第5章 午後四時の席
土曜日の朝、健司は寝室の鏡の前でシャツの襟を直していた。
仕事で着る白いシャツではなく、薄い青色のものを選んだ。数年前に由美から誕生日にもらったが、袖を通したのは二度ほどしかない。
紺色のジャケットを羽織ってみたものの、堅苦しく感じて脱いだ。代わりに、薄手の灰色のカーディガンを手に取る。
どこまで身なりを整えればよいのか分からなかった。
デートではない。
あかりとは、友人として話すことになっている。
だからといって、部屋着に近い格好で行けば、相手を軽く扱っているように見えるかもしれない。
「お父さん、まだ着替えてるの?」
開いたままのドアから、由美が顔をのぞかせた。
「もう終わるよ」
「十分くらい前にも聞いた」
「シャツはこれで変じゃないか」
「変じゃない」
「カーディガンは?」
「普通」
「もう少し何かないのか」
由美は部屋へ入り、健司の姿を上から下まで眺めた。
「仕事へ行く人には見えない」
「仕事じゃないからな」
「高橋さんと会うんでしょ」
「ああ」
健司は昨日の夕食後、由美に伝えていた。
土曜日の午後、あかりと喫茶店で会う。午後六時ごろには帰るつもりだと。
許可を求める言い方にはしなかった。
ただ、家を空ける予定として伝えた。
「二人で?」
「二人で」
「ふうん」
由美はベッドの端に腰を下ろした。
「映画館で偶然会ったんじゃなくて、今日は約束したんだよね」
「ああ。俺から誘った」
「食事は断ったのに?」
「前にも話しただろ。断り方がよくなかったから謝った。そのあと映画館で会って、少しずつ話すようになった」
「それは聞いたけど」
「今日は映画の話をするだけだよ」
「それ、高橋さんも同じつもりなの?」
健司はカーディガンを畳みかけた手を止めた。
「同じではないかもしれない」
「それで会うの?」
「お互い、分からないことは分からないと話している」
「よく分かんない」
「俺も完全には分かっていない」
由美はため息をついた。
「大人なのに?」
「大人でも分からないことはあるよ」
「お父さん、仕事では何でも分かってるみたいな顔してるのに」
「会社では分からなくても、分かった顔をしなければならないことがあるんだ」
「それ、駄目なんじゃない?」
「最近、俺もそう思い始めた」
由美は少し笑った。
「そのシャツでいいと思う」
「本当か?」
「うん。頑張りすぎてない感じ」
「頑張りすぎて見えたら駄目なのか」
「知らないけど、デートじゃないなら」
健司は否定しかけて、やめた。
由美も、今日の外出をどう受け止めればよいのか迷っている。デートではないと言い切れば安心するのか、かえって無理をしているように感じるのか、健司には判断できなかった。
「帰る時間が遅くなるなら、連絡する」
「別にしなくてもいいよ」
「夕飯の予定があるだろ」
「今日は自分で作る」
「何を?」
「冷凍のパスタ」
「野菜も食べろよ」
「そういうところ」
「何が」
「出かける前まで、私の食べるものを決めなくていいの」
由美の口調は強くなかった。
「分かった。自分で決めてくれ」
「うん」
「でも、火を使うなら――」
「もう行った方がいいんじゃない?」
由美が時計を指した。
約束の時間まで、まだ一時間以上ある。
「まだ早い」
「遅れるよりいいでしょ」
追い出そうとしているのか、一人になる時間を早く作りたいのか分からなかった。
健司は財布とスマートフォンを鞄へ入れた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
由美は寝室に残ったまま答えた。
玄関へ向かう途中、健司は棚の上の写真に目を向けた。
美雪に声をかけるべきか迷った。
これまで外出するときは、必ず心の中で「行ってくる」と伝えていた。
今日は、なぜか言葉が出なかった。
美雪の写真から逃げるように視線を外し、健司は家を出た。
*
玄関のドアが閉まる音を聞き、由美はリビングへ戻った。
窓から外を見ると、父がマンションの前を歩いていく姿が見えた。駅へ向かう道を、何度かシャツの袖を直しながら進んでいる。
あんな父を見るのは初めてだった。
会社へ行くときは、迷わずスーツを着る。休日の買い物なら、いつも同じポロシャツかセーターだ。
鏡の前で何度も服を替える父は、由美の知らない人のように見えた。
