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結・四



 白霧観を発つ朝、霧は、いつもより薄かった。


 門の前に、玄真が立っていた。その隣に、清嵐。玄斉と玄琳が、玄澄を支えて、立っていた。玄澄の右腕は、肩から布で吊られている。老道士は、志揚と小蘭を見ると、左手で、深く、頭を下げた。もう、志揚は、それを不思議そうには見なかった。ただ、頭を下げ返した。


「爺さんたち。世話になった」


「世話をしたのは、清嵐と、玄澄だ」


 玄真は、言った。


「わしは、話をしただけだ」


「その話が、一番、世話になった」


 志揚は、笑った。玄真は、笑わなかった。ただ、志揚の顔を、しばらく見ていた。それから、言った。


「志揚。お前が何者かは、作られた理由ではなく、お前がこれから選ぶことで決まる。前にも、言った。覚えておらぬだろうが」


「覚えてない。でも、今、聞いた」


「それでよい」


 玄真は、小蘭を見た。


「娘。教えぬと決めたことを、守り通したな」


「……守れたかどうか、分かりません」


「守った。わしには、見えた。縁が、太っておる。都の縁だけではない。お前の縁だ。この者が、自分で紡いだ、お前との縁だ」


 小蘭は、何も言えなかった。玄真は、それ以上、何も言わなかった。老道士は、踵を返して、門の内へ、戻っていった。それが、玄真の、別れの仕方だった。


 清嵐が、小蘭の手を、握った。


「また、来てください。二人で」


「来るわ。渡青から、舟で、そう遠くないもの」


「志揚さんも」


「ああ。今度は、道を覚えてくる」


 少年は、笑った。それから、泣いた。志揚は、少年の頭を、軽く叩いた。


 賀琮は、門の内側に、座っていた。まだ、立てなかった。志揚は、賀琮の前に、屈んだ。


「あんたは」


「傷が塞がったら、都へ戻る。志明様に、報告する。証は消えた、と」


「そうか」


 志揚は、少し考えてから、言った。


「志明ってやつに、伝えてくれ。渡青にいる、と」


「……それだけか」


「それだけだ」


 賀琮は、志揚の顔を見た。それから、頷いた。


 二人は、石段を下りた。黎利と桂嬢が、その後に続いた。霧が、四人の背中を、包んだ。


---


 川を下る舟の上で、小蘭は、約束通り、黎利の話をした。


「朝議に出る日に、頭が痛いと言って、あたしを出したの。あたしが帰ってきたら、黎利様は、寝台の上で、菓子を食べてた」


「食べてない」


「食べてた。口の端に、粉がついてた」


 志揚は、笑った。黎利は、むくれた。桂嬢は、何も言わず、川面を見ていた。だが、その口の端が、僅かに、上がっていた。


「志揚。あんた、あたしのことを、どう思ってるの」


 黎利が、尋ねた。志揚は、少し考えた。


「小蘭の本体。怠け者。でも、太后の前に立って、龍玄の前にも立った。怠け者にしては、よく立つ」


「……褒めてるの」


「褒めてる」


 黎利は、川面を見た。それから、小さく、言った。


「あんたの本体は、あたしより、よく立つわよ。自分の名を、記録に書いて、帝の前に出した。それは、あたしには、できなかった」


 志揚は、答えなかった。懐の文を、無意識に、手で押さえていた。


 小蘭は、川面を見ながら、思っていた。志揚が、文を読んだあと、渡青へ行こうと言ったこと。あの一行が、何だったのか、小蘭は、まだ知らない。志揚は、言わなかった。小蘭も、尋ねなかった。教えないと決めたのは、小蘭だった。だから、志揚が教えないことを、小蘭も、受け入れた。それが、対等ということだと、小蘭は思った。


