第4章 境界線のこちら側
五月の終わり、健司は由美の高校を訪れた。
昇降口で来校者用の札を受け取り、案内に従って二階へ上がる。廊下には進路説明会や大学のオープンキャンパスを知らせるポスターが並んでいた。
教室の前では、順番を待つ保護者が二人、長椅子に座っていた。
健司も空いた場所へ腰を下ろす。
窓の外は朝から曇っていた。校庭では運動部の生徒が、顧問の指示に合わせてコーンを並べている。遠くから聞こえる掛け声に、健司は由美が小学生だったころを思い出した。
運動会の前になると、美雪は場所取りのための敷物や水筒を、前夜から玄関に用意していた。健司はカメラを任され、由美の姿を追いかけた。
由美が転べば、美雪は声を上げて立ち上がった。
健司は、すぐに駆け寄ろうとする美雪の腕をつかみ、見守るように言った。
自分で立てるから。
あのころの自分は、確かにそう言っていた。
「佐藤さん、どうぞ」
教室から担任の小林が顔を出した。
健司は立ち上がり、案内された席へ座った。
由美はすでに担任の隣に座っている。家で見せる表情よりも少し硬く、背筋を伸ばしていた。
「本日はありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきまして」
「では、まず学校での様子からお話ししますね」
担任は成績表と生活記録を机に広げた。
由美の成績は、ほとんどの教科で安定している。数学と美術が特によく、遅刻や欠席もない。部活動でも、後輩の指導を任されることが増えたという。
「特に大きな問題はありません」
担任が言った。
健司は胸をなで下ろした。
「ただ、進路について少し気になっていることがあります」
「進路ですか」
担任は一枚の用紙を健司の方へ向けた。
第一志望から第三志望まで、いずれも自宅から通える大学が書かれている。二校は健司も知っていたが、第一志望として書かれた大学の学部については、由美から聞いたことがなかった。
「由美さんは、空間デザインや建築関係の勉強に興味があるそうです」
「建築?」
健司が由美を見ると、彼女は机の端を見つめたまま答えた。
「まだ、決めたわけじゃない」
「そんな話、一度も聞いていないぞ」
「今、初めて話してるから」
「佐藤さん」
担任が間に入った。
「由美さんは県外の大学の資料もよく見ています。特に東京にある大学の体験授業へ参加したいと言っていたのですが、今回の希望調査には書かれていません」
「どうして書かなかったんだ」
健司が尋ねると、由美は唇を結んだ。
「遠いから」
「距離だけで決める必要はないだろう」
「お金もかかるし」
「費用のことは、合格してから考えればいい。行きたい大学があるなら、最初から外すことはない」
由美は答えなかった。
担任は二人の顔を交互に見た。
「夏休みに体験授業があります。まだ二年生ですから、今の段階で志望校を一つに決める必要はありません。まず実際に見てから考えてはいかがでしょう」
「ぜひ行かせたいと思います」
「お父さんが決めないで」
由美が低い声で言った。
「行きたいんじゃないのか」
「行きたいけど、まだ迷ってる」
「何を迷うんだ」
「だから、いろいろ」
健司はさらに聞こうとしたが、担任がゆっくり口を開いた。
「今日は結論を出さず、ご家庭で話していただくのがよいと思います」
その言葉で、健司は黙った。
また答えを先に決めかけていた。
「分かりました」
面談が終わり、二人は校舎を出た。
外では細い雨が降り始めていた。健司は折り畳み傘を開き、由美が入れるように傾ける。
「自分の傘あるから」
由美は鞄から紺色の傘を取り出した。
二人はそれぞれの傘を差し、駅へ向かって歩き始めた。
歩道には、雨にぬれた街路樹の葉が張りついている。由美は健司の半歩前を歩き、こちらを見ようとしなかった。
「建築に興味があるなんて、知らなかった」
健司から話しかけた。
「言ってないから」
「どうして言わなかったんだ」
「反対されると思ったわけじゃないよ」
「じゃあ、何だ」
