第8章 自分の言葉で
三人で食事をした翌週、健司とあかりの連絡は減った。
互いに避けていたわけではない。
朝になれば「おはよう」と送り、帰宅が遅くなった日は「お疲れさま」と伝えるような関係では、もともとなかった。数日に一度、見た映画や仕事帰りに立ち寄った店について短い言葉を交わすだけだった。
それでも健司には、以前より間が長くなったように感じられた。
スマートフォンに通知が届くたび、あかりからではないことを確かめている自分がいる。
何か送ろうとしても、由美との食事について話すべきか迷った。
由美は、会ってよかったと言った。
同時に、もう一度会いたいかは分からないとも言った。
あかりは由美を傷つけ、由美の言葉にも傷ついた。二人が率直に話した結果を、健司が勝手に「よい初対面だった」とまとめることはできなかった。
七月最後の金曜日、あかりから写真が届いた。
古い駅のホームに置かれた木製のベンチだった。塗装はところどころ剥がれ、背もたれに細い亀裂が入っている。
〈仕事で外出した帰りに見つけました。健司さんが気に入った無人駅の写真を思い出しました〉
健司は画面を拡大した。
ベンチの端には、誰かが置き忘れた青い傘が立てかけられている。
〈この傘は、持ち主が戻ってきたでしょうか〉
健司が送ると、しばらくして返事が来た。
〈十分ほど待ちましたが、誰も来ませんでした。駅員さんに届けました〉
〈写真を撮るために十分待ったんですか〉
〈持ち主が戻ってきたところも撮れたらと思いました〉
〈戻ってきたら、撮影の許可を取るんですか〉
〈顔が写らないようにします。でも、傘を見つけた瞬間の顔は見てみたかったです〉
健司は、ベンチの写真をもう一度見た。
〈明日、例の駅へ行ってみようと思います〉
送信してから、あかりを誘うべきだったかと考えた。
以前、最初は一人で行くと言った。実際に一人で行き、その場所を自分がどう感じるか確かめたかった。
あかりからの返事は短かった。
〈気をつけて行ってきてください〉
健司は少し寂しく感じた。
同時に、誘わなかった自分が、寂しがるのは勝手だと思った。
*
翌朝、健司は一人で電車に乗った。
由美は部活動の練習試合があり、朝早くから出かけていた。
台所には二人分の弁当が置かれている。一つは由美が自分で作ったものだった。冷凍食品と昨夜の残り物を詰めただけだと言っていたが、卵焼きも入っていた。
「お父さんの分も作ったから、持っていって」
出かける前、由美は照れたように言った。
「朝から作ったのか」
「昨日の夜に、ほとんど詰めた。卵焼きだけ朝」
「ありがとう」
「形は見ないで」
「食べたら同じだろ」
「お父さんが言うと腹立つ」
由美は笑い、先に家を出た。
健司が向かったのは、市内から電車を乗り継いで二時間ほどの場所にある海辺の町だった。
幹線から一両編成のローカル線へ乗り換える。車内には、買い物袋を持った年配の女性と、カメラを抱えた若い男性がいるだけだった。
窓の外を住宅街が流れ、やがて畑が増えていく。
健司はスマートフォンを鞄へ入れた。
由美の帰宅時間を確認する必要はない。あかりへ、今どこを走っているか伝える必要もない。
目的の駅へ着いたのは、午前十一時を少し過ぎたころだった。
写真展で見た駅とは別の場所だが、景色はよく似ている。
古い駅舎を出ると、道路の向こうに海が広がっていた。ホームからも、建物の隙間を通して水面が見える。
健司は駅前を歩いた。
観光客向けの店はほとんどない。小さな食堂と郵便局、古い酒屋が一軒ずつ並んでいる。
どこへ行くかは決めていなかった。
海の方向へ歩き、防波堤の階段を上る。
波は穏やかだった。
健司は由美が作った弁当を取り出した。
蓋を開けると、卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のおひたしが詰められていた。赤いミニトマトが一つ、端に入っている。
赤、黄、緑。
美雪のメモを思い出す。
由美が、その三色を意識したのかは分からない。
尋ねる必要もないと思った。
卵焼きを口へ入れる。少し焦げていたが、甘さはちょうどよかった。
健司は海を眺めながら、ゆっくり食べた。
由美のために作った弁当でも、美雪に教わった弁当でもない。
