第7章 同じテーブルの上で
三人で会う店を決めるまでに、四日かかった。
健司が最初に選んだのは、駅から徒歩十分の場所にあるイタリア料理店だった。席の間隔が広く、周囲の声も気にならない。以前、取引先との会食に使ったことがあり、料理や接客にも問題がなかった。
由美は店の写真を見るなり首を振った。
「ここは嫌」
「どうして? 落ち着いて話せるぞ」
「高そうだし、何かの記念日みたい」
「値段は気にしなくていい」
「そういうことじゃない」
由美は健司のスマートフォンを操作し、次の候補を表示した。
二店目はホテルの一階にあるカフェだった。
「これも嫌」
「人が多いし、駅から近い」
「お見合いみたい」
「お見合いなんてしたことないだろ」
「雰囲気で分かる」
三店目は駅ビルに入っている洋食店だった。オムライスやハンバーグを中心とした店で、買い物客や学生の利用が多い。店内は明るく、隣には書店がある。
由美はしばらく写真を見た。
「ここならいい」
「少し騒がしくないか」
「騒がしい方がいい。話が止まっても目立たないから」
健司にはなかった考えだった。
「分かった。予約する」
「一時間だからね」
「食事をしたら、もう少しかかるかもしれない」
「一時間半まで」
「ああ」
「それから、私の好きな料理を高橋さんに先に教えないで」
「どうして?」
「気を遣って同じものを頼まれたら嫌だから」
「そんなことはしないと思うけど」
「お父さんが決めないで」
「分かったよ」
健司は日曜日の午後五時に三人分の席を予約した。
あかりへ店の名前と時間を伝えると、すぐに返事が届いた。
〈ありがとうございます。当日は自分の分を支払います。由美さんの希望どおり、贈り物は持っていきません〉
由美へ画面を見せる。
「ちゃんと書いてあるね」
「ああ」
「でも、お父さんが払うんじゃないの?」
「由美の分は払うよ。あかりさんは、自分で払いたいと言っている」
「お父さん、おごりたいでしょ」
「誘ったのは俺だからな」
「無理に払ったら嫌われるよ」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「前も別々に払ったんでしょ」
「どうして知ってる」
「お父さんが言ってた」
健司は、自分がどこまで話したのか思い出せなかった。
「今回は、あかりさんの希望どおりにする」
「そうして」
由美はスマートフォンを健司へ返した。
「服は一人で決めてね」
「聞くつもりはない」
「この前、三回も着替えたのに?」
「見ていたのか」
「部屋の前を通るたび、服が変わってた」
由美は笑ったが、その表情には硬さが残っていた。
*
約束の日、あかりは午前中から落ち着かなかった。
クローゼットを開き、服を選びかけては戻す。
仕事で着るようなジャケットでは堅すぎる。華やかなワンピースでは、健司との関係を由美に見せつけるように思われるかもしれない。
だからといって地味な服を選べば、無害な人間を演じているようにも感じる。
結局、薄いベージュのブラウスと紺色のパンツを選んだ。自分が普段から着ているものだった。
鏡の前で髪を整える。
今日は、好かれるために行くのではない。
理解のある女性だと認めてもらうためでもない。
由美と友達になる必要もない。
何度も自分に言い聞かせた。
それでも、嫌われたくないという気持ちは消えなかった。
スマートフォンが鳴った。
真奈からだった。
〈今日だよね。緊張してる?〉
あかりは短く返信した。
〈かなり〉
〈相手は高校生なんだから、無理に大人らしくしなくていいよ〉
〈私の方が十六歳も上だけど〉
〈年上だから何を言われても笑って受け止める、は駄目〉
真奈には考えていることを見透かされていた。
〈分かってる〉
〈分かっている人は、何を聞かれても平気なふりをしない〉
あかりは返信せず、スマートフォンを置いた。
由美がどんな質問をするかは分からない。
美雪について聞かれるかもしれない。健司との将来をどう考えているのか、答えを求められるかもしれない。
分からないことには、分からないと答える。
嫌なことには、今は答えたくないと言う。
自分が由美に受け入れられなければならないのと同じように、由美が自分を受け入れなければならないわけでもない。
あかりは鞄の中身を確認した。
