第1章 静かな誓い
四月の朝は、まだ冬の名残を含んでいた。
午前五時四十七分。寝室のカーテンの隙間がわずかに白み始めたころ、佐藤健司は目を覚ました。
枕元のスマートフォンが鳴るまで、あと十三分ある。
目覚ましを止める手間が省けたと思いながら、健司は掛け布団をめくった。ベッドの反対側には、誰も眠っていない。十年前から変わらない空白だった。
以前は、目を覚ますたびにその冷たさを確かめていた。今はもう、意識して見ないようにしている。
廊下へ出ると、突き当たりにある由美の部屋のドアが目に入った。ドアの下から光は漏れていない。昨夜は遅くまで物音がしていたから、まだ眠っているのだろう。
起こさないよう足音を抑え、健司は台所へ向かった。
湯を沸かしながら冷蔵庫を開ける。卵、ブロッコリー、鶏もも肉、半分だけ残ったニンジン。前夜のうちに下味をつけておいた鶏肉を取り出し、フライパンに並べた。
油のはぜる小さな音が、まだ眠っている部屋に広がった。
卵を二つ割り、砂糖と一つまみの塩を加える。箸で混ぜながら、健司は冷蔵庫の扉に貼られた古いメモへ目を向けた。
赤、黄、緑。
美雪の字だった。
もともとは、幼稚園へ通い始めた由美のために、美雪が書いたものだった。
――お弁当は三色あれば、だいたいおいしそうに見える。
下には、笑った顔のような丸が描いてある。由美が小学校へ上がったあとも、美雪はその紙を捨てなかった。美雪が亡くなってからは、健司にも捨てられなくなった。
透明な保護シートをかけているため、十年たった今も文字だけははっきり残っている。
声の方は、少しずつ遠くなっていた。
美雪がどんな調子で「おはよう」と言ったのか。何に笑い、怒るときにはどんなふうに眉を寄せたのか。覚えているつもりでも、記憶の中で再生しようとすると、輪郭の一部が霧に溶けてしまう。
健司は火を弱め、卵焼きを巻いた。
形が少し崩れた。巻きすで整えれば、弁当箱に入れるころには分からなくなる。
以前なら、失敗した卵焼きは自分の皿に載せ、由美にはきれいな部分だけを入れていた。今朝もそうしかけて、手を止めた。
由美はもう十六歳だ。少し形の崩れた卵焼きくらいで機嫌を損ねる年齢ではない。
それでも健司は、結局きれいな方を弁当箱に詰めた。
赤いミニトマト。黄色い卵焼き。緑のブロッコリー。中央には照り焼きにした鶏肉を置く。
蓋を閉める前に、健司は全体を確かめた。足りないものはない。隙間もない。
台所だけではなく、由美の生活にできる隙間を、健司はいつも先回りして埋めようとしてきた。
六時半を過ぎたころ、廊下から足を引きずる音が聞こえた。
由美がリビングに入ってくる。肩まで伸びた髪は片側だけ跳ね、制服のブラウスのボタンを一つ掛け違えていた。
「おはよう」
「……おはよ」
「ボタン、ずれてるぞ」
由美は自分の胸元を見下ろし、小さく舌打ちした。
「見れば分かる」
「分かってなかったから言ったんだけどな」
「今から直すところだったの」
由美は洗面所へ戻り、しばらくして不機嫌そうな顔のまま戻ってきた。ブラウスのボタンは正しく並んでいた。
高校二年生になって三日目だった。
新しいクラスについて尋ねても、「普通」としか答えない。担任の名前を聞いても、「たぶんいい人」。部活動を続けるのかと聞けば、「まだ分かんない」。
健司には、その短い言葉の奥に何があるのか分からなかった。
美雪がいれば、由美の髪型や声の調子を見ただけで、何かを察したのかもしれない。そんな考えが浮かぶたび、健司は自分の足元が少し不安定になる。
「今日、部活は?」
「ある」
「帰りは?」
「七時くらい」
「駅に着いたら連絡してくれれば迎えに行くよ」
「いらない。バスで帰る」
「でも、昨日も遅かっただろ」
「七時は遅くないって」
「暗くなる」
「みんな同じだから」
由美はトーストをかじりながら、テーブルの端に置かれた弁当箱を見た。
「今日も作ったの?」
「作るに決まってるだろ」
「購買でもよかったのに」
「購買は混むんじゃないのか」
「混むけど」
「だったら弁当の方がいい」
