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午後の光のなかで  作者: 久遠 睦


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第10章 午後の光のなかで

あかりと会うまでの二週間、健司は食卓の上に置かれた箱を動かさなかった。

 箱の中には、淡い青と緑のマグカップが入っている。

 使うことも、食器棚へ戻すこともできない。捨てれば、自分の過ちまで処分した気になるだろう。見えない場所へしまえば、美雪のカップを奥へ移したときと同じことになる。

 由美も箱について何も言わなかった。

 美雪の赤いカップは、由美の部屋に置かれたままだった。

 朝になれば二人で食卓を囲む。健司は以前から使っていた白いカップでコーヒーを飲み、由美は黄色いカップに牛乳を注ぐ。

 必要な会話はした。

 帰宅時間、夕食、洗濯物、学校の提出書類。

 しかし、あかりや赤いカップについて話すことはなかった。

 健司は何度も切り出そうとした。

 謝罪なら、すでにした。

 元の場所へ戻そうと言えば、由美に決めさせることになる。由美のものにしてよいと言えば、自分が所有者を決めたことになる。

 どうすればよいか分からなかった。

 金曜日の夕食後、由美が食卓の箱へ目を向けた。

「いつまで、そこに置くの?」

 健司は箸を置いた。

「分からない」

「邪魔なんだけど」

「そうだな」

「捨てないの?」

「捨てたくない」

「高橋さんのカップだから?」

「青い方は俺のつもりで買った」

「それ、まだ使いたい?」

 健司は箱を見た。

「今は使えない」

「どうして?」

「二つ並べて使うところを想像して買ったから。あかりさんがどうしたいかも、由美がどう思うかも聞かなかった」

「高橋さんと別れたら、捨てるの?」

「別れるかどうかは、まだ分からない」

「そうだった」

 由美は視線を落とした。

「別れたい?」

「別れたくない」

「じゃあ、何で分からないの」

「あかりさんが、続けたいと思っているか分からないからだ」

 由美は黙った。

「お父さんが悪いのに、高橋さんが決めるの?」

「俺が続けたいと言えば、それで決まることじゃない」

「ふうん」

 由美はみそ汁を一口飲んだ。

「お母さんのカップ、私の部屋にある」

「ああ」

「返してほしい?」

「由美が持っていたいなら、今はそのままでいい」

「今は?」

「ずっと由美のものにするか、家のものとして置くか、俺も考えたい」

「お母さんのものなのに?」

「そうだな」

「亡くなった人のものって、誰のものになるの?」

 健司は答えられなかった。

 法律上の話ではないことは分かっている。

 美雪が残した服や食器、写真、手紙。それぞれに触れた記憶を、健司と由美が別々に持っている。

「一つずつ、二人で決めないか」

「全部?」

「全部を一度にやらなくていい。由美が持っていたいもの、俺が手元に置きたいもの、二人の場所に残したいものを話したい」

「捨てるものも?」

「捨てるかどうかも話す」

「高橋さんが来る前に、やればよかったね」

「ああ」

「お父さんが一人で決めてたから」

「ああ」

「私も聞かなかったけど」

「由美が悪いわけじゃない」

「そうやって、すぐにどっちが悪いか決めないで」

 健司は言葉を止めた。

「そうだな」

 由美は食べ終えた食器を重ねた。

「明日、お母さんの服を見てもいい?」

「ああ」

「高橋さんと会うのは、いつ?」

「日曜日」

「続けるか決めるんだ」

「ああ」

「私のことは、理由にしないでね」

「しない」

「家に呼びたくないことは、言っていい」

「伝える。でも、それを別れる理由にはしない」

「うん」

 由美は自分の食器を流しへ運んだ。

「赤いカップは、明日持ってくる」

「分かった」

 その夜、健司は食卓の箱を壁際へ移した。

