第2章 断る理由のない夜
金曜日の午後六時十二分、健司は自席のパソコンを閉じた。
普段なら、もう一度メールを確認し、翌週の会議資料を開いていた時間だった。今日中に片づけなければならない仕事はない。それでも椅子から立ち上がれず、机の上の書類を意味もなくそろえていた。
「佐藤部長、懇親会に行かれるんですよね」
斜め向かいの席から、渡辺が顔を上げた。
「ああ。そのつもりだ」
「珍しいですね」
「そこまで珍しくはないだろ」
「僕が入社してから、部長が参加するのは初めてです」
渡辺は本気で驚いているらしい。向かいの席にいた社員も、会話を聞いてこちらを見た。
「今日は雪が降るんじゃないですか」
「四月だぞ」
「じゃあ、季節外れの台風ですね」
健司が苦笑すると、周囲から控えめな笑いが起こった。
社員たちが自分を避けているわけではない。相談を持ちかけられることも多く、仕事上の信頼は得ていると思う。
ただ、健司が近くにいると、誰もが少しだけ姿勢を正した。
仕事以外のことを話しかけてはいけない。誘ってもどうせ断られる。そんな空気を、自分で作ってきたのかもしれなかった。
「資料の件、今週中に整理できてよかったな」
健司は渡辺に言った。
「はい。高橋主任にもお礼を伝えました」
「原因はもう分かったか」
「集計期間の認識が、部署ごとにずれていました。次回から確認表を最初につけます」
「そうか」
口を挟みたい気持ちを抑え、健司は頷いた。
渡辺自身が考えた対策なら、まず任せればいい。
「何かあったら相談してくれ」
「はい。完成する前に相談します」
渡辺の口調には、わずかな皮肉が混じっていた。
健司が黙ると、渡辺は慌てて頭を下げた。
「すみません。高橋主任から、途中で確認した方がいいと言われたので」
「いや、その通りだ」
健司は上着を手に取った。
「月曜日に確認しよう」
「分かりました。部長も楽しんできてください」
「善処するよ」
「仕事みたいに言わないでください」
再び笑いが起こった。
健司は居心地の悪さを覚えながらも、今度は逃げずに笑い返した。
*
懇親会の会場は、駅前にある大きな居酒屋だった。
引き戸を開けた途端、話し声と食器の触れ合う音が押し寄せてきた。焼き鳥の煙と揚げ物の匂いが混じり、奥の座敷からはすでに大きな笑い声が聞こえている。
「佐藤さん、本当に来たんですか」
受付を担当していた総務部の村上が、名簿を見ながら目を丸くした。
「出席で回答したはずだけど」
「入力ミスかと思っていました」
「俺はそこまで信用がないのか」
「逆です。仕事では絶対に間違えない人が、懇親会だけ間違えたのかと」
村上は健司より二歳年上で、入社当時からの知り合いだった。健司の事情も知っているため、これまで参加を断っても無理に誘うことはなかった。
「娘さんは大丈夫なんですか」
「友人の家に泊まりに行っている」
「もうそんな年か。俺の中では、まだランドセルを背負っているよ」
「高校二年生だ」
「それなら、親父が飲みに行ったって心配しないな」
村上に促され、健司は座敷へ上がった。
六人掛けのテーブルが四つ並んでいる。部署ごとに席を決めているわけではなく、営業、総務、商品企画の社員が混ざって座っていた。
奥のテーブルに、高橋あかりの姿があった。
紺色のブラウスに細い銀色のネックレスを合わせ、同じ部署の女性社員と話している。会社で見るよりも髪が柔らかく見えた。
あかりも健司に気づいた。
一瞬驚いた顔をしたあと、軽く頭を下げる。
健司も会釈を返した。
そのまま近くへ行く理由はなかった。健司は村上に案内された席へ座った。
乾杯が終わると、料理の皿が次々に回ってきた。健司は瓶ビールを小さなグラスに半分だけ注いでもらった。
「佐藤さんが飲んでる」
向かいに座った若手社員が声を上げた。
「酒くらい飲むよ」
「一滴も飲まない人だと思っていました」
「家では飲まないだけだ」
「どうしてですか」
「酔った状態で、娘に何かあったら困るから」
