第9話 読まれなかった神様たち
朝が夜になった。
窓の外には、ついさっきまで朝の町があったはずだった。
出勤する会社員。
自転車で走る高校生。
ゴミ収集車の音。
隣室の洗濯機の振動。
いつもの、平日の朝。
それが、扉を開けた瞬間に全部裏返った。
空は黒い。
星がある。
近所のアパートの窓はどこも暗く、道路を走る車もない。
ただ、夜なのに妙に明るい。月明かりというより、紙の裏側から透ける光みたいな、頼りない白さだった。
玄関の前には、制服姿の少女が倒れている。
胸に封筒が刺さっていた。
血は出ていない。
代わりに、黒いインクが床へ落ちている。
読まれなかった恋文の神様。
彼女はそう名乗った。
いや、名乗ったというより、しずくがそう言った。
神様本人は、黒瀬依子の名前を呼んで、封筒を差し出しただけだった。
黒瀬はその封筒を受け取っていた。
封筒には、丁寧な字でこう書かれている。
黒瀬依子様。
差出人の名前は、黒く塗り潰されていた。
その黒塗りを見た瞬間、黒瀬は少しだけ息を止めた。
「……また、黒い」
彼女は言った。
声が震えている。
「写真の顔も黒く塗られてた。封筒の名前も黒い。ねえ、これ、同じ人だよね?」
「たぶん」
僕が答えると、黒瀬は少しだけ僕を睨んだ。
「たぶん、じゃなくて」
「同じ人だと思います」
「……うん」
黒瀬は封筒を握りしめた。
壊れたビニール傘は、脇に抱えている。
メロンパンの袋は机の上で破れていた。
そこから出てきた紙には、まだ読むな、と書かれていた。
たぶん、消えた三人目の字だ。
いや、僕はその人の字を知らない。
知らないはずなのに、なぜかそう思った。
黒瀬は封筒を開けようとして、指を止めた。
「……ねえ」
「はい」
「これ、読んだらどうなると思う?」
「わかりません」
「でしょうね」
「すみません」
「謝らないで。わかってたから」
黒瀬は苦笑した。
でも、その顔は泣きそうだった。
「読んだら思い出すのかな」
「かもしれません」
「思い出したら、私、敵になるのかな」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。
黒瀬は、そういう僕の沈黙を見て、少しだけ笑った。
「そこで大丈夫って言わないところ、水無月さんらしいよね」
「言えればよかったんですが」
「言われたら、たぶん怒ってた」
「難しいですね」
「人間だからね」
黒瀬は封筒を見つめる。
「私さ、恋文なんてもらったことないんだけど」
「そうなんですか」
「そこ、少し驚くのやめてくれる?」
「すみません」
「別にいいけど。いや、よくはないけど。何かこう、自分で言って少し悲しくなったけど」
黒瀬は気まずそうに視線を逸らした。
「そもそも、恋文って言い方が古いのよ。普通、今ならメッセージとか、SNSとか、そういうのでしょ。手紙って。しかも封筒。重い。怖い。あと、少しだけ嬉しいのが腹立つ」
「嬉しいんですか」
「そりゃ、私宛てならね」
黒瀬は小さく言った。
「誰かが、私に何か言おうとしてたんでしょ。読まれなかったってことは、届かなかったってことでしょ。だったら、読みたいじゃん」
彼女は唇を噛む。
「でも、読みたくない。読んだら、たぶん戻れない。もう、訳がわからないまま泣いてるだけの私ではいられなくなる」
しずくが、玄関の外に倒れた少女を見ていた。
読まれなかった恋文の神様は、まだ死んでいない。
胸に封筒が刺さったまま、浅い呼吸をしている。
神様に呼吸が必要なのかはわからない。
けれど、彼女は苦しそうだった。
「しずくさん」
僕が呼ぶと、しずくは振り返った。
「はい」
「この神様を中に入れたら、朝は夜になると遺言にありました」
「はい」
「もう夜になりました」
「はい」
「では、入れた後の問題はもう起きたということですか」
「いいえ」
しずくは首を振った。
「夜になっただけです。まだ、夜が始まったわけではありません」
「違いがあるんですね」
「あります」
黒瀬が、封筒を握ったまま言った。
「しずくさん、お願いだから、今はわかる言葉で」
「すみません」
「謝らなくていい。説明して」
「はい」
しずくは少し考えた。