財布、ハンカチ、化粧ポーチ、スマートフォン。
何か持っていった方がよいのではないかという考えが、また浮かぶ。
高校生が好きそうな菓子や文房具。写真の小さなカード。話題にできるものがあれば、沈黙を避けられるかもしれない。
しかし、贈り物をしないことは由美が決めた条件だった。
あかりは空いたままの鞄を閉じ、家を出た。
*
午後四時二十分、由美は自室のベッドに座っていた。
家を出る時間まで、あと十五分ほどある。
健司はリビングで、何度も予約時間と店の場所を確認していた。
「由美、そろそろ出るぞ」
「分かってる」
返事をしたものの、立ち上がる気になれなかった。
今から断ることもできる。
父も、高橋あかりも、当日でも中止してよいと言っている。
熱が出たことにする必要さえない。会いたくなくなったと伝えれば、それで終わる。
そう考えると、少し気持ちが軽くなった。
一方で、今会わなければ、次はもっと怖くなる気がした。
由美は机の上の鏡を見た。
母の赤いカーディガンを着ようかと、一度だけ考えた。
高橋あかりの前で母の存在を示したかったのかもしれない。
しかし、着るのはやめた。
自分は美雪の代理ではない。
白いTシャツの上に、薄い青色のシャツを羽織る。鞄にはスマートフォンと財布だけを入れた。
部屋を出ると、健司が玄関で待っていた。
「体調は大丈夫か」
「大丈夫」
「本当に?」
「今から熱を測る?」
「いや」
「途中で帰りたくなったら、帰るから」
「ああ」
「お父さんは残ってもいいよ」
「由美を一人で帰らせるわけには――」
「電車で二駅だよ」
「それでも一緒に帰る」
「高橋さんを一人で残すの?」
健司は言葉に詰まった。
「そのとき、三人で話して決める」
「最初から決めないんだ」
「そうすることにした」
「ふうん」
由美は靴を履いた。
「高橋さん、もう来てるかな」
「たぶん」
「お父さんと同じで、早く来る人?」
「俺よりは遅い」
「普通は、お父さんより遅いんだよ」
二人は家を出た。
駅までの道を歩きながら、由美はほとんど話さなかった。
健司も無理に話題を作らなかった。
電車を降り、駅ビルのエスカレーターに乗る。
店が近づくにつれ、由美の歩調が遅くなった。
「やっぱり、やめる?」
健司が尋ねた。
「そう言ってほしいの?」
「由美が決めていい」
「なら行く」
由美は父より先に歩き、店の前へ向かった。
あかりは入口近くの椅子に座っていた。
由美と同じ青系の服ではなかったことに、由美はなぜか安心した。
高価そうなアクセサリーもつけていない。手元には小さな黒い鞄だけがあり、贈り物らしい袋もなかった。
健司に気づき、あかりが立ち上がる。
その視線が、由美へ移った。
「こんにちは。高橋あかりです」
あかりは笑いすぎず、頭を下げた。
「佐藤由美です」
「今日は会ってくれて、ありがとうございます」
由美は何と答えればよいか迷った。
「一度、見ておきたかったので」
口にしてから、失礼だったかもしれないと思った。
あかりは表情を変えなかった。
「私も、由美さんに一度挨拶をしたいと思っていました」
「許可をもらうためじゃなくて?」
「はい。今日は、何かを決めてもらうつもりはありません」
由美はあかりの目を見た。
逃げるようにそらされることも、優しく見つめられすぎることもなかった。
「予約した佐藤です」
健司が店員に声をかけた。
三人は奥の四人掛けの席へ案内された。
「ご家族三名様ですね。お母様とお嬢様はこちらへどうぞ」
若い店員が、奥の二席を手で示した。
空気が止まった。
「違います」
あかりがすぐに答えた。
「家族ではありません。私は友人です」
店員の顔が赤くなる。
「大変失礼いたしました」
「いえ」
あかりはそれ以上責めなかった。
由美は父の顔を見た。
健司も困った表情をしている。
「由美、どこに座る?」
あかりが尋ねた。
「入口側がいい」
「では、私は奥へ座りますね」
由美が出口に近い席へ座り、その隣に健司が座った。あかりは向かい側へ腰を下ろす。
店員が水とメニューを置き、もう一度頭を下げて離れていった。
「すみません」
健司が口を開いた。
「どうしてお父さんが謝るの」
由美の声が強くなる。
「そうだな」
あかりは水のグラスに触れた。
「嫌でしたよね」
「高橋さんは?」