 隠すためではなく、由美が椅子を引くときに邪魔にならない場所へ置いた。

     *

 翌日の午後、二人は寝室の押し入れから美雪の衣装ケースを出した。

 赤いカーディガン。薄い水色のブラウス。冬用のマフラー。料理をするときに使っていた花柄のエプロン。

 由美は一枚ずつ広げた。

「このエプロン、覚えてるかも」

「本当か」

「ポケットに飴を入れてた」

「ああ。由美が夕飯まで待てないと、こっそり渡してたな」

「お父さんに見つかって、怒られてた?」

「俺は、夕飯を食べなくなるからやめろと言っていた」

「お母さんは?」

「一個くらい大丈夫って」

「それ、覚えてる気がする」

 由美はエプロンのポケットへ手を入れた。

 中には何もなかった。

「これ、私が持っていていい?」

「ああ」

「料理には使わないけど」

「構わないよ」

 健司は赤いカーディガンを手に取った。

「これは?」

「今は家に置いておく。いつか着るかもしれない」

「分かった」

 水色のブラウスには、小さなしみが残っていた。

「これは、もう着られないな」

「捨てる?」

「由美は残したい?」

「覚えてない服だから、分かんない」

「俺は、美雪がこれを着ていたところを覚えている。でも、残さなければ忘れるというものでもない」

「捨ててもいい?」

「ああ」

「本当に?」

「少し寂しい。でも、置いておく理由が、捨てるのが怖いだけなら、手放してもいいと思う」

 由美はブラウスを処分する袋へ入れた。

 健司の胸に痛みが走った。

 袋から取り出したい気持ちもあった。

 それでも手を伸ばさなかった。

 すべての品を残さなければ、美雪への愛情が失われるわけではない。

 二時間ほどかけて、衣装ケース一つ分を整理した。

 由美が持つもの。健司が残したいもの。二人の場所に置くもの。処分するもの。

 迷った品は、決めずにケースへ戻した。

「全部決めなくていいんだね」

 由美が言った。

「ああ」

「前のお父さんなら、今日中に終わらせたと思う」

「俺も、そう思う」

 由美は自室から赤いカップを持ってきた。

「これは、食器棚へ戻したい」

「いいのか」

「私の部屋にあると、お母さんを取ったみたいで落ち着かなかった」

「どこへ置く?」

「前と同じところ」

「あかりさんのカップとは?」

「まだ箱の中でしょ」

「ああ」

「高橋さんが使いたいって言うまでは、出さなくていいんじゃない」

「そうだな」

「でも、お父さんが決めないでね」

「ああ」

 二人は台所へ行き、赤いカップを食器棚へ戻した。

 以前と同じ上段の手前だった。

 健司はカップの向きを直そうとしたが、手を止めた。

 由美が置いた形のまま、扉を閉めた。

     *

 二週間後の日曜日、健司とあかりは公園近くの喫茶店で会った。

 前回、交際を始めてから最初に訪れた店だった。

 健司が到着すると、あかりはすでに窓際の席に座っていた。

「お待たせしました」

「今日は私の方が早かったですね」

「何分前?」

「五分です」

「俺は時間どおりだよ」

「知っています」

 あかりは少し笑った。

 健司は向かい側へ座った。

 店員が水を置き、注文を取る。あかりはカフェオレを、健司はコーヒーを頼んだ。

 飲み物が届くまで、二人とも本題を切り出せなかった。

「由美と、美雪の服を整理した」

 健司が先に話した。

「そうですか」

「由美が持ちたいもの、俺が残したいもの、二人の場所へ置くものを話した」

「赤いカップは?」

「由美が食器棚へ戻した」

「あの緑のカップは?」

「箱に入れたままだ」

 あかりはテーブルに置かれた水のグラスを見た。

「捨てたと思っていました」

「捨てた方がいい?」

「私に聞かれても、まだ分かりません」

「ああ」

「健司さんは、使いたいですか」

「青いカップだけを使うことも考えた。でも、今は使いたくない」

「どうして?」

「二つ一緒に選んだからだと思う。あかりさんの答えを聞かずに作った形を、俺だけで使い始めたくない」