「高橋さんか」
名前を声に出してみる。
どんな顔をした人なのだろう。
三十二歳だと聞いた。父より十三歳若い。由美とは十六歳違う。
学校の先生より若いかもしれない。母親と呼ぶには近すぎて、友達になるには遠すぎる。
由美は棚に置かれた美雪の写真を見た。
白い帽子を押さえ、笑っている。
写真の中の母は、ずっと若いままだった。由美が母の亡くなった年齢を追い越すまでには、まだ時間がある。それでも、写真の母と高橋あかりの年齢は、それほど離れていないのかもしれない。
「お母さんは、どう思う?」
問いかけてから、由美は唇をかんだ。
母の答えを想像することはできなかった。
父には幸せになってほしい。
その気持ちは嘘ではない。
けれど、父が高橋あかりと会うために服を選んでいる姿を見たとき、胸の中に冷たいものが生まれた。
父と母の間にあったものを、自分はほとんど知らない。
二人がどんな会話をし、どこへ出かけ、どんなふうに互いを好きになったのか。父が話すのは、母が明るかったことや、料理が上手だったことばかりだ。
もし父が別の女性を好きになったら、由美の知らない父の顔を、その人だけが知ることになる。
母がいなくなってから、自分だけのものだと思っていた父の一部を、誰かに持っていかれるような気がした。
由美はスマートフォンを手に取り、莉奈へ連絡した。
〈今、電話できる?〉
すぐに着信があった。
「どうしたの?」
「別に、大したことじゃない」
「そう言うときは、大したことあるでしょ」
莉奈の後ろから、テレビの音が聞こえている。
「お父さんが、女の人と会いに行った」
「高橋さん?」
「何で名前知ってるの」
「この前、由美が話してたじゃん」
「話したっけ」
「会社の三十二歳の人」
自分が思っていた以上に詳しく話していたらしい。
「二人で喫茶店だって」
「デートじゃん」
「デートじゃないって」
「本人たちがそう言ってるだけじゃない?」
「やめてよ」
由美の声が強くなった。
「ごめん」
「別に、怒ってない」
「嫌なんだ?」
「分かんない」
由美はソファの上で膝を抱えた。
「お父さんがずっと一人なのは嫌。でも、本当に誰かと会うと、それも嫌」
「分かるよ」
「莉奈も?」
「お母さんの彼氏に会ったから」
由美は以前聞いた話を思い出した。
「どうだった?」
「普通の人だった。小野さんっていうんだけど、お母さんより二つ年上で、眼鏡かけてて、あんまりしゃべらない人」
「嫌じゃなかった?」
「最初は、そうでもなかった」
「最初は?」
「うちに来たとき、お父さんが昔使ってたマグカップでコーヒー飲んだの」
莉奈の両親は離婚している。父親が家を出たあとも、いくつかの食器は残されていたという。
「お母さんが何も考えないで出しただけだと思う。でも、見たら急に嫌になった」
「小野さんが嫌だったの?」
「分かんない。別に悪いことしてないし」
「言った?」
「あとで、お母さんには言った」
「何て?」
「お父さんのカップを使われるのは嫌だったって」
「お母さん、怒らなかった?」
「怒らなかった。ごめんって言って、小野さん用のカップを一緒に買いに行った」
「小野さんは?」
「お母さんが話したみたい。次に来たとき、勝手に使ってごめんって言われた」
「知らなかったんだから、小野さんは悪くないのに」
「うん。でも、悪い人じゃなくても嫌なことってあるじゃん」
由美は美雪の写真を見た。
「そのあと、小野さんのこと、嫌じゃなくなった?」
「まだ好きではないよ。でも、前よりは話せる」
「お母さんと結婚するって言ったら?」
「今は嫌って言う」
「言えるんだ」
「言うよ。あとで変わるかもしれないけど、今は嫌だから」
由美は膝へ顔を伏せた。
「私も、今は高橋さんに会いたくない」
「それ、お父さんに言った?」
「言った」
「お父さん、何て?」
「分かったって」
「じゃあ、いいじゃん」
「でも、お父さんが高橋さんと会うのを止めたいわけじゃない」
「それも言った?」
「言った」
「だったら、あとはお父さんが考えることでしょ」
莉奈の答えは簡単だった。
「そんなに簡単じゃないよ」
「簡単じゃないけど、由美が全部決めることでもないじゃん」
「分かってる」
由美は通話を終えたあと、台所へ向かった。
