第3章 選ばなかった席
月曜日の朝、健司はいつもより早く会社に着いた。
週末の間に届いたメールを確認し、会議室の予約を取り、営業企画部の予定表を更新する。普段と変わらない作業を続けながら、意識の一部は商品企画部のあるフロアへ向いていた。
金曜日の夜、あかりと交わした会話が頭から離れなかった。
美雪のことを、あれほど長く話したのは久しぶりだった。
写真の中の美雪ではない。病気で亡くなった妻という説明でもない。鼻歌を歌いながら料理をし、弁当の彩りにこだわり、冷蔵庫に妙な絵を描いた紙を貼る女性として話せた。
あかりは、気の毒そうな顔をしなかった。
励まそうともしなかった。
話し終えるまで待ち、古いメモを残していることを変だとは言わなかった。
そのことが、健司には思いのほかうれしかった。
同時に、うれしいと感じた自分を警戒していた。
午前九時を過ぎると、社員たちが次々に出社してきた。
「おはようございます」
渡辺が席へ着き、鞄からノートパソコンを取り出す。
「おはよう。確認表はできたか」
「はい。午前中に部内へ回します」
「俺に先に見せなくていいのか」
「最初にチームの二人へ見てもらいます。そのあと部長に確認をお願いします」
渡辺は少し身構えながら答えた。
以前の健司なら、順序が逆だと言っていたかもしれない。完成前に自分が確認した方が、修正の手間を減らせると考えただろう。
「分かった。その方法でやってくれ」
「はい」
渡辺の表情が明るくなった。
健司は自席へ戻り、次のメールを開いた。
十時から、先週の資料修正を受けた合同会議がある。出席者名簿の中には、高橋あかりの名前もあった。
十時五分前、健司は資料を持って会議室へ向かった。
すでに数人が席に着いている。あかりは窓側に座り、隣の社員と資料の確認をしていた。
健司が入ると、あかりは顔を上げた。
「おはようございます、佐藤部長」
「おはよう」
金曜日の会話をうかがわせるものは、彼女の声にも表情にもなかった。
健司はわずかに安堵し、同じくらい物足りなさを感じた。
その物足りなさが何を意味するのか、考えないことにした。
会議は予定どおり進んだ。
渡辺が作成した確認表を使い、両部署の集計条件を一つずつ照合する。あかりは必要な箇所だけ発言し、渡辺の説明に不足があれば質問した。
「この期間設定にした理由を教えてください」
「昨年度と比較できるように、同じ営業日数で切っています」
「分かりました。その説明を表の下に一行入れてもらえますか。役員資料だけを見る方にも伝わると思います」
「はい」
あかりは自分で答えを出さず、渡辺に説明させた。
会議の終盤、商品企画部の課長が健司に尋ねた。
「佐藤部長、この確認表を正式な運用にしてよろしいですか」
健司は渡辺を見た。
「作成者から説明してもらおう。渡辺、運用上の注意点はあるか」
突然話を振られ、渡辺は目を見開いた。それでも資料を開き、確認の担当者と期限について説明を始めた。
声は途中から安定していった。
健司が向かい側を見ると、あかりと目が合った。
彼女は何も言わず、わずかに頷いた。
会議が終わり、社員たちが資料を持って退室していく。
健司がパソコンを鞄へ入れていると、あかりが近づいてきた。
「渡辺さん、しっかり説明できていましたね」
「ああ。俺が思っていたより、ずっと」
「そう言うと、渡辺さんに怒られますよ」
「本人には言わない」
あかりが笑った。
金曜日の夜と同じ笑顔だった。
健司の肩から、知らずに入っていた力が抜けた。
「村上さんから、朝一番に謝られました」
「あいつ、ちゃんと来たのか」
「はい。顔を見るなり、深く頭を下げられました。二日酔いでつらそうでしたけど」
「俺にも連絡が来たよ。もう酒は控えると書いてあった」
「守れるでしょうか」
「無理だろうな」
二人で笑ったところへ、商品企画部の社員があかりを呼びに来た。