 渡青が、見えてきた。舟運で栄えた町。二人が、束の間の安らぎを得た町。志揚は、その町並みを、初めて見るように、見ていた。初めてではなかった。だが、初めてだった。


 渡し場に、一人の男が、立っていた。


 志揚は、その男を見て、動きを止めた。小蘭も。黎利も。


 同じ顔だった。


 志揚と、同じ顔。だが、笑っていなかった。飄々としていなかった。ただ、静かに、まっすぐに、舟を見ていた。宦官の装束ではなかった。旅装だった。だが、その立ち方は、宮廷の廊に立つ者の、立ち方だった。


 張志明が、そこにいた。


---


 舟が、岸についた。


 志揚は、舟から下りた。志明の前に、立った。二人の間に、三歩ほどの距離があった。志明は、動かなかった。志揚も、動かなかった。


 同じ顔が、向かい合っていた。


 小蘭は、舟の上から、それを見ていた。黎利と、自分が、門の前で向かい合ったときと、同じ距離。同じ、同じ顔。だが、違った。黎利と小蘭は、泣きながら笑った。志明と志揚は、どちらも、笑わなかった。志揚は、知らない男を見る目で、志明を見ていた。志明は――。


 志明は、何も語らない顔で、志揚を見ていた。だが、その手が、震えていた。


 志明は、この顔を、鏡の中に、見てきた。自分の顔として。だが、志揚の顔を、正面から見たことは、ほとんどなかった。志揚は、いつも、志明の背後にいた。志明の影として。志明の代わりに、消えに行く者として。志明は、その顔を、見ないようにしていた。見れば、道具として、使えなくなるからだ。


 今、その顔が、目の前にあった。志明を、知らない者の目で、見ていた。


 それは、志明が、初めて、志揚の顔を、正面から見た瞬間だった。


「……あんたが、志明か」


 志揚が、言った。


「はい」


 志明は、答えた。慇懃に。宮廷の言葉で。だが、その声は、僅かに、掠れていた。


「俺の、本体」


「はい」


「俺は、あんたを、覚えてない」


「存じております」


 志明は、言った。


「覚えていなくて、よろしゅうございます」


 志揚は、その言葉を、聞いていた。それから、懐から、文を取り出した。開かれた文。一行だけの文。


「これは、読んだ」


「……はい」


「一行だけだった」


 志揚は、その一行を、読み上げた。小蘭に、聞こえるように。黎利に。桂嬢に。渡し場の、誰にでも。隠すことでは、ないと、志揚は思っていた。この男が、書いたことだ。この男が、自分の名を記録に書いて、帝の前に出したように。隠すなら、書かなければいい。書いたのなら、読まれればいい。


「『お前が、殺さずに済む相手を殺さなかったことを、私は、知っていた』」


 小蘭は、息を止めた。


 志揚が、小蘭にだけ、言ったこと。志明には、言わなかったと、志揚が言ったこと。それを、志明は、知っていた。


「……知ってて、黙ってたのか」


「はい」


「なんで」


 志明は、しばらく、答えなかった。渡し場の、川の音だけが、していた。それから、志明は、言った。


「知っていると申し上げれば、お前を、道具として、使えなくなるからでございます」


 その声は、掠れていた。慇懃な言葉の、その奥で、何かが、崩れていた。


「お前が、殺さずに済む相手を、殺さずにいることを、知っていた。それは、お前が、道具ではないと、知っていたということでございます。知っていて、道具として使った。消えるたびに、何も感じぬふりをした。縁が痩せるのを、知らぬふりをした。私は――」


 志明は、言葉を切った。それから、続けた。


「私は、お前を、縁者として遇したことが、一度もございませんでした。今、初めて、遇しております。遅うございました」


 志揚は、志明の顔を、見ていた。知らない男の顔。同じ顔。その顔が、崩れかけていた。志揚は、それを、どう受け止めればいいのか、分からなかった。恨みは、なかった。覚えていないから。だが、この男が、自分をこの世に引き戻したことを、志揚は、知っていた。玄真が、そう言った。この男の悔いが、縁を太らせた。それは、志揚が、知っていることだった。