答えてから、健司は言葉を選び直したくなった。
また由美を理由にした。
若手社員は気づかず、「さすがですね」と感心している。
褒められるほど、落ち着かない気持ちになった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
由美から、夕食の写真が送られてきている。チーズの載ったハンバーグとサラダ、コーンスープ。画面の端には莉奈の手が写っていた。
〈莉奈のお母さんが作ってくれた〉
続けて、もう一通届く。
〈ちゃんと食べてる?〉
父親が娘に尋ねるような文面に、健司は口元を緩めた。
〈食べてる。そっちこそ夜更かししすぎないように〉
送信すると、すぐに返事が来た。
〈今日は言わない約束〉
そんな約束をした覚えはない。
健司は「分かった」と打ちかけ、指を止めた。
〈努力します〉
そう返すと、由美から笑っている顔の絵文字が送られてきた。
「いい顔してますね」
不意に声をかけられ、健司はスマートフォンを伏せた。
隣にあかりが立っていた。
「高橋さん」
「すみません。のぞいたわけではありません」
「娘から夕食の写真が来ただけだよ」
「高校二年生でしたよね」
「ああ。友達の家に泊めてもらっている」
健司の隣に座っていた社員が席を立ち、別のテーブルへ移った。あかりは空いた座布団を見たが、すぐには座らなかった。
「こちら、よろしいですか」
「もちろん」
健司が答えると、あかりは腰を下ろした。
手にはウーロン茶のグラスを持っている。
「高橋さんは飲まないのか」
「一杯だけ飲みました。あまり強くないので」
「そうは見えないな」
「どういう意味ですか」
「いや、酒にも強そうに見えた」
「また何でもできそうに見えていました?」
数日前の会話を思い出し、健司は返事に困った。
あかりは少し笑った。
「冗談です」
「先日は助かったよ。渡辺も、自分で対策を考えたようだ」
「確認表のことですか」
「聞いているのか」
「相談されました。営業企画部で使うものなので、決めるのは渡辺さんたちですが」
「あれから顔つきが変わった気がする」
「佐藤部長が任せたからじゃないですか」
「俺は、そんなに任せていなかったのかな」
あかりはグラスへ目を落とした。
「佐藤部長は、任せていなかったというより、失敗したときに自分で引き取る準備をしすぎているんだと思います」
「同じことじゃないのか」
「少し違います。任された側も、最後は部長が何とかしてくれると思ってしまいますから」
「耳が痛いな」
「すみません」
「謝る必要はないよ」
健司はビールを一口飲んだ。
「家でも、同じようなことをしていたらしい」
「娘さんに何か言われたんですか」
「ああ。全部先に決めなくても大丈夫だって」
健司はそこで話を止めた。
自分の家庭のことを、会社の人間にどこまで話してよいのか分からなかった。
あかりは続きを促さなかった。
その沈黙に救われた気がした。
質問を重ねず、聞いたことだけを受け取る。会議で若手社員の発言を待つときと同じだった。
「高橋さんは、どうしてあんなふうに言えるんだ」
「あんなふう?」
「相手が上司でも、違うと思ったことを言えるだろ」
「あまり得意ではありません」
「そうなのか」
「言う前は、いつも迷っています。先日も、帰ってから余計なことを言ったかもしれないと思いました」
あかりはグラスの水滴を指で拭った。
「以前は、何も言えなかったんです」
「以前?」
「仕事でも、私生活でも。相手に嫌われないように、納得していないのに『分かりました』と言っていました」
周囲では誰かがじゃんけんを始め、大きな歓声が上がった。あかりの声は、その騒がしさに紛れそうなほど小さかった。
「三年ほど前、結婚するつもりだった人がいました」
健司は黙って彼女を見た。
「向こうの転勤が決まって、仕事を辞めてついてきてほしいと言われたんです。私は仕事を続けたかった。でも、最初は『考えてみる』としか言えませんでした」
「その人とは……」
「別れました」