「私も嫌でした」
「家族に見られたことが?」
「私の立場を、知らない人に決められたことがです」
由美はあかりを見た。
「お母さんって言われて、うれしくなかったんですか」
「うれしくありません」
返事に迷いはなかった。
「由美さんのお母さんになろうとして、今日ここへ来たわけではないので」
「じゃあ、何になりたいんですか」
「今は、健司さんと話をする相手です」
「友達?」
「友達だけとは言い切れません」
健司が口を挟もうとした。
「あかりさん」
「大丈夫です」
あかりは健司を見てから、由美へ向き直った。
「私は健司さんに好意を持っています。でも、恋人と呼べる関係ではありません。これからどうしたいかも、まだ二人で決めていません」
「お父さんも?」
由美が尋ねる。
「ああ」
「今日は、高橋さんが話してるから、お父さんは黙ってて」
「分かった」
健司は水を飲んだ。
三人はメニューを開いた。
由美はオムライスを、健司はハンバーグを選んだ。あかりはしばらく迷い、野菜のドリアを注文した。
「高橋さん、少食なんですか」
由美が尋ねた。
「普通だと思います。甘いものは別ですが」
「プリンが好きなんだよ」
健司が言った。
「お父さんは黙っててって言ったよね」
「注文の話だと思った」
「私が高橋さんに聞いてるの」
「ああ。すまない」
あかりの口元が緩んだ。
「笑いました?」
「少し」
「お父さん、いつもこうなんです」
「会社でも、似たところがあります」
「勝手に説明するところ?」
「困っている人を見ると、答えを先に出すところです」
「家と同じだ」
「最近は、少し待つようになりました」
「少しだけ?」
「少しずつです」
由美は健司を横目で見た。
「高橋さんが言ったから、変わったんですか」
「私だけではありません。渡辺さんという後輩や、由美さんに言われたことも関係していると思います」
「お父さんから、私のこと聞いてるんですね」
由美の声が再び硬くなった。
「すべては聞いていません」
「どこまで?」
「高校二年生であること。建築や空間デザインに興味があって、夏休みに体験授業へ行く予定があること。それから、卵焼きを作ったことです」
「卵焼きまで?」
「すまない」
健司が謝った。
「どうして、そんなこと話すの」
「その日の出来事を話していて、つい」
「私のことを、何でも話していいと思ってる?」
「思っていない」
「でも、話したじゃん」
由美の目が潤んだ。
あかりは慌てて慰めようとはしなかった。
「由美さん」
少し間を置いてから声をかける。
「聞いてしまった私にも責任があります。これから、由美さんの話をしてよいか迷う内容については、健司さんに確認するよう伝えます」
「何で高橋さんが謝るんですか。話したのはお父さんなのに」
「私は、聞く側として嫌ではないか考えなかったからです」
「私は、子どもだから勝手に話されるんですか」
「違う」
健司が答えた。
「由美のことを、あかりさんに知ってほしかった。でも、由美が何を話されたくないか考えていなかった。悪かった」
「卵焼きの話くらいならいい。でも、進路のことは嫌」
「分かった」
「学校のことも、友達のことも、勝手に話さないで」
「ああ」
「その場で分からなかったら、あとで私に聞いて」
「そうする」
由美は紙ナプキンで目元を押さえた。
「泣いてないから」
「うん」
あかりはそれだけ答えた。
料理が運ばれてきた。
三人はしばらく黙って食べた。
由美はオムライスを半分ほど食べたところで、鞄につけたキーホルダーを指で触った。
あかりの視線が、キーホルダーへ向いていることに気づく。
「これ、知ってるんですか」
由美が尋ねた。
「そのバンドのロゴですよね」
「好きなんですか」
「二枚目のアルバムまではよく聴いていました」
「古い曲だけ?」
「最近の曲も少しは知っています。でも、詳しいとは言えません」
「昔の方が好きっていう人、今の曲を聴かずに悪く言うから嫌い」
「分かります。私は最近の曲を悪いとは思っていません。ただ、自分が一番聴いていた時期の曲に思い入れがあるんです」
「二枚目なら、何が好き?」
あかりが曲名を答える。
由美は少し意外そうな顔をした。
「それ、アルバムの最後の曲ですよね」
「はい。ライブでは、あまり演奏されないそうですね」
