついて、二人は城壁の内と外を隔てる、あの重い門をくぐり抜けた。
城門を越えた瞬間、朝の光が二人を包んだ。振り返れば、後宮の甍が、朝靄の向こうに霞んで見える。あの中で過ごした、誰かの代わりとしての日々――もう二度と戻ることのない場所。
志揚の身体が、光の中で一瞬、微かに揺らいだ。小蘭は思わず、彼の手を強く握りしめる。
「大丈夫」
志揚は、掠れた声で、けれど確かに笑いながら言った。
「まだ、消えてない」
「これから先も、消えないで」
「約束はできない。俺がこの先、何回まで戻ってこられるのか、俺自身にも分からないんだ」
「それでもいい」
小蘭は繰り返した。
「消えるとしても、次に消えるときは――独りじゃない」
二人は、朝日に向かって歩き出した。行く先に何が待っているのか、誰にも分からない。城を出た影が、本体から離れてなお存在し続けられるのか、それすらも定かではない。
けれど、その不確かな道の上で、小蘭は初めて思った。
自分は今、誰の代わりでもなく、小蘭として、この道を歩いている。
たとえこの身が、いつか泡になって消えるとしても――今この瞬間、確かに志揚の隣にいる。それだけで、十分だった。
二つの影は、朝靄の中へと溶けるように消えていった。もう誰にも追いつけない場所へ。




