↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午後の光のなかで  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

第7章 同じテーブルの上で

三人で会う店を決めるまでに、四日かかった。

 健司が最初に選んだのは、駅から徒歩十分の場所にあるイタリア料理店だった。席の間隔が広く、周囲の声も気にならない。以前、取引先との会食に使ったことがあり、料理や接客にも問題がなかった。

 由美は店の写真を見るなり首を振った。

「ここは嫌」

「どうして? 落ち着いて話せるぞ」

「高そうだし、何かの記念日みたい」

「値段は気にしなくていい」

「そういうことじゃない」

 由美は健司のスマートフォンを操作し、次の候補を表示した。

 二店目はホテルの一階にあるカフェだった。

「これも嫌」

「人が多いし、駅から近い」

「お見合いみたい」

「お見合いなんてしたことないだろ」

「雰囲気で分かる」

 三店目は駅ビルに入っている洋食店だった。オムライスやハンバーグを中心とした店で、買い物客や学生の利用が多い。店内は明るく、隣には書店がある。

 由美はしばらく写真を見た。

「ここならいい」

「少し騒がしくないか」

「騒がしい方がいい。話が止まっても目立たないから」

 健司にはなかった考えだった。

「分かった。予約する」

「一時間だからね」

「食事をしたら、もう少しかかるかもしれない」

「一時間半まで」

「ああ」

「それから、私の好きな料理を高橋さんに先に教えないで」

「どうして?」

「気を遣って同じものを頼まれたら嫌だから」

「そんなことはしないと思うけど」

「お父さんが決めないで」

「分かったよ」

 健司は日曜日の午後五時に三人分の席を予約した。

 あかりへ店の名前と時間を伝えると、すぐに返事が届いた。

〈ありがとうございます。当日は自分の分を支払います。由美さんの希望どおり、贈り物は持っていきません〉

 由美へ画面を見せる。

「ちゃんと書いてあるね」

「ああ」

「でも、お父さんが払うんじゃないの?」

「由美の分は払うよ。あかりさんは、自分で払いたいと言っている」

「お父さん、おごりたいでしょ」

「誘ったのは俺だからな」

「無理に払ったら嫌われるよ」

「そこまで言わなくてもいいだろ」

「前も別々に払ったんでしょ」

「どうして知ってる」

「お父さんが言ってた」

 健司は、自分がどこまで話したのか思い出せなかった。

「今回は、あかりさんの希望どおりにする」

「そうして」

 由美はスマートフォンを健司へ返した。

「服は一人で決めてね」

「聞くつもりはない」

「この前、三回も着替えたのに?」

「見ていたのか」

「部屋の前を通るたび、服が変わってた」

 由美は笑ったが、その表情には硬さが残っていた。

     *

 約束の日、あかりは午前中から落ち着かなかった。

 クローゼットを開き、服を選びかけては戻す。

 仕事で着るようなジャケットでは堅すぎる。華やかなワンピースでは、健司との関係を由美に見せつけるように思われるかもしれない。

 だからといって地味な服を選べば、無害な人間を演じているようにも感じる。

 結局、薄いベージュのブラウスと紺色のパンツを選んだ。自分が普段から着ているものだった。

 鏡の前で髪を整える。

 今日は、好かれるために行くのではない。

 理解のある女性だと認めてもらうためでもない。

 由美と友達になる必要もない。

 何度も自分に言い聞かせた。

 それでも、嫌われたくないという気持ちは消えなかった。

 スマートフォンが鳴った。

 真奈からだった。

〈今日だよね。緊張してる?〉

 あかりは短く返信した。

〈かなり〉

〈相手は高校生なんだから、無理に大人らしくしなくていいよ〉

〈私の方が十六歳も上だけど〉