冷凍庫を開けると、父が買っておいたパスタが二種類入っていた。ミートソースと明太子。
その横には、下ゆでしたブロッコリーが保存容器に入っている。
父は何も言わなかったが、由美が野菜を食べるよう用意したのだろう。
「決めなくていいって言ったのに」
由美はつぶやいた。
それでもブロッコリーを取り出し、明太子のパスタと一緒に食卓へ運んだ。
*
約束した喫茶店は、古い書店を改装した建物の二階にあった。
健司が到着したのは、約束の二十五分前だった。
階段を上がると、壁一面に本棚が並び、その間に小さな丸テーブルが置かれている。窓際の席には、午後の日差しが斜めに差し込んでいた。
店員に二人であることを伝え、奥の席を選ぶ。
向かい側の椅子を見た途端、胸が落ち着かなくなった。
映画館で偶然会ったときとは違う。
今日は、自分からあかりを誘った。
友人として会うと確認した。それでも、わざわざ休日に待ち合わせ、二人で話す時間を作ったことに変わりはない。
健司は水を一口飲み、メニューを開いた。
午後三時五十八分、あかりが階段を上がってきた。
白いブラウスに淡い緑色のロングスカートを合わせ、小さな黒い鞄を肩に掛けている。会社で見る姿より柔らかい印象だった。
「お待たせしました」
「いや、俺が早く来すぎたんだ」
「どれくらい前に?」
「十分くらい」
二十五分とは言わなかった。
あかりが時計を見る。
「本当に十分ですか」
「どうして疑うんだ」
「佐藤部長は、仕事の会議にも二十分前に来ていますから」
「十五分くらいだよ」
「では、今日は十五分前ですね」
健司は否定しなかった。
あかりは小さく笑い、向かい側へ座った。
「今日は佐藤部長と呼ばない方がいいでしょうか」
メニューを開きながら尋ねる。
「会社の外だからな」
「では、佐藤さん?」
「ああ。それで」
「私のことも、高橋主任ではなく、高橋さんでお願いします」
「最初からそう呼んでいた気がする」
「確かにそうですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
店員が注文を取りに来る。
健司はブレンドコーヒーを、あかりはカフェオレと固めのプリンを選んだ。
「プリン、好きなのか」
「はい。ここへ来ると、必ず頼みます」
「何度も来ているんだな」
「一人で本を読みたいときに。真奈と来ることもあります」
「出版社の友人だったな」
「はい。原稿の締め切りが近づくと、何日も連絡が取れなくなります」
「忙しい仕事なんだな」
「本人は、忙しくない時期もあると言っていますけど。私は見たことがありません」
注文した品が運ばれてきた。
あかりはプリンの上のカラメルを見て、うれしそうに目を細めた。
「美雪も、こういう固いプリンが好きだった」
名前が口から出たあと、健司はしまったと思った。
あかりの表情は変わらなかった。
「奥様のお名前、美雪さんとおっしゃるんですね」
「ああ。話していなかったかな」
「初めて伺いました」
「そうだったか」
健司はコーヒーへ口をつけた。
「美雪は柔らかいプリンだと、食べた気がしないと言っていた。喫茶店へ行くと、よく――」
そこまで話し、言葉を止める。
「あかりさんは、いつからプリンが好きなんですか」
呼び方を変えたことに、自分で驚いた。
あかりもスプーンを持つ手を止めた。
「今、あかりさんと」
「嫌だった?」
「嫌ではありません。ただ、急だったので」
「高橋さんに戻した方がいいかな」
「今日は、そのままで大丈夫です」
あかりはプリンを一口食べた。
「私は子どものころからです。祖父が、駅前の喫茶店へよく連れていってくれました」
「おじいさんが?」
「写真を撮るのが好きな人でした。休みの日には古いカメラを持って、商店街や港を歩いていました。私も一緒についていって、帰りにプリンを食べさせてもらったんです」
「それで写真が好きになった?」
「どうして分かったんですか」
「カメラを見る目が、少し違ったから」
「どこかで私がカメラを見ていました?」
「映画館のロビーで、古いカメラの展示をずっと見ていただろ」
あかりは驚いた顔をした。
「そんなところまで見ていたんですね」
「偶然目に入っただけだよ」
「写真は今も撮ります。祖父から譲ってもらったカメラも持っています」