「朝は、神様が死ぬ時間です」
「うん」
「夜は、読まれなかったものが起きる時間です」
黒瀬の顔が少し引きつった。
「起きる?」
「はい。昼間、人間に読まれなかったもの。言われなかった言葉。届かなかった手紙。開かれなかった日記。送信されなかったメッセージ。消された下書き。そういうものが、夜に目を覚まします」
「それ、怖すぎない?」
「はい」
「はい、じゃなくて」
「でも、悲しいものでもあります」
しずくは玄関の少女を見た。
「読まれなかったものは、読まれたかったものですから」
黒瀬は何も言わなかった。
封筒を持つ手が、少しだけ震えている。
「その神様は、死にそうなんですか」
僕が聞くと、しずくは頷いた。
「読まれなかった恋文の神様は、読まれた瞬間に死にます」
「読まれたら死ぬんですか」
「はい」
「読まれなかったままでも?」
「死にます」
黒瀬が低い声で言った。
「どっちでも死ぬじゃん」
「はい」
「最低」
「はい」
「本当に最低」
黒瀬は、そう吐き捨てるように言った。
怒っている。
また、ちゃんと怒っている。
それが僕には少しだけ救いだった。
黒瀬は、神様の死に怒る。
忘れた人に泣く。
届かなかった恋文を怖がりながら、読みたいと言う。
この世界がどれだけ狂っても、彼女は感情で現実を殴り返している。
読まれなかった恋文の神様が、薄く目を開けた。
「黒瀬、依子さん」
「はい」
黒瀬は、封筒を胸に抱えたまま膝をついた。
少女の前に。
怖いはずなのに、彼女はちゃんと目線を合わせた。
「私、黒瀬依子です」
神様の少女は、小さく笑った。
笑うと、唇の端からインクがこぼれた。
「よかった。今度は、届きました」
「今度は?」
「何度も、届きませんでした」
「何度も?」
「はい」
少女の声は、紙を擦る音に似ていた。
「机の引き出しで、眠ったまま。鞄の底で、潰れたまま。渡そうとして、渡せないまま。雨で濡れて、読めないまま。送信ボタンを押せないまま」
黒瀬の顔が歪んだ。
「誰が」
「名前は、読めません」
「あなたにも?」
「はい」
少女は、胸に刺さっていた封筒の跡を押さえる。
「恋文は、宛名より先に差出人が死にます。届かない恋は、まず書いた人の名前から失くします」
「そんなの」
黒瀬の声が震える。
「そんなの、ひどい」
「はい」
神様は素直に頷いた。
「ひどいです」
黒瀬は一瞬だけ言葉を失った。
神様が自分で「ひどい」と言うと、怒りのぶつけ先がわからなくなる。
僕もそうだった。
この世界はひどい。
神様もそれをわかっている。
でも、わかっているからといって、誰かが救われるわけではない。
「黒瀬」
僕は言った。
「読むかどうかは、黒瀬が決めてください」
黒瀬が僕を見る。
「水無月さんは?」
「僕は、読みたいです」
「正直」
「はい。でも、それは僕が知りたいだけです。黒瀬宛ての手紙だから、黒瀬が決めることだと思います」
「……しずくさんは?」
「私は」
しずくは、少しだけ迷った。
「読んでほしいです」
「なぜ」
「読まれなかった神様が、目の前でまた読まれないまま死ぬのは、寂しいので」
「そっか」
黒瀬は目を伏せた。
「寂しいか」
彼女は封筒を見た。
差出人は黒塗り。
中には、何が書かれているのかわからない。
「私ね」
黒瀬はぽつりと言った。
「好きな人がいたのかどうかも、覚えてないの」
誰も口を挟まなかった。
「その人に好かれてたのかもわからない。私が何を言ったのかも、何を言えなかったのかも、全然わからない。なのに、この封筒を持つと、胸の奥が変に痛い」
黒瀬は、少しだけ笑った。
「恋って、覚えてなくても残るものなのかな」
「たぶん」
僕は答えた。
黒瀬がこちらを見る。
「水無月さん、恋愛経験あるの?」
「ありません」
「ないのに言った?」
「はい」
「堂々としてるなあ」
「すみません」
「でも、たぶんって感じはする」
黒瀬は封筒の封を、少しだけ開いた。
その瞬間、夜の空が軋んだ。
窓の外で、星が一つ落ちた。
いや、星ではない。
文字だった。
夜空に浮かんでいた小さな句読点が、地上へ落ちたのだ。
「……何か落ちた」
黒瀬が言う。
「夜が読まれ始めています」
しずくが答える。
