第6章 会う前の約束
七月最初の日曜日、健司とあかりは市立美術館の前で待ち合わせた。
梅雨の晴れ間で、朝から気温が上がっていた。広場の噴水では、子どもたちが水しぶきを上げている。
健司は約束の十五分前に到着した。
入口近くの日陰へ移動し、スマートフォンで時刻を確認する。あかりから、電車を降りたという連絡が届いていた。
数分後、広場の向こうからあかりが歩いてきた。
白いシャツに細身の黒いパンツを合わせ、肩には革製の小さなカメラバッグを掛けている。
「お待たせしました」
「俺も今来たところだよ」
「あれから、待ち合わせの時間について考えたんです」
「何を?」
「健司さんが十五分前に着くなら、私は十分前に来れば、待たせるのは五分で済みます」
「遅刻したわけでもないのに、待たせたことにはならないだろ」
「では、今日は同じくらいに着いたことにしましょう」
「ああ」
健司はあかりの肩のカメラバッグへ目を向けた。
「今日は撮るのか」
「館内は撮影禁止だと思います。帰りに歩きながら、何か見つかれば」
「前に見せてもらったカメラ?」
「これは別のものです。祖父からもらったカメラは重いので、持ち歩くには少し覚悟が必要です」
「そんなに違うのか」
「健司さんには、同じに見えるかもしれません」
「そこまで分からない人間ではないよ」
「では、あとで問題を出します」
あかりは笑い、美術館へ向かって歩き始めた。
今回の写真展は、国内外の写真家が撮影した都市の風景を集めたものだった。
観光名所ではなく、住宅街や工場、駅の待合室、閉店後の商店などが写されている。人の姿が入った作品もあったが、多くは後ろ姿か、遠くに小さく見えるだけだった。
あかりは一枚の写真の前で足を止めた。
夕暮れの団地を撮った写真だった。
同じ形の窓が横一列に並び、いくつかの部屋だけに明かりがついている。洗濯物が残っている窓、カーテンが閉じた窓、何も見えない窓。それぞれの部屋に別の暮らしがあることだけが伝わってくる。
「この写真、好きです」
あかりが小さな声で言った。
「どうして?」
「誰も写っていないのに、帰る場所の数だけ人がいるように感じるから」
「寂しそうにも見える」
「健司さんは、そう見えますか」
「ああ。明かりのついていない部屋の方が気になる」
「あの部屋の人は、まだ帰っていないだけかもしれません」
「誰も住んでいないかもしれない」
「それでも、どちらかは分かりませんね」
あかりは写真へ顔を近づけた。
「分からない部分が残っている方が、私は好きです」
「答えがある方が安心しないか」
「以前は、そう思っていました。でも、写真については、答えを決められると見えなくなるものもある気がします」
「人の気持ちも?」
健司が尋ねると、あかりは少し考えた。
「人の気持ちについては、写真みたいに眺めているだけでは駄目だと思います。聞けるなら、聞いた方がいいです」
「そうだな」
二人は並んで次の作品へ進んだ。
健司は写真を見るより、あかりがどこで足を止めるのかを気にしていた。
錆びた遊具のある公園。雨にぬれたバス停。取り壊しを待つ映画館。あかりは、長く使われて少し傷んだ場所を写した作品の前で立ち止まることが多かった。
「きれいな建物より、古いものが好きなんだな」
「古いから好きというわけではありません」
「じゃあ、何だろう」
「誰かが使った跡が見えるものが好きです。手すりの塗装が薄くなっていたり、床の同じ場所だけへこんでいたり」
「あかりさんの写真にも、そういうものが多かった」
「よく見ていますね」
「今日は、あかりさんの話を聞くと決めてきたから」
「そんなに意識しなくても大丈夫です」
「意識しないと、美雪の話へ逃げるかもしれない」
名前を口にしてから、健司はあかりの顔を見た。
「今のは大丈夫?」
「私に確認するために美雪さんの名前を出したのなら、大丈夫です」
「あかりさんが何を感じても、笑顔で受け入れる必要はない」
「覚えていたんですね」
「忘れられないよ」
「では、今度は健司さんが何を感じたか教えてください」
あかりが示した先には、海辺の無人駅を撮った写真があった。
古いベンチの向こうに線路が延び、その先に青い海が見える。
「ここへ行ってみたい」
健司は思ったままを口にした。