「高橋さん、次の打ち合わせ始まるよ」
「今行きます」
あかりは健司へ向き直った。
「では、また」
「ああ」
仕事上の短い会話だった。
それだけでよいはずなのに、健司は彼女が出ていったドアをしばらく見つめていた。
*
懇親会から二週間が過ぎた。
商品企画部との共同作業は続いていたが、あかりと二人きりになる機会はなかった。
会議で顔を合わせれば挨拶をする。資料について意見を求められれば答える。社内メッセージも、業務連絡だけだった。
あかりから私的な言葉が送られてくることはない。
健司も送らなかった。
その距離を保っていることに安心しながら、あかりからの通知が表示されると、仕事の内容しか書かれていないことを残念に思う自分がいた。
金曜日の午後、健司は社員食堂で遅い昼食を取っていた。
午後一時半を過ぎ、席は半分以上空いている。日替わり定食の販売は終わっていたため、きつねうどんを注文した。
窓際の席へ座り、割り箸を割ったところで、トレーを持ったあかりが食堂へ入ってきた。
彼女は健司に気づいたが、すぐには近づかなかった。
空いている席を見回したあと、健司の正面から一つずれたテーブルへ向かおうとする。
「高橋さん」
健司は呼び止めた。
「よければ、ここへ」
「よろしいんですか」
「ああ。一人で食べても味気ないから」
言ったあと、自分から誰かを食事の席へ誘ったことに気づいた。
あかりは少し驚いた様子だったが、「失礼します」と頭を下げ、向かい側へ座った。
彼女のトレーには、小さなサラダとパン、コーンスープが載っていた。
「それだけで足りるのか」
「今日は、あまり食欲がなくて」
「具合が悪い?」
「いえ。午前中の会議で、少し失敗しました」
あかりはパンの袋を開けながら答えた。
「失敗?」
「新商品のパッケージ案について、後輩の意見を強い言葉で否定してしまって」
「高橋さんが?」
「私だって、そういうことはあります」
「前にも同じことを言われたな」
「私はどれだけ完璧に見えていたんでしょう」
あかりは困ったように笑った。
「どういう意見だったんだ」
「若い世代へ向けて、表記を英語中心にした方がいいという案です。私は、高齢のお客様が読みにくくなるから難しいと言いました」
「考えとしては間違っていないんじゃないか」
「内容ではなく、言い方です。『それでは既存のお客様を切り捨てることになる』と言ってしまいました」
あかりはスープのカップに目を落とした。
「切り捨てるつもりなんて、その人にはなかったはずです。別の顧客を増やす方法を考えただけなのに」
「謝ったのか」
「会議のあとで。言い方は悪かったと伝えました」
「相手は何て?」
「分かりました、と」
「それなら――」
「本当に納得したか分かりません。上司に謝られたら、分かりましたと答えるしかないこともありますから」
健司はうどんをすする手を止めた。
自分も、同じことを何度もしてきた。
謝ったから解決したと思い、相手がどう受け取ったかまでは確かめなかった。
「もう一度話してみるしかないんじゃないか」
「また呼び止めたら、かえって重くなりませんか」
「仕事の話なら、意見を聞く理由はある。今度は高橋さんが答えるんじゃなく、相手の話を聞けばいい」
あかりは少し考えた。
「佐藤部長に、話を聞くことについて助言されるとは思いませんでした」
「どういう意味だ」
「いい意味です」
「本当か?」
「半分くらいは」
健司は苦笑した。
あかりの表情も和らいだ。
「佐藤部長、少し変わりましたね」
「二週間で?」
「以前なら、本人が納得していようがいまいが、正しい方法を示せば終わりだと思っていた気がします」
「そこまでひどかったかな」
「言いすぎました」
「否定できないのが困る」
うどんは少し伸びていた。
それでも、一人で急いで食べる昼食よりおいしく感じられた。
「娘さんとは、その後いかがですか」
あかりが尋ねた。