「そうですか」

 あかりは息を吐いた。

「私は、緑のカップを捨ててほしくありません」

 健司は顔を上げた。

「使いたいという意味ではありません。まだ見たくない気持ちもあります」

「ああ」

「でも、あれを見てうれしいと思った自分まで、なかったことにしたくないんです」

「分かった」

「いつか、自分で使いたいと思うかもしれません」

「そのときに、出そう」

「はい」

 あかりは窓の外へ目を向けた。

 公園の木々が、風に揺れている。

「二週間、考えました」

 健司の胸が緊張した。

「はい」

「私は、健司さんと別れたくありません」

 健司は息を吐いた。

「ありがとう」

「でも、すぐに家へ戻りたいとも、由美さんと関係を作り直したいとも思っていません」

「ああ」

「しばらくは、健司さんと二人で会いたいです」

「分かった」

「由美さんについては、聞いてよいと確認されたことだけ話してください」

「ああ」

「私を家へ迎える準備を、一人で始めないでください」

「しない」

「同居や結婚についても、今は考えたくありません」

「俺も、今すぐ考えてはいない」

「その言葉を、先延ばしの理由にも使わないでください。いつか私が考えたいと言ったら、そのときは話してください」

「分かった」

「由美さんが家を出るまで待つ、と決めるのも嫌です」

 健司は頷いた。

「由美が家を出たら、空いた場所へあかりさんを入れるようなことはしない」

「はい」

「俺も、この二週間で考えた」

 あかりが健司を見る。

「別れたくない。でも、あかりさんに戻ってきてもらうために、由美を説得するつもりもない」

「そうしてください」

「由美があかりさんに会いたいと言うまで、待ってほしいとも言わない」

「では、会えないままでも?」

「その可能性もある。俺は由美と話し続ける。でも、結論を約束はできない」

「はい」

「あかりさんが、それでは続けられないと思ったら、言ってほしい」

「言います」

 あかりはカフェオレを一口飲んだ。

「今は、続けたいです」

「俺もだ」

 二人の間にあった緊張が、わずかに緩んだ。

 健司はテーブルの上へ手を置いた。

 あかりの手を求めて伸ばすことはしなかった。

「手をつながないんですか」

 あかりが尋ねた。

「今は、嫌かもしれないと思って」

「聞けばいいでしょう」

「手をつないでもいい?」

 あかりは少し考えてから、自分の手を重ねた。

「はい」

 握った手は以前より慎重だった。

 それでも、互いに離さなかった。

     *

 二人は以前より少ない頻度で会うようになった。

 毎週末ではなく、二週間に一度ほど。映画や写真展へ行き、食事をして別れる。

 健司が由美の話をするときは、どこまで伝えてよいかを確かめた。あかりも、質問したくなったときには、一度考えてから口にした。

 十月の初め、二人は海辺の駅へ出かけた。

 健司が一人で訪れた場所だった。

 あかりはカメラを持ってきた。ホームのベンチ、線路の先に見える海、風に揺れるススキを撮る。

「前に来たときと、違って見えますか」

 あかりが尋ねた。

「人が多い」

「私一人ですよ」

「一人増えたら、二倍だ」

「そういう数え方ですか」

 二人はベンチへ座った。

 健司は弁当を二つ取り出した。

「作ってきたんですか」

「ああ。由美の分を作るついでに」

 言ったあと、健司は訂正した。

「違うな。今日は、あかりさんと食べるために作った」

「由美さんと同じもの?」

「卵焼きと唐揚げは同じ。あかりさんの方には、パクチーを入れていない」

「入れる可能性があったんですか」

「駅前の店で、パクチー入りの鶏料理を見つけたから」

「健司さんは食べたい?」

「一度は食べてみたい」

「では、私がいない日にしてください」

「分かった」

 あかりは弁当の蓋を開けた。

 赤、黄、緑の三色が入っている。

 健司は美雪の話をしなかった。

 あかりも尋ねなかった。

