第9章 置き場所のないカップ
九月に入ると、由美は父親が休日に出かける姿を見ても、以前ほど表情を変えなくなった。
健司は、あかりと会う日を前日までに伝えた。帰宅時間が変われば連絡し、夕食が必要かどうかも確認した。
どこへ行き、何を話したのかまでは報告しなかった。
由美も尋ねない日が増えた。
健司が日曜日の午後に家を空ければ、由美は友人と買い物へ行ったり、自室で進路の資料を読んだりした。父親の予定に合わせて外出することも、父親を一人にしないために家へ残ることもなくなった。
二人が同じ家で、別々の時間を過ごす。
以前なら冷たく感じたかもしれない距離が、今は少し心地よかった。
あかりと交際を始めてから一か月が過ぎても、由美がもう一度会いたいと言うことはなかった。
健司も催促しなかった。
あかりは由美のことを尋ねるとき、学校生活や進路の細かな内容には踏み込まなかった。
「元気にしていますか」
「体験授業のあと、デッサン教室へ通い始めたよ」
「その話は、私が聞いても大丈夫ですか」
あかりは必ず確かめた。
「教室へ通っていることは構わないと言っていた」
「では、応援しているとだけ伝えてください」
「直接言いたい?」
「今は、健司さんからで大丈夫です」
誰も結論を急がなかった。
健司とあかりの関係も、少しずつ日常の一部になっていった。
二人で映画を見る。あかりの撮影に付き合って商店街を歩く。健司が見つけた食堂へ入り、料理の感想を言い合う。
楽しい時間ばかりではなかった。
待ち合わせに健司が二十分も早く着き、あかりが「待たせている気持ちになるから、早く来ても連絡しないでほしい」と怒ったことがある。
健司が由美の学校行事を理由に予定を変更したとき、あかりは受け入れた。しかし、その予定を当然のように変更してもらえると思わないでほしいとも言った。
あかりが仕事で疲れている日に、美雪の話を聞いてほしいと健司が切り出し、「今日は聞けない」と断られたこともある。
その夜、健司は傷ついた。
美雪の話を拒まれたように感じた。
翌日、落ち着いてからあかりへ連絡した。
〈昨日は、少し寂しく感じました。でも、聞けないと言ってもらったことは必要だったと思います〉
あかりからは、こう返ってきた。
〈美雪さんの話が嫌だったのではありません。昨日は自分のことで精いっぱいでした。無理に聞いていたら、きっと嫌な返事をしていました〉
関係を続けることは、何でも受け入れることではない。
二人はそのことを、何度も確かめていた。
*
九月半ば、由美の高校で文化祭が開かれた。
由美のクラスは、廃材を利用した展示空間を作ることになった。段ボールや古布を使い、教室を小さな町のように見せる企画だった。
由美は全体の配置と照明を担当している。
「文化祭、高橋さんも来る?」
夕食中、由美が尋ねた。
健司は箸を止めた。
「呼んでいいのか」
「お父さんが呼びたいなら」
「由美は、どう思っている?」
「学校なら、家じゃないし。人もたくさんいるから」
「会いたい?」
「会いたいっていうほどじゃない」
「じゃあ、どうして?」
由美はみそ汁を飲んだ。
「仕事でパッケージとか考えてるんでしょ。展示を見たら、何か分かるかなと思って」
「感想を聞きたい?」
「別に、専門家に見てもらうほどじゃないけど」
「聞いてみるよ。ただ、予定があれば無理には誘わない」
「うん」
「由美が呼んでいると伝えていい?」
由美は少し迷った。
「お父さんが呼んで、私も嫌じゃないって言って」
「分かった」
「私から呼んだことにはしないで」
「ああ」
健司があかりへ尋ねると、彼女はしばらく考えてから参加すると答えた。
〈由美さんが無理をしていないかだけ、確認してください〉
〈確認しました。学校なら会ってもいいそうです〉
〈分かりました。展示を見たあとは、長く残らずに帰ります〉
文化祭当日、あかりは一人で高校を訪れた。
健司とは校門の前で待ち合わせず、展示教室の近くで合流した。父親の交際相手と一緒に登校したように見られたくないという、由美の希望だった。
教室へ入ると、段ボールで作られた壁が迷路のように並んでいた。