「どんなものを撮るんだ」
「古い建物や、店の看板、窓です」
「窓?」
「閉まっている窓も、開いている窓も。カーテンだけ見える窓とか、鉢植えが並んでいる窓とか」
「人の家を撮ったら、怒られないか」
「住所が分かる撮り方はしません。人の顔も入れないようにします」
「撮った写真は発表している?」
「いいえ。誰にも見せず、パソコンに保存しています」
「もったいないな」
「自分で見られればいいんです。上手でもありませんから」
「今度、見てみたい」
健司が言うと、あかりは少し困った顔をした。
「人に見せるつもりで撮っていないので、恥ずかしいです」
「無理ならいい」
「いつか、見せてもいいと思えるものがあれば」
「ああ」
会話が途切れた。
健司はコーヒーを飲んだ。
「美雪も、写真を撮るのが好きだった」
まただった。
あかりがスプーンを皿へ置く。
「由美が生まれてからは、家に写真が増えて――」
「健司さん」
初めて名前で呼ばれ、健司は顔を上げた。
あかりは怒っているようには見えなかった。ただ、何かを決めた人の目をしていた。
「一つ、言ってもいいですか」
「ああ」
「今日、私と会っている間に、美雪さんのお話を何度されるつもりですか」
健司の胸が固くなった。
「そんなつもりで話しているわけじゃない」
「分かっています。私がプリンの話をしたから、同じものが好きだった美雪さんを思い出した。写真の話をしたから、美雪さんの写真を思い出した。それだけだと思います」
「なら――」
「でも、私は今、自分の話をしていました」
あかりの指が、カフェオレのカップの取っ手に触れる。
「祖父とプリンを食べたことも、写真を撮ることも、私にとって大切な話です。そのたびに美雪さんの思い出へ移られると、私の話が、過去を思い出すためのきっかけにしかなっていないように感じます」
健司は反射的に言い返しそうになった。
美雪を忘れることはできない。
あかりも理解していると言ったはずだ。
しかし、あかりは美雪の存在を消してほしいとは言っていない。
「私は、美雪さんのことを話さないでほしいわけではありません」
あかりが続けた。
「健司さんの人生に、美雪さんがいることは分かっています。これからも大切な人であることも」
「だったら、何がいけないんだ」
健司の声は、自分が思ったより強くなった。
あかりの顔がわずかにこわばる。
「受け入れると言ったから、何を聞いても平気だと思っていますか」
「そんなことは――」
「私にも感情があります」
あかりは一度言葉を切った。
「美雪さんの話を聞くたび、胸が痛くなることがあります。嫉妬しないわけではありません」
健司は何も言えなかった。
「亡くなった方に嫉妬するなんて、みっともないと思われるかもしれません。でも、感じてしまうものを、ないことにはできません」
「みっともないとは思わない」
「では、理解のある女性でいることを求めないでください」
「求めたつもりはない」
「求めていなくても、私はそうしなければならないと感じます」
あかりの声が少し震えた。
「美雪さんの話を笑顔で聞く。娘さんが一番だと言われても受け入れる。健司さんが答えを出すまで、自分の気持ちは脇へ置いて待つ。それができなければ、あなたのそばにいる資格がないように感じるんです」
「俺は待ってほしいとは言っていない」
「言われていなくても、期待してしまうことがあります」
「それは、俺にはどうすることもできない」
「そうです。私の期待は、私の責任です」
あかりは目を伏せた。
「だからこそ、健司さんにも、自分の責任を持ってほしいんです」
「自分の責任?」
「私と会うことを、過去から前へ進む練習にしないでください」
健司は息をのんだ。
「私は、健司さんが自分を取り戻すための練習相手にはなりたくありません」
「そんなつもりで誘ったんじゃない」
「では、どうして誘ったんですか」
健司は答えようとして、言葉に詰まった。
あかりと話したかったから。
映画の感想を直接聞きたかったから。
一緒にいると、心が軽くなったから。
どれも間違いではない。
けれど、それがあかりという人に関心を持ったからなのか、自分の話を理解してくれる相手を求めたからなのか、健司には区別できなかった。
「分からない」
健司は正直に答えた。
あかりの目に、傷ついた色が浮かんだ。