「写真を撮りたいんですか」
「いや。ベンチに座って、電車を待ってみたい」
「路線図が好きだったから?」
「それもある。知らない駅で降りてみたくなった」
「目的のない外出が苦手だったのでは?」
「少しくらいなら、できるかもしれない」
「由美さんから出された宿題の成果ですね」
「由美には、自分の予定を作れと言われただけだよ」
「その駅へ行くことも、由美さんに報告しますか」
「報告というより、留守にするなら伝える」
「決めてもらうのではなく?」
「ああ」
健司は写真をもう一度見た。
「今度、一人で行ってみるよ」
「一人で?」
「最初はね」
あかりは少しだけ目を伏せた。
一緒に行きたいと言ってほしかったのかもしれない。そう思ったが、健司は決めつけなかった。
「もし一人で行って、また誰かと来たいと思ったら、そのとき誘ってもいい?」
あかりが顔を上げた。
「はい」
「嫌なら断ってくれ」
「そのときに考えます」
あかりは微笑んだ。
展示を見終えるころには、正午を過ぎていた。
二人は美術館のカフェへ入り、それぞれサンドイッチと飲み物を注文した。
前回と同じように別々に会計を済ませ、窓際の席へ座る。
「写真展、どうでしたか」
あかりが尋ねた。
「思っていたより面白かった。きれいな場所だけが、残す価値のあるものじゃないんだな」
「健司さんが一番気になったのは、無人駅ですか」
「あれもよかった。でも、最初の団地の写真が残っている」
「明かりのない部屋が気になるとおっしゃっていましたね」
「以前なら、電気がついている部屋を見たと思う」
「今は違う?」
「誰もいないところに、何があるのか考えるようになった」
「寂しさですか」
「それだけじゃない。一人だからできることもあるのかもしれない」
由美が家を出たあとのことを、健司は初めて少しだけ具体的に想像していた。
帰宅しても、食事を待つ人はいない。弁当を作る必要もない。休日の予定を、由美の部活動や友人との約束に合わせることもなくなる。
これまでは、空っぽになった部屋しか想像できなかった。
今は、一人で映画を見ることも、知らない駅で降りることも考えられる。
その先に誰かがいる可能性まで、すぐに否定しなくなっていた。
「由美さんの体験授業、日程は決まりましたか」
あかりが尋ねた。
「八月の初めだ。保護者向けの説明もあるから、一緒に東京へ行く」
「楽しみですね」
「由美は、授業が終わったら一人で大学の周りを見たいらしい。俺は別行動だ」
「寂しいですか」
「少し。でも、俺も東京で行きたい場所を探すことにした」
「どこへ?」
「古い映画館が残っているらしい」
「一人で行けそうですね」
「ああ」
健司はサンドイッチを一口食べた。
「由美は、あかりさんのことを知っている」
あかりの手が止まった。
「私の名前を?」
「名前も年齢も、会社の別部署で働いていることも」
「年齢まで話したんですか」
「由美に聞かれた」
「何と答えればいいか、困りますね」
「三十二歳だと言っただけだよ」
「由美さんは、何と?」
「今は会いたくないと言っている」
あかりの表情から笑みが消えた。
「そうですか」
「でも、俺があかりさんと話すことをやめてほしいわけではないとも言った」
「健司さん」
あかりはカップを置いた。
「由美さんがどちらを言っても、矛盾ではないと思います」
「ああ。俺もそう伝えた」
「会いたくないという気持ちは、尊重してください」
「もちろん」
「私が会わせてほしいと頼んでも?」
健司は問いの意味を考えた。
「頼むつもりがあるの?」
「今すぐではありません」
あかりは視線を窓の外へ向けた。
「でも、私たちが会社の外で会い続けるなら、由美さんに存在を隠したままにしたくないと思っています」
「隠してはいない」
「名前を伝えるだけではなくて、実際に会うという意味です」
「どうして?」
「健司さんの生活の中心にいる人だから、ではありません」
あかりはすぐに付け加えた。
「由美さんの許可をもらいたいわけでも、母親として受け入れてほしいわけでもありません」
「母親としてなんて、まだ考えていない」
「私も考えていません」
あかりの言葉ははっきりしていた。