「去年は一回だけやったみたい」
「行ったんですか」
「動画で見ただけ。チケット取れなかったから」
「私も申し込みましたが、外れました」
「高橋さんも?」
「はい」
由美は何か言いかけたが、オムライスを一口食べた。
健司は二人の会話に入らず、ハンバーグを切った。
キーホルダーのバンドについて、健司はほとんど知らない。由美がよく聴いていることは知っていたが、曲名まで尋ねたことはなかった。
「お父さん、そのバンド知らないんです」
由美が言った。
「家で流れているのは聞いているよ」
「全部同じに聞こえるって言ったじゃん」
「曲名が分からないという意味だ」
「同じでしょ」
「今度、教えてくれ」
「急に興味あるふりしなくていい」
「あるふりではない」
あかりが二人のやり取りを聞いていたが、味方をするような言葉は挟まなかった。
そのとき、健司のスマートフォンが振動した。
画面には渡辺の名前が表示されている。
休日に電話が来ることはほとんどない。
「会社からだ」
健司が言った。
「出れば?」
由美は料理を見たまま答えた。
「急ぎかもしれない。三分だけ席を外してもいい?」
「私に聞くの?」
「二人に」
あかりが頷いた。
「仕事なら出てください」
「入口の近くにいる。見える場所から離れない」
「子どもじゃないから」
「分かった」
健司は店の入口近くへ移動し、電話に出た。
商品の納入予定に関する問い合わせだった。健司でなければ判断できない内容ではない。
「今日は課長が当番のはずだ。まず課長へ確認して、それでも決められなければ連絡してくれ」
以前なら、その場で資料を開き、自分で対応していただろう。
通話を終えて席を見る。
由美とあかりは、まだ会話をしていなかった。
健司はすぐに戻ろうとしたが、店員が通るのを待つため、その場にとどまった。
*
「お父さん、戻ってきますよ」
由美が言った。
「はい」
「今のうちに聞いていいですか」
「私が答えたくないことなら、そう言います」
「分かりました」
由美はスプーンを皿の上へ置いた。
「高橋さんは、お父さんがお母さんを今も好きなこと、嫌じゃないんですか」
あかりの胸が強く打った。
いつか聞かれるかもしれないと思っていた。
準備していた答えはあった。
美雪を大切に思う気持ちごと、健司を受け入れたい。美雪の代わりになるつもりはない。
どちらも嘘ではない。
ただ、その答えだけでは、自分の中にある痛みを隠すことになる。
「嫌だと思うときもあります」
由美が目を見開いた。
「お母さんが嫌いなんですか」
「会ったことのない人を嫌いにはなれません」
「じゃあ、何が嫌なの」
「健司さんの中に、美雪さんしか入れない場所があることを、寂しいと思います」
由美の顔がこわばった。
「そこに入りたいんですか」
「分かりません。入ることはできないと思っています」
「お父さんに、お母さんを忘れてほしい?」
「思いません」
「でも、嫉妬するんですよね」
「はい」
あかりは逃げずに認めた。
「美雪さんの話を聞いて、うらやましいと思うことがあります。私より長く健司さんと一緒に過ごし、由美さんという家族を残した人だから」
「亡くなった人なのに?」
「亡くなったから、比べてはいけないと思う気持ちもあります。でも、感じてしまうことまでは止められません」
由美は黙った。
「あまり、いい人じゃないんですね」
その言葉は、あかりの胸に刺さった。
それでも笑って受け流さなかった。
「そうかもしれません」
「怒らないんですか」
「少し傷つきました」
由美は視線を落とした。
「ごめんなさい」
「謝ってくれて、ありがとうございます」
「お父さんは、高橋さんのこと、いい人って言ってました」
「健司さんが知らない、嫌なところもあります」
「例えば?」
「自分が正しいと思うと、言い方が強くなるところ。嫌なことを我慢したあと、急に相手を拒絶するところ。負けたくないと思うところ」
「お父さんとけんかしたんですか」
「何度か意見がぶつかりました」
「お父さん、怒った?」
「怒りました。私も怒りました」
「それでも会うんですね」
「怒らないことより、怒ったあとに話せることの方が大切だと思い始めています」
由美はあかりの顔を見た。
「私とも、けんかするかもしれない?」
「するかもしれません」