〈年上だから何を言われても笑って受け止める、は駄目〉

 真奈には考えていることを見透かされていた。

〈分かってる〉

〈分かっている人は、何を聞かれても平気なふりをしない〉

 あかりは返信せず、スマートフォンを置いた。

 由美がどんな質問をするかは分からない。

 美雪について聞かれるかもしれない。健司との将来をどう考えているのか、答えを求められるかもしれない。

 分からないことには、分からないと答える。

 嫌なことには、今は答えたくないと言う。

 自分が由美に受け入れられなければならないのと同じように、由美が自分を受け入れなければならないわけでもない。

 あかりは鞄の中身を確認した。

 財布、ハンカチ、化粧ポーチ、スマートフォン。

 何か持っていった方がよいのではないかという考えが、また浮かぶ。

 高校生が好きそうな菓子や文房具。写真の小さなカード。話題にできるものがあれば、沈黙を避けられるかもしれない。

 しかし、贈り物をしないことは由美が決めた条件だった。

 あかりは空いたままの鞄を閉じ、家を出た。

     *

 午後四時二十分、由美は自室のベッドに座っていた。

 家を出る時間まで、あと十五分ほどある。

 健司はリビングで、何度も予約時間と店の場所を確認していた。

「由美、そろそろ出るぞ」

「分かってる」

 返事をしたものの、立ち上がる気になれなかった。

 今から断ることもできる。

 父も、高橋あかりも、当日でも中止してよいと言っている。

 熱が出たことにする必要さえない。会いたくなくなったと伝えれば、それで終わる。

 そう考えると、少し気持ちが軽くなった。

 一方で、今会わなければ、次はもっと怖くなる気がした。

 由美は机の上の鏡を見た。

 母の赤いカーディガンを着ようかと、一度だけ考えた。

 高橋あかりの前で母の存在を示したかったのかもしれない。

 しかし、着るのはやめた。

 自分は美雪の代理ではない。

 白いTシャツの上に、薄い青色のシャツを羽織る。鞄にはスマートフォンと財布だけを入れた。

 部屋を出ると、健司が玄関で待っていた。

「体調は大丈夫か」

「大丈夫」

「本当に?」

「今から熱を測る?」

「いや」

「途中で帰りたくなったら、帰るから」

「ああ」

「お父さんは残ってもいいよ」

「由美を一人で帰らせるわけには――」

「電車で二駅だよ」

「それでも一緒に帰る」

「高橋さんを一人で残すの?」

 健司は言葉に詰まった。

「そのとき、三人で話して決める」

「最初から決めないんだ」

「そうすることにした」

「ふうん」

 由美は靴を履いた。

「高橋さん、もう来てるかな」

「たぶん」

「お父さんと同じで、早く来る人?」

「俺よりは遅い」

「普通は、お父さんより遅いんだよ」

 二人は家を出た。

 駅までの道を歩きながら、由美はほとんど話さなかった。

 健司も無理に話題を作らなかった。

 電車を降り、駅ビルのエスカレーターに乗る。

 店が近づくにつれ、由美の歩調が遅くなった。

「やっぱり、やめる?」

 健司が尋ねた。

「そう言ってほしいの?」

「由美が決めていい」

「なら行く」

 由美は父より先に歩き、店の前へ向かった。

 あかりは入口近くの椅子に座っていた。

 由美と同じ青系の服ではなかったことに、由美はなぜか安心した。

 高価そうなアクセサリーもつけていない。手元には小さな黒い鞄だけがあり、贈り物らしい袋もなかった。

 健司に気づき、あかりが立ち上がる。

 その視線が、由美へ移った。

「こんにちは。高橋あかりです」

 あかりは笑いすぎず、頭を下げた。

「佐藤由美です」

「今日は会ってくれて、ありがとうございます」

 由美は何と答えればよいか迷った。

「一度、見ておきたかったので」

 口にしてから、失礼だったかもしれないと思った。

 あかりは表情を変えなかった。

「私も、由美さんに一度挨拶をしたいと思っていました」