「手紙を読むと?」
「読まれなかったものたちが、目を覚まします」
黒瀬は手を止めた。
「ここでやめたら?」
「読まれかけたままになります」
「それは?」
「たぶん、一番苦しいです」
黒瀬は苦い顔をした。
「ほんと、選択肢が全部嫌」
彼女は封筒を開けた。
中から、一枚の便箋が出てくる。
白い便箋。
端が少し折れている。
紙には、丁寧な字が並んでいた。
黒瀬の手が震える。
「……読める」
「差出人は?」
僕が聞くと、黒瀬は首を横に振った。
「名前だけ、黒い」
彼女は便箋の最後を見た。
そこには、やはり黒い塗り潰しがあった。
でも本文は読める。
黒瀬は、息を吸った。
そして、読み始めた。
「黒瀬へ」
その声は、少しだけ震えていた。
「たぶん、こういう手紙は似合わないと思う。黒瀬は絶対に笑うし、赤くなるより先に怒ると思う。だから、渡す前から少し後悔してる」
黒瀬の眉が動いた。
「……何よ、それ」
彼女は文句を言いながらも、読み続けた。
「でも、言わないままいる方が、もっと後悔しそうだから書く」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
夜が深くなる。
玄関の少女は、穏やかな顔で黒瀬を見ている。
「黒瀬は、自分が怒りっぽいと思ってるかもしれないけど、俺はそうは思わない。怒る前に、ちゃんと傷ついてるのを知ってる。怒鳴るのは、傷ついたことをごまかすためで、ツッコむのは、怖い時に自分を立たせるためだと思う」
黒瀬の声が止まった。
彼女は、便箋を握りしめる。
「……何で」
涙が一粒、便箋に落ちた。
「何で、こんなに知ってるのよ」
誰も答えられない。
黒瀬は涙を拭かずに読み続けた。
「俺は、黒瀬が怒っている時が一番生きていると思う。ひどい言い方かもしれない。でも本当にそう思う。怒って、怖がって、それでも逃げずに目を開けている黒瀬を見ると、自分もまだここにいていい気がする」
しずくが、小さく息を呑んだ。
僕は、写真の黒く塗り潰された顔を思い出した。
うっすら見えた口元。
嫌な笑い方。
黒瀬が「嫌なやつ」と言った誰か。
その誰かは、黒瀬のことをこんなふうに見ていた。
黒瀬は、便箋を見つめたまま固まっていた。
「……読む」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「最後まで読む」
それは、決意だった。
「黒瀬はたぶん、俺がこんなことを書いたら、『重い』って言う」
黒瀬が泣きながら笑った。
「言うわよ」
「でも、重くていいと思った。軽く言ったら、黒瀬は本気にしないから」
「……腹立つ」
黒瀬の声はぐちゃぐちゃだった。
怒っている。
泣いている。
笑っている。
怖がっている。
その全部が同時に出ていた。
「俺は黒瀬が好きです」
その一文を読んだ瞬間、部屋の夜が静かになった。
時計も動かない。
空気も動かない。
読まれなかった恋文の神様だけが、少しだけ微笑んだ。
黒瀬は、便箋から目を離さなかった。
「好きです。たぶん、ずっと前から。黒瀬がくだらないことで怒っている時も、怖い話を聞いて本気で怖がってるくせに強がってる時も、誰かが忘れたことを最後まで覚えようとしてる時も、俺はずっと、黒瀬が好きでした」
黒瀬の肩が震えた。
「だから、もしこの手紙が読まれなかったら、俺はたぶん情けないまま終わる。でも、黒瀬がこれを読んで怒ったなら、それはそれでいいと思う。黒瀬は怒ってる時が一番、ちゃんと黒瀬だから」
黒瀬は便箋の最後に目を落とした。
差出人の名前。
黒い塗り潰し。
彼女の唇が震える。
「名前が、読めない」
声が小さかった。
「ここまで読んでも、名前が読めない」
読まれなかった恋文の神様が、目を伏せた。
「まだ、届ききっていません」
「どうすれば届くの」
「返事を」
「返事?」
「はい」
神様は、胸の封筒を押さえながら言った。
「恋文は、読まれるだけでは届きません。返事をされて、初めて届きます」
黒瀬は唇を開いた。
でも、すぐに閉じた。
「無理」
彼女は言った。
「無理よ。だって、誰かわからない。名前も顔も思い出せない。好きって書かれてるのに、私がどう思ってたのかもわからない」