「高校生に怒るんですか」
「年齢だけで何を言われても受け入れるとは約束できません」
「お母さんなら、受け入れると思います」
「そうかもしれません。でも、私は美雪さんではありません」
由美の目が揺れた。
「分かってます」
「はい」
「分かってるけど……」
由美は膝の上で手を握った。
「お父さんと付き合ったら、家に来るんですか」
「今は、その予定はありません」
「いつか来たい?」
あかりはすぐには答えなかった。
「健司さんとの関係が続けば、いつか家へ行きたいと思うかもしれません」
「来てほしくないって言ったら?」
「どうして来てほしくないか聞きます」
「それでも嫌だったら?」
「健司さんと由美さんが暮らしている家ですから、勝手には行きません」
「ずっと?」
「ずっと行かないと、今ここでは約束できません」
由美の表情が険しくなる。
「どうして」
「私の気持ちも、由美さんの気持ちも変わる可能性があるからです」
「変わらなかったら?」
「そのときに三人で考えます」
「お父さんと同じこと言うんですね」
「健司さんと話して決めたことだからです」
由美は鞄のキーホルダーへ触れた。
「高橋さんは、私に好かれたいですか」
「好かれたら、うれしいです」
「嫌われたら?」
「悲しいと思います。でも、好かれるために何でも合わせるつもりはありません」
「私も、高橋さんに好かれなくていいです」
「はい」
「でも、嫌われたくはないです」
あかりは少し笑った。
「私も同じです」
そこへ健司が戻ってきた。
「待たせて悪かった」
「三分たってないよ」
由美が時計を見た。
「何を話していた?」
「お父さんには言わない」
「俺のことだろ?」
「あとで高橋さんに聞くのも禁止」
健司はあかりを見た。
あかりは小さく頷いた。
「分かった。聞かない」
健司が席へ座る。
三人の間には、出会ったときとは異なる緊張が残っていた。
険悪ではない。
しかし、健司の知らないところで、何か大切な言葉が交わされたことは分かった。
「デザートもあるぞ」
健司がメニューを開こうとする。
「私はいらない」
由美が言った。
「私も今日は十分です」
あかりも答えた。
「そうか」
健司はメニューから手を離した。
時計を見ると、店に入ってから一時間十二分が過ぎていた。
「そろそろ出る?」
由美が尋ねた。
「ああ」
三人は会計へ向かった。
健司が由美の分を支払い、あかりは自分の伝票を出した。
店を出ると、由美は隣の書店を見た。
「私、一人で本屋に寄って帰ってもいい?」
「一緒に帰るんじゃないのか」
「少し一人になりたい」
健司は反射的に、何時までかと聞きそうになった。
「帰る時間が決まったら連絡して」
「うん」
由美はあかりへ向き直った。
「今日は、会っただけです」
「はい」
「お父さんと付き合っていいって言ったわけじゃないです」
「分かっています」
「次にまた会うかも、まだ分かりません」
「それも分かっています」
あかりは由美に近づかず、その場で頭を下げた。
「会ってくれて、ありがとうございました」
「私も、聞きたかったことを聞けたので」
由美は少し迷ったあと、付け加えた。
「高橋さんが好きな曲、私も二枚目では一番好きです」
「そうだったんですね」
「でも、ライブのチケットを取ってあげるとかは無理です」
「自分の分も取れないので、大丈夫です」
由美の口元が少しだけ上がった。
「じゃあ、帰ったら連絡する」
「ああ。気をつけて」
由美は書店へ入っていった。
姿が見えなくなるまで、健司は入口を見ていた。
「追いかけなくていいんですか」
あかりが尋ねた。
「一人になりたいと言ったから」
「心配では?」
「心配だよ。でも、連絡すると約束した」
「そうですか」
健司はあかりを見た。
「何を話したか、聞かない方がいいんだな」
「はい」
「由美を傷つけた?」
「傷つけたかもしれません。私も少し傷つきました」
「大丈夫?」
「大丈夫ではありません。でも、話せないほどではないです」
「俺にできることは?」
「今日は、何もしなくて大丈夫です」
健司は「分かった」と答えた。
あかりが無理に由美を褒めなかったことに、健司は安堵した。
由美は素直でいい子だった。きっと仲良くなれる。
そんな言葉を聞けば、健司は安心できただろう。