「そうですか」
「いや、違う。あかりさんと話したいと思ったのは本当だ」
「何を話したかったんですか」
健司はテーブルの上のコーヒーカップを見た。
「映画のことや、仕事のこと。それから……」
「美雪さんと、由美さんのこと?」
責める口調ではなかった。
そのことが、かえって痛かった。
「俺は、あかりさんのことをほとんど知らないな」
健司はつぶやいた。
「俺のことばかり聞いてもらっていた」
「あの日は、私が聞きました」
「それでも、そのあと知ろうとしなかった。あかりさんが何を好きなのか、休日に何をしているのか。今、写真のことを初めて知った」
「連絡では映画の話をしました」
「映画の感想は聞いた。でも、あかりさんがどうしてその映画を選んだのかまでは聞かなかった」
あかりは黙っている。
健司はコーヒーカップから手を離した。
「美雪の話をすれば、俺は自分のことを話した気になれるんだと思う」
「どういうことですか」
「今の自分に、何があるのか分からないんだ」
健司は窓の外へ目を向けた。
通りを歩く人々の影が、窓ガラスを横切っていく。
「夫だったころの話か、父親としての話ならできる。仕事のことも話せる。でも、それを外した自分が何を好きで、何をしたいのかと聞かれると、何も出てこない」
「映画が好きだと、おっしゃっていました」
「美雪と見た映画のことばかり思い出す」
「一人でも、最後まで見られたでしょう」
「ああ」
「それは今の健司さんが見た映画ではないんですか」
健司はあかりを見た。
「美雪さんとの思い出から始めても、今の自分が感じたことは残ると思います」
「でも俺は、その話をせずに、美雪のことばかり話した」
「そうですね」
あかりは否定しなかった。
「謝るよ」
「すぐに謝って終わらせないでください」
「どうすればいい?」
「私には分かりません」
あかりはカフェオレを一口飲んだ。
すでに冷めているようだった。
「ただ、今の健司さんが何を感じているのかを聞きたいです。美雪さんならどうしたかではなく、由美さんの父親ならどうするかでもなく」
「難しいな」
「はい。私も、自分のことをうまく話せるわけではありません」
健司は、手をつけていないプリンを見た。
「プリン、食べないのか」
「話していたら、食べるタイミングを逃しました」
「冷たいうちに食べた方がいい」
「また決めようとしています?」
「いや、これは店のプリンへの心配だ」
あかりの口元がわずかに緩んだ。
「では、食べます」
スプーンを入れると、固い生地がきれいに切れた。
あかりは一口食べ、少しだけ目を細める。
「おいしい?」
「はい」
「俺も頼めばよかったかな」
「一口いりますか」
「いいのか」
あかりは一瞬迷った。
「やっぱり、一口目を差し上げるのは少し距離が近すぎる気がします」
「もう一口食べているよ」
「そういう意味ではありません」
健司は笑った。
「自分で注文するよ」
「その方がいいと思います」
健司は店員を呼び、同じプリンを注文した。
再び沈黙が訪れたが、先ほどまでの息苦しさは少し薄れていた。
「写真の話を、もう少し聞いてもいい?」
健司は尋ねた。
「美雪とは関係なく?」
「ああ。あかりさんの写真の話を聞きたい」
「見せます」
あかりは鞄からスマートフォンを取り出した。
「人に見せるつもりはなかったんですが、何枚か入っています」
「嫌なら無理に見せなくていい」
「今日のところは、少しだけ」
画面に映ったのは、古い商店街の写真だった。
閉店した店の色あせた看板。錆びた手すり。二階の窓辺に並んだ青い植木鉢。雨上がりの路地に映った赤い傘。
「人が写っていないのに、誰かがいるみたいだな」
健司が言うと、あかりは画面から顔を上げた。
「祖父にも同じことを言われました」
「そうなのか」
「人を撮るのが苦手なら、人がいた跡を撮ればいいって教えてくれたんです」
「この窓は?」
「祖父が住んでいた家です。亡くなったあと、取り壊される前に撮りました」
木枠の窓が半分だけ開き、薄いカーテンが外へ膨らんでいる。
「寂しい写真だな」
「はい。でも、嫌いではありません」
「これを撮ったとき、どんな気持ちだった?」
あかりはしばらく画面を見つめた。