「だからこそ、会うときに『父親の恋人候補』や『新しい母親候補』として見られるのは嫌です。私は私として会いたいです」
「それは、由美にも伝える」
「今はまだ、伝えないでください」
「なぜ?」
「私は、健司さんとの関係をどうしたいのか、決めきれていません」
あかりは自分のサンドイッチへ目を落とした。
「健司さんと会うのは楽しいです。連絡が来ればうれしい。でも、美雪さんのことや由美さんとの生活まで含めて、どこまで関わりたいのかは分かりません」
「無理に関わる必要はない」
「そう言いながら、健司さんからその二人を切り離すことはできません」
「ああ」
「私が由美さんに会うなら、自分の意思で会いたいと思えるまで待ってください」
「分かった」
「由美さんにも、同じように選んでもらってください」
「ああ」
「どちらか一人が会いたいからといって、もう一人を説得しないでください」
「約束する」
あかりは少し肩の力を抜いた。
「まだ先の話です」
「それでも、話してくれてよかった」
「健司さんは、会ってほしいですか」
突然問われ、健司は答えを探した。
以前なら、由美が認めてくれたら会わせたいと答えただろう。
今は違った。
「いつか、会ってほしいと思っている」
健司は言った。
「あかりさんがどんな人か、由美に自分の目で見てほしい。由美がどんな人か、あかりさんにも知ってほしい」
「それは、私たちが仲良くなることを期待していますか」
「仲良くなればうれしい。でも、合わない可能性もある」
「合わなかったら?」
「困ると思う」
「正直ですね」
「無理に仲良くさせることはできない。だから、そのとき考える」
「以前なら、会う前から全部うまくいく方法を決めようとしたでしょうね」
「今でも決めたくなるよ」
「決めないでいられますか」
「練習している」
「あまり私を練習に使わないでください」
「そうだった」
健司は苦笑した。
「また間違えたら言ってくれ」
「自分でも気づいてください」
「厳しいな」
「全部私に任せられると困りますから」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
月曜日の朝、あかりは会社のエレベーターで営業部の中村と一緒になった。
中村は四十代後半で、社内の情報に詳しいことを自慢するような人物だった。
「高橋さん、昨日、美術館にいたよね」
乗り込んですぐに言われ、あかりは驚いた。
「中村さんもいらしていたんですか」
「家族とね。声をかけようと思ったけど、佐藤部長と一緒だったから遠慮したよ」
中村は意味ありげに笑った。
「お仕事の関係ですか」
「休日に写真展を見るのが仕事には見えなかったけど」
「業務外のことですので」
「佐藤部長も、娘さんが大きくなって身軽になったのかな」
あかりは返事をしなかった。
「高橋さん、うまくやったね」
「どういう意味でしょうか」
「商品企画部から営業企画部長へ話を通せる人がいると、便利だろ」
エレベーターの中には、ほかに二人の社員が乗っていた。
聞こえていないふりをしているが、会話を意識していることは分かった。
あかりは指先が冷たくなるのを感じた。
「私的な関係を、仕事上の利益に使っているという意味ですか」
「そこまで言ってないよ」
「今の言葉は、そう聞こえました」
「冗談だって」
「私は冗談だとは受け取れません」
中村の表情が硬くなった。
「ずいぶん真面目に受け取るんだね」
「業務上の評価に関わることですから」
目的の階に着き、ドアが開いた。
「あの、中村さん」
あかりは降りる前に振り返った。
「佐藤部長は私の直属の上司ではなく、人事評価にも関わっていません。共同業務での決定は、すべて正式な会議と記録を通しています。誤解を招く発言はお控えください」
返事を待たず、あかりはエレベーターを降りた。
自席に着いてからも、手の震えが止まらなかった。
以前のように黙ってはいなかった。
言うべきことは言えた。
それでも傷つかなかったわけではない。
健司と会えば、こうした見方をされる可能性は考えていた。だが実際に、仕事上の努力まで疑われるような言葉を向けられると、予想以上に腹が立った。
「高橋さん、大丈夫ですか」
隣の席の木下が尋ねた。
「顔色が悪いです」
「大丈夫」
答えてから、あかりは言い直した。