由美は足を止めた。
健司も立ち止まる。
「お父さん、一人になるじゃん」
雨粒が由美の傘を細かくたたいていた。
「県外の大学へ行ったら、家を出ることになるかもしれないから?」
「うん」
「そんなことを心配していたのか」
「心配するでしょ」
「俺は大人だぞ。一人でも生活できる」
「生活の話じゃない」
由美は傘の柄を握り直した。
「毎日、私のご飯を作って、私が帰る時間を気にして、それ以外に何もしてないじゃん。私がいなくなったら、お父さん、何するの」
「仕事もある」
「仕事しかないじゃん」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「でも、本当でしょ」
健司は返事を失った。
由美の言葉は鋭かったが、責めるというより、不安を訴えているように聞こえた。
「私が東京とか、遠い大学へ行きたいって言ったら、お父さんは絶対に行ってこいって言うと思う」
「行きたいなら、応援するよ」
「それで、一人で大丈夫なふりをする」
「ふりじゃない」
「するよ。お父さんは、いつも大丈夫って言うから」
健司はあかりの言葉を思い出した。
大丈夫と言ったら、全部引き受けようとしそうだから。
あかりだけではない。由美も同じものを感じていたのかもしれない。
「由美が進学先を決めるとき、俺の生活を考える必要はない」
「でも――」
「俺の人生は、俺が何とかする」
由美が顔を上げた。
「それ、本当に言ってる?」
「ああ」
「私がいなくなっても?」
「寂しくはなると思う」
「ほら」
「寂しいことと、由美に残ってほしいことは別だ」
健司は傘を持つ手に力を込めた。
「正直に言えば、近くの大学へ行ってくれたら安心する。毎日顔も見られる。でも、そのために由美が行きたい場所を諦めたら、俺はもっと後悔する」
「お父さんが寂しいの、私のせいになるじゃん」
「ならない」
「でも――」
「俺が寂しいと感じるなら、それは俺の問題だ。由美に解決させることじゃない」
由美は何かを言いかけ、口を閉じた。
「俺は今まで、由美が一人前になるまでは自分のことを後回しにすると、何度も言ってきた」
「うん」
「そのせいで、由美に俺の将来まで心配させた。悪かった」
「別に、お父さんが悪いわけじゃない」
「悪いかどうかを決める話じゃない。これから変える」
「何を?」
「自分の生活を由美だけに預けない」
由美の表情が揺れた。
安心したようにも、不安になったようにも見える。
「友達を作るとか?」
「会社の人と食事をしたり、昔好きだったことをやってみたり」
「昔、何が好きだったの」
「映画かな」
「初めて聞いた」
「由美が生まれる前は、美雪と映画館へよく行った」
言ってから、また美雪の名前を出したことに気づいた。
由美は少し黙った。
「お母さんがいなくなったから、映画も見なくなったの?」
「最初は時間がなかった。それから、一人で見るのが嫌になった」
「今も?」
「分からない。見てみないと」
由美は歩き出した。
健司も隣に並ぶ。
「東京の体験授業」
由美が前を向いたまま言った。
「行ってみてもいい?」
「もちろん」
「お父さんも来る?」
「保護者向けの説明があるなら行く。でも、一人で見たいなら、無理についていかない」
「一緒に来てほしい。でも、授業の間は別でいい」
「分かった」
由美の歩調が少しだけ軽くなった。
「夏休みまでに、お父さんも何か探してよ」
「何かって?」
「映画でも、ほかのことでもいいから。私の予定と関係ないもの」
「宿題みたいだな」
「お父さん、宿題にしないとやらないでしょ」
健司は苦笑した。
「努力するよ」
「努力じゃなくて、やって」
「分かった」
駅が見えてきたころ、由美が再び口を開いた。
「会社で話した女の人」
健司の足がわずかに止まった。
「高橋さんのことか」
「名前、高橋さんっていうんだ」
「話してなかったな」
「その人とは、もう話してないの?」
「仕事では話している」
「仕事以外では?」
「話していない」
「どうして?」