「……分かった」


 志揚は、言った。


「覚えてない。だから、恨まない。でも、あんたが、俺を引き戻したことは、知ってる。知ってることの方を、覚えておく」


 志明は、志揚を見た。


「覚えていなくて、よろしゅうございます」


 志明は、もう一度、言った。


「私が、覚えております」


 それは、小蘭が、志揚に言った言葉だった。忘れられても、あたしは覚えてる。同じ言葉を、志明が、言った。小蘭は、それを聞いて、舟の縁を、強く握った。


 志揚は、少しだけ、笑った。飄々と。


「あんた、俺と同じ顔で、まるで違うことを言うな」


「よく、言われます」


 志明は、答えた。そして、その口の端が、ほんの僅かに、上がった。それが、笑みだったのかどうか、誰にも分からなかった。


 志明は、舟の上の小蘭を見た。妃の影。李黎利と同じ顔。志揚と共に城を出た娘。志明は、その娘に、深く、頭を下げた。


「小蘭殿。賀琮から、聞きました。七日、呼び続けられたと」


「……はい」


「私の縁は、痩せておりました。この者が戻ったのは、あなたの縁でございます。私の悔いなど、あなたの七日に比べれば、何ほどのものでもございません」


「違います」


 小蘭は、言った。舟の上から。はっきりと。


「玄真様が、言いました。二つの縁で、志揚は戻った、と。あたしの声と、あなたの悔いと。どちらか一つでは、足りなかった」


 志明は、顔を上げた。小蘭を見た。それから、何も言わずに、もう一度、頭を下げた。


---


 黎利が、舟から下りて、志明の前に立った。


「志明様。帝の沙汰は」


「下りました」


 志明は、言った。


「去るも、残るも、私が決めよ、と。御影司は、廃されます。それを執行する者が、要ります。私が残れば、私が執行いたします。私が去れば、別の者が」


「……どちらを」


「まだ、決めておりません」


 志明は、志揚を見た。それから、黎利を見た。


「去れば、私は、この者の近くにおられます。縁を、太らせることが、できるかもしれません。残れば、御影司を、私の手で、廃することができます。影を作った者が、影を作る役所を、閉じる。それは、私がすべきことでございます」


「どちらが、幸せなのですか」


 黎利は、尋ねた。志明は、長いあいだ、黙っていた。それから、言った。


「分かりません」


「……私も、分かりません」


 黎利は、言った。都の執務室で、二人が交わした言葉の、逆だった。あのとき、志明が問い、黎利が分からないと答え、志明が同じだと言った。今、黎利が問い、志明が分からないと答え、黎利が同じだと言った。


 志明は、頷いた。


「妃殿下。都へ、お戻りください。私は、少し、ここにおります。決めるまで」


「決まったら」


「賀琮に、伝えさせます。あの者は、まだ、白霧観におりますので」


 志明は、志揚の方を向いた。


「志揚。私は、少し、この町におります。お前が、望まぬなら、姿を見せません」


「……見せろよ」


 志揚は、言った。


「あんたが、また来るなら、縄を渡す。荷運びの縄だ。それでいいなら、来ればいい」


 志明は、志揚を見た。長いあいだ。それから、深く、頭を下げた。宦官が、影に、頭を下げる。それは、あり得ぬことだった。だが、志明は、した。


 黎利と桂嬢は、都へ向かう舟に、乗った。舟が岸を離れる前に、黎利は、小蘭に、一つだけ言った。


「あんたが、あたしの影だってことは、御影司の記録と一緒に、帝が知ってる。でも、帝は、影を追えとは仰らなかった。だから、あんたは、もう、誰の影でもない。記録の上でも」