しかし、それは二人が実際に交わした感情を消すことになる。
「由美に会って、どうだった?」
健司は尋ねた。
「思っていたより、ずっと難しかったです」
「ああ」
「でも、会わなければよかったとは思いません」
「俺も」
「健司さんが席を外したとき、かなり率直に話しました」
「聞かない」
「はい」
「あかりさんは、もう帰る?」
「少し歩いてから帰ります」
「一人で?」
「今日は一人で考えたいです」
健司の胸に寂しさが広がった。
それでも引き止めなかった。
「分かった。また連絡する」
「私から連絡します」
あかりは頭を下げ、駅とは反対側の出口へ歩き始めた。
*
あかりは川沿いの遊歩道まで歩いた。
日が傾き、川面に赤みがかった色が映っている。
鞄にはカメラを入れていなかった。
目の前の風景を撮ることもなく、あかりはベンチへ腰を下ろした。
「あまり、いい人じゃないんですね」
由美に言われた言葉が、胸に残っていた。
高校生の言葉だと受け流すことはできた。
しかし、傷ついたと伝えた。
由美は謝った。
あのとき、笑って大丈夫だと言わなくてよかったと思う。
同時に、由美を不安にさせたことも分かっていた。
美雪に嫉妬する。
いつか家へ行きたいと思うかもしれない。
由美に好かれるためなら何でも合わせる、とは言えない。
もっと穏やかな言葉を選ぶこともできたはずだった。
だが、最初から理想的な女性を演じれば、いつか苦しくなる。
それは自分にも、由美にも誠実ではない。
スマートフォンが震えた。
健司からではなく、真奈からだった。
〈終わった?〉
あかりは電話をかけた。
「もしもし」
「どうだった?」
「難しかった」
「嫌われた?」
「分からない。好かれてはいないと思う」
「そっか」
「母親と間違えられた」
「店員に?」
「うん。すぐに違うって言った」
「由美さんは?」
「顔が固まってた」
あかりは川を見ながら続けた。
「健司さんが席を外したとき、美雪さんに嫉妬することを話した」
「そこまで聞かれたの?」
「聞かれた。隠したくなかった」
「由美さんには重かったかもしれないね」
「うん」
「でも、嘘をついても仕方ないでしょ」
「もう少し言い方があった気がする」
「それは次に話せる機会があったら考えればいい」
「次があるか分からない」
「なくても、今日言ったことが間違いになるわけじゃないよ」
真奈の声を聞き、あかりは少し呼吸が楽になった。
「健司さんとは?」
「別々に帰った。今日は一人で考えたいって言った」
「引き止められなかった?」
「うん」
「寂しい?」
「少し。でも、追いかけられたら嫌だったと思う」
「相変わらず複雑だね」
「由美さんも、似たことを言ってた」
会ってほしくないが、連絡をやめてほしいわけではない。
好かれなくてもよいが、嫌われたくはない。
あかりにも、その気持ちは理解できた。
「今日はもう、自分を反省しすぎないで帰りなよ」
「分かった」
通話を終え、あかりはしばらく川辺に座っていた。
日が沈む前に立ち上がり、駅へ向かった。
*
由美が帰宅したのは、午後七時前だった。
健司は夕食を作らず、リビングで待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「連絡したでしょ」
「ああ」
「ずっと待ってたの?」
「本を読んでた」
テーブルには、同じページを開いたままの文庫本が置かれている。
「読んでないじゃん」
「少しは読んだよ」
由美は鞄を置き、父の向かいへ座った。
「どうだった、とか聞かないの?」
「すぐ聞かない方がいいと思って」
「今は聞いていいよ」
「どうだった?」
由美は少し考えた。
「いい人かどうかは分からない」
「ああ」
「嫌いではない。でも、好きでもない」
「うん」
「思ったより、正直だった」
「何を話した?」
「言わない約束」
「そうだったな」
由美は指先を組んだ。
「高橋さん、お母さんに嫉妬するって」
健司は息をのんだ。
「話してくれたのか」
「言っちゃ駄目だった?」
「二人の話だから、由美が決めていい」
「お父さんは嫌?」
「驚いた。でも、嫌じゃない」
「お母さんのこと、嫌いじゃないって言ってた」
「ああ」
「でも、高橋さんが嫌だって思うのも分かる気がした」
由美の目に涙がにじんだ。