健司は、どこまで伝えるべきか迷った。
由美を大人同士の感情に巻き込むつもりはない。しかし、都合のよい部分だけを話せば、また由美を理由に使うことになる。
「食事に誘われた」
由美が驚いて立ち止まった。
「二人で?」
「ああ」
「行ったの?」
「断った」
由美の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
すぐにその表情は消えた。
「どうして断ったの」
「由美が一人前になるまでは、誰とも付き合うつもりがないと言った」
「私のせいにしたの?」
由美の声が硬くなった。
「そのつもりはなかった。でも、そう聞こえる言い方をした」
「私、その人と会わないでなんて言ってない」
「分かってる」
「じゃあ、どうして」
「怖かったんだと思う」
自分の口から出た言葉に、健司自身が驚いた。
「何が?」
「今の生活が変わることも、誰かを大切に思うことも」
「お母さんに悪いから?」
「それも考えた。でも、一番怖いのは、また失うことかもしれない」
由美は何も言わなかった。
雨の中を車が通り過ぎ、タイヤが水をはねた。
「その人のこと、好きなの?」
「まだ分からない」
「好きじゃないなら、怖くないんじゃない?」
「少し気になっていたから、怖くなったのかもしれない」
「ふうん」
由美は傘の内側へ顔を隠すようにうつむいた。
「会ってほしくない?」
健司は尋ねた。
「私に決めさせないで」
由美はすぐに答えた。
「そうだったな」
「でも……」
由美は歩道の端にできた水たまりを避けた。
「今すぐ家に来たり、お母さんの写真を片づけたりするのは嫌」
「そんな話にはなっていないよ」
「もし、いつかそういう話になったら?」
「家のことは、ここで暮らしている二人で話す。俺一人では決めない」
「その人が、お母さんの写真を嫌がったら?」
「そのときは、どうして嫌なのか聞く。でも、由美に我慢させてまで片づけることはしない」
「じゃあ、その人に我慢させるの?」
「どちらか一人が黙って我慢しなければ続かないなら、その関係を続けるか考える」
由美は黙ったまま、しばらく歩いた。
「私、今は嫌って思っても、別の日には平気かもしれない」
「ああ」
「平気だって言ったあとで、やっぱり嫌になるかもしれない」
「それでもいい」
「お父さん、困るでしょ」
「困るかもしれない。でも、気持ちが変わることまで禁止できない」
由美はようやく健司を見た。
「高橋さんにも、そう言える?」
健司は答えられなかった。
あかりに対して、自分は反対のことをした。
先の感情まで決めつけ、傷つけないためだと言って選択肢を奪った。
「言えていない」
「謝った方がいいんじゃない?」
「ああ」
「でも、謝ったから食事に行くっていうのも変だよ」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
「たぶん」
「そこは、分かってるって言ってよ」
二人は顔を見合わせた。
由美が先に笑い、健司も笑った。
娘に恋愛の助言を受ける日が来るとは思わなかった。
しかし、由美が自分より答えを知っているわけではない。
二人とも分からないまま、これまでとは違う道を探そうとしているだけだった。
*
翌日の午前中、健司はあかりへ社内メッセージを送った。
〈業務外のことで、直接お詫びしたいことがあります。もし差し支えなければ、昼休みに社員食堂で少しお時間をいただけないでしょうか。難しければ断ってください〉
送信してから、健司は自分の都合で再びあかりを呼び出しているのではないかと不安になった。
十分ほどして返信が届いた。
〈十二時四十分からでしたら大丈夫です。食堂でお願いします〉
待ち合わせの時間に食堂へ行くと、あかりは入口に近い席で待っていた。
周囲には何人もの社員がいる。二人で話していても、不自然に見えない場所だった。
「時間を取ってくれて、ありがとう」
「いえ」
あかりの表情は仕事中と変わらない。
健司は向かい側へ座った。
「先日のことを謝りたい」