「許可をもらうためじゃなくて?」

「はい。今日は、何かを決めてもらうつもりはありません」

 由美はあかりの目を見た。

 逃げるようにそらされることも、優しく見つめられすぎることもなかった。

「予約した佐藤です」

 健司が店員に声をかけた。

 三人は奥の四人掛けの席へ案内された。

「ご家族三名様ですね。お母様とお嬢様はこちらへどうぞ」

 若い店員が、奥の二席を手で示した。

 空気が止まった。

「違います」

 あかりがすぐに答えた。

「家族ではありません。私は友人です」

 店員の顔が赤くなる。

「大変失礼いたしました」

「いえ」

 あかりはそれ以上責めなかった。

 由美は父の顔を見た。

 健司も困った表情をしている。

「由美、どこに座る?」

 あかりが尋ねた。

「入口側がいい」

「では、私は奥へ座りますね」

 由美が出口に近い席へ座り、その隣に健司が座った。あかりは向かい側へ腰を下ろす。

 店員が水とメニューを置き、もう一度頭を下げて離れていった。

「すみません」

 健司が口を開いた。

「どうしてお父さんが謝るの」

 由美の声が強くなる。

「そうだな」

 あかりは水のグラスに触れた。

「嫌でしたよね」

「高橋さんは?」

「私も嫌でした」

「家族に見られたことが?」

「私の立場を、知らない人に決められたことがです」

 由美はあかりを見た。

「お母さんって言われて、うれしくなかったんですか」

「うれしくありません」

 返事に迷いはなかった。

「由美さんのお母さんになろうとして、今日ここへ来たわけではないので」

「じゃあ、何になりたいんですか」

「今は、健司さんと話をする相手です」

「友達?」

「友達だけとは言い切れません」

 健司が口を挟もうとした。

「あかりさん」

「大丈夫です」

 あかりは健司を見てから、由美へ向き直った。

「私は健司さんに好意を持っています。でも、恋人と呼べる関係ではありません。これからどうしたいかも、まだ二人で決めていません」

「お父さんも?」

 由美が尋ねる。

「ああ」

「今日は、高橋さんが話してるから、お父さんは黙ってて」

「分かった」

 健司は水を飲んだ。

 三人はメニューを開いた。

 由美はオムライスを、健司はハンバーグを選んだ。あかりはしばらく迷い、野菜のドリアを注文した。

「高橋さん、少食なんですか」

 由美が尋ねた。

「普通だと思います。甘いものは別ですが」

「プリンが好きなんだよ」

 健司が言った。

「お父さんは黙っててって言ったよね」

「注文の話だと思った」

「私が高橋さんに聞いてるの」

「ああ。すまない」

 あかりの口元が緩んだ。

「笑いました?」

「少し」

「お父さん、いつもこうなんです」

「会社でも、似たところがあります」

「勝手に説明するところ?」

「困っている人を見ると、答えを先に出すところです」

「家と同じだ」

「最近は、少し待つようになりました」

「少しだけ?」

「少しずつです」

 由美は健司を横目で見た。

「高橋さんが言ったから、変わったんですか」

「私だけではありません。渡辺さんという後輩や、由美さんに言われたことも関係していると思います」

「お父さんから、私のこと聞いてるんですね」

 由美の声が再び硬くなった。

「すべては聞いていません」

「どこまで?」

「高校二年生であること。建築や空間デザインに興味があって、夏休みに体験授業へ行く予定があること。それから、卵焼きを作ったことです」

「卵焼きまで?」

「すまない」

 健司が謝った。

「どうして、そんなこと話すの」

「その日の出来事を話していて、つい」

「私のことを、何でも話していいと思ってる?」

「思っていない」

「でも、話したじゃん」

 由美の目が潤んだ。

 あかりは慌てて慰めようとはしなかった。

「由美さん」

 少し間を置いてから声をかける。