あかりは淡々と答えた。
「相手が悪かったわけではありません。自分の希望をきちんと伝えないまま、不満ばかりためた私にも責任があります。最後は、ずっと我慢してきたことを一度にぶつけてしまって」
健司は何と答えるべきか迷った。
安易な慰めを言えば、彼女が自分で考えて出した結論を否定するような気がした。
「つらかっただろう」
ようやく、それだけを口にした。
「はい」
あかりは無理に笑わなかった。
「かなり引きずりました。自分は相手を理解しているつもりだったのに、本当は衝突するのが怖くて黙っていただけだったんです」
「それで、今は言うようにしているのか」
「なるべく。失敗することもありますけど」
「あの日の言葉は、失敗じゃなかった」
あかりが顔を上げた。
「少なくとも、俺には必要だった」
「そう言ってもらえると、少し安心します」
彼女の表情が緩んだ。
健司は、あかりを強い人だと思っていた。
だが、何も恐れないから言葉にできるのではない。嫌われるかもしれないという不安を抱えながら、それでも必要なことを伝えようとしている。
その違いを知ると、会議で聞いていた彼女の言葉が、以前とは異なる響きを持った。
「佐藤さん、話が難しすぎるよ」
村上が二人の間から顔を出した。
かなり酒が回っているらしく、頬が赤い。
「懇親会なんだから、もっと楽しい話をしないと。高橋さんも困ってるだろ」
「困っていません」
あかりが答えた。
「相変わらず真面目だなあ、佐藤さんは。せっかく娘さんも大きくなったんだから、もう少し遊んでも罰は当たらないよ」
健司はグラスを置いた。
「別に罰を気にしているわけじゃない」
「奥さんが亡くなって、もう十年だろ。そろそろ再婚したって、誰も責めないって」
周囲の話し声が一瞬だけ遠くなった。
悪意がないことは分かっていた。
村上なりに健司を心配しているのだろう。それでも、人前で答えを求められる話ではなかった。
「そういう予定はないよ」
健司は声の調子を変えずに答えた。
「予定なんか、これから作ればいい。高橋さんみたいな人が近くにいるんだから」
「村上さん」
あかりが低い声で遮った。
「その話は、私にも失礼です」
村上の笑顔が止まった。
「あ、いや、俺は別に二人を――」
「分かっています。でも、本人たちの気持ちを確認せずに話すことではないと思います」
言い方は穏やかだったが、曖昧さはなかった。
「悪かった。酔ってた」
村上は頭をかき、逃げるように別の席へ移った。
健司はあかりを見た。
「ありがとう」
「私のことでもありますから」
「嫌な思いをさせたな」
「佐藤部長のせいではありません」
あかりはウーロン茶を飲んだ。
その指先が、わずかに震えていた。
「大丈夫か」
「少し驚いただけです」
「無理をしてないか」
あかりは困ったように笑った。
「佐藤部長にそれを聞かれると、答えに迷います」
「どうして」
「大丈夫ではないと言ったら、全部引き受けようとしそうなので」
健司は返す言葉を失った。
あかりは震えを隠すように、両手でグラスを包んだ。
「村上さんにああ言われて、嫌ではありました。でも、私もすぐに言い返せたわけではありません。少し怖かったです」
「そうは見えなかった」
「見えないようにしたんです」
あかりは一度息を整えた。
「人が多い場所で、自分の結婚や恋愛について話題にされるのは苦手です。婚約を解消したあと、親戚や会社の人から何度も理由を聞かれたので」
「今の話も、無理に話さなくてよかったんだぞ」
「自分で話したかったんです」
あかりは健司の目を見た。
「聞かれたからではなく、私が話してもいいと思ったから」
健司は頷いた。
「分かった」
それ以上は尋ねなかった。
あかりの過去を知りたいという気持ちはあった。だが、知りたいことと、聞いてよいことは同じではない。
しばらく二人は黙っていた。
目の前の皿には、冷めかけた唐揚げが二つ残っている。店員が空いた器を下げ、新しい飲み物を並べていった。
「奥様のこと」
