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結・二



 門の前に、李黎利が立っていた。


 旅装だった。裾は泥に汚れ、髪は乱れ、顔は、日に焼けて、少し痩せていた。後宮の寝台で仮病を使っていた妃の面影は、どこにもなかった。その隣に、桂嬢がいた。侍女頭もまた、旅装で、けれど背筋だけは、宮中にいた頃と変わらず、まっすぐだった。二人の後ろに、三人の護衛が、控えていた。志明の手の者だと、小蘭には、一目で分かった。


 小蘭は、門の内側で、足を止めた。


 黎利も、動かなかった。


 同じ顔が、向かい合っていた。霧の中で。門の内と外で。


 小蘭は、この顔を、十数年、鏡の中に見てきた。自分の顔だと思わずに。黎利の顔だと思って。今、その顔が、鏡ではなく、目の前にあった。鏡の中の顔は、いつも、小蘭と同じ動きをした。だが、目の前の顔は、違った。小蘭が息を呑んでも、その顔は、息を呑まなかった。ただ、小蘭を、見ていた。


「……小蘭」


 黎利が、言った。


「あんた、痩せたね」


 小蘭は、何も言えなかった。黎利は、少し、笑った。


「あたしも、痩せた。仮病が使えなくなったからね」


 その言い方が、あまりにも、黎利だったので、小蘭は、笑うべきか、泣くべきか、分からなくなった。結局、どちらもしなかった。ただ、一歩、門の外へ、出た。


 黎利が、一歩、門の内へ、入った。


 二人は、手を伸ばせば届く距離で、向かい合った。


「……何しに、来たんですか」


 小蘭は、ようやく、言った。宮中の言葉遣いに、戻っていた。黎利は、それを聞いて、眉をひそめた。


「その喋り方、やめて。寝所でしてた喋り方で、いい」


「……何しに来たのよ」


「そう、それ」


 黎利は、頷いた。それから、少し、言葉を探すように、霧を見た。


「あんたに、会いに来た。それだけ」


「それだけのために、都から」


「それだけのために、都から」


 黎利は、小蘭の目を、まっすぐに見た。


「あんたがいなくなって、あたしは、自分の足で立った。朝議に出て、茶会に出て、太后の前にも立った。全部、自分でやった。あんたがいたら、一生、やらなかったことを」


「……よかったじゃない」


「よかった。でも」


 黎利は、言葉を切った。それから、言った。


「あんたは、あたしの半分だった。それが、いなくなった。半分がなくても、立てることは分かった。でも、半分がないことは、変わらない」


 小蘭は、その言葉を、しばらく、受け止めていた。半分。黎利の半分。それは、代わりという意味なのか。それとも、別の何かなのか。


「……一つ、聞いていい」


「何」


「黎利様は、あたしを、あたしとして見てた? それとも、自分の代わりとして見てた?」


 黎利は、すぐには、答えなかった。霧が、二人の間を、流れた。


「……分からない」


 黎利は、言った。


「正直に言う。分からない。あんたに公務を押し付けてるとき、あたしは、あんたのことを、考えてなかった。考えたら、押し付けられなかったから。だから、あんたを、あんたとして見てたかと聞かれたら、見てなかった、と答えるしかない」


 小蘭は、目を伏せた。分かっていた答えだった。だが、黎利は、続けた。


「でも、あんたが逃げたと、桂嬢から聞いたとき。最初に思ったのは、『よかった』だった。困る、でも、腹が立つ、でもなく、よかった、だった。なんでか、自分でも分からなかった。今も、分からない。でも、それだけは、本当」