由美は何かを言いかけたが、牛乳を飲んでのみ込んだ。
弁当が嫌なのではないことを、健司は知っている。帰宅した弁当箱はたいてい空になっている。作ってくれてありがとう、とわざわざ口に出すのが照れくさいだけなのだろう。
そう考えていた。
「卵焼き、ちょっと失敗した」
「別にいいよ。食べたら同じだし」
「お母さんなら、きれいに巻けたんだけどな」
何気なく口にした名前に、由美の箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
「そうだね」
由美はそれだけ答え、再びトーストをかじった。
健司は自分が何かを間違えた気がした。しかし、どの言葉だったのかまでは分からなかった。
食卓の横にある棚には、美雪の写真が置かれている。
亡くなる二年ほど前、三人で海へ行ったときの写真だ。白い帽子を押さえながら、美雪はカメラに向かって笑っている。その隣で、六歳の由美が両手を広げていた。
由美も、ときどき写真に目を向ける。ただし、健司が見ていることに気づくと、すぐに視線を外す。
「そういえば、保護者面談の案内、まだ出てないか?」
「出てない」
「去年は新学期が始まってすぐだっただろ」
「知らない。まだもらってない」
由美の返事は、わずかに早かった。
「もらったら忘れずに出してくれよ。仕事は調整するから」
「そこまでしなくていい」
「面談なんだから、行くだろ」
「忙しいなら来なくてもいいって意味」
「忙しくても行くよ」
「だから、無理しなくていいって」
由美は椅子を引いて立ち上がった。弁当箱を鞄へ入れ、ファスナーを勢いよく閉める。
「由美」
「遅れるから行く」
玄関へ向かう背中を、健司は追った。
「金曜日だけど、いつもの時間でいいんだよな?」
「金曜は莉奈の家に泊まるかも」
「聞いてないぞ」
「今言った」
「泊まるなら、莉奈のお母さんに確認してから――」
「分かってる。連絡先も送る」
由美はスニーカーを履き、ドアノブへ手をかけた。
「私、もう高校二年だから。全部先に決めなくても大丈夫」
健司が答える前に、ドアが閉まった。
階段を下りていく足音が遠ざかる。
健司は玄関に立ったまま、由美が最後に言った言葉を反芻した。
全部先に決めなくても大丈夫。
心配しているだけだ、と健司は思った。
自分が父親と母親の二人分を果たさなければならない。そうしなければ、美雪に申し訳が立たない。
それが、この十年を支えてきた考えだった。
由美を一人前に育てる。美雪がいるはずだった場所まで、自分が埋める。娘が自分の足で歩けるようになるまでは、ほかのことを望まない。
その誓いに迷いを覚えたことはなかった。
少なくとも、健司自身はそう信じていた。
*
健司が勤める会社は、家庭用品を扱う中堅メーカーだった。
営業企画部長という肩書はついているが、健司の働き方は十年前からそれほど変わっていない。誰よりも早く出社し、会議資料の数字を確かめ、部下が困っていれば仕事を引き取る。
午後一番の合同会議では、発売予定の商品に関する販売予測が議題になった。
商品企画部が提出した市場データと、営業企画部がまとめた見込み数に、大きなずれが見つかった。
資料を作成したのは、健司の部下である入社三年目の渡辺だった。
渡辺は青ざめた顔で、手元のファイルをめくっている。出席者の視線が一斉に彼へ向いた。
「この数値、根拠はどうなっているんですか」
商品企画部の課長が強い口調で尋ねた。
渡辺の指が止まる。
「申し訳ありません。私の確認が足りませんでした」
健司は口を挟んだ。
「最終確認をしたのは私です。こちらの責任です。今日中に算出条件をそろえた資料を出し直します」
「しかし、今日の数字を前提に役員説明を組んでいます。間に合うんですか」
「間に合わせます」
自分が残ればいい。そう判断するまでに時間はかからなかった。
会議が終わると、渡辺は廊下で何度も頭を下げた。
「申し訳ありません、部長。僕が集計範囲を確認していなかったせいで」
「もういい。元データだけ送ってくれ。あとは俺が直す」