「黒瀬」
僕が呼ぶと、彼女は首を振った。
「無理。適当に返事なんてできない。好きだったかどうかもわからないのに、私も好きでしたなんて言えない。そんなの、この人に失礼でしょ」
その言葉は、黒瀬らしかった。
怖くても、混乱していても、相手の気持ちを雑に扱わない。
読まれなかった恋文の神様が、黒瀬をじっと見ている。
「黒瀬依子さん」
「はい」
「あなたの返事は、恋でなくても構いません」
「え?」
「届かなかった言葉に必要なのは、正しい答えではありません」
神様は、かすかに笑った。
「読まれたことを、誰かが受け止めたという事実です」
黒瀬は、便箋を胸に当てた。
長い沈黙。
夜の部屋で、僕たちは誰も動かなかった。
やがて黒瀬は、震える声で言った。
「……重い」
僕は息を止めた。
しずくも、神様も、黒瀬を見る。
「すごく重い。こんなの、朝に読むものじゃない。いや、今は夜だけど。夜でも重い。迷惑。怖い。名前も読めないのに、勝手に胸が痛くなる。知らないはずなのに、知ってる気がするのが腹立つ」
黒瀬は泣きながら続けた。
「でも、読めてよかった」
その瞬間、便箋の黒塗りが、ほんの少し薄くなった。
名前はまだ読めない。
でも、一文字目の輪郭だけが見えた。
カタカナではない。
漢字でもない。
ひらがな。
「……あ」
黒瀬が呟いた。
「名前、ひらがな?」
文字はまた黒に戻った。
黒瀬は、悔しそうに歯を食いしばる。
「今、一瞬見えたのに」
「届きかけています」
神様が言った。
「でも、まだ足りません」
「足りないって、何が?」
「あなたがまだ、自分の気持ちを読めていません」
黒瀬は怒りそうな顔をした。
でも、怒鳴らなかった。
代わりに、小さく言った。
「それ、一番難しいやつじゃん」
「はい」
「神様って、どうしてそういう一番難しいことを簡単に言うの」
「私たちも、簡単だとは思っていません」
恋文の神様は、苦しそうに微笑んだ。
「ただ、難しいから読まれなかったのです」
その言葉は、部屋の夜に静かに染み込んだ。
読まれなかったもの。
言えなかったもの。
届かなかったもの。
それらは、簡単だったから残ったのではない。
難しすぎたから、残ってしまったのだ。
その時、玄関の外から音がした。
一つではない。
かさり。
こつん。
ぱたん。
紙の擦れる音。
小さな足音。
何かが倒れる音。
黒瀬が顔を上げた。
「何?」
しずくが、青ざめる。
「起きました」
「何が」
「読まれなかった神様たちです」
玄関の外。
夜になった廊下に、何かが集まっていた。
僕はドアの隙間から外を見た。
そこには、神様たちがいた。
小さな子供の姿をした神様。
片方だけの靴下を抱えた神様。
最後の一口を乗せた皿を持つ神様。
開かれなかった日記帳を背負った神様。
送信されなかったメッセージを両手に抱えた神様。
迷子になった傘の神様。
言いかけて飲み込まれた「ごめん」の神様。
誰にも見られなかった空の神様。
名前を呼ばれなかった猫の神様。
みんな、こちらを見ていた。
いや、見ているというより、読まれるのを待っている。
黒瀬が、かすれた声で言った。
「多すぎる」
「はい」
しずくが答える。
「読まれなかったものは、とても多いです」
神様たちは、廊下にぎっしり詰まっている。
でも、不思議と怖くはなかった。
いや、怖い。
怖いのだけれど、それ以上に痛々しかった。
全員が、誰かに読まれたかった顔をしている。
誰かに見つけてほしかった顔をしている。
誰かに、そこにいたと認めてほしかった顔をしている。
僕は、喉の奥が詰まった。
「これを、全部読めということですか」
恋文の神様は首を横に振った。
「全部は読めません」
「では」
「選んでください」
僕の背中が冷えた。
また、選ぶ。
神様が死ぬ朝を、僕が選んでいる。
その言葉が蘇る。
「僕が選ぶんですか」
「はい」
「なぜ」
「あなたが朝だからです」
黒瀬が、すぐに言った。
「待って。水無月さん一人に選ばせない」
僕は振り返った。
黒瀬は封筒を胸に抱えたまま立っていた。
泣いた跡がある。
目も赤い。
声もまだ震えている。
それでも、彼女は立っていた。