「家がなくなっても、祖父と歩いた時間までなくなるわけではないと思いました。でも、形が残らないことは、やっぱり寂しかったです」
「そうか」
健司は美雪のことを思い出した。
今度は、その名前を口にしなかった。
あかりの祖父の話を、別の誰かの思い出へ置き換えたくなかった。
「見せてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
あかりは次の写真を表示した。
手作りらしい、少し傾いた白いカップだった。
「これは?」
「私が作りました」
「陶芸もするのか」
「一度だけ体験教室へ行きました。先生には湯飲みと言われましたが、私はコーヒーカップを作ったつもりです」
「取っ手があるから、カップには見える」
「そこ以外は湯飲みですか」
「いや。少し個性的なカップだ」
「言葉を選びましたね」
健司は笑った。
「あかりさんにも、うまくできないことがあるんだな」
「また言いました」
「三回目か」
「もう数えていません」
あかりも笑った。
健司は、目の前にいる女性が、仕事のできる商品企画部の主任でも、自分の話を受け止めてくれる人でもない瞬間を初めて見た気がした。
祖父のカメラを受け継ぎ、誰にも見せない写真を撮る。プリンを食べるために喫茶店へ通い、傾いたカップを捨てられずに持っている。
「ほかには、何が好き?」
「急に面接みたいですね」
「質問の仕方が悪かった」
「嫌いなものからでもいいですか」
「ああ」
「香草が苦手です。特にパクチー。あと、炊飯器の水加減が信用できなくて、毎回二度測ります」
「目盛りを信用してないのか」
「自分の目を信用していないんです」
「写真を撮る人なのに?」
「写真は失敗しても、お米ほど困りません」
「なるほど」
「健司さんは?」
名前を呼ばれ、健司は少し緊張した。
「嫌いなもの?」
「好きなものでも、苦手なものでも。美雪さんと由美さんと仕事以外で」
すぐに答えは浮かばなかった。
健司は記憶を探した。
「子どものころは、鉄道の路線図を見るのが好きだった」
「電車ではなく、路線図?」
「ああ。行ったことのない駅の名前を見て、どんな場所か想像していた」
「今も好きですか」
「駅に路線図があると、今でも見るな」
「知らない駅で降りることは?」
「ほとんどない。目的のない外出が苦手なんだ」
「今日も、喫茶店以外の予定は決めていますか」
「書店を見て、夕方には帰る」
「きちんと決まっていますね」
「あかりさんは?」
「気になる道があれば曲がります。帰る時間も、あまり決めません」
「正反対だな」
「一緒に出かけたら、けんかになりそうです」
あかりが言ったあと、二人とも黙った。
一緒に出かける未来を、ほんの一瞬想像した。
先に視線を外したのは、あかりだった。
「プリン、来ましたよ」
店員が健司の前へ皿を置いた。
健司はスプーンを入れ、一口食べた。
「甘いな」
「プリンですから」
「もう少し苦いと思ってた」
「カラメルだけ食べたんじゃないですか」
「いや、全部一緒に」
「では、甘いものが苦手なんですね」
「由美がケーキを食べたいと言えば付き合うけど、自分ではあまり頼まない」
「それは、由美さんの話に入ります」
「ああ、そうだった」
健司は考え直した。
「甘いものは苦手。でも、このプリンは食べられる」
「好きではない?」
「好きか嫌いか、もう一口食べて決める」
「時間をかけますね」
「そういう性格らしい」
あかりは声を出して笑った。
窓の外では、陽が少しずつ傾いていた。
気づけば、二人は二時間近く話していた。
店を出る前、健司は二人分の伝票を手に取った。
「今日は俺が誘ったから、払うよ」
あかりがすぐに手を伸ばした。
「自分の分は払います」
「でも――」
「友人として会うなら、最初からどちらかが負担しない方がいいと思います」
「プリンを追加したのは俺だしな」
「それもご自分で決めたことです」
「分かった」
二人は伝票を分けてもらい、それぞれ会計を済ませた。
外へ出ると、午後の暑さが少し和らいでいた。建物の影が歩道へ長く伸びている。
「今日は、ありがとう」
健司が言った。
「途中で帰ろうかと思いました」
「ああ」
「今も、全部納得したわけではありません」
「分かってる」
「本当に?」
「分かったつもりにならないようにする」
あかりは頷いた。