あかりがゆっくり口を開いた。
「聞いてもいいですか」
健司の肩に力が入った。
あかりはその変化に気づいたらしく、すぐに続けた。
「答えたくなければ、答えなくて大丈夫です。先ほど村上さんが十年とおっしゃっていたので……」
「十年前だよ」
健司はテーブルの木目を見つめた。
「由美が六歳のときだった」
「そうだったんですね」
「病気が分かってから、一年もなかった」
誰かに美雪の最期を話すのは、久しぶりだった。
会社の人間には、妻を亡くした事実だけが伝わっている。葬儀のときに顔を合わせた村上たちでさえ、詳しい経緯は尋ねなかった。
健司も話そうとはしなかった。
「明るい人だった」
口にすると、記憶の中の美雪が少し近づいた。
「料理をするとき、よく鼻歌を歌っていた。何の歌か聞いても、自分でも分からないって笑ってた」
あかりは黙って聞いている。
「由美の弁当を作るようになったのも、妻がきっかけなんだ。赤と黄色と緑を入れれば、おいしそうに見えるって、冷蔵庫にメモを貼っていて」
「今も残っているんですか」
「ああ。捨てられなくて」
「捨てる必要はないと思います」
あかりの返事は早かった。
健司は顔を上げた。
「紙が古くなったからといって、書かれたことまで古くなるわけではないですから」
「変だと思わないか。十年前のメモだぞ」
「思いません」
あかりは少し考えてから言葉を継いだ。
「私は、そのメモを書いた奥様のことを知りません。でも、娘さんのお弁当をきれいにしようとした気持ちは分かります。残しておきたいと思う佐藤部長の気持ちも」
健司の胸に、痛みとは異なるものが広がった。
美雪について話すと、相手はたいてい気の毒そうな顔をする。そして「大変でしたね」と言い、その話を早く終わらせようとする。
あかりは違った。
美雪を、健司を悲しませた出来事の中にいる人としてではなく、色のある弁当を作り、意味のない鼻歌を歌った一人の女性として聞いていた。
「由美さんは、お母様のことを覚えているんですか」
「どうだろう」
健司は朝の食卓を思い出した。
「俺は、覚えていると思っていた。でも、あの子はまだ六歳だった。俺が覚えていろと求めていただけかもしれない」
「求めたんですか」
「言葉では言っていない」
「でも、奥様の話をよくする?」
「お母さんならこうした、お母さんはこうだった、と……気づけば言っている」
あかりはすぐには答えなかった。
「娘さんは、どう感じているんでしょうね」
「分からない」
分からないと言うことが、健司にはつらかった。
十六年間育ててきた娘なのに、何を考えているか分からない。分かっているつもりで、必要なことをすべて用意してきた。
「今朝、妻なら卵焼きをきれいに巻けたと言ったら、由美の顔が変わった」
「比べられたと感じたのかもしれません」
「由美を妻と比べたつもりはない」
「佐藤部長の卵焼きと、奥様の卵焼きを比べたんですよね」
「ああ」
「それでも、娘さんには、自分とお母様を比べられているように聞こえることもあると思います」
健司は言葉を失った。
あかりは慌てて視線を下げた。
「すみません。ご家庭のことなのに」
「いや」
美雪ならもっと上手くできた。
美雪がいれば、由美の気持ちも分かった。
健司は何度もそう考えてきた。それは自分の至らなさを責める言葉であって、由美を責めるつもりはなかった。
だが由美には、亡き母親と同じようにできない父と暮らしている責任を、負わされているように聞こえたのかもしれない。
「高橋さんは、よく人のことを見ているんだな」
「見ているつもりで、間違えることもあります」
「今も間違っているかもしれない?」
「はい。だから、娘さんに聞いてみてください」
答えを決めつけないところに、健司はあかりの誠実さを感じた。
「そうするよ」
懇親会は予定より長引き、九時を過ぎても半数ほどの社員が残っていた。
健司は二杯目のビールを断り、ウーロン茶に替えた。あかりも同じものを注文した。
その後は仕事の話をした。
