結・三
夜明けまでの一刻、白霧観は、眠らなかった。
玄真は、黎利と小蘭を、堂の奥に隠そうとした。御影司の記録と共に。龍玄が求めるのは、その三つだ。三つを隠せば、龍玄は、観を荒らして、去るかもしれない。老道士は、そう言った。
黎利は、首を横に振った。
「隠れません」
「妃殿下――」
「太后宮で、私は、あの男の前に立ちました。逃げなかった。今、隠れたら、あのとき立ったことが、嘘になる」
小蘭も、首を横に振った。
「あたしも、隠れない。龍玄は、どちらが本物か分からないと言ったんでしょう。だったら、二人で立つ。どちらが本物か、あの男に、分からせない」
玄真は、二人を見た。同じ顔。同じ、頑なな目。老道士は、溜息をついた。
「……お前たちは、本当に、よく似ておる」
「同じ顔ですから」
「顔の話ではない」
玄真は、それだけ言って、堂を出た。
志揚は、その間、賀琮の傍らにいた。賀琮は、目を覚ましていた。左腕は、清嵐が縛り直していた。賀琮は、志揚の顔を、じっと見ていた。
「……影身」
「志揚だ。そう呼ばれてる」
「志揚。俺は、お前を、貫いた。滝壺の岸で。お前は、自分から、俺の剣に――」
「知らない」
志揚は、遮った。
「聞いた。小蘭から。でも、覚えてない。だから、恨みようがない。それに」
志揚は、賀琮の腕を見た。
「あんたは、龍玄を三日、遅らせた。腕一本で。それは、俺が知ってることだ。知ってることの方を、覚えておく」
賀琮は、しばらく、志揚を見ていた。それから、目を閉じた。
「……志明様と、同じ顔で、まるで違うことを言う」
「よく言われる」
志揚は、立ち上がった。
夜明けの霧は、白霧観が最も深く沈む時刻だった。
門の前に、玄澄が立っていた。背の高い老道士は、木剣を杖のように突き、倒れた扉の脇に、一人で立っていた。その後ろに、玄斉と玄琳。二人は、何も言わずに、玄澄の背中を見ていた。
石段の下から、足音が、登ってきた。
急いではいなかった。霧の中を、一定の速さで、まっすぐに。松明の火が、いくつか、揺れていた。だが、先頭の男は、松明を持っていなかった。持つ必要がないのだと、玄澄は思った。この男は、霧の中でも、獲物を見失わない。
揚龍玄が、石段の上に、姿を現した。
黒い旅装。腰の剣。それだけだった。装飾も、紋章も、何もない。顔にも、何もなかった。怒りも、焦りも、高揚も。ただ、目だけが、門の前の老道士を、値踏みしていた。
「老いた道士。退け」
龍玄は、それだけ言った。声は、低く、平らだった。
「退かぬ」
玄澄は、言った。
「私は、一度、この観に兵を入れた。二人の子を、渡そうとした。それを、悔いた。悔いたまま死ぬくらいなら、ここで、悔いを、返す」
龍玄は、その言葉を、聞いていたのか、いなかったのか。ただ、剣を抜いた。何も言わずに。賀琮が言った通りだった。この男は、剣を抜く前に、何も言わない。
玄澄が、木剣を構えた。
龍玄の剣が、一度、動いた。
玄澄の右手が、木剣ごと、石畳に落ちた。
老道士は、悲鳴を上げなかった。ただ、膝をついた。右腕の先から、血が、石畳に広がっていく。龍玄は、その横を、通り過ぎた。振り返りもしなかった。
玄斉と玄琳が、玄澄に駆け寄った。玄琳が、帯を解いて、玄澄の腕を縛った。玄斉は、龍玄の背中を、見ていた。何も言わなかった。言葉は、この男には、届かない。それが、分かっていた。
玄澄は、血の気の失せた顔で、それでも、言った。
「……祈れ。二人が、生きて、山を下りるまで」
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龍玄が、堂の前の広場に入ったとき、そこには、七人が立っていた。