「でも――」
「今日中に必要なんだ。原因の整理は明日でいい」
渡辺は納得していない顔をしていたが、「分かりました」と答えた。
健司が会議室へ戻ろうとすると、後ろから呼び止められた。
「佐藤部長」
振り返ると、高橋あかりが資料を抱えて立っていた。
商品企画部の主任で、今回のプロジェクトでは市場調査を担当している。三十二歳。健司の直属の部下ではなく、人事評価や業務命令に関わる立場でもない。
会議では必要な意見をはっきり述べる一方、誰かの発言を遮ることはなかった。若手社員が話し始めると、手元のペンを止め、最後まで聞く。健司は以前から、そんな姿勢に好感を持っていた。
「これ、うちで使った元データです。条件をそろえるなら必要かと思って」
「ああ、助かる。ありがとう」
健司が受け取ろうとすると、あかりは資料をすぐには離さなかった。
「一つ、言ってもいいですか」
「何だろう」
「渡辺さんのことです」
健司は眉を寄せた。
「彼の失敗なら、俺が責任を持つ。それで問題はないはずだ」
「責任を持つことに反対しているんじゃありません」
あかりは資料から手を離した。
「ただ、全部引き取るのは違う気がします」
「今日中に直さなければならない。彼に任せるより、俺がやった方が早い」
「早いと思います。でも、渡辺さんは自分がどこで間違えたのか、最後まで分からないままになります」
「明日説明するよ」
「明日になったら、佐藤部長が修正した完成品を見せて終わりにするんじゃないですか」
思い当たる節があり、健司は言葉に詰まった。
あかりは少し視線を下げた。
「すみません。別の部署の私が口を出すことではないですね」
「いや」
健司は資料の角を指でそろえた。
「高橋さんの言う通りかもしれない。ただ、困っているのを見ると、放っておけなくてね」
「優しいんですね」
「そんな立派なものじゃないよ」
「そうかもしれません」
予想外の返事に、健司は顔を上げた。
あかりは申し訳なさそうにしながらも、言葉を取り消さなかった。
「私も以前、同じことをしていたので。後輩のミスを全部自分で直して、頼られているつもりになっていました。でも本当は、相手を信用して任せるのが怖かったんです」
「怖かった?」
「失敗されたら、自分の責任になるからです。助けていたというより、失敗させないように管理したかったんだと思います」
あかりは自嘲するように笑った。
「そのせいで、後輩から『私には任せてもらえないんですね』って言われました。かなり落ち込みました」
「高橋さんにも、そんなことがあるんだな」
「ありますよ。失敗ばかりです」
会議では迷いなく発言していた女性が、指先で資料の端を撫でている。健司には、その姿が少し意外だった。
あかりは何でも正しく判断し、自分の言葉に迷わない人だと思っていた。
そうではないらしい。
「渡辺さんと一緒に直してみたらどうでしょう。商品企画の確認が必要なら、私も残ります」
「高橋さんまで残る必要はないよ」
「私の部署の資料も関係しています。佐藤部長だけの仕事ではありません」
「でも――」
「一人で抱えられると、こちらも頼りにくくなります」
穏やかな口調だったが、健司の逃げ道をきれいに塞いでいた。
「分かった。渡辺にも声をかける」
「はい」
あかりは少しだけ笑った。
「では、三時に打ち合わせスペースで」
去っていく後ろ姿を見送りながら、健司は今朝の由美の言葉を思い出していた。
全部先に決めなくても大丈夫。
由美と渡辺を同じに考えるつもりはない。それでも、自分が誰かのためにしてきたことを、相手も同じように望んでいるとは限らない。
そんな当たり前のことを、健司は長いあいだ考えてこなかった。
午後三時、健司は渡辺とあかりの三人で資料を作り直した。
渡辺は最初こそ緊張していたが、計算条件の違いに気づくと、自分から修正方法を提案した。健司が思っていたより、判断も作業も速かった。
「ここからは僕にやらせてください」
渡辺が言った。
「大丈夫か」
「確認できたところから部長に回します。全部完成してから間違いが見つかるより、その方が早いと思います」