「少しずつだよ。分からないことが増えた」
「よくなっているんですか、それ」
「分かっているつもりだったと気づいたから、前よりはましかもしれない」
「娘さんに、話を聞いたんですね」
「ああ。妻のことを覚えているか、聞いてみた」
数日前の夜、健司は由美に尋ねた。
美雪の声を覚えているか。
由美は長い間黙ったあと、「あまり覚えてない」と答えた。
その言葉を口にするとき、由美の目には涙がたまっていた。
健司は反射的に「仕方ない」と慰めようとした。しかし、その前に由美が言った。
――お父さんが話してくれるお母さんと、私が覚えてるお母さんが、違う人みたいに思えるときがある。
健司の記憶の中で、美雪はいつも明るく笑っていた。
由美が覚えているのは、病室のベッドで眠っている母親だった。点滴の管。消毒液の匂い。見舞いに行くたび、美雪が少しずつ細くなっていったこと。
――だから、明るいお母さんの話をされると、私の覚え方が間違ってる気がする。
由美はそう言った。
「そんなふうに感じていたなんて、考えたこともなかった」
健司が話し終えると、あかりはスープのカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「娘さんは、自分の記憶を話せたんですね」
「ああ」
「佐藤部長が、否定せずに聞いたからだと思います」
「何も言えなかっただけだよ」
「何か言わなければいけないわけではないでしょう」
「父親として、言葉を返すべきだった気がする」
「正しい答えを返されたかったのではなく、知ってほしかったんじゃないですか」
健司は由美の表情を思い出した。
話し終えたあと、由美は泣いていた。それでも、どこかほっとしたようにも見えた。
「高橋さんと話すと、いつも俺の見ていなかったところを指摘されるな」
「あまり、うれしくないですよね」
「いや」
健司は首を振った。
「助かっている」
あかりは何も答えなかった。
頬がわずかに赤くなったように見えたが、窓から差し込む陽のせいかもしれなかった。
昼休みの終了を知らせる音が、食堂に流れた。
「あ、もうこんな時間」
あかりが腕時計を確かめた。
「俺が引き止めたからだな」
「私が話し込んだんです」
二人はトレーを持って立ち上がった。
返却口へ向かう途中、あかりが言った。
「後輩と、もう一度話してみます」
「ああ」
「今度は、聞く方に回ります」
「俺もそうするよ」
「娘さんの話ですか」
「仕事でも、家でも」
あかりは頷いた。
食堂を出ると、二人はそれぞれ別のエレベーターへ向かった。
*
同じ日の夕方、あかりは後輩の木下を小さな打ち合わせスペースへ呼んだ。
「午前中のことなんだけど、もう少し聞かせてもらってもいい?」
木下の肩がわずかにこわばった。
「先ほどお伝えしたとおり、英語中心の案は取り下げます」
「取り下げてほしいと言いたいわけじゃないの」
あかりは椅子へ座り、木下にも座るよう促した。
「私の言い方が悪かった。既存のお客様を切り捨てるつもりだと決めつけたこと、本当に申し訳なかったと思ってる」
「いえ」
「謝罪を受け入れてほしくて呼んだんじゃない。どういう狙いで出した案なのか、改めて聞きたいの」
木下はすぐには答えなかった。
あかりは言葉を足さずに待った。
「若い人向けの商品だから、写真を撮ったときに見栄えがするものがいいと思いました」
やがて木下が話し始めた。
「英語にしたかったわけじゃなくて、文字数を減らして、商品の色が見えるようにしたかったんです」
「そうだったのね」
「でも、高齢のお客様が読みづらいという高橋さんの意見も分かります」
「文字数を減らしながら、日本語でも読める方法を考えられないかな」
「表は日本語で、側面に英語を入れるとか」
「案を作ってみてもらえる?」
木下は初めて顔を上げた。
「取り下げなくていいんですか」