「……そう」


「あたしが、そうさせた。それだけは、覚えておいて」


 小蘭は、頷いた。黎利は、それ以上、何も言わなかった。桂嬢が、小蘭に、深く、頭を下げた。小蘭は、頭を下げ返した。侍女頭と、侍女ではなく、ただ、二人の女として。


 舟が、岸を離れる。黎利は、振り返らなかった。ただ、片手を、上げた。小蘭も、片手を、上げた。同じ手が、川の上で、同じように、上がっていた。


 志明は、渡し場に、立っていた。志揚と小蘭が、町の方へ歩き出しても、動かなかった。志揚は、一度だけ、振り返った。志明は、まだ、そこにいた。


 どちらが幸せなのか。志明が、どちらを選ぶのか。それは、誰にも、分からなかった。


---


 周老板は、何も言わなかった。


 町を歩く間、志揚は、渡青の通りを、見ていた。舟の荷が積まれた岸。魚を焼く匂い。子供が走る路地。志揚は、それらを、知らなかった。だが、足は、迷わなかった。食堂への道を、志揚の足は、知っていた。小蘭は、それに気づいて、何も言わなかった。志揚も、気づいていた。だが、何も言わなかった。二人は、黙って、歩いた。志揚の足が、食堂の前で、止まった。


 食堂の戸口に立った二人を見て、太った店主は、しばらく、二人の顔を見ていた。志揚の顔を。小蘭の顔を。それから、店の奥へ入り、一本の縄を持って、戻ってきた。荷運びの縄。志揚が、暗殺者だったと冗談を言いながら、結んでいた縄。


 周は、それを、志揚に、渡した。


 志揚は、縄を受け取った。手が、それを、知っていた。結び方を。持ち方を。志揚は、それを、不思議そうには見なかった。ただ、縄を、肩にかけた。


「……周老板、だっけ」


「そうだ」


「悪い。あんたの名前、忘れてた」


「知ってる。前も、忘れてただろう」


 周は、それだけ言って、厨房へ戻った。小蘭は、包丁を取った。手が、それを、知っていた。野菜を刻む音が、店に、戻ってきた。


 その日の夕方、店の常連が、志揚を見て、言った。


「おう、荷運びの兄ちゃん。戻ってきたのか。北の都から、影武者だの妖術だのと、物騒なお触れが回ってたが、あれは、あんたのことじゃなかったのかい」


 志揚は、荷を下ろしながら、答えた。


「さあな。俺は、荷運びだ」


「そうか。まあ、そうだよな」


 常連は、それで、納得したようだった。志揚は、荷を担ぎ直した。妖術使いの影。手足を落とす男が、落とせなかった腕。何度斬られても戻る身体。それらは、全部、本当のことだった。だが、渡青の食堂では、志揚は、荷運びだった。それも、本当のことだった。志揚は、後者を、選んだ。


 それからの日々は、渡青での、あの日々と、同じだった。


 同じではなかった。志揚は、荷を運ぶとき、いつも、小蘭を見てから、持ち上げた。小蘭は、野菜を刻むとき、志揚が店先で声を上げると、手が止まった。周は、それを、何も言わずに、見ていた。前と、同じように。だが、志揚は、前を知らない。ただ、今、そうしたいと思ったから、そうした。


 志明を、志揚は、一度だけ、町で見かけた。


 市の外れ。舟の荷を運んでいるとき。人混みの向こうに、同じ顔が、立っていた。旅装で。何をするでもなく。志揚は、荷を下ろして、しばらく、その顔を見ていた。志明も、志揚を見ていた。どちらも、近づかなかった。志揚は、片手を、上げた。荷運びの、汗まみれの手を。志明は、それを見て、僅かに、頭を下げた。それだけだった。志揚は、荷を担ぎ直して、店へ戻った。