「お父さんの中に、お母さんしか入れない場所があるって」
健司は黙って聞いた。
「私も、そこに入れないのかな」
「由美は美雪とは違う。比べる場所じゃない」
「でも、お父さんが知ってるお母さんを、私は全部知らない」
「ああ」
「高橋さんも知らない」
「ああ」
「お父さんだけが知ってる」
「そうだな」
「ずるい」
由美の頬を涙が伝った。
「お母さんがいなくなったのに、お父さんの中ではずっといる。私が忘れていくほど、お父さんだけが持ってるお母さんが本物になるみたいで嫌」
健司は由美の隣へ行きかけ、足を止めた。
「隣に座ってもいいか」
由美は頷いた。
健司は隣の椅子へ移った。
「俺の覚えている美雪だけが、本物じゃない」
「でも、私の記憶は少ない」
「少なくても、由美が覚えている美雪は本物だよ。病院で眠っていたことも、手が冷たかったことも」
「そんなお母さん、覚えたくなかった」
「ああ」
「もっと元気なお母さんを覚えていたかった」
健司は由美の背中へ手を置いた。
抱きしめるのではなく、逃げたければ離れられる程度に触れた。
「俺も、美雪のことを全部覚えているわけじゃない」
「本当に?」
「ああ。声も、少しずつ曖昧になっている。何を話したか思い出せない日もある」
「お父さんも忘れるの?」
「忘れていることは、たくさんあると思う」
由美は声を抑えながら泣いた。
健司は慰める言葉を探さなかった。
二人はそれぞれ違う美雪を覚え、それぞれ違う部分を失い続けている。
あかりがそこへ入ることも、美雪の代わりに欠けた部分を埋めることもできない。
その事実を、今は一緒に悲しむしかなかった。
「高橋さんに、また会いたい?」
しばらくして、健司が尋ねた。
「今は分からない」
「ああ」
「でも、会ってよかったとは思う」
「そうか」
「お父さん」
「何だ」
「今日、高橋さんがいい人だったからって、付き合うとか決めないでね」
「決めるなら、あかりさんと二人で決める」
「私がいいって言っても?」
「ああ」
「私が嫌って言っても?」
「理由は聞く。でも、最後は二人で決める」
由美は泣きながら、少しだけ笑った。
「前のお父さんなら、私がいいって言ったら、すぐ安心したと思う」
「そうかもしれない」
「面倒になったね」
「由美もだろ」
「私は前から面倒だよ」
「知ってる」
「ひどい」
二人は笑った。
笑ったあとにも、涙は残っていた。
健司は、きれいな結論にする必要はないと思った。
初対面は終わった。
それだけだった。
*
夜九時を過ぎたころ、あかりから健司へメッセージが届いた。
〈今日は、由美さんと会う機会を作ってくださり、ありがとうございました〉
続けて、もう一通表示される。
〈率直に話しすぎたかもしれません。由美さんを傷つけたと思います。次に会うことを求めるつもりはありません〉
健司はしばらく考えてから返信した。
〈由美は、会ってよかったと言っています。ただ、また会いたいかは分からないそうです〉
〈分かりました〉
〈あかりさんが傷ついたことも聞きました〉
送信してよいか迷ったが、そのまま続けた。
〈由美の言葉を、年下だからと受け流さずにいてくれて、ありがとう〉
あかりからの返事は、少し時間を置いて届いた。
〈大人だから何を言われても平気というわけではないので、傷ついたと伝えました。あれでよかったのか、まだ分かりません〉
〈由美は、あかりさんが正直だったと言っていました〉
〈健司さんは、どう思いましたか〉
健司は、由美から聞いた言葉を思い返した。
美雪に嫉妬する。
健司の中に、美雪しか入れない場所があることが寂しい。
あかりが抱えている痛みを、自分は気づかないふりをしていた。
〈俺は、あかりさんに美雪を受け入れてもらうことばかり考えていました。あかりさんが何を感じるかについて、まだ十分に考えられていなかったと思います〉
〈すぐに答えを出さなくて大丈夫です〉
〈あかりさんも?〉
〈私もです〉
健司は画面を見つめた。
〈今日はゆっくり休んでください〉
あかりから届いた最後の言葉に、健司は「おやすみ」と返した。
すぐに次の約束を決めることはしなかった。
三人が同じテーブルを囲んだ時間は、誰かが誰かを認めるための試験ではなかった。
今夜は、その重さを一人ずつ持ち帰ればよかった。