「最初の案のままでは難しいと思う。でも、狙いまで捨てる必要はないから」
「分かりました」
今度の返事は、午前中とは違って聞こえた。
木下が出ていったあと、あかりは椅子の背にもたれた。
息を吐くと、全身から力が抜けた。
佐藤部長に話してみてよかった。
そう思った直後、あかりは自分の気持ちを警戒した。
困ったときに健司へ話せば、答えをもらえる。その安心感に慣れてはいけない。
かつてのあかりは、婚約者に判断を委ねることが多かった。
食事をする店も、休日の過ごし方も、新居の場所も、相手が決めた方が早いと思っていた。自分は合わせることができるから、それでよいと考えていた。
だが、相手に選ばせ続けた責任まで、最後には相手だけへ負わせてしまった。
同じことを繰り返したくなかった。
健司に惹かれている。
それを認めるのに、もう言い訳はできなかった。
管理職として信頼しているだけではない。
美雪のことを話しているときの表情を、何度も思い出した。社員食堂で自分を見つけ、ここへ座ればよいと手を上げた姿が、うれしかった。
けれど、その気持ちを相手に伝えるかどうかは別の問題だった。
十三歳の年齢差がある。健司には亡き妻と高校生の娘がいる。直属ではないとはいえ、社内では健司の方が上の役職だ。
近づけば、自分だけでなく彼の立場にも影響する。
誰にも相談せずに決めることはできなかった。
退勤後、あかりは大学時代からの友人、真奈と駅近くの喫茶店で会った。
真奈は小さな出版社に勤めている。あかりの婚約が解消されたときも、理由を決めつけず、話せるようになるまで待ってくれた友人だった。
「会社の人を好きになったかもしれない」
注文した紅茶が運ばれる前に、あかりは切り出した。
真奈は水を飲み、グラスを置いた。
「同じ部署?」
「別の部署。営業企画部の部長」
「部長」
「直属の上司ではないし、人事評価にも関係しない。でも、役職はかなり上」
「年齢は?」
「四十五歳」
「あかりは三十二だから、十三歳上か」
「計算しなくていい」
「大事なところでしょ」
真奈はテーブルに肘をつかず、あかりの顔をじっと見た。
「結婚してる?」
「奥さんは十年前に亡くなってる。高校二年生の娘さんがいる」
「なかなか難しそうな人を好きになったね」
「まだ、好きだと決めたわけじゃない」
「その言い方をしてる時点で、かなり気になってるでしょ」
あかりは返事をしなかった。
「どこが好きなの?」
「人の話を聞くところ。自分が間違っていたら、相手が年下でも認めるところ。誰かの成果を、自分のものにしないところ」
「ずいぶん具体的だね」
「仕事で何度か見てきたから」
「その人、寂しそう?」
真奈の質問に、あかりは眉を寄せた。
「どうして?」
「あかりは、困っている人や一人で頑張っている人を見ると、放っておけないから」
「同情しているわけじゃない」
「本当に?」
「奥さんを亡くしたことを知る前から、気になってた」
「ならいいけど」
真奈は運ばれてきたコーヒーへ砂糖を入れた。
「あかりが、その人の寂しさを埋める役になろうとしてるなら、やめた方がいいと思っただけ」
「そんなつもりはない」
「相手が求めてきたら?」
あかりは答えに詰まった。
「亡くなった奥さんを忘れられないから理解してほしい。娘を一番にするから我慢してほしい。そう言われても、全部受け入れる?」
「受け入れない」
「言える?」
「言う」
「本人を前にしても?」
あかりは紅茶へ目を落とした。
自信を持って肯定することはできなかった。
「分からない。でも、言えない関係なら始めたくない」
「それなら、一度誘ってみれば?」
「簡単に言わないで」
「誘わなければ何も分からないじゃない。断られたら、仕事仲間に戻ればいい」
「そんなに簡単に戻れないかもしれない」
「それも含めて、自分で決めるしかないよ」
真奈の言葉は厳しかった。
しかし、あかりは傷つかなかった。