「卵焼き、少し甘いですね」

「嫌い?」

「好きです」

「よかった」

 二人は海を見ながら食べた。

 食後、あかりが健司の写真を一枚撮った。

「どんな顔をしてる?」

「少し緊張しています」

「撮られるのは慣れない」

「写真、送りますか」

「俺にだけ送ってくれ」

「由美さんには?」

「見せてよいか、あとで聞く」

「そうしてください」

 帰りの電車で、あかりは眠った。

 健司の肩へ頭が触れそうになり、何度か離れる。健司は支えようとせず、姿勢を少しだけ変えた。

 やがて、あかりの頭が肩に乗った。

 健司は動かなかった。

     *

 十月末、由美が文化祭の展示写真を健司へ見せた。

 床には、色紙で作った矢印が並んでいる。

「来た人が迷わなくなった」

「よかったな」

「高橋さんの言ったこと、役に立った」

「あかりさんに伝えていい?」

 由美は少し考えた。

「この写真だけ送ってもいい」

「感想も?」

「役に立ったって言って」

「分かった」

 健司は、由美が選んだ一枚だけをあかりへ送った。

〈由美から、展示について伝えてよいと言われました。床に矢印を付けたところ、来場者が迷わなくなったそうです。助言が役に立ったと話しています〉

 あかりから返事が届いた。

〈教えてくださり、ありがとうございます。写真を送ってもよいか、由美さんに確認してもらえますか〉

「高橋さんも写真を送りたいって」

「何の?」

「まだ聞いてない」

「じゃあ、いいよ」

「見てから決めなくていいのか」

「変な写真だったら、お父さんに消してもらう」

「分かった」

 あかりから届いたのは、古い商店街の路面に描かれた矢印の写真だった。

 塗装が剥がれ、半分ほど消えかけている。それでも、進む方向は分かる。

 画像の下に短い文章が添えられていた。

〈以前撮った矢印です。由美さんの展示を見て思い出しました。返事は不要です〉

 由美は画面を見つめた。

「これ、私に送ってくれたの?」

「ああ」

「返事はいらないって」

「そう書いてあるな」

「本当に返さなくていいのかな」

「由美が決めていい」

「じゃあ、今は返さない」

「分かった」

 由美は写真を自分のスマートフォンへ転送した。

 そのことをあかりへ伝えてよいかは、健司も聞かなかった。

     *

 十一月、美雪の命日が近づいた。

 健司と由美は、毎年二人で墓参りへ行っている。

 今年も同じように花を買い、午前中に家を出るつもりだった。

 命日の一週間前、健司はあかりにその予定を話した。

「そうですか」

 あかりはそれ以上尋ねなかった。

「一緒に行きたい?」

 健司が聞くと、あかりは困った顔をした。

「健司さんは、来てほしいですか」

「今は、俺の方から誘うべきではないと思っている」

「どうして?」

「由美にとっては、母親に会いに行く日だから」

「健司さんにとっても、でしょう」

「ああ」

「私が行けば、何かが変わる気がします」

「そう思う」

「美雪さんに挨拶をして、交際を認めてもらうような場にはしたくありません」

「俺も、そういうつもりはない」

「亡くなった方に、許可を求めることはできませんから」

「ああ」

「今年は、二人で行ってください」

 あかりはそう答えた。

 健司も無理に誘わなかった。

 命日の三日前、夕食中に由美が尋ねた。

「高橋さんは、墓参りに来ないの?」

「誘っていない」

「どうして?」

「由美が嫌かもしれないと思った」

「また私の気持ちを先に決めたの?」

 健司は箸を止めた。

「そうだな。聞くべきだった」

「高橋さんは、来たいの?」

「一度話した。あかりさんは、今年は二人で行った方がいいと言った」

「お父さんは?」

「いつか一緒に行けたらと思っている」

「お母さんに紹介したい?」

「紹介という言い方が合うかは分からない」

「じゃあ、何で?」

 健司は考えた。