「また水無月さん一人で選んだら、きっと変な方向に行く。朝とか神様とか遺言とか、そういう大きい言葉に引っ張られる。だから私も選ぶ」
「黒瀬さん」
しずくが言う。
「選ぶということは、選ばなかったものを読まないということです」
「わかってる」
「読まれなかったものは、また死にます」
「わかってる!」
黒瀬は怒鳴った。
でもすぐに、唇を噛んだ。
「……わかってるつもり。でも、わかってないかもしれない。でも、水無月さん一人にやらせるよりはましだと思う」
しずくは、黒瀬をじっと見た。
それから頷いた。
「私も選びます」
「しずくさんも?」
「はい」
「神様なのに?」
「神様だからです」
しずくは廊下の神様たちを見た。
「私は、読まれなかった神様でした。だから、全員を読みたいです。でも、全員を読めないことも知っています」
「つらくないですか」
「つらいです」
しずくは即答した。
「でも、つらいから逃げると、また誰かが死ぬだけです」
黒瀬が少しだけ笑った。
「しずくさん、だいぶ人間っぽくなってきたね」
「褒め言葉ですか」
「うん」
「嬉しいです」
僕は、二人を見た。
黒瀬としずく。
怖がりながら怒る人間と、怖がることを覚え始めた神様。
僕一人では、たぶん駄目だ。
僕は朝だから。
選んでしまうから。
神様を死なせる場所を作ってしまうから。
でも、三人なら。
人間と神様と、朝なら。
少しは、ましな選び方ができるかもしれない。
「では」
僕は言った。
「三人で選びましょう」
黒瀬が頷いた。
しずくも頷いた。
廊下の神様たちが、一斉にこちらを見る。
その視線に、息が詰まりそうになる。
誰を読むか。
誰を読まないか。
誰を死なせるか。
こんな選択、したくない。
したくないけれど、しないこともまた選択なのだ。
黒瀬が、小さく言った。
「まず、この子」
彼女が指差したのは、小さな男の子の神様だった。
両手に、くしゃくしゃになった紙を持っている。
「何の神様ですか」
僕が聞くと、しずくが答えた。
「言えなかった『ありがとう』の神様です」
黒瀬は、涙の残る目で言った。
「最初は、ありがとうがいい」
「なぜ」
「ごめんから始めると、つらすぎるから」
それは、黒瀬らしい理由だった。
僕は頷いた。
「では、ありがとうの神様を」
その瞬間、男の子の神様が部屋に入ってきた。
小さな足音。
くしゃくしゃの紙。
彼は、僕たちの前に立って、紙を広げた。
そこには、たった一言。
ありがとう。
誰のものかは、書かれていない。
でも、見た瞬間、胸が温かくなった。
読まれなかった恋文の神様が、穏やかに微笑む。
「読んでください」
僕は、その一言を声に出した。
「ありがとう」
男の子の神様は、ほっとしたように笑った。
そして、静かに消えた。
死んだのだと思う。
でも、その死に方は、今朝見たどの神様よりも穏やかだった。
黒瀬が、唇を噛んだ。
「……こういう死に方もあるんだ」
「はい」
しずくが答えた。
「読まれて死ぬ神様は、少しだけ救われます」
「少しだけ?」
「はい」
「全部じゃないんだ」
「全部救われるものは、たぶん神様になりません」
黒瀬は悔しそうに笑った。
「ほんと、神様の言葉って刺さる」
その時、廊下の奥で何かが動いた。
読まれなかった神様たちのさらに向こう。
夜の廊下の暗がりに、誰かが立っている。
人影。
僕たちと同じくらいの年齢。
顔は見えない。
黒く塗り潰されている。
手には、メロンパンの袋。
黒瀬が息を止めた。
「……」
その人影は、こちらを見ていた。
たぶん。
顔は見えない。
でも、見ている気がした。
黒瀬が一歩踏み出そうとする。
人影は、首を横に振った。
まだだ。
そんな声がした気がした。
黒瀬は止まった。
涙を浮かべたまま、歯を食いしばる。
「いつまで待てばいいのよ」
人影は答えない。
ただ、メロンパンの袋を少し持ち上げた。
そして、夜の廊下の奥へ消えた。
黒瀬はその場に立ち尽くした。
読まれなかった恋文の神様が、静かに目を閉じる。
「黒瀬依子さん」
「……何」
「恋文は、まだ届ききっていません」
「知ってる」
「ですが、読まれました」
「うん」
「ありがとうございます」
神様が、黒瀬に頭を下げた。