「少し嫌なことがあった。でも、仕事はできるから大丈夫」
「何か手伝えることはありますか」
「今はない。ありがとう」
午前中、あかりは普段どおり仕事を続けた。
昼休みになると、自分の上司である商品企画部長へ、エレベーターでの会話を報告した。
「現時点で正式な対応を求めるつもりはありません。ただ、今後、業務上の評価やプロジェクトへ影響する発言が出た場合に備えて、共有しておきたいです」
部長は真剣な顔で聞いた。
「分かりました。中村さんには私から注意することもできます」
「今回は、自分で控えるよう伝えました。もう一度あれば相談します」
「佐藤部長にも伝えますか」
「私から話します」
自分の問題を健司に解決してもらうつもりはなかった。
ただし、自分だけが負う問題にもしたくなかった。
その日の退勤後、あかりは健司へ個人の連絡先からメッセージを送った。
〈今日、会社で少しお話ししたいことがあります。業務終了後、駅前の広場で十分ほど時間をいただけますか〉
健司からすぐに返事が届いた。
〈分かりました。十八時に行きます〉
待ち合わせの時刻、健司は広場のベンチの前に立っていた。
あかりが近づくと、表情を確かめるように顔を見た。
「何かあった?」
「中村さんに、昨日一緒にいたところを見られていました」
あかりは、エレベーターで言われたことをそのまま伝えた。
聞き終えた健司の顔が険しくなる。
「俺から中村に話す」
「待ってください」
「仕事上の利益のために近づいたような言い方をされたんだろ」
「私は自分で抗議しました。部長にも報告しています」
「でも――」
「健司さんが中村さんへ強く言えば、私があなたの立場を使って相手を黙らせたように見えるかもしれません」
健司は口を閉ざした。
「何もするなという意味ではありません。もし健司さんにも何か言われたら、否定してください。でも、私への発言については、まず私に任せてほしいです」
「分かった」
健司は拳を開いた。
「嫌な思いをさせたな」
「健司さんと会ったことが悪かったとは思っていません」
「それでも、俺の方が役職は上だ。噂になったとき、不利になるのはあかりさんかもしれない」
「はい。そこは考えなければならないと思います」
「会社の外で会うのをやめる?」
尋ねた声には、ためらいがあった。
あかりはすぐには答えなかった。
「私は、やめたくありません」
健司の表情がわずかに緩む。
「俺もだ」
「ただし、仕事と私的な関係は、これまで以上に分けてください」
「ああ」
「勤務中の私的な連絡はしない。共同業務の決定は、ほかの社員がいる会議で行う。二人だけで決めたように見えることは避ける」
「分かった」
「もし今後、交際することになったら、その時点でそれぞれの上司へ伝えましょう。必要なら担当業務を調整してもらう」
「そこまで考えていたのか」
「考えておかなければ、私の仕事に関わります」
「そうだな」
健司は、自分の考えが足りなかったことを認めた。
あかりと会うことで、自分が噂される可能性は考えた。しかし、あかりの評価や将来に影響する危険までは、具体的に想像していなかった。
「嫌なことがあったのに、話してくれてありがとう」
「一人で抱えたくなかったんです」
「俺に解決してほしいわけではなく?」
「はい。でも、知っていてほしかった」
「分かった」
あかりは肩から息を抜いた。
「写真展の日、楽しかったです」
「俺も」
「そのことまで後悔したくありません」
「ああ」
「だから、今日はきちんと話せてよかったです」
あかりは一歩下がった。
「では、帰ります」
「駅まで一緒に行ってもいい?」
「はい」
二人は並んで歩いた。
人目を避けて距離を取ることはしなかった。腕を組むことも、手をつなぐこともない。
仕事仲間だけでは説明できない。
恋人とも呼べない。
その曖昧さを、どちらか一人に背負わせないように歩いた。
*
その夜、健司は由美に話をした。
「いつかでいいんだけど、あかりさんに会ってもらいたいと思っている」
由美は食べていたみそ汁の椀を置いた。
「嫌」
返事は早かった。
「分かった」
健司はそれ以上続けなかった。
由美が警戒するように父を見る。
「それだけ?」
「会いたくないなら、無理に会わせない」