 小蘭は、顔を上げた。


 黎利の顔が、そこにあった。自分の顔。だが、自分ではない顔。その顔が、少し、泣きそうになっていた。


「……よかった、って」


「よかった、って思った。あんたが、あたしの代わりじゃなくなったことが」


 小蘭は、手を伸ばした。黎利の頬に、触れた。温かかった。自分の頬と、同じ温度だった。黎利は、動かなかった。


「……ずるいわよ、黎利様」


「知ってる」


「そんなこと言われたら、恨めないじゃない」


「恨んでも、いいよ。あたしは、あんたを、十何年、使ってた。恨まれて、当然だ」


「恨まないわよ」


 小蘭は、言った。


「恨む前に、あたしが、逃げちゃったもの」


 黎利は、笑った。泣きながら、笑った。小蘭も、笑った。同じ顔で、同じように、笑った。鏡の中の顔が、初めて、小蘭とは違う理由で、同じ表情をしていた。


 小蘭は、笑いながら、思っていた。御影司の記録に、自分の名が、黎利の名の隣に書かれていたこと。血一滴。記憶なし。それだけの記述で、自分は、生まれた。だが、今、目の前にいる黎利は、記録には書かれていないことを、言った。よかった、と。それは、記録のどこにも、ない。術のどこにも、ない。ただ、黎利が、自分で、思ったことだった。


 それが、あれば、十分だった。


 門の内側から、玄真が、それを見ていた。老道士は、何も言わなかった。ただ、清嵐に、小さく、呟いた。


「……縁が、太った」


---


 志揚は、少し離れたところで、二人を見ていた。


 二人が笑い合うのを、志揚は、不思議な気持ちで見ていた。同じ顔の女が、二人、泣きながら笑っている。片方は、小蘭。もう片方は、小蘭の本体。本体、というのが何なのか、志揚には、まだよく分からなかった。志揚にも、本体がいる。都に。宦官の。だが、その男の顔を、志揚は知らない。同じ顔だと、みんな言う。だが、志揚は、自分の顔を、鏡でしか見たことがない。この霧の観には、まともな鏡すらなかった。


 もし、その男が、今、目の前に現れたら。自分は、小蘭のように、泣きながら笑えるのだろうか。


 志揚は、分からなかった。分からないことばかりだった。だが、分からないまま、ここにいていいと、小蘭は言った。だから、志揚は、そこに立っていた。


 同じ顔の二人。片方は、志揚が知っている、小蘭。片方は、知らない女。だが、志揚には、その二人が、どこか、違って見えた。同じ顔なのに、違う。何が違うのかは、分からない。ただ、片方を見ると息が止まり、片方を見ても、止まらない。それだけだった。


 黎利が、志揚に、気づいた。妃は、小蘭から離れて、志揚の前に来た。志揚は、少し、身構えた。


「あんたが、志揚ね」


「……そう呼ばれてる」


 黎利は、志揚の顔を、じっと見た。それから、小蘭を振り返った。小蘭は、小さく、首を振った。黎利は、それで、察したようだった。


「……志明様から、聞いてる。あんたのこと。志明様は、あんたを、道具として使い潰したことを、悔いてる」


「志明」


 志揚は、その名を、繰り返した。


「俺の本体、だそうだ。宦官の」


「そう。あんたは、志明様を、覚えてないのね」


「覚えてない。名前と、宦官だってことしか、知らない」


 黎利は、しばらく、志揚を見ていた。それから、懐から、一通の文を取り出した。封をされた、宛名のない文だった。


「志明様から。あんたに、渡してくれと」


 志揚は、文を受け取った。封を、見た。開けようとして、手を止めた。


「……何が書いてある」


「知らない。志明様は、あんたが読みたくなったら読めばいい、読みたくなければ、読まなくていい、と」


 志揚は、文を、しばらく見ていた。それから、懐にしまった。開けなかった。


「知らない男からの文だ。今は、読む気になれない」


 黎利は、頷いた。責めなかった。


「志明様は、ね」


 黎利は、言った。


「御影司の記録を、帝の前に出した。自分の名も、記して。それで、太后派は、失脚した。志明様自身も、無事では済まない。帝は、まだ、沙汰を下していない。でも、志明様は、それを、承知の上で、やった」