 その夜、小蘭に、そのことを話した。


「近づかなかったの」


「近づかなかった。あいつも、近づかなかった。それで、よかった気がする」


「……そう」


「あいつが決めるまで、俺も、決めない。それでいい」


 夜、店の裏の小さな部屋で、二人は、並んで眠った。


 誰かに命じられるでもなく、誰かの代わりでもなく、ただ「明日も一緒にいる」というだけの約束を、二人は日々積み重ねていった。


---


 その夜は、渡青に戻って、ひと月ほど経った頃だった。


 その日、志揚は、荷を運びながら、ふと、足を止めた。店の前の通りで。何かが、頭の奥で、浮かびかけた。楼閣。欄干。足を、ぶらぶらと。それは、小蘭が、教えたことだった。教えるのをやめる前に。だが、今、浮かんだのは、教えられた言葉ではなかった。欄干の冷たさだった。足の裏に、風が当たる感触だった。それは、教えられていないことだった。


 志揚は、荷を担いだまま、しばらく、立っていた。周が、店の中から、それを見ていた。何も言わなかった。


 灯明の火が、揺れていた。志揚は、寝台に横になっていた。小蘭は、その隣に、座っていた。志揚は、天井を見ていた。何かを、考えているようだった。


「なあ、小蘭」


「なに」


「変なことを、聞いていいか」


「いつも、変なことを聞いてるじゃない」


「そうだな」


 志揚は、少し、笑った。それから、天井を見たまま、言った。


「泡になる前。俺は、お前に、何か言ったよな」


 小蘭の手が、止まった。


「声は、出なかった。剣が、胸を通り抜けて、泡になりかけてて。でも、口は、動いた。お前は、それを、見てた」


 小蘭は、何も言えなかった。それは、教えていないことだった。教えられなかったことだった。七日間、衣に向かって話したときも、それだけは、口にできなかった。志揚の最後の口の動き。声にならなかった、あの二文字。


「……覚えてる、って言った」


 志揚は、言った。


「そうだろ」


 小蘭は、志揚を見た。志揚は、天井を見ていた。その顔に、何かが、浮かんでいた。飄々とした笑みではなかった。困ったような、それでいて、確かに温かい――。


「……なんで」


 小蘭は、掠れた声で、言った。


「なんで、それを」


「分からない」


 志揚は、言った。


「今、ふっと、浮かんだ。水の底から、何かが、浮かんでくるみたいに。お前の顔。泡になりかけてる俺を見てる顔。それに向かって、俺が、口を動かしてる。覚えてる、って」


 志揚は、ようやく、小蘭の方を向いた。


「それから、いろんなものが、浮かんできてる。楼閣の欄干。足を、ぶらぶらさせてた。お前が、桃花宮の妃とやり合った話をしてた。焚き火。忘れられても、覚えてる、って、お前が言った。影池。何を忘れても、隣にいることだけは選び続ける、って、俺が言った。水路。お前の足首。離さなかった」