由美が自分で考え、健司のために詰めた弁当だった。
食べ終えると、健司は駅へ戻った。
次の電車まで、まだ四十分ある。
ホームのベンチへ座り、線路の向こうの海を見た。
写真を一枚撮る。
うまく撮れたとは思わなかった。水平線がわずかに傾き、ホームの屋根が画面へ入りすぎている。
それでも撮り直さなかった。
あかりへ送る。
〈着きました。写真展で見た駅とは違いますが、海が見えます〉
数分後、返事が届いた。
〈本当に行ったんですね〉
〈自分でも驚いています〉
〈写真、少し右に傾いています〉
〈やっぱり分かりますか〉
〈でも、撮り直さなくていいと思います〉
〈どうして?〉
〈最初に見たとき、健司さんには海がこう見えたのでしょうから〉
健司は画面の中の海と、目の前の海を見比べた。
〈次に来るときは、あかりさんを誘ってもいいですか〉
送信ボタンを押す前に、何度か文章を読み返した。
これは旅の感想を伝えるだけの連絡ではない。
次の時間を一緒に過ごしたいという意思だった。
健司は送信した。
電車が来るまで返事はなかった。
ホームへ列車が入り、健司は乗り込んだ。
発車して間もなく、スマートフォンが震えた。
〈はい。次は一緒に行きたいです〉
健司はその文章を読み、もう一度窓の外を見た。
遠ざかる海を、今度は誰かと見ることを考えていた。
*
八月最初の土曜日、健司と由美は東京へ向かった。
由美が希望している大学の体験授業へ参加するためだった。
新幹線の座席に並んで座っても、由美はほとんどスマートフォンを見ていた。学校の友人と連絡を取っているらしい。
健司は何度か話しかけようとしたが、やめた。
車窓を眺め、大学から送られてきた保護者向けの資料を読み直す。
「お父さん」
由美がスマートフォンから顔を上げた。
「何だ」
「緊張してる?」
「俺が?」
「さっきから同じページ見てる」
「内容を確認していたんだ」
「三回も?」
健司は資料を閉じた。
「少し緊張している」
「どうしてお父さんが」
「由美が家を出るかもしれないと、初めて実感しているからかな」
「まだ受験もしてないよ」
「分かってる」
「今日見て、違うと思うかもしれないし」
「ああ」
「行きたいと思うかもしれない」
「それも分かってる」
由美は健司の顔を見た。
「どっちがいい?」
「由美が、自分で確かめることが一番いい」
「模範解答みたい」
「本音だよ」
「寂しいんでしょ」
「寂しい。でも、見ないで諦めてほしいとは思わない」
「そっか」
由美は再びスマートフォンへ目を落とした。
口元が少し緩んでいた。
大学へ着くと、由美は受付で資料を受け取り、同じ体験授業へ参加する高校生たちの列へ並んだ。
「授業が終わったら連絡する」
「ああ」
「大学の中、勝手に見てていいよ」
「保護者説明会へ行く」
「終わったら?」
「近くの映画館を見てくる」
「本当に?」
「ああ。古い映画館が残っているらしい」
「高橋さんと?」
「今日は一人だ」
「連絡はする?」
「映画館の話はしてある」
「ふうん」
由美は何か言いたそうだったが、担当者に呼ばれ、校舎へ入っていった。
健司は保護者説明会へ向かった。
学費、入試制度、就職先、一人暮らしの支援。説明を聞きながら、由美がここで暮らす姿を想像した。
知らない街で電車に乗り、友人と食事をし、深夜まで課題に取り組む。体調を崩しても、健司がすぐに駆けつけられるとは限らない。
不安は消えなかった。
それでも、由美が自宅から通える大学だけを選ぶより、表情を輝かせてこの校舎を歩く姿を見たいと思った。
説明会が終わると、健司は大学を出た。
事前に調べておいた映画館まで、地下鉄で二駅だった。
昭和の時代から営業している小さな劇場で、入口には手書きの上映時間が掲げられている。上映を見る時間はなかったため、ロビーの展示とパンフレットだけを見た。
売店で上映作品の冊子を買い、外へ出る。
あかりへ写真を送ろうとして、やめた。
今は由美と来ている。
あかりに連絡してはいけないわけではない。ただ、何かを見つけるたびにすぐ共有しなければならない関係にはしたくなかった。
自分の中へ残し、次に会ったとき話すこともできる。
大学へ戻ると、体験授業を終えた由美が正門の前に立っていた。