黒瀬は慌てた。
「いや、私が読む側で、あなたがありがとうって言うの変じゃない?」
「読んでくれたので」
「それは、私宛てだったし」
「それでも」
神様は、胸から封筒を抜いた。
今度は血もインクも出なかった。
封筒は空っぽになっている。
「読まれなかった恋文は、読まれるために死にます」
彼女の身体が、便箋のように薄くなっていく。
黒瀬が目を見開いた。
「待って」
「はい」
「名前、まだ読めてない」
「はい」
「差出人、まだわからない」
「はい」
「それなのに死ぬの?」
「はい」
「そんなの」
黒瀬の声が崩れた。
「そんなの、中途半端じゃん」
神様は、優しく笑った。
「恋文は、いつも少し中途半端です」
「そんな綺麗に言わないでよ」
「綺麗ではありません」
神様は、黒瀬の手に触れた。
その指先は、もう透け始めている。
「続きは、あなたが生きている間に読んでください」
黒瀬は、何も言えなかった。
神様は最後に、僕たち三人を見た。
「次に読むものを、間違えないでください」
「間違えると?」
僕が聞く。
神様は微笑んだ。
「読者が、先に気づきます」
その言葉を残して、読まれなかった恋文の神様は消えた。
床には、黒いインクの跡だけが残った。
そのインクが、ゆっくり文字になる。
第9話を読んだ人は、もう三人目を忘れられません。
黒瀬が、その文字を見た。
「読んだ人って」
部屋の空気が、また薄くなる。
誰かが、どこかで息を止めた気がした。
僕は窓の外を見た。
夜空の向こうに、ほんの少しだけ朝の青が滲んでいる。
まだ夜は終わらない。
読まれなかった神様たちは、廊下に残っている。
そして、消えた三人目は、まだ名前を待っている。
黒瀬は、恋文を丁寧に畳んだ。
封筒に戻す。
差出人の黒塗りを、親指でそっと撫でる。
「読んだわよ」
彼女は小さく言った。
「まだ誰かわからないけど、読んだ。だから、勝手に情けないまま終わったとか思わないで」
その声は、夜に吸い込まれていった。
返事はない。
でも、机の上のメロンパンの袋が、少しだけ揺れた。
黒瀬は泣きそうな顔で笑った。
「ほんと、嫌なやつ」
僕は遺言帳を見た。
閉じたはずのページが、少しだけ開いている。
五ページ目。
次に死ぬ神様の名前は――
そこに、新しい文字が浮かんでいた。
言えなかった「おかえり」の神様。
しずくが、それを見て息を呑んだ。
「透真さん」
「はい」
「次は、危険です」
「なぜ」
しずくは、玄関の外に並ぶ神様たちを見た。
その中に、一人だけ、こちらに背を向けて立っている神様がいた。
エプロン姿。
手には、冷めた味噌汁の椀。
顔は見えない。
「おかえりは、帰る場所の言葉です」
しずくは言った。
「それを読んだら、透真さんは、自分がどこへ帰るべきか思い出します」
黒瀬が眉を寄せる。
「それ、いいことじゃないの?」
「帰る場所が、人間の場所とは限りません」
僕は、胸の奥が冷えるのを感じた。
部屋の時計が、六時四十六分を指す。
また一分、朝が進んだ。
夜なのに。
朝が進んでいる。
黒瀬が、恋文を胸に抱いたまま言った。
「水無月さん」
「はい」
「帰るなら、勝手に帰らないで」
「はい」
「ちゃんと言って。私、怒るから」
「怒るんですか」
「怒る。引き止める。必要ならまた叩く」
「暴力担当にはしないのでは」
「今回だけ特別」
しずくが、小さく笑った。
「私も、引き止めます」
「神様なのに?」
僕が聞くと、しずくは少しだけ照れたように目を伏せた。
「友達なので」
黒瀬が、横からぼそっと言う。
「今の、ちょっと可愛い」
「黒瀬さん」
「何」
「恥ずかしいです」
「人間っぽくなったねえ」
そんな会話の向こうで。
言えなかった「おかえり」の神様が、ゆっくり振り返った。
顔は、まだ見えない。
けれど、その声だけが聞こえた。
「透真」
その声を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、母さんの声がした。
――あなたは、明日産まれる予定ですけど。
次の神様は、僕の帰る場所を知っている。
そしてたぶん。
僕がまだ生まれていない理由も、知っている。