壁の一部には透明な色紙がはめ込まれ、外から差し込む陽射しが床へ赤や青の模様を作っている。天井からは小さな紙の家がいくつも吊り下げられていた。
「こちらから入ってください」
受付にいた由美が、二人を案内した。
学校で見る由美は、家にいるときより声が大きかった。クラスメートへ指示を出し、迷っている来場者がいれば、自分から声をかける。
「あれ、由美のお父さん?」
クラスメートの女子生徒が近づいてきた。
「うん」
「隣の人は?」
由美の顔がこわばった。
あかりは先に答えなかった。
「お父さんの会社の人」
由美が言った。
「仕事でデザインとかしてるから、見に来てもらった」
「へえ。プロなんだ」
「商品企画をしています。空間デザインの専門家ではありません」
あかりが答える。
「でも、感想聞きたいです」
女子生徒に促され、三人は展示の中へ入った。
あかりはすぐに意見を言わず、順路を最後まで歩いた。壁の高さや照明の位置を確かめ、出口から入口の方を振り返る。
「どうでした?」
由美のクラスメートが尋ねた。
「段ボールの壁が高すぎないので、狭くても怖く感じませんでした。色のついた影も、歩く人が通るたびに形が変わって面白かったです」
「悪いところは?」
「入口から出口が見えないので、混んだときに進んでよいか迷う方がいました。床に順路の印があると分かりやすいかもしれません」
「今からでもできそう」
女子生徒は由美を見た。
「テープで矢印作る?」
「色紙の余りを使おう。床に貼っても剥がせるか、先生に確認してくる」
由美はすぐに動いた。
あかりはその後ろ姿を見送った。
「何か言いたそうだね」
健司が尋ねる。
「言いません」
「どうして?」
「由美さんに直接聞かれたら答えます」
「そうか」
しばらくして戻ってきた由美が、あかりへ近づいた。
「本当に、分かりにくかったですか」
「少しだけ。由美さんは、気にならなかった?」
「作ってる側は、道を知ってるから」
「商品の説明書でも、同じことがあります。作った人には分かるので、初めて見る人がどこで迷うか気づけないんです」
「どうやって確認するんですか」
「何も知らない人に使ってもらいます。説明せずに見ていると、意外なところで止まります」
「お父さんみたいな人?」
「どういう意味だ」
健司が口を挟む。
「デザインとか分からないから」
「それなら、向いているかもしれません」
あかりが答えると、由美が笑った。
健司は不満そうな顔をしたが、二人の会話へ入り込まなかった。
展示を見終えると、あかりは約束どおり長居せずに帰った。
「今日はありがとうございました」
校舎の出口で由美が言った。
「こちらこそ、見せてもらえてうれしかったです」
「矢印、付けてみます」
「はい」
「また見に来るほどじゃないですけど」
「では、また今度」
由美は一瞬迷ったあと、頭を下げた。
あかりも頭を下げ、一人で校門へ向かった。
「一緒に帰らなくていいの?」
由美が健司へ尋ねる。
「今日は由美の文化祭を見に来たからな」
「高橋さん、一人で帰るのに?」
「帰りに写真を撮りたい場所があると言っていた」
「そっか」
由美はあかりの後ろ姿を見つめた。
「思ったことをすぐ言わない人なんだね」
「必要なときは、かなり言うよ」
「今日、私には言わなかった」
「由美が聞くまで待っていたんじゃないか」
「ふうん」
由美は返事をしただけだった。
*
文化祭から一週間後の日曜日、由美は朝食の席で突然言った。
「高橋さん、家に来てもいいよ」
健司はコーヒーをこぼしそうになった。
「本当に?」
「すぐに大げさにしないで」
「会いたいと思ったのか」
「そういうんじゃない」
「じゃあ、どうして?」
由美はトーストへバターを塗った。
「お父さんと付き合ってるなら、いつか来るんでしょ」
「由美が嫌なら、来ない」
「ずっと来ないわけじゃないって、前に言ってた」
「ああ」
「だったら、私が決められるうちに一回来てもらった方がいい」
「どういう意味?」
「急に泊まるとか、一緒に住むとか言われてから会うのは嫌だから」
「そんな予定はないよ」
「分かってる。でも、家でどうする人なのか見ておきたい」