「どうだった?」
「楽しかった」
由美は隠そうとしても隠しきれない笑顔を浮かべていた。
「模型作った」
「見せてもらえる?」
「家に帰ってから。壊れそうだから」
「そうか」
「先生に質問もできた。二年生のうちに、デッサンもやっておいた方がいいって」
「やってみる?」
「うん」
二人は駅へ向かって歩いた。
「ここを受けたい?」
健司が尋ねる。
「まだ決めない。でも、候補に入れたい」
「ああ」
「県外でも?」
「もちろん」
「一人暮らしになるかもしれないよ」
「分かってる」
「お父さん、一人だよ」
「由美」
「分かってる。私が決めることじゃない」
由美は足元を見た。
「でも、心配することまで駄目って言わないで」
「駄目とは言わないよ」
「高橋さんがいるから大丈夫とかも言わないでね」
健司は立ち止まった。
「そういうつもりはない」
「本当に?」
「あかりさんがいるから、由美が家を出ても平気になるわけじゃない。由美は由美だ」
「じゃあ、高橋さんは?」
「あかりさんも、由美の代わりではない」
「お母さんの代わりでもない?」
「ああ」
「みんな別ってこと?」
「そういうことになる」
「そんなに別々の人を、全部大切にできるの?」
健司は答えを考えた。
「同じようにはできないと思う」
「差をつけるの?」
「順位をつけるという意味じゃない。由美には父親としてできることがある。美雪には、亡くなった今も覚えていたいことがある。あかりさんとは、これからどう関わるか考えたい」
「高橋さんとは、これからなんだ」
「ああ」
由美は歩き始めた。
「お父さんも、ちゃんと決めてね」
「何を?」
「自分がどうしたいか。私が東京へ行くかどうかとは関係なく」
その言葉が、健司の胸に残った。
*
東京から戻った翌週、健司はあかりを仕事帰りの公園へ誘った。
以前、二人が最初に話をした喫茶店ではなく、会社から電車で三駅離れた場所にある公園だった。
池の周りに遊歩道があり、夕方になると散歩やジョギングをする人が増える。
健司が先に着き、入口近くで待っていると、あかりが仕事用の鞄を持って歩いてきた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
「今日は、何か大切な話ですか」
「どうして分かった?」
「メッセージが、いつもより短かったので」
健司は「話したいことがあります」とだけ送っていた。
「歩きながらでいい?」
「はい」
二人は池の周りを歩き始めた。
夏の夕方はまだ明るく、木々の間から西日が差し込んでいる。水面では、数羽の水鳥がゆっくり移動していた。
「海辺の駅へ行ったこと、話しましたよね」
「はい。次は一緒に行きたいと返信しました」
「あれから考えた」
健司は足を止めなかった。
「俺は、あかりさんと次の予定を決めたい。ただの友人としてではなく」
あかりの歩調が遅くなる。
「それは、どういう意味ですか」
「付き合ってほしい」
声に出すと、胸の奥が大きく動いた。
十年間、自分とは関係のない言葉だと思っていた。
由美が成人してから。
父親としての役目を終えてから。
美雪への気持ちを整理できてから。
すべてが整うまで口にしないと決めていた。
今も、整ったものは何もない。
「由美から、何か言われたんですか」
あかりが尋ねた。
「自分がどうしたいかを、由美の進路とは関係なく決めろと言われた」
「では、由美さんの言葉がきっかけですか」
「きっかけの一つではある。でも、由美に言われたから決めたわけじゃない」
健司は立ち止まり、あかりへ向き直った。
「由美が今日、反対すると言っても、俺は同じことを伝える」
あかりは健司の目を見た。
「由美さんが反対しても?」
「ああ。理由は聞く。生活に関わることなら一緒に考える。でも、あかりさんを大切にしたいと思う気持ちまで、由美に決めさせない」
「美雪さんのことは?」
「今も愛している」
あかりの表情がわずかに揺れた。
「その言葉を聞けば、あかりさんが傷つくこともあると思う。それでも、愛していないとは言えない」
「はい」
「同時に、あかりさんと会いたい。もっと知りたい。うれしいことだけでなく、怒っていることも話してほしい」
健司は一度息を吸った。