「聞いてしまった私にも責任があります。これから、由美さんの話をしてよいか迷う内容については、健司さんに確認するよう伝えます」

「何で高橋さんが謝るんですか。話したのはお父さんなのに」

「私は、聞く側として嫌ではないか考えなかったからです」

「私は、子どもだから勝手に話されるんですか」

「違う」

 健司が答えた。

「由美のことを、あかりさんに知ってほしかった。でも、由美が何を話されたくないか考えていなかった。悪かった」

「卵焼きの話くらいならいい。でも、進路のことは嫌」

「分かった」

「学校のことも、友達のことも、勝手に話さないで」

「ああ」

「その場で分からなかったら、あとで私に聞いて」

「そうする」

 由美は紙ナプキンで目元を押さえた。

「泣いてないから」

「うん」

 あかりはそれだけ答えた。

 料理が運ばれてきた。

 三人はしばらく黙って食べた。

 由美はオムライスを半分ほど食べたところで、鞄につけたキーホルダーを指で触った。

 あかりの視線が、キーホルダーへ向いていることに気づく。

「これ、知ってるんですか」

 由美が尋ねた。

「そのバンドのロゴですよね」

「好きなんですか」

「二枚目のアルバムまではよく聴いていました」

「古い曲だけ?」

「最近の曲も少しは知っています。でも、詳しいとは言えません」

「昔の方が好きっていう人、今の曲を聴かずに悪く言うから嫌い」

「分かります。私は最近の曲を悪いとは思っていません。ただ、自分が一番聴いていた時期の曲に思い入れがあるんです」

「二枚目なら、何が好き?」

 あかりが曲名を答える。

 由美は少し意外そうな顔をした。

「それ、アルバムの最後の曲ですよね」

「はい。ライブでは、あまり演奏されないそうですね」

「去年は一回だけやったみたい」

「行ったんですか」

「動画で見ただけ。チケット取れなかったから」

「私も申し込みましたが、外れました」

「高橋さんも?」

「はい」

 由美は何か言いかけたが、オムライスを一口食べた。

 健司は二人の会話に入らず、ハンバーグを切った。

 キーホルダーのバンドについて、健司はほとんど知らない。由美がよく聴いていることは知っていたが、曲名まで尋ねたことはなかった。

「お父さん、そのバンド知らないんです」

 由美が言った。

「家で流れているのは聞いているよ」

「全部同じに聞こえるって言ったじゃん」

「曲名が分からないという意味だ」

「同じでしょ」

「今度、教えてくれ」

「急に興味あるふりしなくていい」

「あるふりではない」

 あかりが二人のやり取りを聞いていたが、味方をするような言葉は挟まなかった。

 そのとき、健司のスマートフォンが振動した。

 画面には渡辺の名前が表示されている。

 休日に電話が来ることはほとんどない。

「会社からだ」

 健司が言った。

「出れば?」

 由美は料理を見たまま答えた。

「急ぎかもしれない。三分だけ席を外してもいい?」

「私に聞くの?」

「二人に」

 あかりが頷いた。

「仕事なら出てください」

「入口の近くにいる。見える場所から離れない」

「子どもじゃないから」

「分かった」

 健司は店の入口近くへ移動し、電話に出た。

 商品の納入予定に関する問い合わせだった。健司でなければ判断できない内容ではない。

「今日は課長が当番のはずだ。まず課長へ確認して、それでも決められなければ連絡してくれ」

 以前なら、その場で資料を開き、自分で対応していただろう。

 通話を終えて席を見る。

 由美とあかりは、まだ会話をしていなかった。

 健司はすぐに戻ろうとしたが、店員が通るのを待つため、その場にとどまった。

     *

「お父さん、戻ってきますよ」

 由美が言った。

「はい」

「今のうちに聞いていいですか」

「私が答えたくないことなら、そう言います」

「分かりました」

 由美はスプーンを皿の上へ置いた。