相手の事情をすべて理解してからでなければ、自分の気持ちを伝えてはいけないわけではない。
分からないからこそ、一度話してみる。
そのうえで違うと思えば、引き返せばよい。
「食事に誘ってみる」
あかりが言うと、真奈は頷いた。
「一度だけね」
「一度だけ」
「断られたら追いかけない」
「分かってる」
「娘さんを説得しようとしない」
「しない」
「亡くなった奥さんと張り合わない」
「それもしない」
「それから、自分を理解のある女に見せようとしない」
あかりは紅茶を一口飲んだ。
「それが一番難しいかもしれない」
「難しいと思えているなら、前よりは大丈夫」
*
翌週の水曜日、共同プロジェクトの中間報告が終わった。
会議室から社員が出ていく中、あかりは資料を片づけながら、健司の様子をうかがっていた。
午前中から何度も機会を探していたが、二人になる時間はなかった。
ここで声をかけなければ、また先延ばしにする。
「佐藤部長」
あかりは、パソコンを閉じようとしている健司を呼び止めた。
「少し、お時間よろしいですか」
「仕事の話?」
「仕事ではありません」
健司の手が止まった。
会議室には、まだ二人の社員が残っている。あかりは人目を避けるつもりはなかった。秘密にしなければならないことを始めたいわけでもない。
「ここで大丈夫です」
健司はゆっくり頷いた。
「ああ」
あかりは手にした資料の角を指で押さえた。
「今度、仕事とは関係なく、二人でお食事をしませんか」
健司の表情が動かなくなった。
「この前の懇親会でお話しできたことが、私はうれしかったです。社員食堂でお話しした時間も」
「高橋さん」
「最後まで言わせてください」
あかりは声の震えを抑えた。
「直属ではありませんが、佐藤部長が管理職で、私より上の立場であることは分かっています。断りづらい誘い方をするつもりもありません。迷惑なら、はっきり断ってください。今後、仕事へ持ち込むこともしません」
健司は椅子から立ち上がった。
机を挟み、二人は向かい合った。
「誘ってくれて、ありがとう」
「はい」
「でも、行けない」
予想していた答えだった。
それでも、実際に言葉として聞くと胸が痛んだ。
「理由を聞いてもいいですか」
「娘がいるから」
あかりは唇を結んだ。
「由美が一人前になるまでは、誰とも付き合わないと決めている」
「私は、今すぐお付き合いをしてくださいと言ったわけではありません」
「二人で食事へ行けば、誤解させることになる」
「私が何を期待するかは、私が決めます」
思ったより強い言葉が出た。
健司が目を見開く。
あかりは一度息を吸った。
「すみません。でも、娘さんを理由に断られるのは、納得できません」
「娘を理由になんか――」
「しています」
健司の顔が険しくなった。
あかりは怖かった。
それでも、ここで「分かりました」と笑えば、以前の自分に戻ってしまう。
「私と食事をしたくないなら、そう言ってください。社内の立場を考えて避けたいなら、それでも構いません。でも、娘さんがいるからという答えでは、娘さんがあなたの人生を止めていることになります」
「由美に責任を負わせるつもりはない」
「つもりがなくても、そう聞こえます」
「高橋さんに、うちの何が分かるんだ」
健司の声が低くなった。
言葉を受けた瞬間、あかりの胸に怒りが湧いた。
「分かりません」
あかりは答えた。
「分からないから、あなたが話したことだけを聞いてきました。分かったふりをしたつもりもありません」
健司は口を閉ざした。
「私は、奥様の代わりになるつもりはありません。娘さんの母親になりたいとも言っていません。ただ、佐藤部長という一人の人と、仕事の外で話してみたいと思いました」
「俺は、ただの一人の男にはなれない」
「そんなことは分かっています」
「分かっていない」
健司は机の上の資料へ目を落とした。