「食事を断ったことなら、謝っていただく必要はありません」
「断ったことではなく、断り方についてだ」
あかりは黙って健司を見た。
「俺は、由美を理由にした。高橋さんを傷つけたくないという言い方もした。でも本当は、自分が今の生活を変えるのを怖がっていただけだ」
「……はい」
「高橋さんが何を感じるかまで、俺が決めようとした。あれは間違っていた。申し訳なかった」
あかりはすぐには答えなかった。
食堂の奥から、食器を片づける音が聞こえてくる。
「娘さんと、何かお話しされたんですか」
「ああ。進路のことを話した。由美は、俺を一人にするのが心配で、県外の大学を希望から外そうとしていた」
あかりの表情が曇った。
「私が言ったことが、正しかったと伝えたいわけではない」
「分かっています」
「由美にそんな心配をさせたのは、俺の言葉と生き方だ。高橋さんに指摘されて、腹が立った。自分でも気づいていたからだと思う」
健司は両手を膝の上に置いた。
「謝って、もう一度食事に誘ってもらおうとは思っていない。高橋さんが決めた距離は守る。ただ、俺のために断ったような言い方をしたことを、訂正したかった」
あかりは小さく息を吐いた。
「正直に言うと、傷つきました」
「ああ」
「腹も立ちました。私の気持ちを勝手に決められたことにも、娘さんを出せば私が何も言えなくなると思われたことにも」
「本当に、すまなかった」
「でも、私も言いすぎました」
健司が顔を上げた。
「私は娘さんに会ったこともないのに、娘さんが望んでいることかと問い詰めました。佐藤部長に断られたくなくて、娘さんの存在を反論の材料にしたんです」
「そんなつもりでは――」
「ありました」
あかりは自分の言葉を否定しなかった。
「自分の気持ちを伝えることと、相手の答えを受け入れずに説得することは違います。断られた時点で、いったん引くべきでした」
「俺の答え方にも問題があった」
「どちらか一人だけが悪かったことにしたくありません」
健司は頷いた。
「分かった」
「今すぐ、以前と同じように話せるかは分かりません」
「それでいい」
「仕事では、これまでどおりにします」
「ああ」
「個人的なことは、少し時間をください」
「もちろん」
健司は立ち上がった。
「時間を取ってくれて、ありがとう」
あかりも頭を下げた。
会話はそこで終わった。
仲直りをしたわけではない。
食事の誘いがなかったことになったわけでも、互いの気持ちへ答えが出たわけでもない。
それでも健司は、あかりに対して初めて、自分の責任だけを引き受けて話せた気がした。
*
六月に入ると、共同プロジェクトは最終段階を迎えた。
健司とあかりが顔を合わせる回数も減った。
会議で意見を交わし、廊下ですれ違えば挨拶をする。あかりが必要以上に健司を避けることはなかったが、私的な話をすることもなかった。
健司は、その距離を急いで変えようとしなかった。
由美とは、夏休みの体験授業について話し合った。東京までの交通費や日程を調べ、保護者向け説明会にも申し込んだ。
健司は自分の予定も一つ入れた。
市内の小さな映画館で開かれる、往年の映画監督の特集上映だった。
一人で映画館へ行くのは、美雪が亡くなってから初めてになる。
「本当に行くの?」
予約画面を見た由美が尋ねた。
「ああ」
「途中で帰ってこない?」
「映画がつまらなければ帰るかもしれない」
「私のことが気になって、じゃなくて?」
「その日は部活だろ」
「夕方には帰るよ」
「鍵は持ってるな?」
由美が呆れた顔をした。
「そこから直さないと駄目だね」
「確認しただけだ」
「はいはい」
上映当日、健司は開演の二十分前に映画館へ着いた。
古い商店街の一角にある、百席ほどの小さな劇場だった。ロビーには過去の作品のポスターが並び、白髪の男性や若い学生が開場を待っている。
一人で来ている客も多かった。
健司は後方の端の席を選んだ。
隣が空いていることに安堵しながら、以前ならそこに美雪が座っていたと思う。
胸が痛まないわけではなかった。