「……なんで、そんなことを」


「分からない。志明様に聞いても、答えない。ただ、一つだけ、言ってた。夜明け前に、あたしの宮に来て、記録を置いて。『燃やしてはならぬと、誰かに止めてほしかったのかもしれません』って」


 志揚は、その言葉を、黙って聞いていた。


「それから、太后宮からの帰り道に。『あの者との縁は、私が、痩せさせてしまいましたから』って。あんたのことを、そう言ってた」


 志揚は、自分の胸に手を当てた。文をしまった、その場所に。


「……その人は、俺の、何なんだ」


 誰も、答えなかった。黎利も、小蘭も、玄真も。志揚は、その沈黙を、しばらく聞いていた。


 黎利は、志揚の顔を、見ていた。志明と、同じ顔。だが、まるで、違う。志明は、笑わなかった。志揚は、今、困ったように、笑っていた。志明は、何も語らなかった。志揚は、分からない、と、はっきり言った。同じ顔で、これほど違う二人を、黎利は、他に知らなかった。自分と小蘭を、除いて。


 それから、志揚は、言った。


「まあ、いい。今は、分からなくていい」


 それは、志揚が、小蘭に言った言葉だった。小蘭は、それを聞いて、少しだけ、目を伏せた。


---


 その夜、白霧観の堂で、黎利は、旅の話をした。


 都を出たのは、太后宮での対峙から、三日後のことだった。志明が、護衛を三人つけた。帝の沙汰を待つ身で、宦官が妃の旅に護衛をつける。それがどれほど異例のことか、黎利は、旅に出てから、ようやく分かった。


「都を出るのは、初めてだった」


 黎利は、言った。


「後宮に上がるとき、実家から都まで、馬車で来た。それきり。それから、ずっと、あの宮の中だった。あんたが、あたしの代わりに外に出てる間、あたしは、寝台の上だった」


 街道は、長かった。馬車が揺れるたびに、黎利は、酔った。桂嬢が、背中をさすった。護衛たちは、何も言わずに、馬を進めた。夜は、宿場の粗末な部屋で眠った。寝台は硬く、夜具は薄かった。黎利は、初めて、小蘭が、どういう場所で夜を明かしてきたのかを、身体で知った。


「あんたたちは、こんな道を、歩いて来たのね」


「歩いてよ。馬車じゃなくて」


「……そう」


 黎利は、それ以上、何も言わなかった。言えなかったのだと、小蘭は思った。


 それから、渡青で、川を遡る舟を待つ間に、町外れの食堂に入った。


「そこの主人がね」


 黎利は、言った。


「あたしを見て、『また来たのかい』って言ったの」


 小蘭は、息を止めた。


「太った、気のいい爺さん。周、とか言ったかな。あたしを、あんただと思ったのね。荷運びの男は一緒じゃないのか、って。あたしが、違うと言ったら、しばらく、あたしの顔を見て――それから、言った。『そうか。似てるが、違うな。目が、違う』って」


 黎利は、少し、笑った。


「あたしは、周に、聞いた。二人は、どんなふうだったか、って。そしたら、周は、しばらく考えて、言った。『男の方は、荷を運ぶとき、いつも、女の方を見てから、持ち上げてた。女の方は、野菜を刻むとき、男が店先で声を上げると、手が止まってた。それだけだ』って。それだけ、って言ってたけど、あたしには、それで十分だった」


 小蘭は、何も言えなかった。志揚も、黙っていた。周老板が、そんなふうに、二人を見ていたことを、小蘭は、知らなかった。


「あたしの目は、あんたの目より、怠け者の目をしてるんだって。それで、あたしは、あんたの本体だと、言った。そしたら、周は、何も聞かなかった。ただ、あたしの前に、粥を置いて、こう言った。『あの二人が戻ってきたら、縄はある、と伝えてくれ』って」


 小蘭は、目を閉じた。周老板。太った、気のいい爺さん。志揚が、名前を思い出せなかった人。その人が、縄はある、と言った。荷運びの縄。志揚が、暗殺者だったと冗談を言いながら、結んでいた縄。