志明の護衛、三人。剣を抜いている。清嵐。震えながら、それでも、退かない。玄真。杖を突いて、堂の前に立っている。そして、その後ろに、黎利と、小蘭。
同じ顔が、二つ。
龍玄は、それを見て、初めて、口の端を、僅かに、動かした。笑ったのかもしれない。だが、その目は、笑っていなかった。
「妃殿下。太后宮で言ったことを、覚えておられるか。あなたの影と、並べてみたい、と」
龍玄は、二人の顔を、順に見た。左の顔。右の顔。同じ顔。同じ目。同じ、怯えた表情。
「……分からぬな。どちらが、本物か」
「どちらでもいいでしょう」
黎利が、言った。声は、震えていた。だが、言葉は、はっきりしていた。
「あなたは、どちらも、落とすつもりなのだから」
「そうだ」
龍玄は、頷いた。
「母上を、幽閉した者どもの、証を消す。妃殿下も、影も、記録も。全部、消す。それで、母上は、戻る」
「戻りません」
黎利は、言った。
「記録は、すでに、帝の御前にあります。私を消しても、影を消しても、記録は消えない。あなたが、ここで何をしても、太后様は、戻らない」
龍玄は、しばらく、黎利を見ていた。それから、言った。
「知っている」
黎利は、息を呑んだ。
「知っている。母上は、戻らぬ。だが、俺には、これしかない。手足を落とすことしか。母上のために、俺ができるのは、これだけだ」
その言葉に、感情は、なかった。ただ、事実を述べる声だった。それが、黎利には、何よりも恐ろしかった。
玄真が、口を開いた。
「若者よ。お前は、母のために、来たのではない」
龍玄の目が、老道士に向いた。玄真は、退かなかった。
「母のためなら、母の傍にいればよい。幽閉された母の傍に。お前は、そこにいられぬから、ここへ来た。手足を落とす以外に、母の傍にいる術を、知らぬから。それを、母のためだと、言い換えておるだけだ」
龍玄は、しばらく、玄真を見ていた。その顔に、何も浮かばなかった。それから、言った。
「……老いた道士。お前も、退け」
「退かぬ」
「では、落とす」
龍玄は、剣を、僅かに、下げた。玄真の足を、見た。老いた足を。杖を突いた足を。
そのとき、小蘭が、玄真の前に、出た。黎利が、その隣に、出た。同じ顔が、二つ、龍玄の前に、並んだ。
「あたしたちを、先に」
小蘭が、言った。
「あなたが欲しいのは、あたしたちでしょう。爺さんじゃない」
龍玄は、二つの顔を、見た。同じ顔。同じ目。同じ、まっすぐな、怯えた目。
「……どちらが、本物か、まだ分からぬ」
「分からなくていい」
黎利が、言った。
「どちらも、本物です」
龍玄の目が、僅かに、動いた。それが、この男が見せた、二度目の感情だった。何なのかは、誰にも分からなかった。
龍玄が、一歩、踏み出した。
護衛の三人が、動いた。
三本の剣が、龍玄に向かった。龍玄の剣が、二度、動いた。一人目の護衛の剣が、手ごと、飛んだ。二人目の護衛が、肩を割られて、倒れた。三人目が、龍玄の背後に回った。龍玄は、振り向かずに、剣を後ろに突いた。三人目の護衛が、腹を押さえて、膝をついた。
龍玄の配下たちは、動かなかった。動く必要がないのだと、清嵐は思った。この男一人で、十分なのだ。
龍玄は、また、一歩、踏み出した。
清嵐が、黎利と小蘭の前に、立った。震える手で、木剣を構えて。桂嬢が、その隣に立った。侍女頭は、何も持っていなかった。ただ、黎利の前に、立った。
「妃殿下。お下がりください」
「桂嬢――」
「私は、十何年、あなたの着物を広げてきました。あなたが、それを着て、外に出るのを、見たことがなかった。今、見ています。だから、下がってください。あなたが、外に出た姿を、あの男に、落とさせるわけには、参りません」