あかりが現在の部署を希望した理由。消費者調査で、数字だけでは拾えない声を商品へ反映させたいと思ったこと。初めて企画した商品がほとんど売れず、大量の在庫を前に泣いたこと。
「高橋さんにも失敗があるんだな」
「その言葉、今日二回目です」
「もっと完璧な人だと思っていた」
「あまりうれしくない褒め方です」
「どうして」
「完璧な人なら、傷つかないし、失敗しても平気だと思われそうだから」
健司はグラスを置いた。
「そういうつもりではなかった。すまない」
「謝らなくて大丈夫です」
あかりは苦笑した。
「私も、そう見せようとしてきたので。ちゃんとしていれば、誰にも迷惑をかけないと思っていました」
「俺と似ているな」
「少しだけ」
「少しだけか」
「佐藤部長ほど、一人で何でも背負いません」
その言葉に、健司は笑った。
声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
あかりもつられるように笑った。
離れた席から、村上がこちらを見ていた。今度は何も言わず、申し訳なさそうに会釈した。
健司も小さく頷いた。
*
莉奈の家では、二人分の布団が並べられていた。
由美はパジャマ姿でうつ伏せになり、スマートフォンを眺めていた。
「お父さんから?」
隣で髪を乾かしていた莉奈が尋ねた。
「うん」
「心配してる?」
「逆。楽しんでるみたい」
「いいじゃん」
「まだ帰ってないって」
「会社の飲み会なら普通でしょ」
由美は父から届いた短いメッセージを読み返した。
〈少し遅くなる。帰ったら連絡する〉
自宅へ戻るわけでもない由美に、なぜ帰宅時間を知らせるのか。そう思いながらも、連絡がないよりは安心した。
「誰か女の人いたりして」
莉奈が面白がるように言った。
「会社の飲み会なんだから、いるでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
「もし、お父さんに彼女できたらどうする?」
「知らない」
「嫌?」
「別に」
「その顔は嫌なんじゃない?」
由美はスマートフォンを伏せた。
「嫌っていうか……分かんない」
「私は、お母さんの彼氏に会うの、やっぱりちょっと嫌」
莉奈はドライヤーの電源を切った。
「この前は、三人でご飯食べてもいいって言ってたじゃん」
「言ったけど、今日になって嫌になった」
「断るの?」
「断らない。お母さん、楽しみにしてるから」
莉奈は布団の上に座った。
「会って嫌だったら、嫌って言うつもり。お母さんが好きな人だからって、私も好きにならなきゃいけないわけじゃないし」
「そんなこと言える?」
「言う。黙ってたら、何でも平気だと思われるから」
由美は父との夕食を思い出した。
重い、と言ったときの父の顔が、胸に残っている。
傷つけたかったわけではない。
父の作る弁当も、駅まで迎えに来てくれることも、本当は嫌ではなかった。なくなったら困る。ほかの誰かのために同じことをする父を見たら、きっと面白くない。
だからこそ、父が自分だけを見て生きていることが怖かった。
「お父さんにさ」
由美は天井を見上げた。
「私のせいでずっと一人みたいに言わないでって、言っちゃった」
「それ、お父さん何て?」
「何も言わなかった」
「怒られた?」
「怒られてない」
「じゃあ、考えてるんじゃない?」
「何を?」
「由美に言われたこと」
莉奈はあっさり答え、スマートフォンを充電器につないだ。
「うちのお母さんも、私が嫌だって言うと、最初は黙るよ。あとで聞きに来る」
「お父さんも聞きに来た。でも、私が無視した」
「面倒くさい親子だね」
「うるさい」
二人で笑った。
由美はもう一度スマートフォンを手に取った。
〈楽しんでる?〉
入力してから、少し迷って送信した。
一分ほどで返信が来た。
〈思っていたよりは〉
「何、その返事」
画面をのぞいた莉奈が笑った。
「お父さんらしい」
由美も笑いかけたが、胸の奥には別の感情が残っていた。
