ⅩⅩー5 エピローグ――恋の罠
四十年近く前のこと。
十八歳を迎えたばかりのキハは、物憂げな目で、雨が降りしきる庭を見つめていた。先日と昨日、立て続けに王弟ダムに会った。ダムはどんなときもキハに礼節を尽くす。
――わたしは女王になる道を選んだ。
幼い時から、将来の女王候補だと言われ、そのための教育を受け、そのための努力もしてきた。しかし、この国で女王になることは国王と結婚することだ――それが意味することを十分わかっていたとは言えない。
十歳のころ、女王陛下はきれいな庭にわたしをよく招いてくれた。そこでいただくお菓子はとてもおいしかった。そして、同い年の男の子と遊ぶのもとても楽しかった。わたしはその男の子と結婚するのだと信じていた。だって、その子ダムは女王の息子――王子だったのだから。その子はとてもきれいな子で、明るくて賢く、みんなの人気者だった。わたしはその子と結婚できることがうれしかった。
十二歳になった春、真実を知った。残酷な真実だった。国王になるのはその子ではなく、その子のお兄さんだってこと。われわれより四歳も上のお兄さんはずっとカトマールの学校に行っていて、久しぶりに戻ってきたらしい。初めて会った王太子は、真面目そうな少年だったが、どこか暗くて、なじめなかった。でも、その王太子と結婚することが女王になる道だと教えられた。
やがて、母から尋ねられた。王太子がわたしを気に入ったとのこと。
――どうする?
母はわたしに選択肢を与えたわけではない。結論は決まっていた。NOと言えば、わたしはヨミ大神官になるために神官見習いになるしかない。好きなあの男の子と結婚できるわけではない。YESと言った瞬間から、すべてが動き始めた。わたしはあの子とは会えなくなった。十二になった王子は、カトマールに留学する定め。女王陛下の庭にも招かれなくなった。ひたすら女王になるための訓練に明け暮れた。
それから六年。王太子はカトマール帝国大学を卒業して、正式にシャンラに帰還した。婚礼が一か月後に迫ったある日、わたしは珍しく熱を出した。王太子に風邪が移ってはいけない。わたしは王宮から少し離れた離宮に移された。婚礼までには完ぺきに治さねばならない。選りすぐりの医師が付き添ってくれた。熱はすぐに引いた。だが、大事をとってもうしばらく離宮で静養するようにと、女王陛下が配慮してくれた。
退屈だった。庭に出てテラスでお茶を飲んでいると人影がした。背の高い美青年が姿を現した。
青年は面食らったようだった。こちらも十分驚いた。
「きみ……キハ?」
「あなた……ダムね?」
わたしたちは思わぬ再会を喜んだ。ダムはカトマール留学から一時帰国したという。兄の婚礼に参加するためだとか。
「元気だった?」
「うん。あなたも?」
途切れがちの会話だったけれど、楽しかった。なぜかわからないけれど、胸が高鳴った。久しぶりに幼馴染に会うって、こんな感じなの?
「キミが兄上と結婚するんだよね?」
「そう」
「なのに、どうしてここにいるの?」
「ちょっと熱を出しちゃってね。女王陛下がしばらくここで静養しなさいっておっしゃってくださったの。実家だとゆっくりできないだろうからって」
「ふうん。どうして?」
「準備がたいへんだもの。いまだに何時間も女王教育をさせられている」
「女王ってたいへんなんだね」
「そうみたい。あなたは? あなたは大変じゃないの? 兄上が国王になられたら、あなたが王太子になるんでしょ?」
「まあね。でもそれは形式だけだよ。兄上に御子が生まれたら、その御子が王太子になるから。それまでのつなぎさ。あ……それはキミの子どもってことだよね」
「……」
「いつまでここにいるの?」
「あと半月ほど」
「じゃ、こっそり来てもいい? 結婚前の男女が一緒にいるのを知られたらまずいけど、ここならほとんど人がいないから。カトマールのことをいろいろ話してあげるよ。知りたがっていただろう?」
「ホント? きっとよ。待ってる」
その後二週間、わたしたちは夢のようなひと時を過ごした。わたしは彼に恋してしまった。彼もまたわたしに恋した。婚礼を控えて、どうかしてる! わたしたちは何度も自分たちを叱責しながら、それでも気持ちを抑えられなかった。結婚すれば、もはやこうして会うことはできなくなる。限られた時間が惜しかった。
その時、なぜ気づかなかったのだろう。王太子の花嫁と王太子の弟だ。若い二人の密会をだれも止めなかった。わたしたちは、仕組まれた罠に落ちたのだ。いや、みずから飛び込んだと言ってもよい。
わたしたちが恋におちても、予定は狂わない。婚礼は迫り、わたしも彼も焦った。
女王になるのが自分の定め。恋など不要だと決めていた。けれども、焦がれる気持ちは理性では止めようがない。ダムも同じだった。ダムは一緒に逃げようと言った。カトマールに隠れ家を用意したとまで。
だが、できるはずがない。すんでのところで、わたしは女王への道を選び直した。ダムは泣き、わたしも泣いた。これで一生分の涙を流したと思った。
婚礼の日、わたしはダムの目を見なかった。遠目に映ったダムは、王太子に準ずる装束を見につけ、その凛々しさは女官たちの噂の的だった。わたしは初恋を封印したのだ。ダムもまたしばらくしてカトマールに戻っていった。
結婚して二年ほどたったある日、連絡があった。国王が発症し、王太子への譲位が決まったと言う。あわただしく戴冠の準備が進む中、わたしは女王陛下によって離宮に招かれた。女王としての務めを伝授したいとの仰せだった。
女王陛下は、わたしを歓迎してくれた。わたしの努力をほめたたえ、女王にふさわしいと言ってくれた。うれしかった。恋をあきらめ、女王への道を選んだ以上、わたしは必死で努力していたからだ。
人払いをした部屋で、女王はわたしに衝撃的な事実を告げた。
――王太子は体質的に子をつくることができぬ。
女王はわたしに詫びた。国王に子がいなければ、王の親族から養子を迎える定めだ。その場合、王弟ダムの子を迎えることになるだろう。だが、王弟はどうしても結婚したくないと言い張っているとか。国王一族は、王子も王女も自ら望む者との結婚は叶わない。現王太子が気に入った女性を妻に迎えることができたのは、ほとんど前例のない僥倖だったという。
「そなたがダムと恋仲だということはわかっておった。だが、わたしは王太子の幸せとこの国の幸いを優先した。そなたには得難い女王の資質があったからだ。ダムはすぐれた能力をもつ子であるが、国王にはなれぬ定め」
「陛下……」
「だが、王太子に子をつくる力がなく、ダムが妻を娶る気がないのなら、やむをえまい」
「は?」
「ダムはそなたのことが忘れられないようだ。なにより、この国の民のためには、そなたの血を引くすぐれた国王が必要だ」
「おっしゃることの意味がわかりかねるのですが」
「ダムの子を産むのだ。その子を次期国王の子として育てよ。このことは王太子もすでに承知だ。だが、国王陛下にもヨミ大神官にも決して知られてはならぬ」
女王はダムを呼び入れた。思わず、わたしの目から涙が溢れた。それを確認すると、女王は席を外した。
二人きりになると、ダムは静かに言った。
「母上から話は聞いた?」
「ええ」
「キミがイヤなら無理強いはしない。子はできなかったことにすればいい」
わたしはダムを見た。ダムは優しい目でわたしに微笑んでいた。愛する人の瞳だった。
「いえ……わたしはかまわない。子がほしいわけではない。わたしはあなたがほしい」