黎利は、下がらなかった。小蘭も、下がらなかった。四人が、龍玄の前に、並んだ。
龍玄は、それを見て、また、口の端を、僅かに、動かした。
そのとき、堂の陰から、一人の男が、出てきた。
左腕を、布で吊っていた。血は、まだ、止まっていなかった。右手に、護衛の一人が落とした剣を、拾っていた。賀琮だった。
「……龍玄様」
「賀琮。まだ、生きていたか」
「腕一本で、済ませていただきましたので」
賀琮は、剣を構えた。片手で。震えながら。
「太后宮の密偵として、最後に、一つだけ、申し上げます。あなたは、間違っておられる。母上のためだと言いながら、あなたは、母上のために、何一つ、なさっていない。手足を落とすのは、母上のためではなく、あなた自身が、他に何もできぬからだ」
龍玄の目が、初めて、僅かに、動いた。
「……知っている」
龍玄は、言った。そして、剣を振った。
賀琮の剣が、弾き飛ばされた。賀琮の身体が、石畳に倒れた。龍玄の剣が、賀琮の首に、向かった。
その剣が、止まった。
志揚の手が、龍玄の手首を、掴んでいた。
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志揚は、いつの間にか、そこにいた。
霧の中から。誰も、その動きを、見ていなかった。龍玄も。龍玄は、自分の手首を掴む手を見て、それから、その手の主を見た。同じ顔。宦官の影。証。
「……影身」
「そう呼ばれてる」
志揚は、言った。飄々と。だが、その手は、龍玄の手首を、離さなかった。
「あんたを知らない。何をしたのかも、知らない。でも、こいつは、傷ついてる。傷ついてる奴の首は、落とさせない」
龍玄は、その言葉を、聞いていた。それから、剣を持たない左手で、志揚の胸を、突いた。志揚は、後ろに、飛んだ。飛びながら、龍玄の手首を、離した。着地した。霧の中で、迷わずに。
龍玄が、剣を構え直した。
「その顔で、動くのか」
「動くさ。身体が、覚えてる」
志揚は、言った。それは、本当だった。志揚は、龍玄がどう動くのかを、知らなかった。だが、志揚の身体は、剣を持った男がどう動くのかを、知っていた。どこに立てば剣が届かないか。どこに踏み込めば剣を殺せるか。志揚は、それを、考えずに、していた。
龍玄が、踏み込んだ。
剣が、志揚の左腕を、捉えた。
捉えた、はずだった。
剣は、志揚の腕を、通り抜けた。手応えは、なかった。志揚の腕が、一瞬、泡になった。剣が通り抜けた場所で、輪郭が、水面のように揺らいだ。そして、次の瞬間、泡は、腕に戻った。傷一つ、なかった。
龍玄の動きが、止まった。
志揚は、自分の腕を見た。泡になって、戻った腕を。自分でも、何が起きたのか、分かっていなかった。ただ、小蘭が、後ろで、息を呑んだのが、聞こえた。
「……縁が」
玄真の声が、聞こえた。
「縁が、太い。志明の縁と、娘の縁と。二つの縁が、この者を、その場で、組み直しておる」
龍玄は、志揚の腕を、見ていた。
その顔に、初めて、感情らしきものが、浮かんだ。
恐怖だった。
手足を落とす男が、落とせない腕を、見ていた。斬ったはずの腕が、そこにある。剣は、通り抜けた。手応えは、なかった。この男は、何も、掴めなかった。何も、落とせなかった。
「……妖術」
龍玄は、呟いた。
「妖術じゃない」
志揚は、言った。
「爺さんが言うには、縁だ。あんたには、ないものだ」
龍玄の顔が、歪んだ。
剣が、動いた。今度は、志揚の首を狙って。志揚は、退いた。剣は、空を切った。龍玄は、さらに踏み込んだ。志揚は、退いた。霧の中を。堂の裏へ。崖の方へ。