「美雪がいたことを、あかりさんには名前や写真だけではなく、俺と由美が大切にしている場所として知ってほしい」

「高橋さんを連れていったら、お母さんが許したみたいになるのは嫌」

「俺も、そうしたくない」

「お父さんは、もう付き合ってるもんね」

「ああ」

「許してもらうためじゃないんだ」

「ああ」

 由美はしばらく黙っていた。

「来てもいいと思う」

「本当に?」

「でも、お母さんへの花は、今までどおり二人で選びたい」

「分かった」

「高橋さんに別の花束を持ってきてほしくない」

「ああ」

「お母さんに何て言うかは、高橋さんが決めていい。でも、結婚しますとかは嫌」

「そんな話はしていない」

「ならいい」

「気が変わったら言ってくれ」

「うん」

 健司は、由美が会ってよいと言ったことをあかりへ伝えた。

 あかりからの返事は、翌日まで来なかった。

〈由美さんが本当に無理をしていないなら、同行したいと思います。ただし、花は持っていきません。お墓の掃除など、必要なことがあれば教えてください〉

 由美へ画面を見せる。

「花を持ってこないって」

「あかりさんらしいな」

「お父さん、高橋さんのこと分かってるみたいに言わないで」

「交際しているから、少しくらいは分かるよ」

「全部は分からないでしょ」

「ああ。全部は分からない」

「なら、いい」

     *

 命日の朝、三人は墓地の最寄り駅で待ち合わせた。

 空気は冷たかったが、よく晴れていた。

 由美は母の好きだった白と黄色の花を抱えている。健司は掃除用の布と線香を持ち、あかりは何も持たずに来た。

「おはようございます」

 あかりが頭を下げる。

「おはようございます」

 由美も挨拶を返した。

 三人は墓地へ向かって歩いた。

 健司と由美が並び、あかりは少し後ろを歩く。途中から由美の歩調が緩み、三人の位置が横一列になった。

 墓地は、午後を待たずに柔らかな日差しに包まれていた。

 美雪の墓の前へ着く。

 健司が水をくみ、墓石へかける。由美は古い花を片づけ、新しい花を供えた。

「あかりさん、そこを拭いてもらっていいですか」

 由美が墓石の側面を示した。

「はい」

 あかりは健司から布を受け取り、しゃがんだ。

「強くこすって大丈夫ですか」

「そのくらいなら」

 由美が隣で答える。

 二人は並んで墓石を拭いた。

 掃除が終わると、健司が線香に火をつけた。

 三人は順番に手を合わせる。

 健司は目を閉じた。

 以前なら、美雪へ長い言葉を語りかけていた。

 由美を守ること。忘れないこと。一人で父親を続けること。

 今日は、約束を重ねるつもりはなかった。

 目を開け、墓石に刻まれた名前を見る。

「美雪」

 健司は声に出した。

「今日は、あかりさんにも来てもらった」

 それ以上は言わなかった。

 由美が一歩前へ出た。

「お母さん」

 声が少し震えている。

「私、東京の大学を考えてる。まだ決めてないけど、行きたいところをちゃんと見ることにした」

 由美は鼻をすすった。

「お父さんのことは、お父さんに任せる。心配しないわけじゃないけど」

 健司は由美を見た。

 由美は父を見ず、墓石へ向かって続けた。

「お母さんのこと、忘れてる部分もある。でも、覚えてないから娘じゃなくなるわけじゃないよね」

 返事はない。

 風が吹き、供えた花が揺れた。

 あかりは墓石の前へ立った。

「高橋あかりです」

 深く頭を下げる。

「はじめまして。健司さんと、お付き合いしています」

 あかりの声も震えていた。冷たい風が、墓石の間を通り抜けていく。

「美雪さんの代わりになることはできません。なるつもりもありません。でも、ときどき嫉妬します。うらやましいと思うこともあります」

 由美があかりを見た。

「うまく言えなくて、すみません」

 あかりはもう一度頭を下げた。

「健司さんと由美さんの大切な場所へ、今日は来させていただき、ありがとうございました」

 三人はしばらく墓前に立っていた。

 誰からも許しの言葉は聞こえない。