「……渡青、か」


 志揚が、言った。小蘭は、目を開けた。志揚は、黎利を見ていた。


「俺たちが、いた町、だそうだな」


「そう」


「その周ってのは、俺を知ってるのか」


「知ってる。あんたが、荷運びをしてた店の主人」


 志揚は、少し、考えた。それから、小蘭を見た。


「……戻る場所、って、そこか」


 小蘭は、答えなかった。教えないと、決めていたから。だが、志揚は、答えを、待っていなかった。


「縄はある、か。悪くない言い方だな」


 志揚は、それだけ言った。


 堂の隅で、桂嬢が、小蘭を見ていた。侍女頭は、旅の間、ほとんど口をきかなかったと、黎利は言った。だが、今、桂嬢は、小蘭の方へ、歩いてきた。


「小蘭」


「……桂嬢」


「よく、生きていました」


 それだけ言って、桂嬢は、頭を下げた。宮中で、侍女頭が、一介の侍女に、頭を下げる。それは、あり得ぬことだった。小蘭は、戸惑った。


「桂嬢、頭を――」


「私は、知っておりました」


 桂嬢は、頭を下げたまま、言った。


「あなたが、妃殿下の影であることを。御影司から、あなたが来た日、私は、その場におりました。知っていて、あなたを、侍女として、扱いました。それが、あなたを守ることだと、思っておりました。ですが――」


 桂嬢は、顔を上げた。


「妃殿下が、ご自分の足で立たれるのを見て、分かりました。私が守っていたのは、あなたではなく、妃殿下が、何もせずに済む日々だった。あなたを、そのために、使わせていた。詫びるのは、妃殿下だけではございません」


 小蘭は、桂嬢の顔を、しばらく見ていた。宮中で、何百回も見た顔。溜息を飲み込んで「畏まりました」と言う顔。その顔が、今、まっすぐに、小蘭を見ていた。


「……桂嬢は、あたしに、いつも、着物を出してくれた」


「はい」


「黎利様の着物を、あたしのために、広げてくれた。毎朝。それで、十分よ」


 桂嬢は、何か言おうとして、言えず、もう一度、頭を下げた。今度は、小蘭は、止めなかった。


---


 黎利は、玄真と、二人だけで話す時間を持った。


 堂の奥。灯明の下。老道士は、黎利の話を、黙って聞いた。太后宮のこと。御影司の記録のこと。志明のこと。それから、黎利は、尋ねた。


「小蘭の縁を、太らせるには、あたしは、何をすればいいのですか」


 玄真は、少し、笑った。


「もう、した」


「……え」


「門の前で。お前が、あの娘に、よかった、と言ったとき。あの娘の縁は、太った。わしには、見えた」


 黎利は、言葉を失った。玄真は、続けた。


「縁は、術で太らせるものではない。本体が、影を、己の縁者として遇したとき、太る。お前は、あの娘に、代わりではなくなってよかった、と言った。それが、縁者として遇するということだ」


「……そんなことで」


「そんなことで、だ。だから、この術は、始まったときから、危うかった。人の心一つで、太りも痩せもする。影を道具と思う者には、痩せる。縁者と思う者には、太る。その違いを、術は、教えぬ。教えぬから、御影司は、影を使い潰した」


 黎利は、灯明の火を見た。


「志明様は」


「あの者の本体か」


「志明様も、志揚の縁を、太らせることが、できるのですか」


「もう、しておる」


 玄真は、言った。


「志揚が、戻ったとき、縁は太っておった。お前の話を聞いて、分かった。あの宦官が、己の名を記して上奏したとき。縁を痩せさせたのは私だと、口にしたとき。あの者は、志揚を、縁者として、見た。それが、志揚を、引き戻した。あの娘の呼び声と、あの宦官の悔いと、二つの縁で」