「高橋さんは、お父さんがお母さんを今も好きなこと、嫌じゃないんですか」

 あかりの胸が強く打った。

 いつか聞かれるかもしれないと思っていた。

 準備していた答えはあった。

 美雪を大切に思う気持ちごと、健司を受け入れたい。美雪の代わりになるつもりはない。

 どちらも嘘ではない。

 ただ、その答えだけでは、自分の中にある痛みを隠すことになる。

「嫌だと思うときもあります」

 由美が目を見開いた。

「お母さんが嫌いなんですか」

「会ったことのない人を嫌いにはなれません」

「じゃあ、何が嫌なの」

「健司さんの中に、美雪さんしか入れない場所があることを、寂しいと思います」

 由美の顔がこわばった。

「そこに入りたいんですか」

「分かりません。入ることはできないと思っています」

「お父さんに、お母さんを忘れてほしい?」

「思いません」

「でも、嫉妬するんですよね」

「はい」

 あかりは逃げずに認めた。

「美雪さんの話を聞いて、うらやましいと思うことがあります。私より長く健司さんと一緒に過ごし、由美さんという家族を残した人だから」

「亡くなった人なのに?」

「亡くなったから、比べてはいけないと思う気持ちもあります。でも、感じてしまうことまでは止められません」

 由美は黙った。

「あまり、いい人じゃないんですね」

 その言葉は、あかりの胸に刺さった。

 それでも笑って受け流さなかった。

「そうかもしれません」

「怒らないんですか」

「少し傷つきました」

 由美は視線を落とした。

「ごめんなさい」

「謝ってくれて、ありがとうございます」

「お父さんは、高橋さんのこと、いい人って言ってました」

「健司さんが知らない、嫌なところもあります」

「例えば?」

「自分が正しいと思うと、言い方が強くなるところ。嫌なことを我慢したあと、急に相手を拒絶するところ。負けたくないと思うところ」

「お父さんとけんかしたんですか」

「何度か意見がぶつかりました」

「お父さん、怒った?」

「怒りました。私も怒りました」

「それでも会うんですね」

「怒らないことより、怒ったあとに話せることの方が大切だと思い始めています」

 由美はあかりの顔を見た。

「私とも、けんかするかもしれない?」

「するかもしれません」

「高校生に怒るんですか」

「年齢だけで何を言われても受け入れるとは約束できません」

「お母さんなら、受け入れると思います」

「そうかもしれません。でも、私は美雪さんではありません」

 由美の目が揺れた。

「分かってます」

「はい」

「分かってるけど……」

 由美は膝の上で手を握った。

「お父さんと付き合ったら、家に来るんですか」

「今は、その予定はありません」

「いつか来たい?」

 あかりはすぐには答えなかった。

「健司さんとの関係が続けば、いつか家へ行きたいと思うかもしれません」

「来てほしくないって言ったら?」

「どうして来てほしくないか聞きます」

「それでも嫌だったら?」

「健司さんと由美さんが暮らしている家ですから、勝手には行きません」

「ずっと?」

「ずっと行かないと、今ここでは約束できません」

 由美の表情が険しくなる。

「どうして」

「私の気持ちも、由美さんの気持ちも変わる可能性があるからです」

「変わらなかったら?」

「そのときに三人で考えます」

「お父さんと同じこと言うんですね」

「健司さんと話して決めたことだからです」

 由美は鞄のキーホルダーへ触れた。

「高橋さんは、私に好かれたいですか」

「好かれたら、うれしいです」

「嫌われたら?」

「悲しいと思います。でも、好かれるために何でも合わせるつもりはありません」

「私も、高橋さんに好かれなくていいです」

「はい」

「でも、嫌われたくはないです」

 あかりは少し笑った。

「私も同じです」

 そこへ健司が戻ってきた。

「待たせて悪かった」

「三分たってないよ」