 答えが与えられることもない。

 ただ、墓石の前には一つの花束があり、その周りに三人分の影が落ちていた。

     *

 墓地から駅へ戻る坂道で、由美があかりへ尋ねた。

「お墓を見ても、嫉妬しました?」

「少しだけ」

「本当に言うんですね」

「聞かれたので」

「どんな感じ?」

 あかりは歩きながら考えた。

「健司さんと由美さんが、美雪さんと過ごした時間を、私は知らない。そのことを寂しいと思いました」

「私も、知らないこと多いです」

「そうですね」

「でも、高橋さんは、お父さんのこれからを知るかもしれない」

「由美さんも知るでしょう」

「私は家を出るかもしれないから」

「家を出ても、健司さんの娘であることは変わりません」

「高橋さんに言われると、少し変な感じ」

「すみません」

「嫌っていう意味じゃないです」

 由美は坂道の先を見た。

「私も、高橋さんに嫉妬してます」

 あかりが足を止めかける。

「健司さんに?」

「私の知らないお父さんを、高橋さんが知っていくから」

「はい」

「否定しないんですね」

「否定できません。私は由美さんの知らない健司さんを知ることがあると思います」

「お父さんの格好悪いところも?」

「かなり知っています」

「例えば?」

「それは本人の許可が必要です」

「私のことは勝手に話したのに」

 後ろを歩いていた健司が口を挟む。

「今は勝手に話していないだろ」

「今はね」

 由美が笑った。

 あかりも少し笑う。

「今度、許可をもらってからお話しします」

「話さなくていい」

「お父さんは黙ってて」

「二人とも、急に仲良くならないでくれ」

 健司が言うと、由美の表情が硬くなった。

「あかりさんと仲良くなったわけじゃないよ」

「分かってる。今のは冗談だ」

「そういう冗談、まだ嫌」

「悪かった」

 あかりは二人の間へ入らなかった。

 由美はしばらく黙って歩いたあと、あかりへ言った。

「高橋さんが嫌だったんじゃないです」

「はい」

「仲良くなるのを、お父さんが喜ぶのが嫌だった」

「分かります」

「本当に?」

「健司さんを安心させるために、仲良くするつもりはありません」

「ならいいです」

 三人は再び歩き始めた。

 駅へ着くまで、誰も手をつながなかった。

     *

 墓参りから二週間後、由美が健司へ言った。

「高橋さん、また家に来てもいいよ」

 健司はすぐに返事をしなかった。

「本当に?」

「前みたいに大げさにしないで」

「条件は?」

「日曜日の午後。二時間くらい」

「食事は?」

「お茶だけ。でも、お腹すいたら何か食べるかも」

「贈り物は?」

「写真を持ってきてほしい」

「何の写真?」

「商店街の矢印。スマホじゃなくて、紙で見たい」

「分かった」

「お母さんのカップは、そのままにして」

「ああ」

「緑のカップは……」

 由美は食卓の隅に置かれた箱を見た。

「高橋さんが使いたいなら、出してもいい」

「由美が決めていいのか」

「食器棚に置くかどうかは、三人で決めるんでしょ」

「そうだな」

「あの箱、ずっと邪魔だし」

「それが一番の理由か」

「半分くらい」

 健司はあかりへ連絡した。

 あかりは、一晩考えてから訪問を受け入れた。

     *

 日曜日の午後、インターホンが鳴った。

 健司が玄関を開ける。

 あかりは小さな封筒だけを持って立っていた。

「こんにちは」

「どうぞ」

 リビングでは、由美が待っている。

「こんにちは」

「こんにちは」

 あかりは封筒を由美へ差し出した。

「頼まれた写真です。受け取ってもらえますか」

「はい」

 中には、商店街の路面に描かれた矢印の写真が入っていた。

 スマートフォンで見るより、剥がれた塗装や道路の細かな亀裂がはっきり見える。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 あかりは食卓の椅子へ座った。