「すぐに再婚を考えているわけではない。由美に母親が必要だと思っているわけでもない。俺が寂しいから、その隙間を埋めてほしいわけでもない」
「今の健司さんが、そう思っているということですね」
「ああ。これから間違えるかもしれない。無意識に美雪と比べたり、由美を理由にしたりするかもしれない」
「それを最初から許してほしいと言っていますか」
「違う。間違えたら、あかりさんが怒る権利がある。離れる権利もある」
「離れられても、受け入れるんですか」
「受け入れたくはない。でも、引き止めるためにあかりさんの気持ちを決めることはしない」
あかりは池へ視線を向けた。
風が吹き、髪が頬にかかる。耳へ掛け直す指が、少し震えていた。
「私は、健司さんが好きです」
あかりが言った。
「ありがとうございます」
「でも、好きだから何でも受け入れられるわけではありません」
「ああ」
「由美さんの母親になることを期待されたら、断ります。家事や家庭のことを、女性だからという理由で任されたくありません」
「分かった」
「仕事を辞めるつもりもありません。健司さんや由美さんの予定に、いつも私が合わせることもできません」
「その必要はない」
「美雪さんの話を聞けない日もあります」
「その日は、聞けないと言ってほしい」
「言ったら、嫌な顔をするかもしれませんよ」
「俺が?」
「私がです。余裕がないときは、言い方が強くなります」
「それでも、何も言われないよりいい」
あかりは健司を見た。
「私も、健司さんを理想的な人だと思わないようにします」
「最初から、そうは思っていないだろ」
「以前は思っていました。優しくて、部下思いで、娘さんを一人で育てた立派な人だと」
「今は?」
「人の話を聞かず、先に全部決めようとするところがある。自分を犠牲にすることで、相手にも罪悪感を持たせることがある。謝ればすぐに解決すると思っているところもあります」
「そこまで言われるとは思わなかった」
「嫌になりましたか」
「少し落ち込んだ」
「今なら、まだ取り消せます」
「取り消さない」
健司は笑った。
「あかりさんは、怒ると怖い。正しいと思うと、相手が何を感じているか見えなくなることもある」
「はい」
「理解しているように見せて、自分の限界を言わないこともある」
「あります」
「それでも、付き合いたいと思っている」
あかりは唇をかみ、うつむいた。
目元に涙が浮かんでいる。
「泣いてる?」
「少しだけです」
「悲しい?」
「違います。全部解決したようなことを言われなかったから、安心しました」
「解決したことなんて、ほとんどないよ」
「はい」
あかりは涙を指で拭った。
「私も、健司さんとお付き合いしたいです」
健司は息を吐いた。
「ありがとう」
「もう一つあります」
「何だろう」
「会社には報告してください」
「ああ。明日、俺の上司に伝える」
「私も商品企画部長へ話します。共同プロジェクトが残っているので、必要なら担当を調整してもらいます」
「分かった」
「会社では、これまでどおりにしてください」
「呼び方も?」
「佐藤部長と高橋主任です」
「分かりました、高橋主任」
「まだ会社ではありません」
二人は笑った。
歩き始めようとしたとき、健司の手があかりの手の甲へ触れた。
あかりが少し驚き、指を引く。
「すまない」
「謝らないでください」
あかりは健司の手を見た。
「手をつなぎたいですか」
「ああ」
「聞いてください」
健司は少し恥ずかしくなった。
「手をつないでもいい?」
「はい」
あかりが自分から手を差し出した。
健司はその手を握った。
体温が伝わる。
十年ぶりに女性の手を握ったという考えが浮かび、すぐに消した。
今、握っているのはあかりの手だった。
二人は歩調を合わせ、池の周りを歩いた。
*
翌朝、あかりは商品企画部長へ、健司との交際を始めたことを伝えた。
部長は驚いたものの、感情的な反応は見せなかった。
「いつからですか」
「昨日、双方で確認しました」
「佐藤部長は、あなたの人事評価には関係していません。ただ、共同プロジェクトには携わっていますね」
「はい。決定過程が不透明にならないよう、会議記録を残してきました」