志揚は、龍玄を、引き離していた。黎利から。小蘭から。傷ついた者たちから。それが、志揚の身体が、勝手に選んだことだった。
いや――と、志揚は、退きながら、思った。身体が、勝手に選んだのではない。俺が、選んだ。あいつらのところへ、この男を、戻さない。それは、身体ではなく、俺が、決めた。
その考えは、志揚にとって、初めてのものだった。椀を受け止めたのは、身体だった。霧の中で道を覚えていたのも、身体だった。だが、今、龍玄を引き離しているのは、志揚だった。今の志揚だった。
霧が、深くなった。志揚は、退いた。龍玄は、追った。二人の姿が、堂の裏へ、消えた。
小蘭が、それに気づいて、走った。
「志揚――!」
霧の中を、小蘭は、走った。志揚が、どこへ向かったのかは、分かっていた。崖。滝壺の上。志揚が、七日かけて、戻ってきた水の上。志揚は、龍玄を、あそこへ連れていくつもりだ。なぜ、あそこなのか。小蘭には、分からなかった。志揚自身にも、分かっていないのかもしれない。ただ、身体が、そこを選んだのだ。
背後から、足音が、追ってきた。黎利だった。同じ顔の妃が、裾を持ち上げて、走ってきていた。
「あんたは、来ないで――」
「行く」
黎利は、言った。息を切らせながら。
「あんたの話は、あたしの話でしょ。志揚が、そう言ってた」
小蘭は、何も言えなかった。二人は、走った。霧の中を。同じ顔で。同じ方角へ。
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白霧観の裏手は、崖だった。
その崖の下に、滝壺があった。志揚が、七日かけて、戻ってきた水。霧は、崖の縁で、渦を巻いていた。一歩先が、崖なのか、霧なのか、分からない。
志揚は、崖の縁に、立っていた。龍玄が、その前に立っていた。
「逃げ場は、ないぞ」
「逃げてない」
志揚は、言った。
「あんたを、ここまで連れてきただけだ。あそこには、傷ついてる奴が多すぎる」
龍玄は、その言葉を、聞いていなかった。ただ、志揚の腕を、見ていた。泡になって、戻った腕を。
「……もう一度だ」
龍玄は、言った。
「もう一度、斬る。今度は、戻らぬように、何度でも。泡になるなら、泡になるまで、斬る」
龍玄が、踏み込んだ。
剣が、志揚の肩を、捉えた。通り抜けた。志揚の肩が、泡になって、戻った。龍玄は、さらに斬った。志揚の腹。通り抜けた。泡。戻った。志揚の首。通り抜けた。泡。戻った。
志揚は、動かなかった。
退かなかった。退けば、崖だった。退けば、龍玄は、堂へ戻る。だから、退かなかった。剣が来るたびに、志揚の身体は、泡になり、戻った。痛みは、なかった。痛みがないことが、志揚には、不思議だった。斬られているのに、痛くない。ただ、斬られるたびに、自分が、水でできていることを、思い知らされた。俺は、この水から出てきた。この水に、戻る身体だ。だが、戻ってくる。何度でも。
それは、志揚が、自分の身体について、初めて、心から理解したことだった。志揚は、それを、ただ、受けていた。自分の身体が、何度斬られても戻ることを、志揚は、今、初めて、知った。そして、龍玄の顔が、斬るたびに、崩れていくのを、見ていた。
恐怖が、龍玄の顔を、覆っていた。
「……なぜ、死なぬ」
「知らない。俺も、今、初めて知った」
「なぜ、退かぬ」
「退いたら、あんたは、あいつらのところへ戻る」
龍玄は、剣を、振り上げた。もう、構えではなかった。ただ、振り上げていた。
「化け物が――」
剣が、振り下ろされた。