健司は言葉を選んだ。
「試すために呼ぶの?」
「少しは試すかも」
「由美」
「だって、ここは私の家でもあるよ」
「ああ」
「高橋さんが、勝手にお母さんのものを触らないか。台所でお母さんみたいに振る舞わないか。見たい」
「その言い方は、あかりさんに失礼じゃないか」
「嫌なら断っていいって言って」
由美は以前と同じ言葉を使った。
「何時から、どのくらい?」
「午後三時から、一時間くらい。夕飯は一緒に食べない」
「分かった。聞いてみる」
「贈り物はいらない」
「ああ」
「お母さんの写真も、そのままにして」
「もちろん」
あかりは、すぐには返事をしなかった。
夜になってから届いた文章には、迷いが表れていた。
〈自宅へ伺うことは、由美さんにとって負担が大きいのではないかと心配しています〉
〈由美が自分から言いました。ただ、家でどう振る舞うか見たい気持ちもあるそうです〉
〈試されることに、少し抵抗があります〉
〈無理に来なくて大丈夫です〉
〈行かずに避け続けることもしたくありません。条件を確認させてください〉
健司は由美に相談しながら、あかりへ伝えた。
滞在は一時間ほど。食事はしない。美雪の写真や品物には触れない。台所へ入る必要もない。由美が終わりにしたいと言えば、その時点で帰る。
〈分かりました。お茶をいただくだけにします。何も持たずに伺います〉
訪問は、翌週の日曜日に決まった。
*
前日の土曜日、健司は食器棚を整理していた。
あかりへ出すカップを選ぶためだった。
普段、健司が使っているのは白いマグカップだった。由美は黄色いカップを使っている。
食器棚の奥には、青い小花模様のカップが二つある。来客用に購入したものだが、ほとんど使っていない。
それを出せばよい。
健司は一度、二つのカップを手前へ移した。
その横に、美雪が使っていた赤いマグカップが置かれている。
持ち手の近くが少し欠けている。美雪がシンクへぶつけたときに欠けたものだった。
危ないから捨てようと健司が言うと、美雪は「口をつけるところじゃないから大丈夫」と笑った。
美雪が亡くなってから、誰も使っていない。
ただ、食器棚を開けるたびに見える場所へ置いてきた。
青い来客用のカップを手にしたまま、健司は考えた。
あかりを、いつまでも来客として扱いたくない。
しかし、美雪のカップの隣に、あかりだけのものを置くことには抵抗があった。
美雪の場所へ別の女性を入れるように思えた。
買い物へ出た健司は、食器売り場で二つのマグカップを見つけた。
一つは淡い青、もう一つは淡い緑。色は違うが、同じ形をしている。
健司は二つとも購入した。
青を自分用にし、緑をあかり用にする。
美雪のカップと並べなければ、比較する必要もない。自分も同じ形へ替えれば、あかりだけに特別な役割を与えることにもならない。
そう考えた。
帰宅すると、二つのカップを洗い、食器棚の手前へ並べた。
自分の白いカップは下の段へ移した。
赤いマグカップをどこへ置くか迷い、柔らかい布で包んで食器棚の一番奥へ入れた。
捨てたわけではない。
傷つかないように守っただけだ。
健司は自分へそう言い聞かせた。
由美には、何も伝えなかった。
*
日曜日の午後三時、あかりは約束どおり一人でやってきた。
手には普段使っている鞄だけを持っていた。
「こんにちは」
「どうぞ」
健司が玄関へ迎え入れる。
由美はリビングで待っていた。
「こんにちは」
あかりが頭を下げる。
「こんにちは」
由美は立ち上がらずに答えた。
「今日は呼んでくれて、ありがとうございます」
「呼んだっていうか、来てもいいって言っただけです」
「はい」
あかりは健司に勧められた椅子へ座った。
棚の上には、美雪の写真がいつもどおり置かれている。
あかりは一度だけ写真へ目を向けたが、近づくことも、何か言うこともしなかった。
「お茶を入れるよ」
健司は台所へ向かった。
「何か手伝いましょうか」
あかりが言う。
由美の表情が変わった。
「大丈夫。座っていて」
健司はすぐに答えた。
「そうですか」
あかりは立ち上がらなかった。
健司は新しいマグカップを取り出した。