父が家の外で楽しんでいる。
自分が勧めたことなのに、少し寂しかった。
その寂しさまで父に伝えたら、また家へ戻ってしまいそうな気がした。
〈よかった。こっちも楽しい〉
それだけ返し、由美はスマートフォンを枕元に置いた。
*
午後九時半、懇親会は一度目の締めを迎えた。
二次会へ向かう者たちが店の前で集まる中、健司は駅へ向かうことにした。
「佐藤さん」
村上が追いかけてきた。
「さっきは悪かった」
「もういいよ」
「酔ってたとはいえ、言っていいことじゃなかった。高橋さんにも明日、改めて謝る」
「そうしてくれ」
「あの人、強いな」
「怖かったと言っていたよ」
村上が意外そうな顔をした。
「そうなのか」
「怖くても、必要なことだから言ったんだ」
「余計に頭が下がるな」
村上は申し訳なさそうに肩を落とした。
「本当に、悪かった」
「分かったよ」
健司は村上の肩を軽く叩いた。
駅へ向かう途中、前方にあかりの姿を見つけた。
彼女は一人で歩いていた。二次会には参加しなかったらしい。
「高橋さん」
声をかけると、あかりが振り返った。
「佐藤部長。お疲れさまでした」
「駅まで一緒でいいかな」
「はい」
二人は少し距離を空けて並んだ。
夜風が昼間より冷たく、あかりは薄手の上着の襟を寄せた。
「寒くないか」
「少しだけ。でも大丈夫です」
「その大丈夫は、本当に大丈夫なのか」
あかりは驚いたあと、笑った。
「これは本当に大丈夫です」
「ならよかった」
駅前の信号で立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
健司が言った。
「私は何もしていません」
「話を聞いてくれた」
「私も話しましたから、お互いさまです」
信号が青に変わった。
駅の改札前まで来ると、あかりは路線案内を見上げた。
「私は地下鉄なので、こちらです」
「俺はJRだ」
「では、ここで」
「ああ。月曜日に」
あかりは一歩進んだが、何かを思い出したように振り返った。
「佐藤部長」
「何だろう」
「先ほど奥様のお話を聞いたこと、ほかの方には話しません」
「分かってる」
「それから……」
あかりは言葉を探すように視線を動かした。
「奥様のことを話しているときの佐藤部長は、普段より表情が柔らかかったです」
健司は返事ができなかった。
「変な意味ではなくて、大切な方だったことが伝わりました」
「今も、大切な人だよ」
「はい」
あかりは迷わず頷いた。
過去形に直そうとはしなかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
あかりは地下鉄の入口へ下りていった。
健司はしばらく、その場から動かなかった。
美雪を今も大切に思っていると伝えたとき、相手が困った顔をしなかったのは初めてだった。
亡くなった人を愛していることと、生きている誰かと話して心がほどけること。その二つが同時に存在してもよいのか、健司にはまだ分からない。
ただ、あかりと話した時間を後悔してはいなかった。
*
帰宅すると、家の中は暗かった。
「ただいま」
誰もいないと分かっていても、健司は声に出した。
廊下の照明をつけ、リビングへ入る。朝のまま置かれた椅子、洗って伏せた食器、棚の上の写真。由美がいないだけで、部屋が普段より広く感じられた。
以前なら、この空間を落ち着くと感じていた。
今夜は違った。
上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。
飲み会へ行ったからといって、何かが大きく変わったわけではない。月曜日になれば仕事へ行き、夕方には夕食の献立を考える。由美との暮らしも続いていく。
それでも、朝の自分と今の自分が、わずかに違っていることは分かった。
健司は冷蔵庫の扉を開けた。
美雪のメモが目に入る。
赤、黄、緑。
その文字を見ながら、あかりの言葉を思い出した。
紙が古くなったからといって、書かれたことまで古くなるわけではない。