 由美が時計を見た。

「何を話していた?」

「お父さんには言わない」

「俺のことだろ?」

「あとで高橋さんに聞くのも禁止」

 健司はあかりを見た。

 あかりは小さく頷いた。

「分かった。聞かない」

 健司が席へ座る。

 三人の間には、出会ったときとは異なる緊張が残っていた。

 険悪ではない。

 しかし、健司の知らないところで、何か大切な言葉が交わされたことは分かった。

「デザートもあるぞ」

 健司がメニューを開こうとする。

「私はいらない」

 由美が言った。

「私も今日は十分です」

 あかりも答えた。

「そうか」

 健司はメニューから手を離した。

 時計を見ると、店に入ってから一時間十二分が過ぎていた。

「そろそろ出る?」

 由美が尋ねた。

「ああ」

 三人は会計へ向かった。

 健司が由美の分を支払い、あかりは自分の伝票を出した。

 店を出ると、由美は隣の書店を見た。

「私、一人で本屋に寄って帰ってもいい?」

「一緒に帰るんじゃないのか」

「少し一人になりたい」

 健司は反射的に、何時までかと聞きそうになった。

「帰る時間が決まったら連絡して」

「うん」

 由美はあかりへ向き直った。

「今日は、会っただけです」

「はい」

「お父さんと付き合っていいって言ったわけじゃないです」

「分かっています」

「次にまた会うかも、まだ分かりません」

「それも分かっています」

 あかりは由美に近づかず、その場で頭を下げた。

「会ってくれて、ありがとうございました」

「私も、聞きたかったことを聞けたので」

 由美は少し迷ったあと、付け加えた。

「高橋さんが好きな曲、私も二枚目では一番好きです」

「そうだったんですね」

「でも、ライブのチケットを取ってあげるとかは無理です」

「自分の分も取れないので、大丈夫です」

 由美の口元が少しだけ上がった。

「じゃあ、帰ったら連絡する」

「ああ。気をつけて」

 由美は書店へ入っていった。

 姿が見えなくなるまで、健司は入口を見ていた。

「追いかけなくていいんですか」

 あかりが尋ねた。

「一人になりたいと言ったから」

「心配では?」

「心配だよ。でも、連絡すると約束した」

「そうですか」

 健司はあかりを見た。

「何を話したか、聞かない方がいいんだな」

「はい」

「由美を傷つけた?」

「傷つけたかもしれません。私も少し傷つきました」

「大丈夫?」

「大丈夫ではありません。でも、話せないほどではないです」

「俺にできることは?」

「今日は、何もしなくて大丈夫です」

 健司は「分かった」と答えた。

 あかりが無理に由美を褒めなかったことに、健司は安堵した。

 由美は素直でいい子だった。きっと仲良くなれる。

 そんな言葉を聞けば、健司は安心できただろう。

 しかし、それは二人が実際に交わした感情を消すことになる。

「由美に会って、どうだった?」

 健司は尋ねた。

「思っていたより、ずっと難しかったです」

「ああ」

「でも、会わなければよかったとは思いません」

「俺も」

「健司さんが席を外したとき、かなり率直に話しました」

「聞かない」

「はい」

「あかりさんは、もう帰る?」

「少し歩いてから帰ります」

「一人で?」

「今日は一人で考えたいです」

 健司の胸に寂しさが広がった。

 それでも引き止めなかった。

「分かった。また連絡する」

「私から連絡します」

 あかりは頭を下げ、駅とは反対側の出口へ歩き始めた。

     *

 あかりは川沿いの遊歩道まで歩いた。

 日が傾き、川面に赤みがかった色が映っている。

 鞄にはカメラを入れていなかった。

 目の前の風景を撮ることもなく、あかりはベンチへ腰を下ろした。

「あまり、いい人じゃないんですね」

 由美に言われた言葉が、胸に残っていた。

 高校生の言葉だと受け流すことはできた。

 しかし、傷ついたと伝えた。