青いカップにはコーヒーを、緑のカップにはあかりが好きなカフェオレを入れる。由美には、いつもの黄色いカップで紅茶を用意した。
三つのカップを盆に載せ、食卓へ運ぶ。
「これは?」
あかりが緑色のカップを見た。
「新しく買ったんだ。あかりさんに使ってもらおうと思って」
「私のために?」
「ああ。青い方は俺が使う」
健司は少し笑った。
「あかりさんが来たときに、いつも同じものを使える方がいいと思った」
あかりはカップへ手を伸ばさなかった。
「以前からあったものではないんですね」
「昨日買った」
「私に相談せずに?」
「カップくらいで、相談する必要はないだろ」
「私のためのものなら、聞いてほしかったです」
健司の胸に、失望が広がった。
喜んでもらえると思っていた。
「気に入らなかった?」
「色の問題ではありません」
由美は青と緑のカップを見比べていた。
「ペアなの?」
「色違いだよ」
「同じ形じゃん」
「ああ」
「お父さんと高橋さんの?」
「そういうつもりで買った」
由美が立ち上がり、食器棚を開けた。
「何を探してる?」
健司が尋ねる。
由美は答えず、上の段を見た。
「お母さんのカップは?」
健司の背中に冷たいものが走った。由美の目が、いつもの場所を素通りして、その先を探している。
「奥にしまった」
「どうして?」
「欠けているし、使っていないから。壊れないように布で包んだ」
「昨日?」
「ああ」
「高橋さんが来るから?」
「それだけじゃない」
「昨日まで、ずっとそこにあったじゃん」
由美は食器棚の奥へ手を入れた。
布に包まれた赤いカップを取り出す。
「隠したの?」
「隠したわけじゃない。しまったんだ」
「同じでしょ」
「壊れないようにしただけだ」
「だったら、何で昨日なの?」
由美の声が震えた。
「高橋さんのカップを置く場所がなかったから、お母さんのをどけたんでしょ」
「違う」
「違わないよ」
「あかりさんのものと美雪のものを、隣に置くのは違うと思ったんだ」
「だから、お母さんを奥にしたの?」
由美の目から涙が落ちた。
あかりが立ち上がる。
「由美さん、私は――」
「高橋さんは黙ってて」
由美の強い声に、あかりの顔がこわばった。
「由美」
「高橋さんのカップまで買って、お母さんのを隠して、何がそのままなの?」
「写真は動かしていない」
「カップだって、お母さんのものだよ」
「分かってる」
「分かってない!」
由美は赤いカップを両手で抱えた。
「私、このカップ、お母さんが使ってたところは覚えてない。でも、ずっとここにあった。毎日見てた」
「由美が気にしているとは知らなかった」
「知らなかったら、動かしていいの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
健司は答えられなかった。
あかりが緑色のカップを見た。
「健司さん、どうして二つ買ったんですか」
「だから、あかりさんに居場所があった方がいいと思って」
「私の居場所を、カップで先に決めたんですか」
「先に決めたつもりはない」
「この家に来るのは、今日が初めてです」
あかりの声も震え始めた。
「私は一時間、お茶をいただくだけだと約束しました。次に来られるかも分からない。それなのに、私専用のカップを用意して、美雪さんのカップを奥へ移した」
「美雪のカップを使わせるわけにはいかないと思った」
「来客用のカップがあったでしょう」
「来客として扱いたくなかった」
「私は、まだこの家では来客です」
あかりははっきりと言った。
「由美さんが暮らしている家で、私の場所を健司さん一人が決めないでください」
「俺は二人のことを考えて――」
「考えたのは、自分がどう見られるかではありませんか」
健司は言葉を失った。
「私に、美雪さんの代わりにされたと思われたくない。由美さんには、私をただの来客として扱ったと思われたくない。だから、誰にも聞かずに答えを作った」
「あかりさん」
「私のカップを置くために美雪さんのものが動かされたら、私はこの家で何をしても、美雪さんから何かを奪った人になります」