「どうして会ってほしいの」
「俺にとって、大切な人になり始めているから」
由美の顔がこわばった。
「付き合ってるの?」
「まだ、そういう約束はしていない」
「じゃあ、会わなくていいじゃん」
「ああ。今は会わなくていい」
「今はって何?」
「気持ちが変わることもあるから、今後ずっと会わないとは決めないという意味だ」
「お父さんは会わせたいんでしょ」
「会ってほしいと思っている。でも、由美が嫌だと言っているのに説得するつもりはない」
「高橋さんは?」
「あかりさんも、今すぐ会いたいとは言っていない」
「私の許可が欲しいんじゃないの?」
「違う」
「お父さんと付き合っていいか、聞きに来るんじゃないの?」
「由美に許可を決めさせることはしない」
由美はうつむいた。
「じゃあ、私が反対しても付き合うの?」
健司は答えを急がなかった。
「反対する理由を聞く。由美の生活に関わることなら、二人で考える。でも、誰を好きになるかまで、由美に決めてもらうつもりはない」
「勝手じゃん」
「ああ。勝手だと思う」
「私が嫌でも?」
「嫌だという気持ちは無視しない。でも、由美が嫌だと思うことと、俺があかりさんを大切に思うことは、同時にあっていい」
由美の目に涙が浮かんだ。
「お母さんは?」
「美雪を大切に思う気持ちもなくならない」
「そんなの、ずるいよ」
「そうかもしれない」
「全部大切って言えば、何も選ばなくていいじゃん」
由美は椅子を立ち、部屋へ入っていった。
ドアが閉まる音が響く。
健司は追いかけなかった。
説得しないと決めたからではない。
今の由美には、父親の説明より、一人で怒る時間が必要だと思った。
食卓を片づけ、洗い物を終える。
由美の部屋へ向かおうとしたとき、ドアの下から明かりが漏れているのが見えた。
健司はノックせず、廊下の途中で引き返した。
*
由美はベッドの上でスマートフォンを握っていた。
父に話しかけられると思っていた。
ドアの外に足音が止まったあと、遠ざかっていった。
追いかけてこなかったことに安心し、同時に寂しくなった。
「大切な人になり始めている」
父の言葉が頭から離れない。
高橋あかりは、もう単なる会社の人ではない。
父が離れてほしくないと思い、休日に二人で写真展へ行く人になっている。
由美は検索画面を開き、父の会社名と「高橋あかり」を入力した。
すぐに、会社の公式サイトに掲載された記事が見つかった。
若手社員の提案を紹介する記事だった。
画面には、商品パッケージを手にしたあかりの写真が載っている。
肩までの髪。控えめな化粧。会社員らしい紺色のジャケット。華やかというより、落ち着いた印象の女性だった。
記事には、商品企画の仕事を選んだ理由が書かれていた。
利用者の年齢や生活環境によって、使いやすさの意味は異なる。一つの正解を押しつけず、実際の声を聞きたい。
父が「思ったことをきちんと言う人」と話していた意味が、少しだけ分かった。
由美は記事を閉じた。
写真を見たことで、安心したわけではない。
知らない女性だったときより、存在がはっきりした。
父はこの人と話し、笑い、自分には話さないことまで伝えているのかもしれない。
胸が痛んだ。
翌日の放課後、由美は莉奈に相談した。
「会いたくないなら、会わなくていいんじゃない?」
莉奈は自動販売機で買った炭酸水を飲みながら言った。
「お父さんも無理に会わせないって」
「じゃあ、何が問題なの」
「このまま会わなかったら、ずっと想像することになる」
「何を?」
「どんな人か。私のことをどう思ってるか。お母さんのことをどう思ってるか」
「会ったら分かる?」
「分かんない」
「会って嫌いになるかもしれないよ」
「それでも、知らないままよりいいかも」
莉奈は少し考えた。
「会うなら、条件を決めたら?」
「条件?」
「うちで会わない。二人きりにならない。長い時間一緒にいない。嫌だったら途中で帰る」
「面接みたいにならない?」
「高橋さんを試すためじゃなくて、由美が逃げられるようにするの」
「逃げるって」
「知らない大人と会うんだから、そのくらいでいいじゃん」
由美は炭酸水のボトルを見つめた。
「会ったら、お父さんに期待させるかな」
「会うことと、賛成することは違うって言えば?」