 黎利は、志明の顔を、思い浮かべた。何も語らない顔。だが、その手が、卓の縁を、強く握っていた。


「……志明様は、それを、知っているのでしょうか」


「知らぬだろう。知らずに、しておる。それでよい」


 夜が更けてから、黎利と小蘭は、影池のほとりに、並んで座った。


 霧が、水面を這っていた。黒い水に、同じ顔が、二つ、映っていた。


「ここで、生まれたんだって?」


 黎利が、水面を見ながら言った。


「あたしじゃない。あたしは、都の、御影司の水盥で。ここは、百年前に、最初の影身が生まれた池」


「そう。でも、同じ水よね」


「……同じ水」


 黎利は、水面に、手を伸ばした。指先が、水に触れた。波紋が、二つの顔を、揺らした。


「あたしの血から、あんたが生まれた。父が、そうしたんだって。御影司の記録に、そう書いてあった。血一滴。記憶なし。それだけ」


「知ってる。玄真様から、聞いた」


「あたしは、知らなかった」


 黎利は、言った。


「あんたが、どこから来たのか、聞かなかった。聞く必要がないと思ってた。聞いてたら、あたしは、あんたを、使えなかった。だから、聞かなかった。……ずるいでしょ」


「ずるい」


「うん」


 二人は、しばらく、黙って、水面を見ていた。波紋が、消えて、また、二つの顔が、静かに映った。


「小蘭」


「なに」


「あたしは、都に戻る。太后派の始末が、まだ終わってない。志明様の沙汰も。あたしがいないと、動かないことがある」


「……そう」


「あんたは、戻らなくていい。戻ってほしいとも、思わない。あんたは、あんたの場所に、いればいい」


 小蘭は、黎利を見た。黎利は、水面を見たままだった。


「でも、一つだけ」


 黎利は、言った。


「時々、会いに来て。都じゃなくていい。渡青でも、どこでも。あたしが、行く。あんたの半分が、まだ、あたしの中にあるから。それを、時々、確かめさせて」


 小蘭は、黎利の手を取った。水に濡れた、冷たい手を。同じ手だった。


「……いいわよ。仮病を使わなくても、来られるならね」


「使わないわよ。もう、使えないもの」


 黎利は、笑った。小蘭も、笑った。


 水面の二つの顔が、同じように、笑っていた。


 同じ頃、志揚は、一人、部屋にいた。


 寝台の縁に座り、懐から、文を取り出していた。宛名のない、封をされた文。知らない男からの文。志揚は、それを、灯明の火にかざした。封の向こうに、文字が透けて見えるわけではない。ただ、そうしてみたかった。


 志明。宦官。俺の本体。俺を道具として使い潰した男。俺を切り捨てた男。そして、自分の名を記して上奏し、縁を痩せさせたのは私だと言った男。


 志揚には、そのどれもが、他人の話だった。使い潰された覚えも、切り捨てられた覚えも、なかった。だから、恨みようがない。玄澄に言ったのと、同じだった。


 だが、玄澄と、志明は、違う。玄澄は、志揚を渡そうとして、祈った。志明は、志揚を使い潰して、悔いた。どちらも、志揚の知らないことだ。だが、志明は、志揚の本体だ。志揚が、この水から戻れたのは、志明の縁が太ったからだと、玄真は言った。知らない男の悔いが、自分をこの世に引き戻した。


 志揚は、文を、懐に戻した。


 読まなかった。読めば、知らない男が、知っている男になる。そうなれば、志揚は、また、その男の影に、戻るのかもしれない。それが、怖かった。今の志揚は、誰の影でもなかった。誰の代わりでもなかった。小蘭が、そう言ってくれた。それを、まだ、手放したくなかった。