健司は反射的に「俺がやる」と言いかけた。
向かい側に座るあかりと目が合った。彼女は何も言わなかった。口元だけに、ごく薄い笑みが浮かんでいる。
「分かった。任せる」
渡辺は驚いた顔をしたあと、大きく頷いた。
「はい」
午後六時前には修正版が完成した。
普段なら、健司が一人で九時ごろまで残っていたかもしれない。
「佐藤部長、助かりました」
帰り支度をしながら、渡辺が言った。
「助けられたのは俺の方だよ」
「部長が、そんなこと言うんですね」
「どういう意味だ」
「何でも一人でできる人だと思っていたので」
悪意のない言葉だった。
健司は笑って受け流したものの、胸の奥に小さな棘が残った。
何でも一人でできる。
会社では、それが信頼につながっている。家では、そうするしかないと思ってきた。
だが、一人でできることと、一人ですべてをすることは、同じなのだろうか。
パソコンを閉じると、社内メッセージに一件の通知が届いた。
送信者は高橋あかりだった。
〈今日はありがとうございました。修正版、確認しました。私も最初の抽出条件を明記していなかったので、次から気をつけます〉
続けて、もう一行表示された。
〈言い過ぎていたら、すみません〉
健司は少し考えてから返信した。
〈言ってもらえて助かりました。こちらこそ、ありがとう〉
それだけ打ち、送信した。
私的な言葉を付け加えることはしなかった。
画面の右側には、社内の春季懇親会の案内が表示されていた。今週の金曜日、駅前の居酒屋で行われる。出欠の締め切りは今日だった。
健司は毎年「欠席」に印をつけている。
由美の夕食を作らなければならない。帰宅が遅くなる。娘を一人にしておけない。
断る理由には困らなかった。
今年も欠席を選びかけたとき、スマートフォンが震えた。
〈金曜、莉奈の家に泊まっていいって。莉奈のお母さんの番号送ります〉
由美からだった。
電話番号と住所が続けて送られてくる。健司が朝に言ったことを、由美はきちんと覚えていた。
〈分かった。お母さんには俺からも連絡する〉
入力したあと、少し考えて文章を直した。
〈分かった。何時ごろ連絡したら迷惑じゃないか、莉奈に聞いておいて〉
すぐに既読がついた。
〈了解〉
健司は社内メッセージの画面へ戻った。
懇親会の出欠欄は、まだ空白のままだった。
*
由美は放課後の教室で、鞄の底に入れた保護者面談の案内を見つめていた。
朝、父に「まだもらっていない」と嘘をついた紙だった。
提出期限は一週間後。第一希望から第三希望まで、保護者が来校できる日時を書かなければならない。
「由美、帰らないの?」
前の席から、莉奈が声をかけた。
「帰る。ちょっと待って」
「それ、面談の紙?」
「うん」
「うち、いつでもいいって。お母さん、パート休むらしい」
莉奈は椅子の背もたれに腕を置き、由美の手元をのぞき込んだ。
「由美のところ、お父さんが来るんだよね」
「たぶん」
「いいじゃん。由美のお父さん、ちゃんとしてるし」
「ちゃんとしすぎなんだよ」
「何それ。うちのお父さんなんか、私が何年何組かも知らないと思うよ」
莉奈の両親は、莉奈が中学生のときに離婚している。今は母親と二人で暮らしているが、父親とも月に一度ほど会っていた。
家庭について深刻そうに話さないところを、由美は少し羨ましいと思うことがある。
「この前、お母さんに彼氏できたって言ったじゃん」
莉奈が声を落とした。
「ああ、うん」
「今度、三人でご飯食べることになった」
「嫌じゃないの?」
「ちょっと嫌」
莉奈はあっさり答えた。
「でも、お母さんがずっと一人でいるのも嫌なんだよね。私が大学とか行ったあと、一人でコンビニ弁当食べてるの想像すると、そっちの方が嫌かも」
「ふうん」
「何、その反応」
「別に」
「由美のお父さんは、そういう人いないの?」
「いるわけないじゃん」
「なんで言い切れるの」
「毎日、会社と家の往復だもん。休みの日も買い物か掃除。趣味もないし」
「お父さん、まだ若いでしょ」
「四十五」
「普通に恋愛できるじゃん」