 小蘭の目から、涙が、落ちた。


「……志揚」


「全部、浮かんでる。まだ、ぼんやりしてる。でも、浮かんでる。爺さんが言ってた通りだ。沈んだものは、縁が太れば、浮かぶ。拾いに行くのは、俺だ、って」


 志揚は、身体を起こした。小蘭の顔を、両手で挟んだ。滝壺の岸で、小蘭が、志揚にしたのと、同じように。


「俺は、お前を、選んだ。知らないまま、選んだ。それで、浮かんできた。思い出させてもらったんじゃない。俺が、もう一度、たどり着いた」


「……志揚」


「小蘭」


 志揚は、名を呼んだ。初めて、呼んだ。初めてではなかった。だが、初めてだった。


「覚えてる」


 小蘭は、泣きながら、笑った。志揚も、笑った。困ったように。それでいて、確かに温かく。


 灯明の火が、揺れていた。


---


 しばらくして、志揚が、言った。


「なあ。あの竹の管、まだ持ってるか」


 小蘭は、懐から、それを取り出した。渡青の渡し場で、老道士がくれたもの。志揚が、空になっても捨てなかったもの。志揚が、何のものか知らなくなっていたもの。


「持ってる。あんたが、忘れてる間、あたしが持ってた」


「返してくれ」


 小蘭は、竹の管を、志揚の手に、置いた。志揚は、それを、握った。


「空だ」


「空でいい」


 志揚は、竹の管を、懐にしまった。前と、同じ場所に。


「また、消えるかもしれない」


「知ってる」


「そのときは、また、呼んでくれ」


「呼ぶわよ。何度でも」


「……頼む」


「一つ、聞いていいか」


「なに」


「俺が、消えて、戻ったとき。お前は、俺を、前の俺の代わりにしてた、って言った。それで、教えるのをやめた」


「……そう」


「あれは、辛かったか」


 小蘭は、少し、考えた。それから、正直に、答えた。


「辛かった。前のあんたが、消えたのと、同じくらい。前のあんたを、あたしが、もう一度、消すみたいだったから」


「……そうか」


「でも、やってよかった。今、あんたが、ここにいるから」


 志揚は、小蘭の手を、握った。


「前の俺と、今の俺は、同じか」


「分からない」


 小蘭は、言った。


「でも、どっちも、志揚よ。あんたが、そう選んだから」


 二人は、並んで、横になった。志揚の手が、小蘭の手を探した。今度は、驚かなかった。引っ込めなかった。ただ、握った。


 泡になっても、戻ってくる。何度でも。そのたびに、何かが沈む。だが、縁が太ければ、浮かぶ。誰かが、呼び続ければ。自分が、選び続ければ。


 それが、影身の法だった。


 いや――と、小蘭は、志揚の手を握りながら、思った。


 それは、術ではない。


 泡になっても、恋をする。


 ただ、それだけのことだった。


---


 翌朝、周は、志揚の顔を見て、一言だけ、言った。


「目が、戻ったな」


 志揚は、少し、笑った。


「前と、同じか」


「同じじゃない。だが、戻った」


 周は、それだけ言って、厨房へ戻った。太った、気のいい爺さん。志揚は、その名を、もう、忘れなかった。


 黎利が、渡青に来たのは、それから、ひと月ほど後のことだった。桂嬢と、二人で。仮病を使わずに。妃は、食堂の隅に座って、粥を食べながら、小蘭が野菜を刻むのを、志揚が荷を運ぶのを、見ていた。何も言わなかった。帰り際に、一つだけ、言った。


「あんたの半分、まだ、あたしの中にあった」


「知ってる」


「また、来る」


「来なさいよ」


 同じ顔が、同じように、笑った。


 志明が、どちらを選んだのか。


 賀琮が、渡青の食堂に現れたのは、それから、ふた月ほど後のことだった。腕は、吊られていなかった。動いていた。賀琮は、店の戸口に立ち、志揚を見て、何も言わずに、一通の文を差し出した。


 志揚は、それを、受け取った。


 開けたかどうかは、誰も、知らない。


 ただ、その日、食堂の荷運びの縄が、一本、増えていた。


 増えた縄が、使われているのか、いないのか。周は、何も言わない。小蘭も、志揚も、言わない。志揚は、ただ、その縄を、自分の縄の隣に、掛けておいた。いつでも、渡せるように。あるいは、渡す日が、来ないとしても。


 都で御影司を閉じる宦官が、幸せなのか。渡青で縄を担ぐ男が、幸せなのか。それは、志明が決めることだった。志揚が決めることでは、なかった。志揚は、それを、分かっていた。分からないまま、隣にいてくれればいい、と、小蘭は言った。志揚は、志明に対しても、同じことを思っていた。分からないまま、縄だけは、掛けておく。


 夕暮れ、志揚は、荷を担いで、通りを歩いた。小蘭が、店先から、それを見ていた。志揚は、荷を持ち上げる前に、小蘭を見た。小蘭の手が、止まった。


 それだけで、十分だった。


(了)

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