「私は、美雪さんの話を二度としないでほしいわけではありません」
「ああ」
「ただ、美雪さんを尊重することと、私が何を感じても笑顔で受け入れることは、別です」
「覚えておく」
「覚えるだけではなく、今日みたいに話してください」
「努力する」
「また努力ですか」
「変えるよ」
あかりの表情が少し和らいだ。
「次に会うとしたら、私が場所を選んでもいいですか」
「また会ってくれるのか」
「今日、写真を見せたので。今度、写真展を見てから感想を聞いてみたいと思いました」
「ぜひ」
「でも、今日の話をなかったことにはしません」
「俺も、そのつもりはない」
「では、日程はあとで連絡します」
二人は駅前で別れた。
健司はあかりの後ろ姿を見送り、今度は一度だけ振り返った。
あかりも同じときに振り返り、目が合った。
互いに少し気まずそうに会釈し、それぞれ反対方向へ歩き出した。
*
健司が帰宅すると、由美はリビングで雑誌を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「六時までって言ってたのに、もう七時」
「遅くなるなら連絡しなくていいと言っただろ」
「夕飯の予定があるから、連絡して」
朝とは反対のことを言っている。
健司は笑いそうになったが、由美は真剣な顔をしていた。
「悪かった。次から連絡する」
「うん」
「夕飯は食べた?」
「まだ」
「どうして」
「お腹すいてなかったから」
テーブルには、空になったパスタの容器が置かれている。
「昼にパスタを食べたから?」
「細かいことはいいの」
由美は雑誌を閉じた。
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
「ずっと?」
「途中で、あかりさんを怒らせた」
「何したの」
「美雪の話ばかりした」
由美は驚いたあと、額へ手を当てた。
「やりそう」
「分かっていたのか」
「お父さん、緊張するとお母さんの話をするから」
「そうなのか」
「自分の話をしなくて済むじゃん」
健司は言葉を失った。
あかりにも、似たことを指摘されたばかりだった。
「由美にも、そう見えていたのか」
「お母さんの話が嫌っていうんじゃないよ。でも、お父さん自身のことを聞かれると、すぐお母さんか私の話にする」
「俺の話なんて、特にないからな」
「それが駄目なんじゃない?」
「厳しいな」
「高橋さんにも言われた?」
「ああ」
「じゃあ、二対一だね」
由美は少し得意そうに言った。
「高橋さん、怒って帰ったの?」
「途中で帰ろうと思ったらしい。でも、話を続けてくれた」
「いい人なんだ」
「怒る人は、いい人じゃないと思っている?」
「そうじゃないけど」
「怒っていることを言ってくれるのは、ありがたいこともある」
「お父さんがそう思えるなら、いいんじゃない」
由美は雑誌へ視線を戻した。
「次も会うの?」
「写真展へ行こうと言われた」
ページをめくる由美の手が止まった。
「行くんだ」
「ああ。日程はまだ決まっていない」
「そっか」
由美の返事は小さかった。
健司は隣へ座らず、少し離れた椅子に腰を下ろした。
「嫌?」
「分かんない」
「そうか」
「会うのをやめてとは言わない」
「ああ」
「でも、高橋さんの話を全部聞きたいわけでもない」
「分かった」
「けんかしたとか、どんな話をしたとか、細かいことは言わなくていい」
「今日のことは、由美が聞いたから話した」
「聞いたけど、次からは聞かないかもしれない」
「それでもいい」
由美は雑誌の端を指でつまんだ。
「お父さんが誰かと会うことに慣れるまで、時間かかると思う」
「急がなくていいよ」
「高橋さんは待てるの?」
「待たせるつもりはない」
「どういうこと?」
「由美が平気になるまで、あかりさんの時間を止めておくことはできない。あかりさんが会いたくないと思えば、離れるかもしれない」
「お父さんは、それでいいの?」
健司はすぐには答えられなかった。
「離れてほしくないと思っている」
由美が顔を上げた。
「好きなの?」
「まだ、簡単には言えない」
「また分からない?」
「ああ。でも、いなくなっても構わない人ではない」
由美は父の顔を見つめた。
目の奥に、寂しさと警戒が浮かんでいた。
「正直すぎるのも嫌だね」
「すまない」