「そんなふうには思っていない」
「由美さんは、そう感じています」
「高橋さんに、私の気持ちを決めないで」
由美が言った。
あかりは息をのみ、由美へ向き直った。
「ごめんなさい。今、私も勝手に決めました」
「……うん」
「私は、このカップを使えません」
「高橋さんが悪いわけじゃない」
「分かっています。でも、使えば、今日のことを忘れられないと思います」
あかりは緑のカップをテーブルへそっと置き、鞄を持った。
「帰ります」
「まだ来たばかりだ」
「今日は、ここにいられません」
「話をすれば――」
「今は話せません」
あかりは健司を見た。
「私は、あなたが美雪さんのものを動かしたことだけに怒っているのではありません。私に相談せず、由美さんにも相談せず、二人が喜ぶ答えを作ったことに怒っています」
「悪かった」
「すぐに謝らないでください」
「でも――」
「今は、謝罪を受け取れません」
あかりは玄関へ向かった。
健司は追いかけようとしたが、由美が赤いカップを抱えて泣いている。
どちらを追うべきか考えた自分に、健司は愕然とした。
「あかりさん」
玄関で呼び止める。
「駅まで送る」
「一人で帰ります」
「連絡してもいい?」
「今日は、しないでください」
あかりは靴を履き、ドアを開けた。
「由美さん」
振り返り、リビングにいる由美へ声をかける。
「今日は、家に入れてくれてありがとうございました。つらい思いをさせて、ごめんなさい」
「高橋さんのせいじゃない」
由美は泣きながら答えた。
「それでも、今日は帰ります」
ドアが閉まった。
*
部屋に残ったのは、健司と由美、使われなかった三つの飲み物だった。
カフェオレの表面に、薄い膜ができ始めている。
「由美」
「触らないで」
健司が近づこうとすると、由美は赤いカップを抱えたまま後ろへ下がった。
「そのカップは壊れやすい。落とさないように」
「また物の心配?」
「違う。美雪の大切な――」
「お母さんのものは、お父さんのものなの?」
由美の問いに、健司は足を止めた。
「どういう意味だ」
「お母さんの服も、写真も、カップも、全部お父さんが持ってる。私は、何を自分のものだと思っていいの?」
「由美にとっても大切なものだよ」
「でも、動かすとき私に聞かなかった」
「悪かった」
「また謝る」
「ほかに、何を言えばいい?」
「知らないよ!」
由美は自分の部屋へ向かった。
「そのカップ、部屋へ持っていくのか」
「駄目?」
「駄目じゃない。でも、二人の家に置いてきたものだから」
「今までお父さんの場所に置いてたじゃん」
「食器棚は、俺の場所じゃない」
「なら、私が持っててもいいでしょ」
健司は何も言えなかった。
由美は赤いカップを抱え、自室へ入った。
ドアは強く閉められた。
健司は食卓へ戻った。
青と緑のカップが並んでいる。
買ったときには、穏やかな時間を想像していた。
青いカップで自分がコーヒーを飲み、あかりが緑のカップでカフェオレを飲む。由美も同じ食卓に座り、三人で話す。
そこに美雪のカップを置かなかったのは、過去と現在を分けるためだと思っていた。
実際には、分けたのではない。
見えない場所へ押し込んだ。
あかりを美雪の代わりにしたくないと言いながら、二つ並んだカップの片方へ収めようとした。
由美を尊重すると言いながら、由美が毎日見ていたものを、自分だけの判断で動かした。
健司は冷めたコーヒーを流しへ捨てた。
あかりのカフェオレにも手を伸ばしたが、すぐには捨てられなかった。
カップを買った自分の気持ちまで、否定するような気がした。
それでも、飲む人のいないカフェオレを残しても仕方がない。
流しへ捨て、三つのカップを洗った。
黄色いカップは、いつもの場所へ戻す。
青と緑のカップは、食器棚へ戻さず、箱の中へ入れた。
空いた棚には、何も置かなかった。
*
あかりは駅へ向かって歩きながら、何度も涙を拭った。
由美の前では泣かないようにしたかった。
自分が泣けば、由美が悪いことをしたように感じるかもしれない。
だが、マンションを出た途端、我慢できなくなった。
健司が自分のためにカップを買った。