それでも席を立とうとは思わなかった。
照明が落ち、スクリーンが明るくなる。
二時間の上映中、健司はスマートフォンを一度も確認しなかった。
映画が終わり、外へ出ると、夕方の空には薄い雲が広がっていた。
由美へ連絡しようとして、先に届いていたメッセージに気づく。
〈部活終わった。友達と駅前で食べて帰る〉
送信時刻は一時間前だった。
健司はすぐに電話をかけそうになったが、思い直した。
〈了解。俺も映画が終わった。夕飯は別々で大丈夫〉
由美から、驚いた顔の絵文字が返ってきた。
〈最後まで見たんだ〉
〈見たよ〉
〈おめでとう〉
〈そこまで大げさなことじゃない〉
〈お父さんには大げさなくらいでいい〉
健司は画面を見ながら笑った。
「佐藤部長?」
名前を呼ばれ、振り返る。
映画館の入口に、あかりが立っていた。
白いシャツに薄い青色のカーディガンを羽織り、パンフレットを手にしている。
「高橋さん」
「同じ回だったんですね」
「この監督、好きなのか」
「大学時代に何本か見ました。今回の作品は初めてです」
「俺もだ」
二人は少し離れた場所で向かい合った。
会社の外で会うと、どう振る舞えばよいのか分からなかった。
「お一人ですか」
あかりが尋ねた。
「ああ。娘に、自分の予定を作れと言われてね」
「それで映画を?」
「昔、よく見ていたから」
「最後まで見られました?」
「由美にも同じことを聞かれたよ」
あかりが笑った。
その笑顔を見たのは、しばらくぶりだった。
「高橋さんも一人?」
「はい。真奈という友人を誘ったんですが、締め切り前だから無理だと断られました」
「出版社に勤めている友人?」
言ってから、健司は彼女が懇親会の夜に話した名前ではないことに気づいた。あかりは喫茶店での相談について、健司には話していない。
あかりが驚いた顔をした。
「どうして分かったんですか」
「前に、出版社の友人がいると会議で話していた気がする」
「よく覚えていますね」
「人の話を覚えていることくらいはあるよ」
「失礼しました」
二人は同時に笑った。
商店街を行き交う人が、二人の間を通り過ぎる。
「映画、どうでしたか」
あかりが尋ねた。
「途中までは、主人公が過去に戻る話だと思っていた。でも違った」
「戻りたい場所が、もう同じ形では残っていないと受け入れる話でしたね」
「ああ。最後の駅の場面がよかった」
「私もです」
映画について話していると、会社での役職や、以前の食事の誘いを意識せずに済んだ。
あかりも同じように感じているのかは分からない。
健司は勝手に判断しないよう、言葉を選んだ。
「高橋さん」
「はい」
「前に話したとおり、俺は今すぐ誰かと付き合う準備ができていない」
あかりの笑顔が消えた。
「はい」
「でも、今日こうして話せたことはうれしい」
健司は逃げずに続けた。
「友人として話したいと思っている。ただ、それが高橋さんにとってつらいなら、無理に求めるつもりはない」
あかりはしばらく黙っていた。
「私には、まだ気持ちが残っています」
「ああ」
「だから、完全に何も期待せず、友人としてだけ話せるとは言い切れません」
「正直に言ってくれて、ありがとう」
「それでも、話すことまでやめたいとは思っていません」
あかりは手にしたパンフレットの端を押さえた。
「私も、佐藤部長と映画の話をしたいです。ただし、待っていればいつか選んでもらえる、という立場にはなりたくありません」
「そんなふうに待ってほしいとは言わない」
「もし私がつらくなったら、距離を置きます」
「分かった」
「佐藤部長も、曖昧なまま私を引き止めないでください」
「約束する」
あかりは頷いた。
「上映情報をまとめたサイトがあるんです。今日の監督の別作品も載っています」
「教えてもらえる?」
「会社のメッセージに送るのは、やめた方がいいと思います」
「ああ。仕事の連絡先だからな」
「もし抵抗がなければ、個人の連絡先を交換しますか」
あかりの声には、わずかな緊張があった。
健司も自分の胸が速く打っていることに気づいた。