「謝らないで」
「どうすればいいんだ」
「分かんない」
二人はしばらく黙った。
「お腹すいた」
由美が言った。
「何か作ろうか」
「今日は私が作る」
「何を?」
「卵焼き」
「夕飯に?」
「形が崩れても食べたら同じなんでしょ」
由美は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
健司も台所へ向かおうとしたが、椅子に座ったまま待つことにした。
「砂糖、どれくらい?」
由美が振り返る。
「小さじ一杯くらい」
「くらいって困る」
「味を見て決めればいい」
「生の卵を?」
「そうか。じゃあ、小さじ一杯」
「最初からそう言ってよ」
由美は卵を割った。
殻の欠片がボウルへ落ち、箸で取り除く。フライパンへ油を入れすぎ、慌ててキッチンペーパーで拭いた。
健司は口を出さずに見守った。
最初の一巻きは大きく崩れた。由美は「あっ」と声を上げたが、卵を端へ寄せ、残りを流し込んだ。
出来上がった卵焼きは、中央が少しへこんでいた。
「やっぱり、お父さんの方がうまい」
「初めてなら十分だよ」
「お母さんは?」
由美が尋ねた。
健司は一瞬考えた。
「由美の卵焼きの話をしているんだろ」
「うん」
「なら、美雪とは比べない」
由美は小さく頷いた。
「食べよう」
二人で不格好な卵焼きを半分ずつ分けた。
少し甘すぎたが、健司は何も言わなかった。
*
帰宅したあかりは、鞄を置くと、着替える前にパソコンを開いた。
健司へ見せた写真を、一枚ずつ確認する。
古い窓。閉店した店の看板。祖父の家。傾いた白いカップ。
誰かに写真を見せたのは、祖父が亡くなってから初めてだった。
健司が「人が写っていないのに、誰かがいるように見える」と言ったとき、胸が熱くなった。
祖父に言われた言葉を覚えていたからだけではない。
自分が何を見て撮ったのかを、健司が知ろうとしてくれたことがうれしかった。
同時に、美雪の名前が出るたびに感じた痛みも消えていなかった。
亡くなった人に嫉妬している。
口にするまでは、そんな感情を持つ自分を恥ずかしいと思っていた。
健司の妻は、あかりから何かを奪おうとしているわけではない。あかりの存在さえ知らずに亡くなった人だ。
それでも、健司の記憶の中にいる美雪は、いつも愛されている。
失敗した卵焼きも、好きだったプリンも、撮った写真も、美雪の思い出へつながる。
その中へ自分の居場所を作れるのか、不安になった。
美雪より理解のある女性になろうとしてはいけない。
美雪より由美に好かれる女性になろうとしてもいけない。
頭では分かっている。
しかし、健司に必要とされたいという気持ちが、自分の中にあることも否定できなかった。
スマートフォンが振動した。
健司からのメッセージだった。
〈今日は、会ってくれてありがとう。あかりさんの話を聞くつもりで、自分の過去ばかり話していました。申し訳なかったです〉
すぐに返信しようとして、あかりは手を止めた。
謝罪を受け取るだけなら簡単だった。
大丈夫です、と返せば、健司は安心するだろう。
だが、本当はまだ大丈夫ではない。
〈謝っていただいたことは受け取りました。でも、今日の話については、これからの会話の中で考えたいです〉
文章を読み直す。
冷たいと思われるかもしれない。
面倒な女性だと思われるかもしれない。
それでも、そのまま送信した。
数分後、返事が届いた。
〈分かりました。すぐに終わったことにしないようにします〉
あかりは息を吐いた。
続けて、もう一通届く。
〈写真を見せてくれて、うれしかったです。特に、お祖父様の家の窓が印象に残っています〉
あかりはパソコンの画面に映る窓の写真を見た。
半分開いた木枠の窓から、白いカーテンが外へ膨らんでいる。
〈次の写真展の日程を確認して送ります〉
返信すると、健司から短く「楽しみにしています」と届いた。
あかりはスマートフォンを机に置いた。
嫉妬も、不安も、期待もなくなってはいない。
健司の中でも、美雪への愛情や由美への責任が、簡単に整理されることはないだろう。
それでも、どちらかが都合の悪い感情を隠したまま進むよりはよい。
閉じた窓を無理にこじ開ける必要はない。
内側と外側から、そこに誰かがいることを確かめる。
今は、それだけでよかった。