 由美は謝った。

 あのとき、笑って大丈夫だと言わなくてよかったと思う。

 同時に、由美を不安にさせたことも分かっていた。

 美雪に嫉妬する。

 いつか家へ行きたいと思うかもしれない。

 由美に好かれるためなら何でも合わせる、とは言えない。

 もっと穏やかな言葉を選ぶこともできたはずだった。

 だが、最初から理想的な女性を演じれば、いつか苦しくなる。

 それは自分にも、由美にも誠実ではない。

 スマートフォンが震えた。

 健司からではなく、真奈からだった。

〈終わった?〉

 あかりは電話をかけた。

「もしもし」

「どうだった?」

「難しかった」

「嫌われた?」

「分からない。好かれてはいないと思う」

「そっか」

「母親と間違えられた」

「店員に?」

「うん。すぐに違うって言った」

「由美さんは?」

「顔が固まってた」

 あかりは川を見ながら続けた。

「健司さんが席を外したとき、美雪さんに嫉妬することを話した」

「そこまで聞かれたの?」

「聞かれた。隠したくなかった」

「由美さんには重かったかもしれないね」

「うん」

「でも、嘘をついても仕方ないでしょ」

「もう少し言い方があった気がする」

「それは次に話せる機会があったら考えればいい」

「次があるか分からない」

「なくても、今日言ったことが間違いになるわけじゃないよ」

 真奈の声を聞き、あかりは少し呼吸が楽になった。

「健司さんとは?」

「別々に帰った。今日は一人で考えたいって言った」

「引き止められなかった?」

「うん」

「寂しい?」

「少し。でも、追いかけられたら嫌だったと思う」

「相変わらず複雑だね」

「由美さんも、似たことを言ってた」

 会ってほしくないが、連絡をやめてほしいわけではない。

 好かれなくてもよいが、嫌われたくはない。

 あかりにも、その気持ちは理解できた。

「今日はもう、自分を反省しすぎないで帰りなよ」

「分かった」

 通話を終え、あかりはしばらく川辺に座っていた。

 日が沈む前に立ち上がり、駅へ向かった。

     *

 由美が帰宅したのは、午後七時前だった。

 健司は夕食を作らず、リビングで待っていた。

「ただいま」

「おかえり」

「連絡したでしょ」

「ああ」

「ずっと待ってたの?」

「本を読んでた」

 テーブルには、同じページを開いたままの文庫本が置かれている。

「読んでないじゃん」

「少しは読んだよ」

 由美は鞄を置き、父の向かいへ座った。

「どうだった、とか聞かないの?」

「すぐ聞かない方がいいと思って」

「今は聞いていいよ」

「どうだった?」

 由美は少し考えた。

「いい人かどうかは分からない」

「ああ」

「嫌いではない。でも、好きでもない」

「うん」

「思ったより、正直だった」

「何を話した?」

「言わない約束」

「そうだったな」

 由美は指先を組んだ。

「高橋さん、お母さんに嫉妬するって」

 健司は息をのんだ。

「話してくれたのか」

「言っちゃ駄目だった?」

「二人の話だから、由美が決めていい」

「お父さんは嫌?」

「驚いた。でも、嫌じゃない」

「お母さんのこと、嫌いじゃないって言ってた」

「ああ」

「でも、高橋さんが嫌だって思うのも分かる気がした」

 由美の目に涙がにじんだ。

「お父さんの中に、お母さんしか入れない場所があるって」

 健司は黙って聞いた。

「私も、そこに入れないのかな」

「由美は美雪とは違う。比べる場所じゃない」

「でも、お父さんが知ってるお母さんを、私は全部知らない」

「ああ」

「高橋さんも知らない」

「ああ」

「お父さんだけが知ってる」

「そうだな」

「ずるい」

 由美の頬を涙が伝った。

「お母さんがいなくなったのに、お父さんの中ではずっといる。私が忘れていくほど、お父さんだけが持ってるお母さんが本物になるみたいで嫌」

 健司は由美の隣へ行きかけ、足を止めた。