「それは確認しています。現在のプロジェクトが完了するまで、あなたを外す必要はないと思いますが、今後、どちらかが直接承認する立場になった場合は調整しましょう」
「分かりました」
「社内で噂が出ていることは?」
「中村さんの件は報告したとおりです」
「昨日、中村さんから謝罪したいと申し出がありました」
「私にですか」
「はい。話をするかどうかは、高橋さんが決めてください」
あかりは少し考えた。
「業務時間内に、部長にも同席していただけるなら話します」
「分かりました」
「一対一で謝罪を受けるつもりはありません」
「その方がよいでしょう」
部屋を出ると、あかりは深く息を吐いた。
交際を報告することに抵抗がなかったわけではない。
私生活を会社へ知らせなければならないことも、健司との関係が自分の仕事へ影響する可能性も、煩わしく感じた。
それでも隠したまま、噂に怯えるよりよい。
自席へ戻る途中、健司と廊下ですれ違った。
「おはようございます、佐藤部長」
「おはようございます、高橋主任」
二人はそれだけ交わし、反対方向へ歩いた。
振り返らなかった。
スマートフォンを見ると、数分前に健司から個人の連絡先へメッセージが届いていた。
〈こちらも報告しました。現在の担当は継続しますが、今後、評価や承認で関係する場合は調整することになりました〉
あかりはエレベーターへ乗ってから返信した。
〈こちらも同じです。会社では今までどおりにお願いします〉
〈承知しました、高橋主任〉
〈その呼び方を個人の連絡で使うのはやめてください〉
〈すみません、あかりさん〉
あかりは画面を見て笑いそうになり、慌てて表情を戻した。
*
健司が由美へ話したのは、その日の夕食後だった。
テレビを消し、食卓へ向かい合って座る。
「話がある」
健司の表情を見て、由美は何かを察したようだった。
「高橋さんのこと?」
「ああ」
「何?」
「あかりさんと、付き合うことにした」
由美の顔から表情が消えた。
「いつ?」
「昨日、二人で話して決めた」
「私には、決める前に言わなかったんだ」
「由美に決めてもらうことではないと思ったから」
「会ったとき、私はいいって言ってない」
「分かってる」
「分かってないじゃん」
由美の声が大きくなった。
「私は会っただけだって言った。次に会うかも分からないって」
「ああ。それも分かっている」
「じゃあ、どうして付き合うの」
「俺が、あかりさんと付き合いたいと思ったからだ」
由美の目に涙が浮かんだ。
「私が嫌でも?」
「由美が嫌だと感じていることは無視しない。でも、その気持ちだけで別れるとは決めない」
「勝手だよ」
「ああ」
「だったら、何で会わせたの?」
健司は言葉に詰まった。
「私がいい人だって言ったら安心して、嫌な人って言ったらやめるつもりだったんじゃないの?」
「違う」
「本当に?」
健司はすぐに否定できなかった。
初対面のあと、由美があかりをどう評価するか気にしていた。
好意的な言葉を期待していたことも事実だった。
「会う前は、由美に認めてもらいたい気持ちがあったと思う」
「ほら」
「でも、あの日に由美が何を感じても、それで俺たちの関係を決めさせてはいけないと分かった」
「じゃあ、私は何のために会ったの」
「由美が、自分の目であかりさんを見たいと言ったからだ」
「お父さんが会ってほしいって言ったからでしょ」
「ああ。きっかけは俺だ」
「許可をもらうためじゃないって言いながら、結局同じじゃん」
「そう感じさせたなら、悪かった」
「また謝るの?」
「謝ったら、付き合うことを許してほしいわけじゃない」
「じゃあ、何を言っても変わらないんだ」
「付き合うという決定は、変えない」
由美の頬を涙が伝った。
「もう、高橋さんに会いたくない」
「分かった」
「家にも絶対に呼ばないで」
「今は呼ばない」
「今はって言わないで」
「ずっと呼ばないとは約束できない」
「お父さんなんか嫌い」
由美は立ち上がり、椅子を強く押した。
「由美」
「ついてこないで」
由美は自分の部屋へ入り、ドアを閉めた。
健司は食卓に残った。
追いかけて、由美を安心させたかった。
家へは呼ばない。あかりより由美を優先する。由美が嫌なら交際を考え直す。
そう言えば、由美は泣きやむかもしれない。
だが、それは由美へ再び選択の責任を渡すことになる。