由美は面談の案内を二つ折りにした。
「しないよ、お父さんは」
口にした瞬間、胸の奥に重たいものが落ちた。
父が誰かを好きになる姿を、由美は想像したことがない。
想像しないようにしてきた、と言った方が正しかった。
もし父の隣に知らない女性が立ったら。その人が家に入り、台所に立ち、食器棚を開けたら。棚に置かれた母の写真を見て、どんな顔をするのだろう。
写真を別の場所へ移そうと言われたら、自分は何と答えるのだろう。
父が笑ってその人と話しているのを見たとき、素直に喜べるだろうか。
「どうしたの?」
「何でもない」
由美は案内を鞄の底へ戻した。
父には幸せでいてほしい。
その気持ちに嘘はなかった。
ただし、自分の知らない場所で、自分の見ていない時間だけ幸せでいてくれたらいい。家の中は変えないでほしい。母の痕跡にも、自分と父の暮らしにも触れないでほしい。
そんな都合のよい願いを、由美は誰にも話せなかった。
母が亡くなったとき、由美は六歳だった。
一緒に過ごした時間より、母がいなくなってからの時間の方が、もう長い。
母の顔は写真で思い出せる。しかし、声はほとんど覚えていない。抱きしめられたときの温度も、髪からしていた匂いも、記憶を手繰るほど曖昧になる。
父が「お母さんなら」と口にするたび、由美は試されているような気持ちになる。
自分も同じように覚えていなければならない。
忘れてはいけない。
父が大切にしている母を、自分だけが少しずつ失っていくことが怖かった。
「金曜、本当に泊まりに来る?」
莉奈の声で、由美は顔を上げた。
「行く。お父さんにも言った」
「よかった。お母さん、張り切って布団干してた」
「大げさだなあ」
「由美が泊まりに来るの、小学校以来だからじゃない?」
二人で笑いながら教室を出た。
廊下の窓から、傾き始めた陽が差し込んでいた。床に伸びた二人の影を踏みながら歩いていると、由美は少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
父のことを嫌いなわけではない。
むしろ、大切だから苦しかった。
*
午後七時を少し回ったころ、由美は帰宅した。
玄関を開けると、煮物の匂いがした。健司はすでにエプロンをつけ、台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「バス、混んでたか?」
「普通」
「先に風呂にするか? 夕飯にするか?」
「どっちでもいい」
「じゃあ、夕飯にしよう。もうできるから」
由美は鞄を自分の部屋へ置き、制服のまま食卓についた。
父が作った筑前煮と焼き魚、豆腐のみそ汁が並んでいる。どれも由美の好物だった。
健司は向かい側に座った。
「莉奈のお母さんには連絡しておいたよ」
「早いね」
「夕方なら大丈夫だって聞いたから」
「そう」
「食物アレルギーはないかって聞かれた」
「ないって知ってるでしょ」
「念のため確認した」
由美は筑前煮のレンコンを箸で割った。
父に任せれば、何も困らない。
弁当も、洗濯も、学校へ提出する書類も忘れない。制服のボタンが取れれば翌朝までに直っている。体調を崩せば、病院の受付が始まる時間を調べ、保険証と診察券を揃えてくれる。
母がいなくても困らないように、父は何もかも整えてきた。
その整いすぎた暮らしの中で、由美はときどき、自分がいつまで子どもでいればよいのか分からなくなる。
「金曜、会社で懇親会があるんだ」
健司が言った。
「行けば?」
「まだ返事はしてない」
「なんで?」
「由美が泊まりに行かない可能性もあると思っていたから」
由美の箸が止まった。
「私が家にいたら、行かなかったってこと?」
「夕飯もあるし、一人にすることになるだろ」
「一晩くらい平気だよ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
「親として当然のことだ」
健司は自分に言い聞かせるように答えた。
「由美が一人前になるまでは、俺がきちんと――」
「それ、やめて」