健司はメモへ手を伸ばし、保護シートの端をそっと押さえた。
美雪の記憶を守ることと、十年前と同じ場所に自分を置き続けることは、同じではないのかもしれない。
答えはまだ出なかった。
無理に出す必要もないと思った。
スマートフォンを開き、由美に帰宅したことを知らせる。
〈今、帰った。遅くなってごめん〉
由美からすぐに返事が届いた。
〈謝らなくていいって。おやすみ〉
〈おやすみ。明日、何時に迎えに行けばいい?〉
送信しかけて、文章を消した。
〈明日、帰る時間が決まったら教えて〉
今度はそのまま送った。
〈了解〉
短い返事だった。
しかし健司には、朝の「全部先に決めなくても大丈夫」への答えを、ようやく一つ返せたように思えた。
*
地下鉄の車内で、あかりは窓に映る自分の顔を見ていた。
飲み会の途中から感じていた緊張が、今になって肩の重さとして表れている。
村上に言い返したとき、本当は声が震えそうだった。
あの場で笑って流せば、空気を壊さずに済んだかもしれない。以前のあかりなら、そうしていた。
冗談として受け入れ、帰宅してから一人で傷ついていた。
今夜は違った。
ただ、きちんと言えたからといって、傷つかなかったわけではない。
窓の外を流れる暗い壁を見つめながら、あかりは三年前のことを思い出した。
婚約を解消した直後、周囲から何度も言われた。
あかりなら良い奥さんになれたのに。
理解のある人なのに、もったいない。
そのたびに、自分が理解のある女性であり続けなければならないような気がした。相手の事情を受け入れ、不満を言わず、いつも穏やかに笑っている女性。
そんな人間にはなれないと分かったから、結婚をやめたのだ。
佐藤健司には、亡くなった妻がいる。
高校生の娘もいる。
今夜の会話で、その二人が彼の人生の中心にいることがよく分かった。
もし彼に近づけば、自分もまた理解を求められるかもしれない。
亡き妻に嫉妬せず、娘を優先されても笑い、自分の希望を後回しにする。そんな都合のよい女性になることを期待されるかもしれない。
考えただけで、胸が苦しくなった。
それでも、健司と話した時間を嫌だとは思わなかった。
あかりが彼に関心を持ったのは、妻を亡くした孤独を知ったからではない。
以前から、会議で何度か姿を見ていた。
若手社員の提案が上司に横取りされそうになったとき、健司は「最初に考えたのは彼女です」と、発案者の名前をはっきり出した。取引先が女性社員にだけ飲み物を頼もうとしたときには、自分が立って注文を聞いた。
どれも小さなことだった。
健司自身は、覚えていないかもしれない。
あかりは覚えていた。
部長という立場を使って誰かを黙らせない人だからこそ、先日の会議でも意見を伝えようと思えた。
そして健司は、耳の痛い指摘を受け入れ、渡辺への接し方を変えた。
完璧ではない。
間違いを認め、変わろうとする。
そこに心を動かされた。
同時に、あかりは自分を戒めた。
彼の寂しさを埋めたいわけではない。
娘を育てる手伝いをしたいわけでも、亡き妻の代わりになりたいわけでもない。
自分が何を望んでいるのか、まだ分からなかった。
分からないまま、相手に合わせて答えを決めてはいけない。
電車が次の駅に着いた。
扉が開き、冷たい空気が車内へ流れ込む。
あかりはスマートフォンを取り出した。
社内メッセージの画面には、健司と交わした仕事上のやり取りが残っている。
何か送りたいと思った。
だが、今夜の礼や私的な感想を会社の連絡手段で送るのは違う気がした。
文字を入力することなく、画面を閉じた。
次に会うのは月曜日だ。
仕事仲間として挨拶をし、それから先のことは、自分の気持ちを確かめてから考えればいい。
あかりは膝の上で両手を組んだ。
急がないこと。
分かったふりをしないこと。
嫌なことは嫌だと言うこと。
誰かを好きになるとしても、自分まで見失わないこと。
その一つ一つを胸の中で確かめながら、あかりは自宅の最寄り駅まで揺られていった。