志揚の頭を、通り抜けた。泡。戻った。龍玄の身体が、剣の勢いのまま、前に、流れた。志揚に、ぶつかる。志揚は、退かなかった。龍玄の身体が、志揚の身体を、すり抜けた。泡。志揚の身体が、龍玄の身体を、通した。
龍玄は、崖の縁の、その先に、踏み出していた。
霧の中に。何もない場所に。
志揚が、振り向いた。
龍玄の身体が、傾いでいた。落ちていく。霧の中へ。志揚は、手を伸ばした。考えずに。身体が、勝手に。龍玄の手を、掴もうとした。
龍玄は、その手を、見た。
志揚の手を。泡になって、戻る手を。掴めなかった手を。落とせなかった手を。
龍玄は、その手を、取らなかった。
自分の手を、引いた。志揚の手から、離れるように。
そして、落ちた。
声は、なかった。ただ、霧が、一度、揺れた。それから、遠くで、水の音がした。滝壺の音。志揚が、七日かけて戻ってきた、あの水の音。
志揚は、伸ばした手を、そのままにしていた。何も、掴んでいない手を。
小蘭が、走ってきた。志揚の背中に、ぶつかるように、抱きついた。
「志揚――志揚、あんた――」
「……落ちた」
志揚は、言った。手を、まだ、伸ばしたままだった。
「掴もうとした。あいつは、取らなかった。俺の手を、見て――取らなかった」
小蘭は、志揚の背中に、顔を押し付けた。志揚の身体は、揺らいでいなかった。何度斬られても、戻った身体。だが、その身体が、今、震えていた。
「……俺は、殺してない」
「知ってる」
「殺してない。手を、伸ばした」
「知ってる。見てた」
志揚は、ようやく、手を下ろした。
黎利が、崖の縁に、立っていた。霧の下を、見ていた。何も、見えなかった。ただ、水の音が、遠くで、していた。
「……太后の、子」
黎利は、呟いた。
「先代の寵妃の、一人息子。宮中で、誰もが恐れた男。それが、今」
黎利は、言葉を切った。志揚が、黎利を見た。
「あんた、あの男を、知ってたのか」
「知ってた。あの男に、手足を落とされた者を、何人も見た。太后宮で、あの男の目を見た。獣の目だった」
「……さっきは、獣の目じゃなかった」
志揚は、言った。
「怖がってた。俺の手を見て。掴めなかったから」
黎利は、志揚を見た。それから、霧の下を、もう一度、見た。
「……そう。怖がってたのね。あの男も」
それだけ言って、黎利は、崖から離れた。
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賀琮は、石畳の上に、まだ倒れていた。首は、繋がっていた。志揚が、龍玄の手首を掴んだ、あのときのままに。賀琮は、身体を起こそうとして、できず、そのまま、空を見ていた。霧が、流れていた。
清嵐が、駆け寄ってきた。
「賀琮殿。龍玄が――落ちました。崖から。志揚さんは、無事です」
賀琮は、しばらく、何も言わなかった。それから、小さく、笑った。血の気の失せた顔で。
「……落ちたか。手足を落とす男が」
「はい」
「志明様に、伝えねばならぬな。証は、消えた。今度は、本当に、消えた」
賀琮は、目を閉じた。
「志明様は、何と仰るだろうな。あの方は、何も仰らぬ。いつも、そうだ。だが――」
賀琮は、それ以上、言わなかった。清嵐は、賀琮の腕の布を、もう一度、縛り直した。
龍玄の配下たちは、龍玄が落ちたと知ると、剣を捨てた。
戦う理由が、なかった。命じる者が、いなかった。彼らは、賀琮に、縛られた。賀琮は、片腕で、それをした。血の気の失せた顔で。何も言わずに。
玄澄は、玄琳の手当てを受けて、生きていた。右手は、戻らなかった。だが、老道士は、生きていた。玄真が、その傍らに、座っていた。
「……門を、守れませんでした」
「守った」
玄真は、言った。