「妻が亡くなってから、由美と二人で暮らしてきた。あの子の生活を変えるようなことはしたくない。俺が誰かと関われば、由美にも影響する」
「食事を一度しただけで、娘さんの生活に入るつもりはありません」
「最初はそうでも、その先は分からない」
「先のことが分からないから、何も始めないんですか」
「そうだ」
健司の返事には、迷いがなかった。
「今の生活を変えるつもりはない」
あかりは胸の奥が冷えていくのを感じた。
娘のためという言葉だけではなかった。
健司自身が、変えないことを選んでいる。
「分かりました」
あかりは資料を抱え直した。
「もう、お誘いしません」
「高橋さんを傷つけたいわけじゃない」
「傷つけないために断ったと言うつもりですか」
「中途半端に期待させるよりはいい」
あかりは健司を見た。
「私の気持ちまで、先に決めないでください」
健司は何も言えなかった。
「断ることは、佐藤部長の選択です。私は受け入れます。でも、それを私のためにしたことにはしないでください」
「ああ」
「仕事では、今までどおりにします」
「すまない」
「謝らないでください。私が自分で誘って、自分で断られただけです」
声は最後まで崩さずに言えた。
あかりは頭を下げ、会議室を出た。
ドアが閉まった途端、足が震え始めた。
すぐにエレベーターへ向かう気にはなれず、廊下の先にある女性用の化粧室へ入った。
個室へ入り、鍵をかける。
便座の蓋を下ろして座ったところで、涙が一粒落ちた。
理解できないわけではなかった。
健司が娘を大切にしていることも、亡き妻との記憶を守ろうとしていることも分かる。
それでも、腹が立った。
あかりの気持ちを、傷つけないためという言葉で片づけられたことが悔しかった。未来に何が起こるかを一人で予測し、始める前から終わりを決められたことも。
食事に誘っただけだった。
一度話し、違うと思えば離れる権利が、自分にもあるはずだった。
あかりは目元を押さえた。
泣いている自分を情けないとは思わなかった。
傷ついたのだから、涙が出るのは当然だった。
五分ほど待ち、鏡の前で顔を整えた。
目の赤みは完全には消えていない。すぐ自分の部署へ戻れば、誰かに気づかれるかもしれない。
それでも、逃げるように早退することはしたくなかった。
あかりは化粧室を出た。
仕事は仕事だ。
その言葉を、自分に我慢させるためではなく、自分の場所を守るために使おうと思った。
*
会議室に残された健司は、しばらく動けなかった。
あかりの座っていた椅子が、机から少し斜めに引かれている。
自分の答えは間違っていない。
健司はそう考えようとした。
由美が高校を卒業するまで、あと二年もない。少なくとも、それまでは父親としての生活を優先する。十年間守ってきた決め事を、数回話しただけの相手のために変えることはできない。
そのはずだった。
だが、あかりの言葉が残っていた。
――それを私のためにしたことにはしないでください。
健司は、あかりを傷つけないために断ったつもりだった。
食事へ行けば、期待させる。期待に応えられなければ、もっと傷つける。それなら、今のうちに断る方が誠実だと思った。
しかし実際には、自分が傷つくことを避けただけではないのか。
あかりと食事へ行けば、彼女をもっと知りたいと思うかもしれない。
自分のことも知ってほしくなるかもしれない。
その先で、美雪への気持ちや由美との暮らしを、もう一度見直さなければならなくなる。
健司は変化を恐れていた。
娘を守るという誓いは、その恐れを隠すのに都合がよかった。
認めたくなかった。
それでも、あかりに「娘さんを理由にしている」と言われたとき、健司が強く反発したのは、痛いところを突かれたからだった。
会議室のドアが開き、清掃担当の社員が顔を出した。
「失礼します。こちら、もう使われませんか」
「ああ。すみません、今出ます」
健司は資料を鞄に入れ、椅子を机の下へ戻した。