本来なら、うれしいことだったのかもしれない。
好きな色を覚えていてくれた。次に来たときも同じものを使えるよう、自分の場所を作ろうとしてくれた。
あかりの中には、その気持ちをうれしいと思った部分もあった。
だからこそ苦しかった。
二つ並んだカップを見た瞬間、健司との生活を想像した。
同じ食器棚を使い、朝になれば隣でコーヒーを飲む。そんな未来を、ほんの少し望んだ。
その直後、美雪のカップが奥へ移されたことを知った。
自分の居場所は、美雪が退いたあとにしか作れないのか。
由美の目には、自分が母親の場所を奪った人として映ったのではないか。
胸の中に、嫉妬と罪悪感が同時に広がった。
あかりは駅前のベンチへ座った。
スマートフォンを取り出し、真奈へ連絡しようとしたが、やめた。
今は、誰かに健司を責めてほしいわけではない。
自分がどうしたいのか、まだ分からなかった。
健司の家へ行くことは、自分が思っていた以上に重いことだった。
写真の中の美雪。
由美が使う黄色いカップ。
冷蔵庫に貼られた古いメモ。
そこには、自分の知らない十年が積み重なっていた。
その暮らしを壊したくない。
同時に、いつまでも外側に立つだけの関係も望んでいなかった。
どこにも入らず、何も動かさず、誰も傷つけずに近づくことなどできないのかもしれない。
だからといって、健司が用意した空白へ、何も言わずに収まることもできなかった。
電車に乗り、自宅の最寄り駅へ着いたころ、健司からの連絡はなかった。
今日は連絡しないでほしいと言ったからだ。
約束を守っている。
それでも、何も届いていない画面を見ると寂しかった。
自分から送ろうとは思わなかった。
*
翌朝、健司は由美の部屋の前に立った。
「朝食、できてる」
返事はない。
「学校、遅れるぞ」
「起きてる」
ドア越しに声がした。
「話したくないなら、話さなくていい。朝食だけ食べないか」
「いらない」
「弁当は?」
「購買で買う」
「分かった」
健司は一人で朝食を食べた。
食器棚の空いた場所が目に入る。
昨日まであった美雪のカップは、由美の部屋にある。青と緑のカップは箱へ入れたまま、台所の隅に置かれている。
由美が部屋から出てきた。
制服を着て、髪も整えている。
「おはよう」
「おはよう」
「朝食、本当にいらない?」
「いらない」
「分かった」
健司は引き止めなかった。
由美は玄関へ向かい、靴を履く。
「お父さん」
「何だ」
「高橋さんに、私が怒ったから帰ったって言わないで」
「言わない」
「お父さんが勝手にカップを買ったからって言って」
「ああ」
「私、高橋さんに来ていいって言ったこと、後悔してる」
健司の胸が痛んだ。
「そうか」
「もう家には呼ばないで」
「分かった」
由美は家を出た。
健司も出勤の支度をした。
会社へ着くと、あかりはすでに仕事をしていた。
廊下ですれ違う。
「おはようございます、佐藤部長」
「おはようございます、高橋主任」
あかりは立ち止まらなかった。
健司も追いかけなかった。
昼休みになってから、個人の連絡先へ一通だけ送った。
〈昨日のことについて謝りたいと思っています。ただ、すぐに謝罪を受け取れないと言われたことも分かっています。連絡してよい時期を、あかりさんが決めてください。それまでは仕事以外の連絡を控えます〉
午後になっても返事はなかった。
退勤するころ、ようやく短い文章が届いた。
〈一週間、時間をください。そのあと、直接話したいです〉
〈分かりました〉
健司はそれだけ返した。
*
一週間後、二人は以前歩いた公園で会った。
夏の暑さは残っていたが、日が暮れる時刻は早くなっている。
あかりは池の近くのベンチに座っていた。
健司は隣ではなく、少し離れた場所に立った。
「時間を作ってくれて、ありがとう」
「はい」
「座ってもいい?」
「どうぞ」
健司は一人分の間を空けて座った。
「まず、謝らせてほしい」
あかりは答えなかった。
「カップを買ったことも、美雪のカップを動かしたことも、二人に相談しなかった。由美とあかりさんが喜ぶ形を、俺一人で決めた」
「はい」