由美の声が、思った以上に大きくなった。
健司が目を見開く。
「何を?」
「私が一人前になるまでって言うの」
「どうして」
「私がいるから、お父さんが何もできないみたいに聞こえる」
「そんな意味で言ったんじゃない」
「でも、いつもそう言うじゃん。私が高校を卒業するまで。私が大学に入るまで。私が一人で暮らせるようになるまでって」
「親なら心配するのは当たり前だろ」
「分かってるよ」
由美は箸を置いた。
「分かってるけど、重いんだよ」
口にした瞬間、健司の表情が固まった。
由美は言いすぎたと思った。それでも、のみ込めなかった言葉が次々に出てきた。
「お父さんがずっと一人なの、私のせいみたいで嫌なの」
「由美のせいだなんて、一度も思ったことはない」
「じゃあ、どうして私を理由にするの?」
「理由になんかしてない」
「してるよ」
由美の目に涙が浮かんだ。
「私が大人になったら、お父さんは急に自分の人生を始めるの? それまで何もしたくないの? 私がずっと子どもだったら、お父さんもずっとそのままなの?」
健司は答えられなかった。
違うと言えばよかった。
由美を育てることが自分の人生なのだと、いつもなら迷わず言えたはずだった。
しかし、それを口にしたら、由美の顔がさらに苦しそうに歪む気がした。
「お母さんに悪いと思ってるの?」
由美が尋ねた。
「何が」
「お父さんが楽しいことをするのが」
「そんな話はしていない」
「してるのと同じだよ」
「由美」
「もういい」
由美は椅子を引いた。
「ごちそうさま」
「ほとんど食べてないじゃないか」
「お腹すいてない」
「部活で何かあったのか?」
由美は振り返った。
「そうやって、何でもほかに理由があることにしないで」
そのまま自分の部屋へ入り、ドアを閉めた。
健司は追いかけられなかった。
食卓には、二人分の夕食が残っていた。
由美の箸が置かれた皿には、半分に割られたレンコンがある。みそ汁からは、まだ細い湯気が立っていた。
健司はしばらく動けなかった。
由美に感謝してもらいたくて、弁当を作ってきたわけではない。
美雪との約束を守っていると認めてもらいたくて、父親を続けてきたわけでもない。
ただ、由美を守りたかった。
だが、守るという言葉を、自分に都合よく使ってはいなかっただろうか。
失敗させないように先回りし、困る前に手を差し出す。由美のためだと思いながら、何も任せてこなかった。
午後、あかりから言われた言葉がよみがえった。
――助けていたというより、失敗させないように管理したかったんです。
健司は立ち上がり、由美の部屋の前まで行った。
ドアの向こうから物音はしない。
ノックしようと右手を上げる。
謝るべきなのか。何を謝ればいいのか。弁当を作りすぎたことか。迎えに行こうとしたことか。それとも、十年間、自分の人生を由美に預けたような顔をしてきたことか。
答えが見つからないまま、手を下ろした。
「由美」
ドア越しに呼びかける。
返事はない。
「夕飯、食べたくなったら温めるから」
言えたのは、それだけだった。
健司はリビングへ戻り、一人で食卓を片づけた。
由美が残した料理にはラップをかけ、冷蔵庫へ入れた。洗い物を終え、布巾で流し台の水滴を拭く。
するべきことが決まっているあいだは、何も考えずに済んだ。
すべて終わると、部屋の中に時計の音だけが残った。
棚の上で、美雪が笑っていた。
健司は写真の前に立った。
「俺は間違ってたのかな」
もちろん返事はない。
「由美のためだと思ってたんだ」
自分の声が、空っぽの部屋に落ちる。
美雪が亡くなる数日前、健司は病室で彼女の手を握った。
鎮痛剤のために眠っている時間が増えていたが、その夜だけは目を開け、健司を見た。
――由美をお願いね。
美雪は確かにそう言った。
――分かってる。俺が守る。
健司もそう答えた。
そのあと、美雪が何か言った気がする。
由美をお願い、だけではなかった。もっと続きがあった。
健司自身のことを気遣う言葉だったようにも思う。けれど、彼は正確に思い出せなかった。