健司はスマートフォンを手に取った。
あかりへ状況を伝えるべきか迷った。
付き合い始めた初日に、娘との問題を持ち込むことになる。あかりに慰めてもらいたいわけではない。
それでも、都合の悪いことを隠して関係を始めたくなかった。
〈由美に交際することを話しました。会ったことを許可として利用されたように感じたと言われました。今は、もう会いたくないそうです〉
しばらくして、あかりから返事が届いた。
〈分かりました。由美さんには、こちらから連絡しません〉
続けて、もう一通届く。
〈健司さんは、どうするつもりですか〉
〈由美の話を聞きます。ただ、泣かせたくないという理由で、交際を取り消すつもりはありません〉
返事が来るまで、少し時間が空いた。
〈それを聞いて安心しました〉
健司は画面を見つめた。
〈由美が傷ついているのに?〉
〈由美さんが傷ついていることを軽く考えているわけではありません。でも、由美さんが泣くたびに私との関係を取り消すなら、私は付き合えません〉
厳しい言葉だった。
それでも、健司には必要だった。
〈分かっています〉
〈由美さんとの話に、私を仲裁役として入れないでください。健司さんが父親として向き合ってください〉
〈はい〉
〈私も、由美さんに好かれるために、健司さんへ譲歩を求めるつもりはありません〉
〈ありがとう〉
〈お礼を言われることではありません〉
あかりの返事には、優しい慰めがなかった。
そのことに、健司は救われた。
*
由美が部屋から出てきたのは、午後十時を過ぎてからだった。
目の周りが赤い。
健司はリビングのソファから立ち上がった。
「水、飲みに来ただけ」
「分かった」
「話しかけないの?」
「今は話したくないと思ったから」
「いつ話すの」
「由美が話してもいいと思ったとき」
「ずるい。私に決めさせてる」
健司は言葉を選んだ。
「明日の夕食後、もう一度話したい。それまでは一人にする」
「高橋さんと連絡してた?」
「ああ」
「私が反対してるって言った?」
「会ったことを許可に使われたように感じたことと、今は会いたくないと言っていることを伝えた」
「高橋さん、何て?」
「由美には連絡しない。俺が父親として話すべきだと言った」
「私より高橋さんの味方するの?」
「味方を選ぶ話じゃない」
「またそれ」
由美はコップに水を入れ、一口飲んだ。
「お父さん、私が泣いても、付き合うのやめないんだ」
「ああ」
「ひどい」
「そう思うよな」
「でも、私が泣いたらやめるって言われても嫌」
「どうして?」
「私が別れさせたことになるから」
由美の目から、また涙が落ちた。
「どうしたらいいのか分かんない」
「分からなくていい」
「お父さんは決めたのに?」
「俺が決めたから、由美も何かを決めなければならないわけじゃない」
「高橋さんを好きにならなくても?」
「ああ」
「会わなくても?」
「今は会わなくていい」
「家に来るのも嫌」
「今は呼ばない」
由美は唇をかんだ。
「今は、っていう言い方は嫌だけど、ずっとって言われるのも違う気がする」
「ああ」
「お母さんの写真は?」
「そのままだ」
「高橋さんと付き合っても?」
「ああ」
「高橋さんが嫌だって言ったら?」
「理由を聞いて、あかりさんと話す。でも、由美の同意なく動かさない」
「高橋さんの写真を置きたいって言ったら?」
「付き合い始めたばかりで、そんな話は出ていない」
「もし出たら」
「美雪の写真を片づける必要はない。置く場所を別に考える」
「同じ棚は嫌」
「分かった」
「まだ何も決まってないのに、こんなこと考えるの変?」
「変じゃないよ」
由美はコップを両手で持った。
「おめでとうって言わなくていい?」
「言わなくていい」
「高橋さんにも?」
「ああ」
「私が嫌いって言ってたって伝える?」
「嫌いとは言っていないだろ」
「今は嫌いかもしれない」
「それをあかりさんへ伝えるかどうかは、由美が決めていい」
「今は言わないで」
「分かった」
「でも、いい人だったって言ったことも言わないで」
「それも分かった」
「私の気持ちを、どっちにも決めないで」
「ああ」
由美は水をもう一口飲んだ。
「明日、また話す?」
「話したくなければ延期していい」