「……悪いな」


 志揚は、誰に言うでもなく、呟いた。


「今は、まだ、読めない」


 そのとき、門の方で、声がした。


 護衛の一人が、何かを叫んでいる。清嵐が、駆けてくる足音。小蘭と黎利は、立ち上がった。


 門の前に、一人の男が、倒れ込んでいた。


 旅装は、血に汚れていた。左腕を、右手で押さえている。その顔を、小蘭は、知っていた。滝壺の岸で、志揚が泡になるのを見た男。証は消えた、と言って、去った男。


 賀琮だった。


「……間に合ったか」


 賀琮は、掠れた声で言った。


「龍玄が、来る。手勢は、十に足らぬ。だが、あの男が、来る。夜明けには、この山に、着く」


 黎利の顔から、血の気が引いた。


「龍玄が……太后は、幽閉されたはず――」


「妃殿下」


 賀琮は、黎利を見た。血の気の失せた顔で、それでも、密偵の目で。


「私は、滝壺の岸で、妃殿下の影を、見なかったと言った。証は消えた、と。太后宮に、そう報告した。太后は、私を疑った。龍玄は、疑わなかった。疑う代わりに、私の腕を、落とそうとした。それが、あの男のやり方だ」


 賀琮は、志明の名を、口にした。


「志明様は、私を、拾ってくださった。太后宮を追われた密偵を。理由は、聞かなかった。ただ、西へ行け、と。それだけだった」


「だからだ」


 賀琮は、言った。


「母を幽閉されて、あの男は、止める者を失った。証を消しに来る。影身も、記録も、妃殿下も。全部、消して、母を取り戻す気だ」


「志明様が、俺を寄越した。都で、龍玄の動きを掴んで。龍玄の手勢に、追いついた。三日、遅らせた。それが、限度だった」


 賀琮は、押さえた左腕から、手を離した。腕は、肩から、切り裂かれていた。龍玄の剣だと、誰の目にも分かった。


「あの男は、剣を抜く前に、何も言わぬ。手足を落とすときも、何も言わぬ。俺は、腕一本で済んだ。運がよかった」


 賀琮は、そこまで言って、意識を失った。


 志揚が、その身体を、抱き起こした。知らない男を。滝壺の岸で、自分の胸を、剣で貫いた男を。志揚は、それを知らなかった。ただ、傷ついた男を、抱き起こした。


 小蘭は、それを見ていた。志揚が、賀琮を抱き起こすのを。前の志揚なら、どうしただろう。自分を貫いた男を、抱き起こしただろうか。分からない。だが、今の志揚は、抱き起こした。それは、今の志揚が、選んだことだった。


 賀琮の目が、一瞬、開いた。志揚の顔を見た。滝壺で泡になった男の顔を。賀琮は、何か言おうとした。だが、志揚は、先に言った。


「喋るな。傷が開く」


 賀琮は、その顔を、しばらく見ていた。それから、目を閉じた。何も、言わなかった。言えなかったのかもしれない。


「……爺さん。この男を、中へ」


 玄真が、頷いた。


 玄真は、門の外の霧を、見た。それから、三人の弟子を、呼んだ。玄斉。玄琳。玄澄。三人の老道士は、すでに、そこにいた。


「兵が、また来る。今度は、渡すか渡さぬかを、問わぬ。問うまでもないからだ」


 玄澄が、一歩、前に出た。


「観主。今度は、私に、門を守らせてください」


 玄真は、玄澄を見た。長いあいだ。それから、頷いた。


 黎利は、桂嬢の手を、握っていた。護衛の三人が、剣を抜いた。小蘭は、志揚の隣に立った。志揚は、賀琮を清嵐に預けて、立ち上がった。その手には、何もなかった。だが、その手は、椀を受け止めた手だった。霧の中で道を覚えていた手だった。


「小蘭」


「なに」


「俺は、あの男を知らない。龍玄ってやつを。でも、お前が怖がってる顔をしてる。だから、俺も、怖がっておく」


 小蘭は、志揚を見た。志揚は、笑っていなかった。ただ、まっすぐに、霧を見ていた。


 夜は、まだ、明けていなかった。だが、霧の向こうから、いくつもの松明の火が、ゆっくりと、山を登ってきていた。

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