あかりが座っていた椅子にも手をかける。
誰かが座るはずだった場所を、自分で片づけているような感覚がした。
*
その週の日曜日、健司と由美は寝室の押し入れを整理していた。
梅雨に入る前に冬用の布団を片づけるためだった。
「これ、どうするの」
由美が奥から衣装ケースを引き出した。
蓋を開けると、女性ものの衣類が入っていた。
美雪の服だった。
健司はその箱が残っていることを知っていた。何度も整理しようと思いながら、開けることができなかった。
「まだあったんだな」
「お父さんが入れたんでしょ」
「十年前だから、よく覚えてない」
由美は一番上に畳まれていた赤いカーディガンを取り出した。
「これ、お母さんの?」
「ああ。よく着ていた」
「そうなんだ」
由美はカーディガンを胸元へ当てた。
大きさは、今の由美に合いそうだった。
「着てみるか?」
「いい」
「似合うと思うぞ」
「着ない」
由美はカーディガンをケースへ戻そうとした。しかし途中で手を止め、もう一度広げた。
「私、これを着てたお母さん、覚えてない」
「家族で出かけるときによく着ていたよ」
「どこに?」
「動物園とか、公園とか」
「写真ある?」
「探せばあると思う」
「じゃあ、写真を見たら思い出せるかな」
「どうだろうな」
健司が曖昧に答えると、由美は赤い布地を指で撫でた。
「お母さんの服、全部残してあるの?」
「全部じゃない。親戚に譲ったものもあるし、処分したものもある」
「これは、どうして残したの?」
健司は答えられなかった。
美雪が好きだった服だからか。由美が大きくなったら着るかもしれないと思ったのか。それとも、処分する決心がつかなかっただけなのか。
「分からない」
「そっか」
由美はカーディガンを羽織った。
袖の長さはちょうどよかった。
鏡の前に立ち、前を合わせる。
「どう?」
尋ねられた瞬間、健司は息をのんだ。
赤いカーディガンを着た由美の姿に、美雪の面影が重なった。
「似てるな」
「何に?」
「お母さんに」
由美の顔から表情が消えた。
「私、似合うか聞いたんだけど」
「ああ。似合ってるよ」
「お母さんに似てるから?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
由美はカーディガンを脱いだ。
「由美」
「私がお母さんに似てきたら、うれしい?」
「そりゃあ……面影を感じることはあるよ」
「私は、お母さんじゃないよ」
「分かってる」
「本当に?」
由美はカーディガンを畳まず、ケースの上へ置いた。
「お父さん、私を見てるとき、お母さんの続きを見てることない?」
「そんなことはない」
否定した声が、自分でも驚くほど強くなった。
由美が肩をすくめる。
健司は息を吐いた。
「すまない」
「別に」
「由美をお母さんの代わりだと思ったことはない」
「うん」
「でも、似ているところを探していたことはあるかもしれない」
由美は黙って父を見た。
「笑ったときの口元とか、怒ると黙るところとか。似ていると思うと、うれしかった」
「似てないところは?」
「たくさんあるよ」
「例えば?」
「お母さんは、朝から何でも食べられた。由美は、朝はパン一枚でも時間がかかる」
「もっといいところ言ってよ」
「お母さんは運動が苦手だった。由美は走るのが速い」
「中学までだけどね」
「美雪は数学が苦手だった。由美は理系だろ」
由美は少し笑った。
「お母さんのこと、美雪って呼ぶんだ」
「夫婦だったからな」
「私の前では、ずっとお母さんって言うと思ってた」
「由美のお母さんでもあるけど、俺にとっては美雪だから」
口にしてから、健司は胸の奥に小さな変化を感じた。
由美の前で「美雪」と呼ぶことを、長い間避けていた。
由美にとって母親であることを優先し、一人の女性だった美雪の姿を、自分の中だけに閉じ込めていた。