「美雪のものを片づけたかったわけではない。あかりさんを代わりにしたかったわけでもない。でも、自分がそう思っていなければ問題ないと考えていた」
あかりは池を見つめている。
「本当は、美雪のカップと、あかりさんのカップが同じ棚にあることを、俺自身が怖がった」
あかりが健司へ顔を向けた。
「どうしてですか」
「二人を同時に大切にしていることが、目に見える形になるからだと思う」
「美雪さんへの裏切りに見えた?」
「それもある。でも、あかりさんと生活する未来を考えていることを、認めるのも怖かった」
「だから、奥へ隠したんですか」
「ああ。由美に見せないためではなく、自分が見なくて済むようにした」
健司は両手を組んだ。
「自分の迷いを処理するために、美雪のカップを動かし、あかりさんの場所を勝手に作った。申し訳なかった」
あかりは長く息を吐いた。
「謝罪は受け取ります」
「ありがとう」
「でも、すぐに元どおりには戻れません」
「ああ」
「私は、あの緑のカップを見て、うれしいと思いました」
健司は顔を上げた。
「健司さんが私のために選んでくれたことも、次に来たときのことを考えてくれたことも、うれしかったです」
「だったら――」
「だから苦しいんです」
あかりの声が揺れた。
「美雪さんのカップが動かされたことを知る前、私はあの家に自分の場所ができたと思いました。その瞬間、由美さんが何を感じるかを考えなかった」
「あかりさんのせいじゃない」
「それを健司さんに決めてほしくありません」
健司は口を閉じた。
「私は、美雪さんの場所を奪いたくないと言いながら、自分の場所はほしいと思っています。由美さんに無理をさせたくない。でも、ずっと家へ入れない関係は嫌です」
「ああ」
「矛盾しています」
「矛盾していていいと、由美には言ってきた」
「私にも言えますか」
「言える」
「本当に?」
「あかりさんが美雪に嫉妬しても、自分の場所を望んでも、それだけで悪いとは思わない」
「由美さんが傷ついても?」
「傷つけても構わないとは言わない。でも、誰も傷つかない方法だけを探していたら、何も変えられない」
あかりの目に涙が浮かんだ。
「私は、別れることも考えました」
健司の胸が締めつけられた。
「今も?」
「分かりません」
「俺は、別れたくない」
「その言葉だけでは続けられません」
「ああ」
「しばらく、家のことから離れたいです。由美さんとの関係も、無理に進めたくありません」
「分かった」
「二人で会うことも、少し減らしたいです」
健司はすぐに答えられなかった。
受け入れなければならないと分かっている。
それでも、寂しさと恐れが胸に広がった。
「どのくらい?」
「期限を決めなければいけませんか」
「分からないまま待つのは、不安だ」
「以前の私と同じですね」
あかりの言葉に、健司は黙った。
答えの出ない時間を、これまであかりに負わせてきた。
「そうだな」
「二週間後に、もう一度会いませんか」
「ああ」
「そのとき、続けたいと思っているか、話しましょう」
「分かった」
「仕事では、今までどおりにします」
「ああ」
二人はベンチから立ち上がった。
健司は手を差し出さなかった。
あかりも健司の手を求めなかった。
「では、二週間後に」
「連絡は?」
「日程を決める連絡だけにしましょう」
「分かった」
あかりは一人で駅へ向かった。
健司は公園に残った。
池の水面に、街灯の明かりが細長く揺れている。
すぐに追いかければ、まだ間に合う。
別れたくないと、もっと強く言うこともできる。
健司は動かなかった。
*
帰宅すると、由美は自室にいた。
食卓の上には、青と緑のカップが入った箱が置かれたままだった。
健司は箱を持ち上げ、押し入れへ入れようとした。
途中で手を止める。
見えない場所へ置けば、また同じことになる気がした。
箱を食卓へ戻す。
美雪の赤いカップも戻ってこない。
由美が持っているからといって、取り返すつもりはなかった。
健司は食器棚の扉を閉めた。
二週間後、あかりがどんな答えを出すかは分からない。
由美がもう一度、あかりを家へ招く日が来るかも分からない。
どのカップにも、今は置き場所がなかった。