「お願いします」
二人はスマートフォンを取り出した。
連絡先を交換するだけの短い操作だった。
画面に「高橋あかり」という名前が表示される。
「確認のため、今送りますね」
あかりから映画情報のリンクが届いた。
健司は受信を確認した。
「届いた」
「よかったです」
「今日は、これから?」
「本屋へ寄って帰ります」
「俺も少し商店街を見てから帰るよ」
どちらからも、一緒に行こうとは言わなかった。
「では、また会社で」
「ああ。また」
二人は商店街の途中で別れた。
健司は振り返らなかった。
あかりの足音が人混みに紛れるまで歩き、角を曲がったところでスマートフォンを開いた。
届いたリンクの下に、短い文章が追加されていた。
〈今日、映画の感想を話せてよかったです〉
健司は立ち止まらずに返信した。
〈私もです。教えてくれた作品も見てみます〉
送ってから、「私」と書いたことに気づいた。会社で使う文章と同じだった。
一度消して書き直すことはできない。
数分後、あかりから返事が来た。
〈個人の連絡なので、「俺」で大丈夫です〉
健司は思わず笑った。
〈慣れるまで時間がかかりそうです〉
〈急がなくて大丈夫です〉
その言葉のあとに、あかりは何も付け加えなかった。
*
それから二人は、数日に一度、個人のスマートフォンで連絡を交わすようになった。
最初は映画の話だけだった。
健司が紹介された作品を見れば、感想を送る。あかりは自分と違う受け取り方をした箇所を伝え、別の作品を一つ紹介する。
すぐに返事が来る日もあれば、翌日になることもあった。
健司は返信を催促しなかった。あかりも、連絡が途切れた理由を尋ねなかった。
やがて会話は、本や音楽、食べ物の話へ少しずつ広がった。
〈駅前に、新しいパン屋ができたそうです〉
〈会社の人が、昼前には売り切れると言っていました〉
〈では、朝から並ぶしかありませんね〉
〈高橋さんは並べる人ですか〉
〈食べ物によります〉
〈正直ですね〉
特別な内容ではない。
それでも健司は、仕事を終えてスマートフォンに通知があると、胸が軽くなるのを感じた。
ある夜、リビングのソファで返信を書いていると、由美が隣に腰を下ろした。
「高橋さん?」
健司は画面を伏せなかった。
「ああ」
「連絡取ってるんだ」
「映画館で偶然会った。それから、映画の情報を送ってもらっている」
「食事は断ったのに?」
「そのことは謝った」
「もう一回、誘われた?」
「誘われてない」
「お父さんから誘った?」
「それもない」
由美はテレビのリモコンを手に取り、画面をつけた。音量は小さいままだった。
「友達ってこと?」
「今は、そういうことになると思う」
「今は?」
「先のことは分からない」
由美の指が、リモコンの上で止まった。
「もし付き合うことになったら、教えて」
「ああ」
「決まってからじゃなくて、その前に」
「それは難しいな」
「どうして」
「いつから付き合っていることになるのか、はっきりしないかもしれない」
「じゃあ、家に呼ぶ前」
「それなら約束できる。家へ呼ぶときは、必ず由美に相談する」
「絶対に?」
「絶対に」
由美はテレビへ視線を戻した。
「高橋さんって、どんな人?」
健司はすぐに答えなかった。
理解のある人。優しい人。美雪の話を聞いてくれた人。
どれも間違いではないが、それだけでは、あかりという人間を説明したことにならない。
「思ったことを、きちんと言う人だよ」
「お父さんに怒ったりする?」
「怒らせたことはある」
「お父さんが?」
「ああ」
「何したの」
「相手のためだと言って、勝手に気持ちを決めた」
「また?」
「また、とは何だ」
「私にもやってたじゃん」
健司は言い返せなかった。
「高橋さん、許してくれたの?」
「許したとは言われてない。俺の謝罪は聞いてくれた」
「じゃあ、まだ怒ってるかもしれない?」
「そうかもしれない」
「怖くない?」
「少し怖い。でも、怒っているなら言ってもらった方がいい」
由美は父の顔を見た。