「隣に座ってもいいか」

 由美は頷いた。

 健司は隣の椅子へ移った。

「俺の覚えている美雪だけが、本物じゃない」

「でも、私の記憶は少ない」

「少なくても、由美が覚えている美雪は本物だよ。病院で眠っていたことも、手が冷たかったことも」

「そんなお母さん、覚えたくなかった」

「ああ」

「もっと元気なお母さんを覚えていたかった」

 健司は由美の背中へ手を置いた。

 抱きしめるのではなく、逃げたければ離れられる程度に触れた。

「俺も、美雪のことを全部覚えているわけじゃない」

「本当に?」

「ああ。声も、少しずつ曖昧になっている。何を話したか思い出せない日もある」

「お父さんも忘れるの?」

「忘れていることは、たくさんあると思う」

 由美は声を抑えながら泣いた。

 健司は慰める言葉を探さなかった。

 二人はそれぞれ違う美雪を覚え、それぞれ違う部分を失い続けている。

 あかりがそこへ入ることも、美雪の代わりに欠けた部分を埋めることもできない。

 その事実を、今は一緒に悲しむしかなかった。

「高橋さんに、また会いたい?」

 しばらくして、健司が尋ねた。

「今は分からない」

「ああ」

「でも、会ってよかったとは思う」

「そうか」

「お父さん」

「何だ」

「今日、高橋さんがいい人だったからって、付き合うとか決めないでね」

「決めるなら、あかりさんと二人で決める」

「私がいいって言っても?」

「ああ」

「私が嫌って言っても?」

「理由は聞く。でも、最後は二人で決める」

 由美は泣きながら、少しだけ笑った。

「前のお父さんなら、私がいいって言ったら、すぐ安心したと思う」

「そうかもしれない」

「面倒になったね」

「由美もだろ」

「私は前から面倒だよ」

「知ってる」

「ひどい」

 二人は笑った。

 笑ったあとにも、涙は残っていた。

 健司は、きれいな結論にする必要はないと思った。

 初対面は終わった。

 それだけだった。

     *

 夜九時を過ぎたころ、あかりから健司へメッセージが届いた。

〈今日は、由美さんと会う機会を作ってくださり、ありがとうございました〉

 続けて、もう一通表示される。

〈率直に話しすぎたかもしれません。由美さんを傷つけたと思います。次に会うことを求めるつもりはありません〉

 健司はしばらく考えてから返信した。

〈由美は、会ってよかったと言っています。ただ、また会いたいかは分からないそうです〉

〈分かりました〉

〈あかりさんが傷ついたことも聞きました〉

 送信してよいか迷ったが、そのまま続けた。

〈由美の言葉を、年下だからと受け流さずにいてくれて、ありがとう〉

 あかりからの返事は、少し時間を置いて届いた。

〈大人だから何を言われても平気というわけではないので、傷ついたと伝えました。あれでよかったのか、まだ分かりません〉

〈由美は、あかりさんが正直だったと言っていました〉

〈健司さんは、どう思いましたか〉

 健司は、由美から聞いた言葉を思い返した。

 美雪に嫉妬する。

 健司の中に、美雪しか入れない場所があることが寂しい。

 あかりが抱えている痛みを、自分は気づかないふりをしていた。

〈俺は、あかりさんに美雪を受け入れてもらうことばかり考えていました。あかりさんが何を感じるかについて、まだ十分に考えられていなかったと思います〉

〈すぐに答えを出さなくて大丈夫です〉

〈あかりさんも?〉

〈私もです〉

 健司は画面を見つめた。

〈今日はゆっくり休んでください〉

 あかりから届いた最後の言葉に、健司は「おやすみ」と返した。

 すぐに次の約束を決めることはしなかった。

 三人が同じテーブルを囲んだ時間は、誰かが誰かを認めるための試験ではなかった。

 今夜は、その重さを一人ずつ持ち帰ればよかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。