「そうやって全部私に決めさせるの、やめて」
「分かった。明日の夕食後に話す。十分だけでもいい」
「うん」
由美は自分の部屋へ戻った。
ドアは強く閉められなかった。
*
翌日の夜、健司と由美は約束どおり食卓へ座った。
由美は昨日より落ち着いていた。
「付き合うって、何をするの?」
「会って、話して、一緒に出かける」
「今までと同じじゃん」
「これからの関係を、お互いに選んだという違いはある」
「結婚するの?」
「今は考えていない」
「高橋さんも?」
「ああ。結婚を前提に付き合うとは話していない」
「じゃあ、いつまで?」
「期限は決めていない」
「分かんないことばっかり」
「そうだな」
由美は考え込んだ。
「高橋さんと会う日は、教えて」
「毎回?」
「家に帰らない日があるか分からないと困るから」
「分かった。予定として伝える」
「誰と何を話したかまでは言わなくていい」
「ああ」
「私のことも、勝手に話さないで」
「分かった」
「話したいことがあったら、先に聞いて」
「ああ」
「お父さん」
「何だ」
「私、東京の大学を本気で考えたい」
健司は由美の目を見た。
「そうか」
「高橋さんがいるからじゃないよ」
「分かってる」
「私が行きたいから」
「ああ」
「お父さんのことが心配じゃなくなったわけでもない」
「それでもいい」
「高橋さんに任せるつもりもない」
「俺のことは、俺に任せてくれ」
由美は少し笑った。
「それが一番心配なんだけど」
「努力するよ」
「また努力」
「自分でやる」
「うん」
交際を祝う言葉はなかった。
由美の不安も消えていない。
それでも、健司の選択と由美の進路は、初めて別々のものとして食卓の上に置かれた。
*
次の日曜日、健司とあかりは公園近くの小さな喫茶店で待ち合わせた。
交際を始めてから、最初に約束した外出だった。
特別な店ではない。記念日のような料理も、贈り物もない。
健司はあかりより五分早く到着し、店の前で待った。
あかりは時刻ちょうどにやってきた。
「お待たせしました」
「今日は五分しか待ってない」
「本当ですか」
「本当だよ」
「少し成長しましたね」
二人は店へ入った。
案内された席に向かい合って座り、それぞれ飲み物を注文する。
「由美さんとは、話せましたか」
「ああ。まだ不安はある。あかりさんに会いたくない気持ちも変わっていない」
「はい」
「それでも、自分の進路を俺の生活とは分けて考えると言ってくれた」
「そうですか」
「あかりさんのおかげだとは言わない」
「言われたら困ります」
「由美が自分で決めたことだから」
あかりは頷いた。
「健司さん」
「何?」
「私と付き合うことを、後悔していませんか」
健司はすぐに答えた。
「していない」
「由美さんを泣かせても?」
「由美を泣かせたことはつらい。でも、別れればすべて解決するとは思っていない」
「私も、由美さんがすぐに受け入れてくれるとは考えないようにします」
「ああ」
「しばらく会えなくても大丈夫です」
「無理をしていない?」
「会いたい気持ちはあります。でも、今会えば、由美さんに答えを急がせることになると思います」
「俺もそう思う」
飲み物が運ばれてきた。
あかりはカフェオレを、健司はブレンドコーヒーを受け取る。
「今日は、このあとどうしますか」
あかりが尋ねた。
「特に決めていない」
「健司さんが?」
「たまには、あかりさんの行きたい方へ歩こうと思って」
「途中で知らない道へ曲がっても?」
「ああ」
「帰る時間が分からなくなっても?」
「夕食までには帰る」
「やっぱり決まっているんですね」
「そこは必要だよ」
あかりは笑った。
店を出たあと、二人は駅とは反対方向へ歩いた。
商店街を抜け、細い路地へ入る。あかりは古い看板を見つけるたびに足を止め、カメラを構えた。
健司は急かさずに待った。
「手をつないでもいい?」
健司が尋ねる。
あかりはカメラを下ろした。
「はい」
差し出された手を、健司は握った。
今度は、手が偶然触れたからではない。
誰かに許されたからでも、失ったものを埋めるためでもなかった。
健司があかりと歩きたいと思い、あかりも同じ方向へ進むことを選んだ。
二人は手をつないだまま、次の角を曲がった。