「お父さん、分かるかな」
「分からなかったら、何度でも言えばいいよ」
由美はその夜、夕食後に健司へ声をかけた。
「高橋さんに会ってもいい」
健司が持っていた湯飲みを置いた。
「本当に?」
「でも、条件がある」
「ああ」
「家では会わない。人がいる店にする」
「分かった」
「一時間くらい。長くても一時間半」
「それも分かった」
「高いものをおごったり、プレゼントをくれたりするのは嫌」
「伝える」
「お母さんになってほしいとか、お父さんと付き合っていいとか、そういう話をするつもりはない」
「ああ」
「会うだけ。会ったあとで嫌になるかもしれない」
「それでもいい」
「途中で帰りたいって言ったら帰る」
「分かった」
健司は一つずつ頷いた。
「店は、由美が決める?」
「お父さんが三つくらい候補を出して。その中から選ぶ」
「分かった」
「それから」
由美は父をまっすぐ見た。
「高橋さんにも、嫌なら断っていいって言って」
「ああ」
「私が会うって言ったから、絶対に来なきゃいけないみたいにしないで」
「約束する」
由美は息を吐いた。
「高橋さんの写真、見た」
「どこで?」
「会社のサイト」
「勝手に個人のことを調べるのは――」
「会社の公式サイトだよ」
「そうか」
「仕事してる人なんだね」
「当たり前だろ」
「お父さんの話だと、映画と写真が好きな人ってことしか分からなかったから」
健司は何と答えるべきか迷った。
「仕事を大切にしている人だよ」
「お父さんより?」
「比べる必要はない」
「そうだった」
由美は少し笑った。
健司はスマートフォンを手に取ったが、すぐには連絡しなかった。
「今から聞かないの?」
「由美の条件を、俺の言葉で勝手にまとめたくない。確認してから送る」
健司はメモ用紙をテーブルへ置いた。
由美が挙げた条件を、一つずつ書き出す。
「これで合ってる?」
「うん」
「付け加えることは?」
「今はない」
「気が変わったら、当日でも断っていい」
「それも書いて」
健司は最後の一行を加えた。
そのあと、あかりへ連絡した。
〈由美と話しました。一度会ってもいいと言っています。ただし、会うことは私たちの関係を認める意味ではありません。人のいる店で一時間程度、贈り物はなし、由美が帰りたくなったら途中で終わります。当日気持ちが変わる可能性もあります。あかりさんも、今は会いたくないと思うなら断ってください〉
由美が横から画面を確認する。
「私たちの関係って、何?」
「俺とあかりさんの関係」
「まだ付き合ってないんでしょ」
「ああ」
「なら、そう書けば?」
「分かった」
健司は文章を直した。
〈会うことは、俺とあかりさんが交際することを認める意味ではありません〉
「これでいい?」
「うん」
送信してから、二人で返事を待った。
十分ほどして、あかりから届いた。
〈条件を伝えてくださり、ありがとうございます。私も、由美さんに何かを認めてもらうためではなく、一人の人として挨拶をしたいです。贈り物は持っていきません。当日、由美さんが会いたくないと思ったら中止してください。私は大丈夫です〉
健司は由美へ画面を見せた。
由美は何度も文章を読んだ。
「怒ってない?」
「どうして怒るんだ」
「条件が多いから」
「怒っているようには見えない」
「お父さんが決めないで」
由美は自分で考え、やがて言った。
「でも、ちゃんと読んでくれた感じはする」
「ああ」
「返事していいよ」
健司はあかりへ返信した。
〈ありがとうございます。店の候補を由美と選び、改めて連絡します〉
送信すると、あかりから短い返事が届いた。
〈分かりました〉
三人が会うことになった。
健司はうれしかった。
同じくらい不安だった。
由美とあかりが気に入る店を選び、会話が途切れない話題を考え、誰も傷つかずに終わる方法を探したくなった。
それが以前と同じ癖だと気づき、健司はメモ用紙を裏返した。
「店、明日一緒に探すか」
「今日は探さないの?」
「急いで決めなくてもいいだろ」
由美は意外そうな顔をした。
「お父さんが言うと、変な感じ」
「俺もそう思うよ」
三人のうち、誰か一人が正しい答えを用意することはできない。
健司にできるのは、それぞれが決めた約束を忘れないことだけだった。