「あの男が門を通るのに、お前が要らぬなら、あの男は、お前を斬らずに通っただろう。斬ったということは、お前が、あの男の前に、立っていたということだ。それで、十分だ」
玄澄は、目を閉じた。何も、言わなかった。
玄斉が、玄澄の傍らに、座った。門の前で、たった一言しか口にしなかった老道士は、玄澄の残った左手を、両手で包んだ。
「……お前は、渡そうとして、祈って、立った。三つ、した。わしは、閂をかけただけだ。一つしか、しておらぬ」
玄澄は、目を開けた。玄斉を見た。
「閂は、清嵐を守った」
「そうだ。だが、一つだ」
玄斉は、それ以上、言わなかった。ただ、玄澄の手を、包んでいた。玄澄は、また、目を閉じた。今度は、少しだけ、穏やかな顔で。
護衛の三人は、傷を負っていたが、いずれも、命に別状はなかった。清嵐が、桂嬢と共に、手当てをした。少年の手は、震えていた。だが、止まらなかった。
滝壺の岸に、志揚と小蘭と黎利が、下りていた。
水面は、静かだった。霧が、這っていた。泡は、なかった。
「……戻らないのね」
小蘭が、言った。
「戻らぬ」
玄真が、崖の道を下りてきて、言った。老道士は、水面を見た。
「本物の身体は、一度きりだ。泡にはならぬ。水には戻らぬ。ただ、沈む。それだけだ」
志揚は、水面を見ていた。自分が、七日かけて、戻ってきた水。龍玄が、一度で、沈んだ水。
「……俺は、戻った」
志揚は、言った。
「あいつは、戻らない。どっちが、本物なんだ」
誰も、答えなかった。玄真も。小蘭も。黎利も。
志揚は、しばらく、水面を見ていた。それから、懐に、手を入れた。宛名のない文を、取り出した。封をされたままの、知らない男からの文。
志揚は、封を、破った。
小蘭が、息を呑んだ。読まないと、志揚は言っていた。読めば、知らない男が、知っている男になる。そうなれば、また、その男の影に戻るかもしれない、と。それが怖いと。小蘭は、それを聞いていた。今、志揚は、それを、開けた。龍玄が沈んだ水の前で。自分が戻った水の前で。
なぜ、今なのか。小蘭には、分からなかった。だが、志揚が、それを、自分で選んだことは、分かった。だから、止めなかった。
志揚は、それに気づかなかった。ただ、文を開いた。
文には、一行だけ、書かれていた。
志揚は、その一行を、長いあいだ、見ていた。
それから、文を、畳んだ。懐に、戻した。
「……小蘭」
「なに」
「渡青に、行こう」
志揚は、言った。
「縄はある、って言ったんだろ。その周ってのが」
小蘭は、志揚を見た。志揚は、水面を見ていた。その顔に、何が浮かんでいるのか、小蘭には、分からなかった。ただ、志揚が、それを、自分で選んだことだけは、分かった。
「……行きましょう」
小蘭は、言った。
黎利が、二人の後ろから、言った。
「渡青なら、あたしも、途中まで、一緒に行く。舟で、川を下って、渡青で、別れる。あたしは、都へ。あんたたちは、周のところへ」
小蘭は、振り返った。黎利は、笑っていた。仮病を使う妃の顔ではなく、旅で日に焼けた、妃の顔で。
「……いいわよ。舟の上で、また、話しましょう」
「仮病の話は、しないでよ」
「するわよ。あんたが、どれだけ怠け者だったか、志揚に、全部話す」
「あんた、教えないって決めたんじゃないの」
「志揚のことは、教えない。黎利様のことは、別」
志揚が、二人のやり取りを聞いて、少し、笑った。同じ顔の二人が、言い合っている。それを、志揚は、初めて見るように、見ていた。初めてではなかった。だが、初めてだった。
水面には、何も、浮かんでいなかった。
ただ、三人の影が、そこに、映っていた。