「前と違うね」
「そうか?」
「前だったら、怒らせないように何でもやって、それでも怒ったら自分のせいだって勝手に落ち込んでたと思う」
「よく見てるな」
「ずっと一緒にいるから」
由美は少し笑った。
そのあと、表情を曇らせた。
「私、高橋さんと会うの、今はまだ嫌かも」
「分かった」
「嫌いって意味じゃないよ。知らないから」
「ああ」
「でも、お父さんが連絡するのをやめてほしいわけでもない」
「うん」
「矛盾してる?」
「していていいよ」
「お父さん、困らない?」
「少しは困るかもしれない」
「やっぱり」
「困ることと、由美の気持ちを否定することは別だ」
由美はしばらく黙っていた。
「高橋さんも、困るかな」
「そのときは、高橋さんがどう思うか聞く」
「お父さんが代わりに決めない?」
「決めないようにする」
「言い切らないんだ」
「また間違えるかもしれないからな」
「そっか」
由美はテレビの音量を少し上げた。
健司はスマートフォンへ目を戻した。
あかりへ、由美との会話を詳しく伝えるつもりはなかった。娘が会いたくないと言っていることを、そのまま送るのも違う。
由美の感情は、健司が許可や拒絶の材料として使うものではない。
いつか、あかりを家へ招きたいと思う日が来たら、そのとき三人がそれぞれ何を感じているかを確かめればよい。
今は、同じ映画を見て感想を交わすだけで十分だった。
*
あかりも、健司からの連絡を待っている自分に気づいていた。
返信が数時間ないだけで、迷惑だったのではないかと不安になる。次に何を送ればよいか考えすぎ、入力した文章を何度も消す。
友人として話すと決めても、気持ちまで都合よく切り替えられるわけではなかった。
ある日、健司から紹介した映画の感想が届いた。
〈主人公が最後に何も言わず帰る場面は、逃げたようにも見えました。ただ、無理に答えを出さなかったとも思います〉
あかりはすぐに返信を書いた。
〈私も、答えを出さないことが必要な場合はあると思います。待つことも選択ですから〉
送信ボタンを押す直前に、手が止まった。
待つことも選択。
その言葉を送れば、自分が健司を待っていると伝えることになるかもしれない。
あかりは文章を消した。
〈私は、残された側がどう受け取ったのか気になりました。何も言わないことが、相手への優しさになるとは限らないと思います〉
書き直して送信する。
しばらくして、健司から返事が届いた。
〈その通りですね。何も言わない方が相手のためだと、本人だけが思っている場合もあります〉
あかりは画面を見つめた。
以前の健司なら、書かなかった言葉かもしれない。
自分の影響で変わったのだと思いたくなった。
すぐに、その考えを打ち消す。
健司が変わろうとしているのは、健司自身が必要だと思ったからだ。由美との関係や仕事を通して、自分で選んでいる。
あかりの役目は、彼を救うことではない。
あかりは窓を開けた。
六月の夜風がカーテンを揺らす。
机の上には、読みかけの本と仕事の資料が積まれている。明日は木下と、新しいパッケージ案を確認する予定だった。
健司から連絡が来なくても、自分の一日は続いていく。
そのことを確かめてから、あかりはスマートフォンを机へ置いた。
数分後、画面が再び明るくなった。
〈今度は、もう少し明るい映画を探します〉
あかりは笑った。
〈お願いします。次も重い作品だったら、途中で見るのをやめます〉
〈最後まで見るよう、娘にも言われています〉
〈映画は義務ではありません〉
〈高橋さんにも怒られました〉
〈怒ってはいません〉
〈本当ですか〉
あかりは少し考えた。
〈今は本当に怒っていません〉
送信すると、健司から安堵した顔の絵文字が届いた。
似合わない絵文字だった。
あかりは声を出して笑った。
答えはまだ、どこにも置かれていない。
だからといって、誰かが一方的に待たされているわけでもなかった。
二人の間に引かれた境界を互いに確かめながら、話したいときに言葉を渡す。
今は、その距離で十分だった。