 健司は台所へ向かったが、すぐに振り返った。

「飲み物は、何がいい?」

「カフェオレをお願いします」

「カップは?」

 健司が尋ねる。

 あかりは食卓の箱を見た。

「開けてもいいですか」

「はい」

 由美が答えた。

 あかりは箱を開き、緑色のカップを両手で取り出した。

「今日は、これを使ってもいいですか」

 由美は食器棚を見た。

 上段には、美雪の赤いカップが置かれている。

「はい」

「使ったあと、どこへ置きましょう」

「食器棚でいいと思う」

「健司さんは?」

「俺も、それでいい」

「私は、次に来ることが決まっているわけではありません」

「また来たくなったら来ればいいです」

 由美は写真を見たまま言った。

「来たくなくなったら、置いておいてもいいし」

「ありがとうございます」

 あかりは緑のカップを健司へ渡した。

 健司は自分用に、以前から使っている白いカップを出した。

「青い方は使わないの?」

 由美が尋ねる。

「今は、白い方がいい」

「青も捨てない?」

「ああ。使いたいと思ったときに使う」

「そっか」

 由美は黄色いカップを自分で出した。

 健司が湯を沸かす。

「あかりさん、砂糖を取ってもらっていいですか」

 由美が頼んだ。

 あかりは一度、健司を見た。

「由美が頼んでる」

 健司は答えた。

 あかりは立ち上がり、台所の入口まで来た。

「どこにありますか」

「上の棚です」

 由美が教える。

 あかりは指定された棚から砂糖を取り、食卓へ置いた。それ以上は台所へ入らず、席へ戻った。

 健司は白いカップへコーヒーを、緑のカップへカフェオレを、黄色いカップへ紅茶を注いだ。

 三人が席へ着く。

 由美は写真をあかりへ向けた。

「この矢印、どこへ続いてるんですか」

「商店街の駐車場です」

「普通ですね」

「普通の場所にも、案内は必要ですから」

「この先に何があるか分からない方が、写真では面白いかも」

「由美さんなら、どう撮りますか」

「矢印の先を写さない」

「私も、そうすればよかったと思います」

「今度、撮り直すんですか」

「同じ場所へ行って、まだ残っていれば」

「私も写真撮ってみようかな」

「カメラ、貸しましょうか」

 由美の表情が少し硬くなる。

 あかりはすぐに続けた。

「今ではなく、使ってみたいと思ったときで大丈夫です」

「スマホでも撮れますよね」

「はい。最初は、その方が自由に撮れるかもしれません」

「じゃあ、スマホでやってみます」

 健司は二人の会話を聞きながら、コーヒーを飲んだ。

 何も言わずにいると、由美が父を見る。

「何、笑ってるの」

「笑ってないよ」

「笑ってる」

「少し、うれしかっただけだ」

「私たちが仲良くなったと思ってる?」

「思ってない」

「本当に?」

「ああ。写真の話をしているだけだろ」

 由美はあかりを見た。

「そうです」

 あかりも答えた。

「仲良くならなきゃいけないわけじゃないですから」

「はい」

 由美は安心したように紅茶を飲んだ。

 窓から差し込む陽が、食卓の端まで伸びていた。

 棚の上では、美雪が写真の中で笑っている。その下の食器棚には、赤いカップが見える。

 食卓には、形も色も異なる三つのカップが置かれていた。

「カフェオレ、少し薄くない?」

 あかりが健司へ尋ねる。

「前と同じ分量だよ」

「今日は牛乳が多い気がします」

「じゃあ、次は少し減らす」

「自分で入れた方が早いかもしれません」

「台所に入りたい?」

「今すぐではありません」

「分かった」

「でも、いつか自分で入れてもいいと思ったら、そのとき聞きます」

「ああ」

 由美は二人の会話を聞き、赤いカップへ目を向けた。

「緑のカップ」

 由美が言った。

「そこに置いておいてもいいです」

 あかりはすぐには答えなかった。

「次に来るか分からないけど」

 由美が付け加える。

「はい。次に来たときも、使ってよいか聞きます」

「毎回聞くの?」

「由美さんが、もう聞かなくていいと言うまでは」

「面倒じゃないですか」

「少しだけ」

 あかりが笑った。

「でも、勝手に決めるよりいいです」

「それ、お父さんに言ってる?」

「半分くらいは」

「二人とも、俺を見ながら言わないでくれ」

 三人の声が重なった。

 笑いが収まると、部屋にはしばらく穏やかな沈黙が残った。

 誰かが亡くなった人の場所へ入り、代わりになることはない。

 過去を片づけた分だけ、未来の場所が増えるわけでもない。

 健司は、言葉にせず棚と食卓を見た。

 赤いカップは、以前と同じ場所にある。

 緑のカップは、あかりが選んで使っている。

 由美は写真を手に取り、どこから撮れば矢印の先を隠せるか、あかりへ尋ねていた。

 健司は二人の答えを先に考えなかった。

 聞かれたときだけ、自分の考えを話せばよい。

 午後の光のなかで、三つのカップから立つ湯気が、別々の方向へ揺れながら、ゆっくりと消えていった。


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