「この服、どうしたい?」
健司は由美に尋ねた。
「お父さんが決めるんじゃないの?」
「由美にも聞きたい」
由美は赤いカーディガンを見た。
「今は、捨てたくない」
「分かった」
「でも、私が着るかどうかは分からない」
「着なくていいよ」
「置いておくだけでも?」
「ああ」
由美はカーディガンを畳み、衣装ケースへ戻した。
「ほかの服も、今度一緒に見よう」
「そうしよう」
二人で冬用の布団を収納袋へ入れた。
押し入れを閉めたあと、由美が何気ない口調で尋ねた。
「会社の飲み会、楽しかった?」
「前にも聞かなかったか」
「ちゃんと聞いてない」
「思っていたより楽しかったよ」
「誰と話したの?」
「いろいろな人と」
「女の人とも?」
健司の手が止まった。
由美は押し入れの取っ手を見たまま、こちらを向かなかった。
「ああ。商品企画部の人と話した」
「若い人?」
「俺よりは若い」
「何歳?」
「三十二歳だったと思う」
「ふうん」
「仕事で一緒になる人だよ」
「別に、聞いてない」
「今聞いただろ」
「仕事の人かどうかまでは聞いてない」
由美は立ち上がった。
「いい人?」
健司はあかりの顔を思い浮かべた。
間違ったときに謝り、怖くても必要な言葉を口にする人。美雪の話を、目をそらさずに聞いてくれた人。
「ああ。いい人だよ」
「そっか」
由美は笑おうとした。
口元は上がったが、目は笑っていなかった。
「よかったじゃん」
「何が?」
「話せる人がいて」
「由美」
「お昼、何か食べる?」
由美は話を切り替え、寝室を出ていった。
健司は呼び止めなかった。
由美が父親の恋愛を認めると言ったからといって、実際に誰かの存在を聞いて平気でいられるとは限らない。
許可をもらったと思ったこと自体が間違いだった。
由美の中にも、喜びと不安、期待と寂しさが同時にある。
どれか一つを本心として選ばせてはいけない。
健司はそう理解しながらも、あかりの誘いを断ったことは話せなかった。
由美が安心するかもしれない。
安心した自分を責めるかもしれない。
どちらにしても、その負担を負わせることになる。
あかりを断ったのは自分だ。
娘に頼まれたからでも、娘が嫌がったからでもない。
その責任だけは、自分で持たなければならなかった。
*
月曜日の午後、あかりから社内メッセージが届いた。
〈先日の中間報告を反映した修正版を共有フォルダへ保存しました。営業企画部に関係する箇所をご確認ください〉
簡潔な業務連絡だった。
健司はファイルを開き、内容を確認した。修正箇所は分かりやすく整理され、不足もない。
〈確認しました。問題ありません。ありがとうございます〉
返信を入力する。
そのあとに何かを付け加えたくなった。
先日は言い方がきつくなってすまなかった。
傷つけるつもりはなかった。
これからも話ができればうれしい。
どの言葉も、自分の気持ちを軽くするためのものに思えた。
あかりは、仕事では今までどおりにすると言った。そして、そのとおりにしている。
私的な言葉を加えることは、彼女が引いた境界を、健司の都合で越えることになる。
健司は「ありがとうございます」のあとに句点を打ち、送信した。
数分後、あかりから返事が届いた。
〈承知しました〉
それだけだった。
画面を閉じても、胸の重さは消えなかった。
自分が選んだ結果だった。
誰かを傷つけたくないと言いながら、健司はあかりを傷つけた。
娘を理由にしないと決めながら、最初に口にしたのは由美の存在だった。
正しい選択だったのかは分からない。
ただ、あの席へ座らないと決めたのは、ほかの誰でもない自分だった。
窓の外では、午後から降り始めた雨が、細い筋を描いていた。
向かいのビルも、その先の空も灰色に霞んでいる。
健司は椅子へ深く座り直し、次の仕事に取りかかった。
画面上の数字を追っている間だけは、選ばなかったものについて考えずに済んだ。