覚えているのは、自分が「俺が守る」と繰り返したことばかりだ。
美雪が望んだのは、今のような暮らしだったのだろうか。
由美が自分のせいで父親は人生を楽しめないと思い込み、健司が亡き妻への誠意と孤独を区別できなくなる。そんな十年を、美雪が望むはずはなかった。
理屈では分かった。
それでも、誰かと人生を分け合う自分を想像すると、胸の奥が強く縮んだ。
美雪を裏切るからではない。
もう一度、大切な人を失うことが怖かった。
誰かを好きにならなければ、失うこともない。由美を育てるためだと言っていれば、誰かと向き合わずに済む。
そこまで考えたところで、健司は写真から目をそらした。
認めるには、まだ時間が必要だった。
スマートフォンを手に取ると、会社の懇親会の出欠確認が残っていた。
欠席を選べば、今までと同じ金曜日になる。
由美のいない家へ帰り、一人分の夕食を作る。由美から届く連絡を待ち、写真に「おやすみ」と声をかける。
それが悪いわけではない。
ただ、その選択まで由美のためだと言うことは、もうできなかった。
健司は出席欄に印をつけた。
決定ボタンの上で指が止まる。
由美に言われたからではない。
高橋あかりに諭されたからでもない。
自分が一度くらい、これまで選ばなかった方へ足を向けてみようと思った。
ボタンを押す。
画面に「回答を受け付けました」と表示された。
わずか数秒で終わる操作だった。
それでも健司には、長く閉めたままだった窓の鍵を、自分の手で外したように感じられた。
そのとき、廊下でドアが開く音がした。
由美がリビングの入口に立っていた。泣いたのか、目の周りが少し赤い。
「ご飯、まだある?」
「ああ。今、温める」
健司は立ち上がった。
由美は食卓に座り、膝の上で指を組んだ。
「さっきは、ごめん」
「いや」
健司は冷蔵庫を開けた。
「謝るのは、俺の方かもしれない」
「何に謝るの」
「まだ、うまく言えない」
由美は黙って父の背中を見ていた。
健司は筑前煮を小鍋へ移した。電子レンジを使えば早いが、煮物は鍋で温めた方が味が戻る。そんなところだけは、どうしても変えられない。
「金曜の懇親会、行くことにしたよ」
鍋を火にかけながら、健司は言った。
「私が泊まりに行くから?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
「そっか」
由美の返事には、安堵と、言葉にできない寂しさが混じっていた。
健司には、まだそのすべてを読み取れなかった。
「面談の紙」
由美が鞄から折り畳まれた用紙を取り出し、食卓へ置いた。
「本当は、もうもらってた」
「どうして隠したんだ」
「お父さん、絶対に仕事休むって言うから」
「面談なら行くよ」
「休める日でいい。私の希望だけで決めないで」
健司はすぐに返事をしなかった。
これまでなら、仕事より由美が大事だと言い切っていた。だが今は、その言葉が由美を安心させるとは限らないことを知っている。
「分かった。会社の予定を確認して、一緒に決めよう」
由美は父の顔を見た。
「一緒に?」
「ああ。勝手には決めない」
「うん」
ほんの少し、由美の肩から力が抜けた。
鍋の中で煮汁がふつふつと音を立て始める。
健司は火を止め、料理を器へ盛った。
「卵焼き、おいしかった」
由美が小さな声で言った。
「失敗した方は、俺が食べた」
「別に、失敗した方でもよかったのに」
「次からそうするよ」
「毎回失敗するつもり?」
「そういう意味じゃない」
由美が笑った。
短く、まだ少しぎこちない笑いだった。
健司も笑った。
棚の上の写真は、二人の様子を変わらない表情で見つめている。
過去を片づける必要はない。
けれど、過去を守るために、今日まで同じ形にしておく必要もないのかもしれない。
健司はまだ、そこまで言葉にできなかった。
ただ、由美が食事を終えるまで向かい側の椅子に座り、話したいことがあれば聞くつもりで待った。
先回りして答えを出さずに、待つ。
父親になって十六年目の春に、健司が初めて覚えようとしていることだった。




